1.盛岡への帰郷と数多の追懐
鋭意作成中だったはずの新作がうまく書けず、気分転換のために書いてみた。
夜行バスから降りて最初に感じたのは北国特有の肌寒さであった。腕時計を見れば時刻は6時を回ったところであり、空は薄暗い。横浜駅YCATを出発したのが前日の21時であることから、かれこれ9時間程度は座席に縛り付けられていたわけである。
すぐ傍らの長椅子に鞄を置き、痛みを訴える腰と尻を叩いていれば、私の他にも多くの乗客が降りてくる。
私と同じくスーツを着た恰幅の良い壮年の男性。
大学生と思わしき今風に着飾った青年。
近場を散歩するかのようなラフな格好をした禿頭の中年。
色彩は濃紺に抑えながらも上品な格好をした婦人。
ひざ丈のスカートにお洒落な靴を履いた少女――。
ざっと十名程度だろうか。
それでも多いように感じる。
大都会横浜から地方都市盛岡に行く者など、まずいないだろうという妙な確信があったのだ。
おそらく、それは故郷に対する、後ろめたさや侮蔑ないし劣等感に由来する、ある種の虚勢なのだろう。何せ、私は学生時代の友人全てと縁を切り、故郷を捨てたと思い込んでいた人間なのだから。そして、それが私にとっては正しいことであると思っていた。
(大学時代の朋友達は別である。今でも私は連中のことを大事に思っている。彼らと連絡がつかないのはスマホを水没させた結果、連絡先を喪失しただけである)
だが、私はこの年になって気づいた。
私は故郷を捨てたのではない。
故郷に捨てられたのだ、と。
盛岡で降りた乗客達の多くは、バスの腹に積んだキャリーケースを運転手が取り出してくれるのを待っている。
私はそれを尻目に、円形停車場から駅構内に向かう。
手持ちの鞄ひとつで身軽なのは私ぐらいであった。
* * *
盛岡に来たのは随分と久方ぶりのことであった。
最後に訪ったのは、私が仙台で働いていた頃だから――おそらく六年前だろう。
父から、母が危篤に陥ったという連絡を受けたのだ。朝の早い時間、私が愛車の自動二輪――エリミネーター250V後期型である――を会社の駐輪場に停めた時のこと。
その時の、父の憔悴しきった声は未だにはっきりと覚えている。
否、忘れられない。
その後は、急いで職場に向かい、上長に事情を報告、忌引きの申請やら簡単な事務処理を済ませ、急いで実家に向かうことにしたのだが――まあ、それについては置いておこう。
話を戻す。
私は、盛岡を覚えていた。
狭い駅の構造も、実家に向かうバス停留所の位置も、駅から近い24時間営業の牛丼屋も。商店街にあるネットカフェも、学生時代足繁く通った桜山神社に岩手公園も――。
勿論、六年という月日を経ているのだ。
街並みも大いに変わっていたのは事実である。
大通りの歩道に敷かれたインターロッキングは亀裂に塗れ、陥没した箇所は簡易アスファルトで補修こそされているが、どうにも見栄えがよろしくない。
中央郵便局の斜向かいにあった和菓子屋も潰れたのか、白い砂利が敷き詰められた更地となっている。桜山神社の正面あったラーメン屋もカレーの有名店に変わってしまった。何の店だったか覚えていない一角は、錆だらけのショベルカーが佇む跡地にされていた。
他にも、私が気付いていないだけで変化した個所は沢山あるだろう。
けれども。
盛岡の空気は何一つ変わっていなかった。
嬉しくも哀しくもなかった。
期待していたほどの感傷は湧きもしなかった。
寧ろ、私は盛岡がどんな街であるかを完全に忘却していて、何かを見るたびに驚き、商店街近辺で道に迷う肚でいた。
「これほどまでに俺は故郷を覚えていないのだ」
「忘れるなら大したモノではなかったということ」
「つまるところ、俺は盛岡を捨てて正解だったのだ」
などという具合に、内心ほくそ笑む予定ですらいたのだ。
嗚呼我ながら劣等感を拗らせていたものだ、と今になって思う。
だが、情けなくもなければ、恥ずかしくもない。
自分らしいな、と思うだけである。
時間帯故に閑散としたアーケード街を仰げば、歩道にせり出た屋根から『大通り商店街は"いわてグルージャ盛岡"を応援しています』と書かれた垂れ幕が等間隔に吊られている。
地元のサッカークラブである。
南部藩の家紋である向鶴――正式には双舞鶴というらしいが――をモチーフとした、洒落気に満ちたエンブレムである。
その小綺麗な宣伝旗が寂れた商店街に吊るされ、冷たい風に揺られているものだから、かえって寂寥を煽っている。
盛岡らしいな、と私は根拠もなく思っていた。
* * *
私が今回、帰郷に踏み切った理由は転職のためである。
誕生日は既に迎え、私も、もう○○歳――いい年、である。
尤も、まだまだ社会的には若輩者ないし若手に分類されるのであろうが、それでも主任や課長補佐などといった役職を拝領して、部下の数名を任されていても不思議ではない年齢になってしまった。
もっと言えば――結婚して、子を成していてもおかしくない年齢なのだ。
悲しい哉、仙台にいて生真面目に働いていた頃は、そのどちらにも手が届きそうであり、愚か者ながらも将来を真剣に考え、私もそれを幸せと信じて疑いもしなかった訳だが――。
まあ、いい。
もう、いいのだ。
今の私は、文学に触れていれば幸せなのだ。
人間性を追求していくしか路はないのだ。
あくまでも、今のところは。
閑話休題。
何時ぞやの活動日報でも触れた気もするが、改めて説明したい。
わざわざ地元にUターンした理由はいくつかある。
ひとつは、私は神奈川――というか川崎にある某施設の運営管理に携わっていたのだが、その現場が人員不足ゆえに崩壊しかけていたのだ。それは川崎だけの問題ではなく、他の現場も同様であり、応援のため未来のエースが抜けたり、主力メンバーが立て続けに希望異動の依頼を本社に出していたり――まあ、前途多難に思えたのだ。
現場に残り奮戦するという選択肢もない訳ではなかった。
所長や先輩にはかなり良くしてもらった。
恩返しをすべきだという思いもあった。
そのための能力ないし成長する意思は未だ尽きないという自負もあった。
しかしながら、そこまでの報酬を貰っていなかった。砕けた表現になるが「年収○○万でそこまでやれるワケねーだろ常識的に考えて」という思いが芽生えてしまった(無論、設備管理という業界自体が低年収であることは承知している。具体的には結婚を諦める程度には。いす〇自動車藤沢工場でライン工をしていた時は倍近い収入を得ていたから余計に)。
固い言い方をすれば「誘因」と「貢献」のバランスが崩れてしまったのだ。私の将来を費やしてまで、会社に忠誠を果たす気分にはどうしてもなれなかったのだ。
二つ目は父親の件である。
私の父は還暦を超えている。
こういう言い方はどうかと思うが――父が存命の間に、私はあと何回、偉大で健康な父に会えるかと考えた結果、今どうしても盛岡に帰りたくなったのだ。
きっと、父にも私にも、そう猶予は残されていないはずである。
偉大かつ健康でなくては駄目なのだ。
身勝手な話であるが、私は、父親という存在は尊大であるべきだと思っている。体調を崩して床に臥せっている姿など見たくない。父とて弱った姿を見られたくないだろう。
少し、昔話をさせてほしい。
六年前、私が、母の危篤を聞いて盛岡中央病院に駆けつけた時のことである。
病室に入ろうとした私を止めたのは、先に到着して、母に寄り添っていた姉であった。
何年ぶりかに会った姉は言った。
母は抗癌剤の副作用ゆえに弱り果て、姿は変わっているが驚くなかれ――という旨のことを。
もう話せなくなってしまっているが、それでも語り続けてやることだ――という旨のことを。
事実、母の姿は萎れ切っていた。もう余命は幾許も残されていないのだろう、と一目で直感してしまうくらいには。
私は、ベッドの傍らに置かれた椅子に座り、現在に至るまでの近況を母に告げた。
それから、これまでの不義理と不出来を。
散々心配をかけてしまったことを。
独り立ちが遅く、臑を囓り続けていたことを。
涙を堪えながら、とにかく多くのことを詫びた。
衰弱していた母であったが、焦点の合った眼で、私を見詰めていた。何か言いたそうに、「あァ」「うぅ」と必死に呻いて――結局、母が何を言いたかったのかは分からない。分かるつもりも、ない。
本音を言えば。
おかえり、仲達――と。
たった一言でもいい。名前を呼んで欲しかった。
緊急事態に備え、私達を監視していたのだろう。女性看護師のひとりが「きっと、お母様は『そんなことないよ』って言ってくれているんだと思いますよ」と、気を遣ってくれたことは覚えている。
母が逝ったのはその日の深夜であり、私達は見送ることができた。
確かに私は、間に合いこそしたが――言葉を交わした訳ではない。
そのような事情ないし後悔があるからこそ、私は、父には偉大かつ健康であってくれと願っている。少なくとも、最期の最後まで、言葉を交わせる程度には。
* * *
盛岡駅を出た後は、近場の牛丼屋で食事を済ませたのち、アーケード街のインターネットカフェに入った。特に何をするわけでもなく、実家行きの始発バスが来るまでの時間潰しが目的であったが――あまりにも手持ち無沙汰であり、この紀行文にも満たない、雑多な随筆を書くことにしたのだ。
久々の執筆に熱が入り、当初8時に出るつもりが、結局13時まで居座ってしまった。
ネカフェの後は、小腹を満たすため、手頃な蕎麦屋に寄った。
その後、桜山神社への参拝と、学生時代から行きつけにしていた古書肆に寄った。
買ったのは『岩手の伝説』(平野直著、津軽書房発行)である。小説の参考文献になればと手にしたが、我ながら良い買い物をしたと思う。
古書肆から、足早に盛岡駅に向かっていれば。
――あ。ここだよ、ここ――。
――きみと一緒に指輪を選んだの、この店だよね――。
とある宝飾店の前で、嬉しそうな娘の声が聞こえた。
気のせいである。
私は立ち止まりも振り返りもしなかった。
実家に向かう路線の停留所に行けば、バスはすぐに来てくれた。銀色の車体に青いラインが入った旧型の車両――松園バスターミナル行きのバスである。
非常ドア近くの座席に乗り込み、何となしに周囲を見回す。
年季の入った車両であり、私がよく知る岩手県交通の寂れたバスそのものであった。高校時代、特に冬場は世話になったものだが、その時から何も変わっていないように思えた。
派手な音を立てて開閉する前後のドア。
白い吊り革は経年劣化で黒く汚れている。
座席の布地は摩耗している。
床に取り付けられた点検口は錆と汚れが酷く、本当に開くのか疑わしい。
垂直に伸びた手摺りのカバーに触れれば、べたべたと手に張りついてしまう。
車両のあちこちにガタが来ているのか、バスが揺れる度に軋むような音が響く。
開けた窓から入ってきたのだろう虻とも蜂ともつかぬ虫が、傷だらけのガラスに身体を打ち付けて――床に落ちた。手脚をじたばたさせて藻掻いたかと思えば、起き上がって座席の下に逃げ隠れてしまう。
お世辞にも綺麗とは言えない外観および内観であるが、それでも不快には感じなかった。寧ろ、長年変わらぬ様子が好ましく、六年ぶりの故郷を眺めるにはお誂え向きなのかもしれない、とすら思っていた。
* * *
実家に帰れば、親父が出迎えてくれた。
親父との対面は母の葬儀以降だろうか。よく覚えていない。
私は親父の顔を見て喜んだ。否、その表現はおそらく正しくはない。正確に言うなら、多少ばかり背は曲がり、体躯も縮み、顔の皺は増えたものの、父はそう変わっていなかったことに安堵を覚えた。父は、私のよく知る父のままであったのだ。
きっと私は、父が老いてしまうことを恐れていたのだろう。畢竟、父の顔越しに、死の影を見ることに怯えていたのだ。
最早自分も若者と自称できぬ年齢になり、年々、自分に対しても他人に対しても死を間近に感じるようになって久しいが、それでも未だに私は死を容け入れることができないらしい。自分が死ぬことについては一切構わないが――寧ろ、こんなクソみたいな生涯、喜んで辞退したいと今でも本気で思っている。ネクタイで首を吊っても死ねなかったし、社用車をパーキングエリアに停めて「混ぜるな危険」を犯しても、気管支が糜爛するだけでも死ねなかった――家族友人恋人が死ぬとなったらもう駄目だ。駄目だった。
つまらぬ過去は置いておこう。
親父に近況を簡単に報告したのち仏壇に手を合わせる。衣装箪笥の上に設置しただけの、世間一般が想像する仏壇とは異なる簡素ものである。だが、私はそれでいいと思っている。母が生前好んでいた菓子パンや缶コーヒーが供えられ、蝋燭と香炉、鈴と撥、遺影と位牌があれば、母を偲ぶには十分過ぎるくらいである。
それからは、父と酒を飲み交わしながら思い出話に興じていた。
窓際に置いた夏蜜柑の鉢植えは、私が幼い頃に吐き捨てた夏蜜柑の種が育ったものであり、母はそれを大事にしていたということ。夏場、日光を浴びせるため庭先に出せば、毎年のように揚羽蝶が卵を産み付け、幼虫に葉の殆どを食われてしまったこと。母はそれを見て文句を零していたが、幼虫が蛹になり、羽化して飛んでいけば、どこか嬉しそうにしていたこと。
私が小学三年生の頃に、それなりに大きな地震があり、私は二階で身動きがとれずにいたことがあった。そんな私に、母が外から何度も呼びかけてくれたこと。母は、自分が真っ先に逃げ出してしまった、と実は後悔していたこと。
挙げればキリがないためこれ以上は割愛するが――振り返れば、ほぼ全てが過去の話である。思い出を語らえばそうもなろう、と言ってしまえばそれまでだが――将来ないし現在の話など、驚くくらい少なかった。
せいぜい、私の転職状況と親父が仕事を辞めて年金暮らしになったことぐらい。
まあ、私と父における共通の話題など、専ら亡き母についてである。主題が過去に偏っても不思議ではないが――少し、思うところがある。
人間は、思い出だけで生きていけるのだろうか?
(はて、どこかで聞いた覚えのある文節だが、有名な言葉なのだろうか? だとすれば出自は何であろうか? どなたか知っていたなら教えていただきたい)
私は、そうあって欲しいと思っている。
* * *
余談を、少し。
将来に背中を向け、過去に苛まれ、自省を拗らせた人間が書く文章は、さぞ不快で退屈で、偏屈で狂気で、娯楽に昇華のしようもない、芥塵程度の価値にしかならないのだろうが――だからこそ、さぞや愉快かつ滑稽なものになってくれるのではないだろうか。
私という一個人の、その愚劣で矮小な人間性を突き詰めた処に、私にしか表現できない――否、唯一私にのみ表現が許された、文学ないし作風を創造できるのではないだろうか。
嗚呼、そうだ。
そうに決まっている。
残された生涯で、己が文才を証明していくのも、酔狂だが決して悪くない。
間違っても、今の時代には流行りそうもないのが口惜しいところであるが、いやはや。