#3 悪魔のささやき
――いつまでそうして座っているものでもない、寒かろう。
そう、悪魔、確かにそうとしか呼びようのないものが、飼育小屋の隅からぼくを見下ろしていた。
真っ黒なローブに全身を包み、面長の動物の頭蓋骨がその上に載っていた。
大仰なかぶり物か、そういう頭なのか、とりあえず馴染みのある骨の形から、牛の頭蓋骨なのは分かる。よりにもよって、牛か。
普通ならあり得ない、超常的なことが起こっているはずなのに、アミを殺されたショックで驚く機能が麻痺しているようだった。
――もう、どうでもいい。
――嘘だな、憎かろう、そのウサギを殺した輩のことが。復讐したくはないか?
――できるのか。
――くくくっ。いや、このままではできなくなるってことを教えに来たのさ。どれ、特別に見せてやろう。
黒いローブの隙間から、白骨の腕が差し出される。
細い手には鏡が載っていて、鏡面には薄暗い部屋のような光景が映っていた。
『じゃあ、その魔王を倒せば、俺たちは元の世界に帰れるんだな?』
『それは保証しかねる。だが、研究を重ね、最善を尽くすことを約束する』
『ちょっと、それって無理かも知れないってこと? 勝手に呼んどいて無責任じゃない?』
『……ただ、詫びるしかない。我々にはこうする以外に、手立てが無かった』
『そのくせ一方的に協力しろと。話にならないな』
ゆったりした白いローブに身を包んだ老人と、対するは見覚えのある少年少女たち。
いずれも同じクラスで、ぼくをいじめている主犯格たちだった。
薄暗い石造りの部屋は装飾過剰な燭台に照らされ、老人は階段を備えた祭壇の上に、クラスメート達はその前で老人を見上げる形になっている。
よく見れば彼らの足元には魔法陣というのか、複雑な文字らしき意匠が絡み合った円形の文様があった。
――なんだこれ。
――異世界転生って言えば分かるかい? 流行っているだろう。死んではいないから正確には転移だな。
――ああ、施設のPCで読んだことがある。
『ねえ、話だけでも聞いてみようよ。断るにしても、帰るなら情報が無いとさ』
『そうだよ、まさか丸腰で投げだそうって訳じゃないんだろ?』
『左様、諸君らには女神の恩恵として、特別な力と、それを行使するための法具が与えられる。受け取ったからと言って協力しろと強制はせぬ、一人ずつ、こちらに来たまえ』
『……じゃあ、俺からだな』
感覚の麻痺した頭で、おぼろげながら、これまでの常識がまったく通用しない事態が進行していることを認める。
鏡越しというのが、なおさら非現実味を増していた。
――あんたがやったのか。
――いいや、そうだったらこんな回りくどいことはしないさ。女狐め、ほんとに余計なことをしてくれたよ。
『高良清吾、そなたには女神の加護を受けた聖剣を振るう資格と、無論、法具として聖剣そのものを。聖十字剣である』
――ははは! 聞いたかい? スキル聖剣装備に、聖十字剣だとさ。君をいじめた極悪人にね。噴飯物だな。
鏡の中で、清吾の体が目映い光に包まれ、その手に美しい装飾の剣が握られた。
服装まで変わっていて、銀色に輝く鎧に身を包んでいた。
先ほどまでの文句はどこへやら、RPGの主人公よろしく大仰に剣を振るって喜色満面だ。
自分にこれだけの仕打ちをしておいて、聖剣の勇者気取りか。強く噛みしめた奥歯が痛む。
――あのおっさんはああ言ってるがな、転移なんぞ何度もできるもんじゃない。十中八九、あの連中は帰って来られないよ。安心したかい? それとも、仕返しできなくて歯がゆいかな?
悪魔はおどけた仕草でこちらに歩み寄り、虚ろな眼でのぞき込んでくる。まるで人の悪意を逆なでし、良心を試すように。
――そこでだ。俺なら一度だけ、君をあの世界に送り込むことができる。もちろん連中と同じ片道切符だが、君もあそこで何らかの力を授かれば、連中に復讐できる芽は十分にあるだろう。今を逃せば、永遠に会えなくなるだろうね。どうする? 連中のことを忘れ、いじめのなくなったこの世界で静かに生きていくか。連中を追いかけて雪辱を果たすか。悪いがあまり時間がない。今、ここで選ぶんだ。迷っているなら、これだけは言っておくよ。
たっぷりといやらしいほどの間を置いて、文字通り悪魔のささやきを吹き込む。
――君のウサギを殺した奴は、間違いなくあの中にいる。