空読書のすゝめ
成人の約50%が1か月に1冊も本を読まないという調査結果を耳にする。他人が読んでいる本に興味を引かれることはあるが、その人の読書量なんて別にどうでもいいと思っているので、ぼくが気になったのはその話をどこで耳にしたかだった。
耳にした、ということは、記事で読んだのではなく、テレビやユーチューブといった映像媒体でその情報を得たか、あるいは、誰かとの会話のなかで話題の一つにでも上がったのだろう。テレビは見なくなって久しいし、ユーチューブは視聴するが、成人の読書量が云々とのたまうような上品なものはまず見ることがない。ぼくが見るのは下品にして下劣、下等で無価値で無教養なもの、それしか見ないとその昔、お師匠に誓っているのだ。
「我ら
どんなに歳を連ねようとも
インテリジェンスとは一線を画した
インアクティヴな日陰者であろうぞ」
もちろんですとも! となると、誰かと会話したときに聞いた可能性が高いのだが、10年前のお師匠の言葉を一言一句、彼のにやけた表情や、校舎の外観、疾走とともに渡る歓声と、焼けるような日差しの木陰という当時の状況すら鮮明に覚えているぼくが、そう簡単に人の言葉を忘れるはずがない。
ない、はずなのだが、それでも思い出せないということは、会話のなかで生じた言葉ではないのかもしれない。たとえば、他のことに気を取られている際に、誰かのお喋りを知らず知らずに耳に挟んだ、とか。
それはそう、たとえば、そう、本を読んでいるとき、などに。
「あらゆる総体の仕分けなぞ
頭の切れる物好きにやらせておけばよい
我ら、彼らの功績を
無責任に混ぜ返し
拡散、投棄しアナーキー
この郷里に一縷の足跡も残さず生涯を終えようぞ」
もちろんですとも! 50%の成人が本を読まないなか、多少なりとも読書を嗜むぼくは、もう片方の50%に含まれた。しかしぼくは、どこかに所属することに我慢がならない性分なので、いっそのこと、さぁさぁご覧の通り本は開いているけれど、読んでいるのは文字ではなくて、記載のない白い空白の部分であるからして、と触れ回れば、ぼくはどちらにも属さなくて済むのではないかと思うのが、まぁそんな捻くれたことも言っていられる年齢でもなくなってきたので、素直に本を読む側に分けられることにしようと思った。
「もちろん
読書なんて以ての外よ
あれは空想闊歩する紙に
知を塗り付けた鼻持ちならない恥の紙束
触れぬ
存ぜぬ
我関せず
読もうものなら即破門
不当の隠者の風上にもおけぬ咎者として
その生涯に無情の光降らんことよ」
そうですか。まぁいいや。ぼくは20歳を過ぎるまで読書なんて大嫌いだったので、まったく本を読まない人の気持ちも十分理解できた。
たとえば、読書のなにが嫌かって、その面白さを味わうためには頭を使わなければならないことだ。音楽や映画、漫画は受け入れる体勢さえ整えれば、あとは基本的に受け身でいれば、耳や目から情報がなだれ込んでくるのだけど、これはそのジャンルの取り入れ方が五感と直結していて、一次的な情報の嚥下が苦じゃないという意味なので、決して軽く見ているわけじゃないということはちゃんと断っておきたい、対して読書は、ただ文字を追うだけでは、記号を頭中に映写しているに過ぎず、それが理解できない言語であれば、そもそも書かれていることの意味すら分からない。分からなければ、記号定義が不明な公式のように、意味がありそうだけど意味の分からない、理解不能ななにかの羅列でしかないのだ。
幸いにもそれが読み取れる言語であった場合、まず文字を目から取り込み、脳内に並べ、自身の記憶や知識と照合させながら、映像や情報に変換するという無意識の手間を経なければならない。それが読書の醍醐味でもあるわけだが、わざわざ秒数で言い表すまでもないその僅かな時間も、積み重なれば多大な労苦で、正直、読書は、即効性を要求する現代の嗜好には即してない気がする。
ぼくも仕事で疲れ果てて、疲れ果てててているときなんかは、読書のことを途方もない面倒事に感じ、思わず紙面から空へと目を移しては、そこに浮かんでいる読書調査円グラフを見上げ、読む人と読まぬ人を分かつ万里のごとき線の上に、何度も視線を往復させるのだ。
かたや青天、かたや夜天、似通った色調なのに二分された天体に、疲労と情緒のせめぎ合い、瞬き、ため息、あくびひとつ、そうしてまた本へと顔を戻してしまうのは、それ以外の時間の潰し方を知らなかったからだろうか?
「なら教えようぞ
時間とは
こうして
潰すのだ」
かつてお師匠はそう言って、実際に時間を潰してみせる。飛んでいる蚊を捕まえるような仕草で、パチン、と両方の手のひらで時間を叩き潰し、手のひらのなかで死んでいる時間を、自慢げにぼくに見せつけるのだ。
木の元の日陰のなか、目を凝らした白い手のひらの中心では時間がひしゃげ、細い手足を細かく痙攣させながら、そこにあったはずの些細な出来事を掴もうと、懸命にもがきながら死んでいた。
その、パチン、の間に1分が経過している。つまり、1パチンが1分ということなのだ。パチン、パチンで2分だ。パチン、パパチン、パッパチン、パパチン、チンチン、チンチチン、パパのチンチン、チンチチン、だと一体何分なのだろう?
20歳になったぼくはそんな疑問を解消したくて、時間を潰すものを探す。手で潰すと汚れてしまうので、たまたま近くにあった本を手に取るのだ。タイトルや作者、その内容とページ数、表紙も背表紙も忘れてしまうのだが、手触りだけは克明に覚えている、ざらざら。
その感触だけを頼りにぼくは本を読み出す。そこに印刷されている文字を読み、脳内に並べ、自身の記知憶識と照合、映情像報に変換したものを、パチン、紙と紙の間に挟み込み、丹念に丹念にすり潰す。
「ああ哀しき
悪の徒よ
知に溺れた
恥のチンチン
ええい
もう近づくな!
不潔だよ、君は
君は!」
あー、はいはい。ぼくはほとんど通勤時の電車内で本を読む。正確には、駅のホームで電車を待っているときから本を読んでいる。大体いつも電車が到着する5分前に最寄り駅のホームにいて読みはじめ、ちょうど10ページ読み終えたところでやって来る電車を目の端に捉えながら、完全に停車し、開扉するまでは本から顔を上げない。
電車が停まり乗り込むと、そこではじめて本から目を外して空いている座席を探す。その際、ほぼ無意識なのだが、先に座って読書をしている人がいると自然と足はそちらに向かってしまう。これはぼくだけの習性ではなく、電車で読書をしようとしている人は概ねそのような傾向があるようなのだ。事実、ぼくが先に座って読んでいて、隣の座席が空いているような状況だと、そこに本を読む人が座ってくることが多い。
この習性のようなものは、その人が読んでいる本が気になるとか、同類を求めているといったことではなさそうで、読書をしている人から漂う安心感、というか無害な感じ、少なくともそこには静謐が約束されていて、自分の読書が脅かされる心配がないから近くに寄ってしまうのだろう。
ぼくはその考えが正しいのか調べるため、隣に読者が座ったのを見計らって勢いよく本を閉じ、スマホを取り出してバチバチとゲームをはじめる。一駅ほどの間は特別進展がなかったので幾許か音量を上げ、指に力を込めてタップをしていると、二駅を越えたところでその人は席を立ち、車両の隅へと移っていく。
彼が十二分に離れたことを確認したぼくは、我が意を得たりと即座にゲームを終了し、再び読書を開始する。
す、すーと視界を落とし、ふ、ふーと息を静めて、ページを捲るざらざらの感 触に 神経を 集中させ ている と、
しばらくして彼が足早にこちらへと戻ってきて、さっきまで座っていた席へとまた腰を沈めるのだった。
これで自らの考え、電車内における読者が静寂に集う習性、を立証できたと満足したぼくは、それ以後は優等生の静けさを身にまとい読書を続ける。
無題、作者不明、無色透明に本を開いて、順転する車輪に応じて読む文字のざらざら、扉の開閉とともに行をまたいで、飛び込んできた時間に席を譲る、片手で何枚か捲る、ゆれる、一斉に揺れるつり革、緊急停止に騒ぐことなく栞を挟む、明くる日も、無題、その明くる日も、作者不明、こんこんと読書を続けていたざらざらのある日のこと、その日ぼくの隣に座ってきた読者は、
「やはり、
やはりか!」
と、大きめの独り言を口にしてペンを取り出し、ここぞとばかりに余白に書き込みをはじめる奇矯な人だった。
その盛大な呟きは、一駅過ぎても二駅過ぎても止まることなく、それどころか身ぶりすらも加わってますます増大していき、何らかの危険を感じ取った他の乗客が、ひとり、またひとりと、席を移動していくなか、ぼくは座席を動かないまま、迷っていた。
決して戸惑っていたのではなく、どのような手段で彼を追っ払おうか迷っていたのだ。
その手から本とペンを奪い取り、窓から外へとブン投げるのが手っ取り早いような気がしたが、暴力的な行為はよろしくない。可能な限り穏便に事を済ませたいと思い、肘でぐいぐいと押して彼を遠ざけようと試みたが、一向に成果は上がらず、彼の
「やはり、
やはりか!」
という、本から何事かの確信を得ている大声と、それに続く鋭い筆記音がギシギシと車両を占領していった。
ぼくがもう少し若ければ、狂気には狂気でなければ太刀打ちできないと思い立ち、彼とまったく同じ行為、いや、彼を上回る狂乱を演じておそらく圧倒していただろうが、それを実践したとしてもぼくと彼の立場が入れ替わっただけで、向かう先には報復の応酬しかないことは、もう散々読み尽くしたので知っていた。
ならばぼくが取り得るは留保、しかしそれは無関心ではなく大自然めいた多大なる許容、ぼくのなかに彼の居場所を作り出し、彼と共存していく覚悟を持つことで、世界とはこうあるべきだという地に足つかない知の理想とは一線を画した機知の静観。
「そうだろ!
そうだろ!」
そうなのだ。誰しもが自らの不寛容には目を留めず、他者のみが在籍する遠郷目掛けて駆けている。見通し高い明頭で郷の儀礼に胸を立て、身に合わない走法を学ぶことが筋光と信じてやまないが、矯正を受ける身躯が日に異貌の変声を上げることには、切間を経ない限りいつまでも無頓着だ。
ぼくたちがすべきはまず足を止め、そこに居る景色の移ろいを瞬きで抉ること。そしてその、内に込めた本懐を木漏れ日のように注視することで身に付ける走り方が、自らの負う不具への道義たる得るのだとひたすらに信じた抑制こそが、ぼくたちを真に押し進めるのだと、そうか、そういうことだったのか師匠、お師匠!
「えっ?!」
ん、え?
違うの?
「いや、
正しい
君は正しい」
お師匠!
「正しい
だが、
正しいから君が」
お師匠?!
「嫌いだ!!」
お師匠。。。