#319 女たちの言い分⑫キキョウ(前編)
ほんの半歩、後ろに下がられただけ、外側に踏み出されただけ。それだけで、ことごとく斬撃を外される。
外された隙をとがめられ、腕に脇腹に木刀の鋭い一撃をその都度浴びせられた。物理的な痛みよりも、実戦であればその一撃で命を取られていたという悔やみの方が強く残る。
ほんのわずかな動作だけで避けられる、そのほんのわずかが永遠の距離に感じられた。実際に、イサベラとぼくとの間にはそれだけの差があるのだ。
剣尖が下がり、上体に隙がさらされる。打ち込んでこいと言わんばかりの見え透いた罠だが、どう工夫しようともこちらが先に動かざるを得ないことは、これまでの打ち合いで嫌というほど思い知らされた。そういう駆け引きも、イサベラの方がはるかに巧者だ。
しかし、スキルの使用を禁じられているわけではない、と思い直し、イサベラの後方、先刻さんざん母に打ちのめされて仰向けになっているキキョウを視界に入れる。
獣人族の連合国に行くに当たって対人戦の訓練をしたい、と母親に申し出たのはそもそも彼女だったのだ。ただ、妙なオマケ付きで、イサベラと自分と、勝った方がぼくを半日好きに連れ回していいという、例によってぼくの意向をまったく無視したやり取りが為されようとしていた。
受けてイサベラ、ハンデとしてぼくと二人がかりでいい、と言う。ぼくとしては強制的に参加させられた上、負けたらイサベラに付き合わされるのは当然のこととして、勝ってもキキョウに付き合わされる条件は変わらず、まるで得がない。いや、どちらにしても美人の相手ができるんだから得だろうと言われればそれまでだが、どこにもぼくの意思は反映されない。ともかくも城に近い空き地に連れ出され、二対一の訓練試合と相成った。
納得できないまま始めた勝負でも、共闘すれば情が湧くのが人間というもので、どうにか仇を討てないか、ない頭を振り絞っている現在に至る。
一か八か、一度しか使えない搦め手だが、と上段に木刀を振り上げ、スキルを発動する。
瞬移。練度を上げ、黒い翼を出さなくとも発動できるようになっていた。
これで並の相手なら、背後に出現して易々と不意を突けるが、王都で剣聖と謳われたイサベラのこと、そこまで期待していない。
案の定、というか、予想の斜め上の方法でしっかりと咎められた。
スキルの発動を敏感に察知したイサベラは、即座に木刀を振り上げ、それをそのまま自分の頭越しに、背後に出現したぼくへと振り向け、目の先に切っ先を突きつけてきた。
逆に虚を衝かれた、ぼくの方に隙が生じる。
その後イサベラがやったことと言えば、そのまま軸足を中心に体を旋回させ、その勢いのまま、剣道で言うぼくの胴を薙いだだけだ。それだけと言い切れるほど無駄のない、洗練の極致というべき動きだった。
それだけで、鈍い衝撃が胃に達し、こみ上げる吐き気に思わず膝をついた。木刀を突き立ててどうにか堪える。というか堪えろ、ここさえ堪え切れれば、少なくとも策は成る。
「悪巧みするには素直すぎるわね。スキル使うとき、マスターリングが光ってるわ」
実に先生らしく寸評をくれるが、申し訳ないけれども百も承知である。
「……もう一本、お願いします」
「素敵よ、男の子」
こういう褒められ方は、昔を思い出してしまう。わずかな間だったが、キキョウ――立花あさぎとともに、立花みどりコーチに教わったとき、よく似たようなやり取りをした。
ともかく、どうにか体勢を立て直したぼくに対し、イサベラは先ほどと同じ構えを取る。
ぼくは、あえて先ほどの流れをなぞるように、スキルを発動しながら、また木刀を振り上げる。
「違う工夫をしなさい――!」
こういう、弟子が出来の悪いところを見せたときに怒気を顕すのも、変わっていないなと思えるだけの余裕はあった。
イサベラの目からは、また瞬移で背後に回ったぼくの、やはり胴を薙いだ――そこまでは、先ほどと同じに感じられたはずだ。
しかし、イサベラの木刀は空を切り、まるで手応えのないぼくの姿が煙のようにかき消える。
「幻……!」
それだけの隙があれば、実は瞬移せずその場に留まっていたぼくにも、間合いを詰め、イサベラの細い背に木刀を突き立てるくらいのことはできた。
「一本、頂戴しました」
「……お見事」
さすがにもう気付いているらしく、イサベラは城にほど近い木の枝に優雅に腰掛けている、ぼくが用意したカラクリに向かって、肩をすくめて微笑みかけるのだった。
カラクリの名前は、召喚獣セイレーン。
スキル発動が光で悟られるとは言っても、どのスキルを使うかまでは悟られない。それを幸いに、瞬移の代わりに今度はセイレーンを召喚し、ぼくの姿が消えて背後に現れるという幻惑をかけてもらったのだった。
「同じ流れを印象づけるために、わざと一本取らせるとはね。それにしても幻術……使いようだけど、同じ相手には通じなくなるのが難点ね」
「同じ相手と再度立ち会うことが、どれだけあるか、と」
「……どういうこと?」
「実戦なら、そのままやってしまうだけです。できなければ、自分がやられる。その覚悟をしなければならない世界に来たと、改めて考えています」
「……素敵よ、男の子」
先ほどと同じ褒められ方をしつつ、しかし例外があったとジャネットの顔を思い出した。彼女とはこれからも、何度か立ち会う予感がする。
「それじゃ、約束のご褒美ね。その娘をよろしく」
意味ありげに艶然とした流し目などくれつつ、イサベラは手を振りながら去って行った。
「ご褒美、なのか、これは……」
まだ大の字に寝っ転がってのびたままのキキョウに目をやると、弱々しく片手だけあげて手招きする。
いやな予感がしつつも疲れた体で歩み寄り、差しのばされた手を取ると、瞬間、ものすごい力で引き寄せられ、抱きすくめられた。
「私のひとり勝ちだな、ケンギュー君」
すごくいい笑顔を至近距離に、そんなことを言う。彼女にしてみれば、試合に負けて勝負に勝ったというところか。少し前の彼女なら、試合の負けを嘆いていたところだが。
「祝着です、オリヒメ様」
ともかく、彼女なりの成長を感じられたのだった。




