#178 長い夜の続き
緊迫をはらんだ喧噪を遠くに聞いた気がして、目が覚めた。
停戦会談と饗応の宴を終え、はげ山のふもとに敷いた陣に戻った。エトランジェの女の子たちのために張られたテントの中が、当然ながら私の寝床となった。
私、というのはエトランジェの一人マリベラ――ではなく、彼女とうり二つの容姿を活かしてなりすまし、紛れ込んだ第二王女マリアベルだ。
怒られたらそこで謝ればいいというくらいの気分で紛れ込んでみたが、存外うまくいってしまったようで、エトランジェの女の子たちはもちろん、父であるウィリアム王や姉であるダイアナ第一王女にも気付かれた様子はない。
会談中に私の名前が俎上に載り、動揺した場面もあったが、完璧な扮装だったと言っていいだろう。
何事だろうと体を起こそうとして、危うく声を上げそうになる。ファイアリザード――赤い鱗に全身を覆われた大きなトカゲの魔物が、私の顔を覗き込んでいたのだ。
これは、あのパターンだ。
深夜でも警戒を解かない騎士団に守られている環境で、この大きさの生きた魔物が紛れ込んでくる可能性はかなり低い。
案の定、その魔物の体はぼんやり光りながら透けていて、もうこの世のものではないことが分かる。害意もないらしく、硬い顔の表情は読めないが、つぶらな瞳は優しい光をたたえている気がした。
人間ならば頬の辺りに手を添え、撫でてみると、目を細め、幾度かまばたきし、喜んでいる風だった。
ファイアリザードは目顔でついてくるように促しつつ、機敏な動作で身を翻す。
最低限身なりを整え、音を立てないように気をつけながらテントを出ると、霊体らしく音を立てずにファイアリザードが歩くのを追う。
物心ついた頃には、亡霊の姿が見えていた。家属をはじめ周りの人間には見えないことや、見えることが特別であることを知るまでには時間がかかり、幼心に折り合いを付けられず悩む日々が続いた。
人前では見えない振りをしたり、うまくやり過ごす術を覚えたのはそう昔のことではない。
悪いことばかりではなかった。
たとえば、こうして誘われていく先は、その霊にとって縁のある何処かや誰かであることが多く、さらに私にとって転機になるような重要な出来事が待っていたり、ついていくことで命を救われたりする。
幼いとき、真夜中に起こしてくれた猫の霊は母の部屋に連れて行ってくれ、おかげで母の臨終に立ち会うことができた。
アカデミーからの帰り道、市街に現れた犬の霊についていけば、元々いくつもりだった道の先では刃傷沙汰が起こり、危うく巻き込まれるところだったり。
だから、今宵現れたファイアリザードの霊は、私をどんな運命に導いてくれるのかと楽しみなのだ。
つい最近になって出現した草原を吹き渡る風は、砂の代わりに瑞々しい森の精気をはらみ、これまで経験したことのない爽やかさだった。風の行く先には、まだ半壊したままの城を見守るように傍に立つ大樹が見える。このまま霊と散歩するだけでも悪くない。
しかし、後になって振り返ってみれば、ファイアリザードの霊は、やはり重要な運命に私を誘ってくれていた。
たどり着いた先は、そういう予感はしていたが、やはり魔将軍の居城、正しくはその手前にいつの間にか立ち並んでいた畜舎の一つだった。
入口脇に可愛らしい女の子が一人、壁にもたれて眠りこけている。
停戦会談の始め、リュート・ピュセル将軍に先んじて先頭で入室してきた従者の女の子だ。可愛らしい見た目だが、多少はアニマを操る心得のある王族として、並々ならぬ魔力を内包していることが分かる。本当の姿はあの蒼龍にも劣らぬ力を持つ赤龍だとか。
こうして寝ていればあどけない幼女に過ぎないその子の前で立ち止まったファイアリザードは、しばらくじっとその子を見つめていた。
「……そう、あなたの子なのね」
ファイアリザードの霊は、やがて名残惜しそうに、自身の鼻で女の子の小さい鼻をつついた。
女の子がむずむずと目を擦り、目を覚ます前に、ファイアリザードの姿は光に包まれてかき消えてしまう。
後には私と、大きな目をしばたたかせて私を見上げる女の子だけが残った。
「こんばんは、案内してくれる?」
「あい!」
女の子はぴょんと飛び起き、畜舎の前にまかれた石灰で、丁寧に靴を消毒する。
私もそれに倣うと、女の子が満面の笑みで差し出してきた手を取り、畜舎に歩み入った。




