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象徴からの外れ者

作者: 神楽坂朔

 純白は象徴だ



「『退魔の悪魔』が必要なの」



 だけど証明には成り得ない



「撃たれたくなければ私と来て」



 象徴から分かたれた道を



「退魔の悪魔は私じゃないぞ」

「え……、うぁっ!」



 いくつもが確かに歩んでいるのだから





「で、殴って落としてこっち連れてきたわけか」

「そーそー。なーんかワケアリっぽかったからさぁ」


 ディルクのところに押しかけて多少呆れられながらも迎え入れられたのが今から少し前で、少女と出会った少し後。

 森の中で微かに震えながらアリエレスに銃を向けた少女は、今は運び込んだディルクの家で寝かせている。呼吸は安定しているものの、皺が寄る眉間を見るに安眠とはいかないらしい。


「退魔の悪魔絡みのこと勝手に手あたり次第殴って解決したらディルク怒るじゃん?」

「当たり前だ」


 過去にやったら怒られた案件だ。当事者への情報共有くらいしろ、そういう件から得られる情報もあるんだ、とのお達しがあったためそれ以降はちゃんとその通りにしている。

 暴れたがりの自分が共に行くことを止めたことがないあたりは甘いなぁと思いながら。


「まぁどうするにせよ、まずはこの子の目的が何なのかってとこからだな」

「だねぇ。面白そうだったら一緒に」

「ぅ……」


 行く、と続けようとしたが小さな呻き声に言葉を切った。ただうなされただけなのか、それとも。ディルクと共に静かに見守れば、間もなくしてゆるりと少女の目が開いた。


「おはよー」

「身体は大丈夫か?」

「…………」


 少女が緩慢かんまんに上体を起こし、ふるりと頭を左右に揺らす。だが、ぼんやりとした雰囲気はすぐに消え去りハッと目を見開いた。次いで素早い動きで腰に手を伸ばしたが、掴もうとしたものはそこに無い。


「あ、持ってた武器そこね。寝てる間に身に付けてたら危ないから外したよ」


 少女が眠っていたベッドのすぐそばにあるサイドテーブルを指し示す。置いてあるのはホルダーに収まった拳銃とナイフが一丁ずつ。少女は戸惑いの色を滲ませながらも、素早くベッドから降りてナイフを掴む。


「どういうつもり……?」

「手元にあった方が安心するでしょ」

「いや、安心って……」

「とりあえず落ち着いて。事情があるなら話は聞くから」

「……あなたは?」


 ナイフの切っ先を迷わせながら、少女はディルクにいぶかしげな視線を向ける。それぞれの振舞いがこれほど嚙み合わないこの異様な空間では、戸惑うのも無理もない。


「俺はディルク。君が探してる退魔の悪魔だよ」

「え……」


 放られた予想外の情報に少女が目を丸くする。無事に目を覚ましたと思えば都合良く探し人が見つかった道筋への疑念か、それともどうにも悪魔らしさを感じないディルクへの困惑か。冷静になりきれない様子のままディルクとアリエレスを交互に見やる。


「ね、話してくれないかな」

「話さなきゃ話さないで勝手に調べるけど、変に齟齬そごが起きても面倒でしょ。話した方が得だと思うよ」

「脅しみたいな言い方するな怖がらせるだろ」

「でも言っといた方が良くない?」

「そうだけどタイミングと言い方ってもんが」

「退魔の力が!!!」


 少女の声が部屋に響く。再び構えたナイフを過ぎるほどに強く握り、追い詰められたような表情をしてディルクとアリエレスを刺すように見据える。


「必要なの。ケディを助けるために」

「ケディ……。聞いたことない名前だな」

「俺も」


 どちらも知らない名前に二人で首を傾げる。悪人か善人か、はたまたどちらにも属さないのかは分からないが、どれにせよ有名人というわけではなさそうだ。


「私の、友達。退魔の悪魔を連れてくれば、殺さないでやるって」

「……穏やかじゃない話だな」

「まぁ黒幕的なのはいるわな。それ、誰が?」

「……研究所の奴ら」


 早い話が脅迫だ。少女の話にディルクは不快そうに顔をしかめている。この手の理不尽が大嫌いな彼のことだ、内心は表情以上に荒れていることだろう。


「その指示通りに動くわけにもいかないな」

「……はいそうですかなんていかないことくらい」

「そういう連中は条件を達成したところでどうせケチ付けてくる」

「……ん?」

「もっと言えば、手柄は取り上げて自分たちは約束の1つも守らないなんてのもザラにある」

「お、正面突破? 正面突破?」

「えっと……?」

「情報次第で作戦は立てるが、最悪それでもいい。どうせお前も来るだろ?」

「当ったり前。邪魔なのは全員殴りとばしてやるよ」

「よし。そうなるとやっぱり話聞くところからだな。そいつらや施設の情報を」

「ちょ、ちょっと待って!?」


 口を挟む間もなく転がった話を少女が慌てて中断させた。焦燥しょうそうばかりだった表情に重ねられた困惑が、訳が分からないと雄弁に語っている。


「何で、そうなるの? 私は、銃を撃ってでもナイフを刺してでも連れていくって思ってる。でも、貴方達には何のメリットも無いのに、何で」


 武器を取る選択をした時点で、きっと限界まで背負い込んでいたのだろう。度重なった想定外がもたらした混乱は、抱えきれなくなった彼女から背伸びをした敵意を掠め取っていく。


「何で……」

「それが案外、メリットが無いわけでもないんだよねぇ」


 随分と話の内容に似つかわしくない気楽な声が少女の言を否定する。訝しげに、けれど不安げに自分を見る少女に、アリエレスは楽しげに笑う。


「だってさ、ディルクを狙ってる元凶はキミじゃなくて研究所とやらの奴らなわけだ」

「それは、そうだけど」

「なら敵は共通。さらに手を組めばお互い利は大きい。キミは戦闘要員が、こっちは情報が手に入る」


 ね、悪い話じゃないでしょ。まるで単なるお喋りのような気安さで、アリエレスはそう付け足した。


「……敵地に行くなんて、危ないかもしれないよ」

「行かなきゃ行かないで、どうせまた誰か差し向けてくるだろ」

「銃を向けて、あいつらに売ろうとした」

「まぁ向けてたの退魔の悪魔じゃないけどね」


 そんなことを問わずに、提案を受けてしまった方が少女には本来は得だろうに。そうしないのは疑念を残した状態での取引への抵抗か、それとも。


「……いいの?」

「うん」

「いーよ」


 その答えを受け取って。唇を引き結んで少しだけ俯いてから顔を上げた。不安の色は成りを潜め、決然とした目で真っ直ぐに二人に視線を注ぐ。


「お願い。ケディを助けるの、手伝って」

「了解」

「そうこなくっちゃねぇ」


 ディルクはどこか安心したように、アリエレスははしゃぐ子供の様にそれぞれ笑う。少女は少し肩の力が抜けたようで、ディルクに椅子を勧められると素直に腰掛けた。


「さて、さっきも軽く自己紹介したけど改めて。俺はディルク。退魔の力を持って生まれた例外的な悪魔だよ。で、そっちが」

「アリエレス。私が退魔の悪魔ってのは誤解ね」


 アリエレスがひらりと手を振る。


「私はイルニス。アリエレスは退魔の力を持ってるわけじゃないの?」

「持ってないよ。ちなみに悪魔でもない」

「そもそも勘違いは何がきっかけだったんだ」


 事の顛末を知らないディルクからすれば、当然と言えば当然の疑問だ。それに対し、イルニスが少しだけ気まずそうに口を開く。


「この森にいるらしいってことしか知らなくて。探しに入ったら、アリエレスが山賊を何人も殴り飛ばしてるのを見つけて」

「何してんだお前」

「山賊何人倒せるかなチャレンジ」


 見かけたから気が向いてやった、というのが本人の供述であった。幾人もの山賊の意識を奪い最後には1人立っていたアリエレスは、さぞ悪魔の名を抱いた存在に見えたことだろう。


「途中、魔術を弾いたでしょ? それが退魔の力だと思ったの」

「あー、なんかお粗末なやつ弾いたな」

「なるほど、それでか」


 要するに研究所とやらの連中は、退魔の悪魔を連れて来いと命じたくせに肝心の特徴などの情報はイルニスに与えていなかったということだ。というより、自分達もおおまかな居場所以外は何も知らなかったのかもしれない。脅迫でやらせているとはいえ、捕獲する人間に情報を隠すメリットなどあるはずが無いのだから。それでもイルニスに探しに行かせたのは、友人の命の為なら何としてでも見つけ出すだろうという嫌な信用故だろうか。なんにせよ性根の腐り具合と詰めの甘さをまとめて窺えるが、得をした気分にはなるはずもなかった。


「じゃあ、アリエレスが使ったのは何か別の術とか?」

「いや、あれは力ずくで弾いた」

「力ずくで」


 オウム返しにしたイルニスは、なんともいえないという様子の困惑顔である。

 それはともかくとして、誤解の経緯についてアリエレスとディルクは各々納得したようだ。何故当人が把握していないんだとディルクが尋ねれば、だって気絶させちゃったしとアリエレスは軽い調子で返答する。似たような誤解が過去に幾度かあったが故の慣れと、アリエレスの細かいことはあまり気にしない性格を踏まえればある意味順当な反応ではあるが。


「研究所ってどこにあんの? 遠い?」

「東にある孔雀山のふもとに。歩きだと流石に遠いから、汽車に乗るのが一番良いかな」

「孔雀山の研究所……。聞いたことあるな。胡散臭い研究所だって」

「ディルク知ってんの?」

「噂程度だから詳しくは知らない。少し前に何かを手に入れて以降動きが怪しいって話をどっかで聞いたくらいだ」


 その手に入れたものが何かを知る由は無かった。が、噂の話を聞き身を僅かに強張らせ、ナイフを握る手に力を込めたイルニスの反応が答えのようなものだ。


「それがケディってわけね」

「そう。戦力になるって言われて私とケディは捕まった」

「イルニスも? 何で?」


 既に一度敵意を向けられているアリエレスが意外そうな声を上げた。感情を隠さない素直な態度と取るかオブラートが足りていないと取るかは人により分かれそうなところである。


「抑止力になる、って言ってた。純粋な戦闘要員として捕えたんじゃないと思う」

「随分な扱いだな」


 ディルクが忌まわしげにそう吐き捨てる。何のための戦力なのかなど知らないし知ったことではないが、それが何であれ不快を覚えない理由は無い。


「研究所内部のことは分かるか?」


 イルニスが静かに首を横に振る。申し訳なさそうな様子だが、そもそも人質の立ち位置にいた人間が内部を詳しく知るはずもない。確認で訊いただけだから気にしなくていいとディルクが伝えれば、分かった、と頷いた。


「でもケディがいる場所は分かる。同じところに閉じ込められてて、研究所を出る時に出口まで歩いたから」

「それが分かるだけでも上等。よし、そこでわくわくしてるやつ」

「はいよ」


 呼ばれてアリエレスは唇の端を釣り上げて笑う。滲み出た戦意は待ってましたと言わんばかりだ。


「お前正面から殴り込め。証拠になりそうなもんは壊すなよ」

「よしきた。任せな」


 パン、と掌に拳を打ち付ける。爛爛らんらんとした瞳で戦いへの期待に心を震わせるその存在はやはり悪魔の様だと称されれば、本人すらも否定はしないだろう。


「後はまぁ……状況見て対応するってことで」

「急に雑~」

「正面殴り込みの時点でだろ。なんとでもするさ」


 自分を狙う敵地に殴り込みに行こうというのに、ディルクの笑顔は随分と涼しげだ。彼もまた、アリエレスとは違った方向に荒事への意識がある程度肯定的らしい。


「よし、行くか」

「りょーかい」

「うん」


 出発のげんを受けて、イルニスが置きっぱなしになっていたホルダーを腰に装着した。拳銃の弾倉を確認すれば、気を失う前となんら変わっているところは無い。そうでなくともおかしくはなかった状況だが、それでも意外な顔をするわけでもないままイルニスは拳銃とナイフをそっとホルダーに収めた。


「ねぇ、アリエレス」

「ん?」

「アリエレスは、何で助けてくれるの?」


 ディルクは自分を狙う組織を根本から潰すという目的がある。イルニスが話した境遇に対して感情を向けた彼にとって、きっとそれだけではないのだろうが。だけどアリエレスには、付き合う理由がそもそも無いはずなのに。


「決まってんじゃん」


 アリエレスが見せた心底から楽しそうな笑みは、どこまでも真っ直ぐだった。


「暴れられそうだから」





「あれか、研究所」

「うん、あれ」

「見目は普通だな」


 火を見るよりも明らかな悪事の拠点、なんてことはなく。入り口から数十メートル離れた植え込みの陰で身を屈めながら三人揃って覗き見ている研究所は、傍から見ればこれといって特筆するような怪しい箇所も無い。だがいくら表面を取り繕っていても実際に被害者が出ているのだ。言い分があるというなら聞くが、それはそうとて優先すべきはケディの安否確認である。

 そのためにアリエレスを先行させて前方の敵戦力を削ろうという話、なのだが。


「……なんか騒がしくない?」


 普段なら言われずとも飛び出して行きそうなアリエレスは、今は二人の傍で訝しげに眉をしかめている。二人もアリエレスと同じ方向に視線を向けるが、声は建物の中らしく外に人影は無い。


「言われてみりゃなんか揉めてる感じの声するな」

「してる……かなぁ……?」

「あ、誰か出てきた」


 二人が言う声を聞き取れず怪訝な顔をしているイルニスをよそに、研究所の扉が開き白衣を着た二人の男が慌ただしく建物の中から駆け出てくる。言い争っているのか、はたまた焦っているのか。今度ははっきり聞こえるものの、内容は途切れ途切れの文章ばかりであまり要領を得ない。

 研究所から離れようとしているのか、アリエレス達に気付かないまま白衣の男達が近付いてくる。警戒して屈めていた身をさらに低くしたイルニスとは対照的に、アリエレスは植込みの陰から出て白衣の男達の傍に素早く駆け寄った。


「何だお前、っ!?」

「うわっ!」


 手慣れた動きで一人には足払いをかけ、もう一人は動けないように顔面を鷲掴みにする。アリエレスの方が膂力が勝っているようで、掴まれた男は足掻いてはいるがその状況から抜け出せそうも無い。


「ねぇ、中で何か起きてんの?」

「は、離せ……!」

「情報はあるに越したことないんだ。……頼むよ・・・


 顔を掴む手に更に力を込め、這ったまま逃げ出そうとする男の背を踏みつける。男は狭くなった視界に映りこんだアリエレスの鋭い眼に、掴まれた顔を青ざめさせながら観念して口を開いた。


「と、捕えてた研究対象が暴走した!」

「暴走?」

「少し前に気性が荒くなって、今日になって大暴れし始めた! 牢に閉じ込めてたが、檻なんてもう意味が無い!」

「待って、牢ってまさか!」


 ディルクと一緒に隠れたまま話を聞いていたイルニスが焦った様子で飛び出してきて、そして。


 轟音ごうおんと共に地が揺れた。


「何だ!?」


 男の顔から手を離し、発生源を確かめようと音が響いて来た山の方を見渡す。イルニスのすぐ後に駆けてきていたディルクも、男達から遠ざけるようにイルニスの前に立ちつつアリエレスと同じ方向に視線を向けた。未だ不安の色を拭えていないイルニスも同様に。


 そんな三人が見上げた先にあったのは。空を駆ける為の翼、その身を守らんと散りばめられた無数の黒い鱗。くうを切る音すらも重く響かせる尾。それら全てを携えた、巨大な存在がそこにいた。そして、何より驚くべきは。


「ケディ!!!」

「「ケディ!?」」


 イルニスが、確かに彼の存在をケディと呼んだ。彼女が友達だと、助けたいと言った相手の名前であの存在を呼んだのだ。そう、あの。


「あのドラゴンが!?」


 けたたましい咆哮ほうこうを響かせた、ドラゴンという存在を。









「遠くからでも分かっちゃいたが、近付くと余計に威圧感あるな」

「周り警戒してるみたいだからね」


 山を駆け登ったアリエレス達は、途中の崖の上に辿り着いてようやくケディの全貌ぜんぼうを目にしていた。ふもとから見上げた時とは違い、今は崖下のケディとの間に遮る木々も山肌も無い。


「そもそもどんな理屈であの大きさを牢に押し込めてたんだ」

「違う、あんなに大きくなかった!」


 イルニスが言うには、ケディは元々大きい身体ではあったものの、それでも今の姿よりはずっと小さかったらしい。


「どうして……」

「『研究』、ね。何しくさってたんだか」

「……ろくでも無いってことだけは確かだろ」


 後方で僅かに木の葉が揺れる音がした。人影がイルニスへと迫り、手を伸ばし、そして。



 届かずに、その手は掴まれ止められた。


「……なぁ?」


 ス、と細めた目でディルクが乱入者を冷たく見据える。掴まれた腕は、もうイルニスの方には少しも動かない。白衣を纏ったその男は悔しげに恨めしげに、そして少しの焦りを滲ませながらディルクを睨みつけている。掴まれた手を横に振り払い、その勢いのまま数歩後ずさった。


「この状況でわざわざイルニス狙ったんだ、適当ってわけでもないだろ」

「そいつが喰われれば、全てが上手くいく」

「私が……?」


 戸惑うイルニスを、自分より前に出ないようディルクが押し留める。相手が何を企んでいるにせよ、イルニスをみすみす差し出す選択肢は万に一つもありはしない。ましてや喰わせるなどともっての外だ。


「なーんか聞くこと聞くこと物騒ばっかりだな。お前らマジで何がしたいわけ」

「話せばそいつを渡すか?」

「渡すわけねぇだろ頭ん中に花でも敷き詰めてんのかボケが」


 隠すつもりなどさらさら無いアリエレスの敵意で空気が張り詰める。男は不意打ちが失敗に終わり警戒しているようで、ひとまず近付いて来ようとはしない。

 そんな睨み合いの最中さなかに、またひとつケディの咆哮が空に響く。


「知ってる事全部話せ。お前らの目的、今のケディの状態。イルニスを狙う理由も全部。麓にいた奴らよりは情報持ってるだろ」

「……全部知ってるはずだよ。そいつ、研究所の所長だ」

「それがわざわざ来るってことは、よっぽどケディに執着してんだな」


 ドラゴンが地を揺らしているというのに逃げることもしない。それほどにイルニスという鍵がもたらす勝算があの男にとって大きいのか、それとも研究とやらに固執するあまりに狂気を抱いただけなのか。どちらにせよ、迷惑極まりない話でしかないが。


「お前らが庇っているそいつは、喰われればドラゴンの知能に成り代わる」

「はぁ? ……いやいい、続けろ」

「竜は強い。今の巨大な姿を解放すれば、人間など何百人、いや何千人だって蹴散らすことができる」


 竜が好戦的なのかどうかは分からないが、ケディを見るにその実力を備えていることは明らかだ。あの爪を、牙を、尾を振りかざされれば人の命は容易く散ってしまうのだろう。だが、それはあくまで振りかざされればの話だ。


「そもそも研究所の人間が手を出すまでケディはイルニスといて、今はあのデカさだ。殺戮さつりくにも飼い竜にも向いちゃいないと思うがね」

「だからそいつを喰わせるんだ。そうすれば、ドラゴンはその命を以て知を得て、言葉を解す。喰われることでそれを成せる特殊な存在。いわば人身御供ひとみごくうといったところだ」

「だから戦えないイルニスまで捕まえてたってわけか」


 合点はいったが良い気分になるわけもない。嫌悪と同時に、かくも残忍になれるこの男も友の為に命を張る少女も同じ人間という種族なのだという事実がいっそ奇怪きっかいだった。


「あのドラゴンが力と知をあわせ持てば、何にも劣らぬ兵器だ」

「ケディは兵器なんかじゃない!」


 強かろうが、人で無かろうが。イルニスにとっては大切な友だ。そんな健気な少女の訴えに、それでも男の冷たい目は変わらない。


「解したから何だってんだ。ついでに友人を喰わせてきた奴らに従いますってか? 随分愉快な算段をする参謀さんぼう様がいるんだな」

「知と力をもって戦うことに、友の命の弔いを見出すか否か。精々言葉を語って試すとするさ」

「テメェ……」

「ケディがデカくなってるのは何だ。イルニスの話じゃもっと小さかったんだろ? 麓に居た奴らは暴走だって言ってた」


 この場にいつ被害が及ぶか分からない以上、今は激情よりも情報を優先すべきと判断したアリエレスが青筋を立てるディルクを遮り男を問い詰める。


「巨大化自体は竜が元々備えている能力だ。理性を失っているのは、能力を外側から引き出そうとした研究の反動だろう。暴走ではあるが想定内でもある」

「元に戻すには」

「捧げ物を喰って知恵を持てばおのずと戻るだろう。そうでなければ説得でもしてみるさ」

「所長さんさぁ。そういうのは予測じゃなくて願望って言うんじゃないの」


 相反あいはんする思想の者を縛り付けて、おぼろ先見せんけんしるべとして。そんなものを確たる道だと称すのは、あまりに楽観的ではないだろうか。


「その願望を形にするための研究だ」

「ここまでくると中毒者ジャンキーと変わんねぇなおい」


 心底面倒な相手だと、アリエレスが顔をしかめる。正面切っての殴り合いで片付く賊共の方が、彼女にとってはまだマシな手合いだ。


「全て順調にいくとまでは思っていない。退魔の悪魔を連れてこさせたのもそのためだ。そいつが連れて戻ってきたということは、どちらかは退魔の悪魔なんだろう?」

「……そもそも何で戦力なんか、」


 言葉を告げ終わる前に、鈍く大きな音と共に地面が揺れた。次いでこの場の誰もに届いた低い唸り声。警戒故か、それとも好き勝手に己を振り回した人間への怒りか。あるいは繋がりの無い人間には想像が及ばない何かを思っているのか。何にせよ、いつまでも悠長にはしていられないことだけは確かなようだ。


「要はするに、現時点ではお前にはどうにもできないってことでいいんだな」

生贄いけにえをドラゴンの口に放り込むことくらいはできるさ」

「……アリエレス。イルニス頼む」

「ん? うん」


 背中に庇っていたディルクに代わり、アリエレスがイルニスの傍に寄る。それと同時にディルクは男に向き直り、駆けて距離を詰め、そして。


 男の顔を、握った拳で殴り飛ばした。


「おぉ」

「ディルク!?」


 アリエレスは呑気な感嘆の声を、ディルクの行動が予想外だったイルニスは驚きの声をそれぞれ上げる。


「ケディを戻せないなら構わないだろ」

「そーね」


 殴り飛ばされた男はディルクの一撃で気を失ったようで、仰向けに倒れたまま動かない。殴り飛ばしたディルクと、アリエレスの別段慌てるでも驚くでもない慣れているという様子に、イルニスは目をしばたたかせている。


「自分で殴りたかったか?」

「えっ。う、ううん、大丈夫」

「そっか、ならいい。それなら後は」


 ディルクの視線が、イルニスから崖下へと移る。つられるように、イルニスとアリエレスも同じ方向に目を向けた。


「ケディをどうにかしないとな」

「ケディ……」


 イルニスの視界に映るのは、間違いなく彼女の大切な友だ。その身体が今までとは比べ物にならないほどの巨躯きょくと化しても、その唸り声が知らない敵意をはらんだものだとしても。鋭い爪が、易々と岩を抉っても。それでも。


「助けなきゃ」


 引き下がり、諦める理由になどなりはしない。確固たる意志を以て言葉となった声がその証明だ。


「ケディ! 私のこと分かる!? 私だよ、イルニス!」


 崖下にいるケディにできる限りの大声で語り掛ける。けれど返って来たのは、大気を裂くような一際激しい咆哮だった。


「ケディ、分からないのかな……」

「声を掛け続ければ届くかもしれない」


 咆哮の音が溶け消えると、ケディが仰いでいた天からこちらへゆっくりと視線を移した。深い深い紅色が、その目に捉えた何かを静かに見据えている。


「ケディ……?」


 もしかしたら理性を取り戻したのかもしれない。声が届いたのかもしれない。元に、戻れるのかもしれない。だけどそんな淡い期待は、脆い願望なのだとすぐに知る。

 身を低く構えたケディが、鋭い爪に力を込めた。


「危ない!」


 ディルクが声を上げると同時に、同じく危険を感じ取ったアリエレスが素早くイルニスを抱える。定められた狙いから逃れるべく、イルニスを抱えたアリエレスとディルクはその場から飛び退いた。直後、雄叫びと共に爪が崖を捉える。叩きつけられるように振るわれたそれが、直前まで三人が立っていた足場を激しい音を立てて抉り砕いた。


「大丈夫か!?」

「イルニス、怪我は」

「平気、してないよ」


 誰も手傷を負っていないことを確認して、再びケディに向き直る。荒い呼吸に唸り声、不快そうに揺すっている身体。先ほど放った一撃では、残念ながら落ち着いてはくれなかったようだ。


「ディルク。あれ退魔の力ブチ込んだらなんとかなる?」

「どうだろうな。そもそも効果があったとて、あの巨体に足りるかどうか」

「やってみりゃ分かるってことね」


 単純明快シンプルな結論をひとつ。解決策と成るか否かは定かでないが、それでも彼女の行動指標には相成った。


「気を引くのと、後は体力を削れればなお良しか」

「アリエレス?」

「大丈夫だよ、イルニス」

「……? わっ」


 アリエレスの戦いに慣れた武骨な手が、大雑把に、けれど優しくイルニスの頭を撫でる。こんな時だというのに相も変わらずどこか陽気なアリエレスに、イルニスは長い髪をわしゃわしゃとかき回されながら戸惑いの表情を浮かべている。


「お前の友達に、私達を殺させたりなんかしないから」


 真っ直ぐにイルニスを見据えるアリエレスは、どこか楽しそうで。そして、それでいて不敵に笑って見せた。


「それ、どういう……」

「じゃ、ディルク。イルニス頼んだ」

「分かった。どうせ止めたってお前は聞かないしな」

「ははっ! 止める気なんか無いくせに!」


 分かりきったことだ、お互いに。止まらない、だから止めない。数えるのも馬鹿らしくなるほど繰り返してきた、愚かでひたむきな歩み方だ。


「じゃ、行きますか」


 どこに、とイルニスが問う間も無かった。アリエレスが散歩に行くかのような気安さで言葉をほうってから、崖下に―――ケディがいる所へと、飛び降りるまで。


「アリエレス!?」


 無謀とも取れる彼女の行動に驚きながら、イルニスは慌てて崖の縁へと駆け寄った。見下ろした景色にアリエレスの姿を探す。視界に捉えた今のケディよりずっと小さい彼女は、それでも真っ直ぐにケディの方へと落ちていた。

 それにケディが気付かないはずもない。音を拾い気配を察し、そして再び爪を構える。


「ケディだめ!」


 叫びも虚しく、ケディの鋭い爪がアリエレスに迫る。だがアリエレスにとってもその程度は想定内だ。身体を捻り崖を蹴って攻撃をかわす。足元を掠めた爪が、その勢いのまま崖を削り取った。無数に散ったつぶてが地面に落ちるよりも早く、アリエレスに追撃が襲いかかる。横から打ち振るわれた尾を今度は避けられず、アリエレスは鳴動と共に弾き飛ばされしたたかに崖へと叩きつけられた。


 一連を見ていたイルニスが息を呑む。死んでいてもおかしくないこの状況に、ふらりと膝からくずおれてしまった。


「うそ……」

「イルニス、大丈夫だ。あいつは頑丈だよ」


 虚がかった眼でディルクを見上げれば、その表情には絶望も憂いも無かった。ただただ真剣な眼差しで、アリエレスがいる方向を注視している。


 ケディの尾が、アリエレスから離れていく。ようやく確認できたアリエレスの姿に、ディルクは少しばかり詰まっていた息を小さく吐き出した。


「ほらな」


 その言葉に、イルニスが弾かれるように同じ方向を振り返る。顔の右側が血で赤く染まっているその姿は無事とは言い難いが、それでも生きている。意識も失っていない。イルニスが抱いたのは、その事実への心底からの安堵と、アリエレスの負傷への懸念。そして。


「痛ってぇなおい」


 アリエレスが己の身体を守っていた、純白の翼への驚愕だった。


「天使!?」


 イルニスの心情を知ってか知らずか。クレーターのようにひび割れへこんだ岩肌に留まったアリエレスは、低い唸り声を鳴らすケディと真っ向から目線を交わしながら目にかかった血を拭い口内の血を吐き捨てる。


「なぁケディ。お前はどうしたい」


 言葉が届いているのかどうかは分からない。それでもアリエレスは言葉を掛ける。


「私とディルク……退魔の悪魔は、ケディを助けてほしいとイルニスに頼まれて来た」


 イルニスの名前を耳にしたからだろうか。ケディの唸り声が鳴り止んだ。


「私は、イルニスの望みを叶えてやりたい。でも、そのためにお前の感情の何もかもを抑え込めと言うつもりはない。怒りをぶつけたいのなら、私が相手になる」


 ケディの感情は分からない。ただ真っ直ぐに、アリエレスと目を合わせている。だがその目とは裏腹に、時折力が込められる爪先は地面を抉る。


 不意に、ケディがアリエレスから目を逸す。そのまま動きを止めたケディの目線を辿れば、その先にいたのはイルニスとディルクだった。再び紅い眼に映し込んだ存在に、果たして何を思うのだろう。何か心変わりがあったのか、それとも同じ挙動を繰り返すのか。後者ならばどうにかしなければと、アリエレスとディルクは離れながらも同じく身構える。だが、何をも砕くその爪を崖上の二人に振るおうとはしないまま、ケディはただたたずむばかりだ。


「ケディ」


 力で戦う術を持たないイルニスは、それでもケディから目を逸らさない。未だ届くか分からずも、決意を灯すその目は、名を呼ぶ声は、決してケディから離れずにいる。


「絶対に、おいていったりしない」


 届かないのなら、届くまで。逃げることも見捨てることもしない。そして、誰も死なせない。それが、種族を異とする者達が同じくして抱いたひとつの覚悟だ。

 イルニスの言葉に応えんとしたのか、それとも否か。ケディが咆哮よりもずっと静かな声を上げた。どこか寂しそうに聞こえるその声は、それでも何にもならず消えてしまうようなか弱いそれでは決してない。

 ケディの声が静まると、世界の音を遮るものが何も無いこの場所がまるで平穏であるかのようだった。だが、木々の葉が風で揺れる音も、どこか遠くで鳥が鳴く声も壊されないこの時間はいつまでも続くことはない束の間だ。

 イルニス達とケディ。先に視線を外したのはケディの方だった。動かずにいたアリエレスに再び向き直り、未だ地面を僅かずつ抉っていた爪に今度は全力が込められる。牙にも、尾にも、同様に。それが何を意味するかなど、この場の誰にとっても明白だ。

 天をくような咆哮ほうこうが、交戦の火蓋を切り落した。


 ケディの爪がアリエレスに迫らんと地面から離れ、それと同時にアリエレスが岩壁を蹴った。砕かれ降り注ぐ岩と共に下へと逃れたアリエレスに、休む間も無くケディの牙が襲い掛かる。避けきれずに着地と同時に翼を裂かれ、白い羽がくうを舞った。止まらない、お互いに。

 跳躍したアリエレスが、文字通り目と鼻の先にいるケディの頭に全力でかかとを落とす。だというのに、残念ながら怯む様子はひと欠片らすらも見られなかった。乗ったままでいた頭を激しく揺さぶられ地面へと振り落とされる。間髪入れずに払うように真横から打ち付けられた爪を、翼で防ぎながら同じ方向へと跳び退いた。弾き飛ばされて転がった先で、すぐさま体勢を立て直す。裂傷を負った翼は、それでも未だ命を守らんとする意地を灯していた。


 劣勢も劣勢、力の差はいっそ清々しくなるほど歴然だ。それでもアリエレスの芯から湧き上がる感覚は、絶望とはとてもとても似つかない。




「ねぇ、なんか……。もしかしてアリエレス、楽しそう……?」

「暴れたがりなんだよ、あいつは」


 挑戦的な目で捉え、高揚した感情のままに笑う。ここに来る前のどこかのんびりとしていた彼女とはかけ離れた姿。それを目の当たりにして漸く、何故助けてくれるのかという問いに返された、暴れられるからというアリエレスのげんがイルニスの胸の底へと落ちた。

 アリエレスを突き動かすのは、悪意も敵意もありはしない純然たる闘争本能だ。そこに、理屈なんてものは無いのだろう。だからこそ、強く真っ直ぐだ。


「でもこのままじゃ死んじゃうかもしれない。ケディを止めないと」

「あいつは暴れたがりだが死にたがりじゃない。喧嘩にも慣れてるから、簡単にやられやしないよ。だから焦るな。タイミングを見誤るのは避けなきゃいけない」


 ディルクの冷静な判断に従い、乱れた呼吸を整える。自分にできるやり方でケディを助けると決めた。崖下で大立ち回りを繰り広げる二人への消せない焦燥感が背を這えど、意地でも呑まれてなるものかと必死で思考を巡らせる。ケディを止めるための策を、少しでも盤石ばんじゃくにしなければ。声を掛ける以外にも、何かできることを。思い返す、ケディに関する何もかもを。そして、そんな過去の濁流の中で。


 『そいつが喰われれば、全てが上手くいく』。記憶に新しい言葉が切望に触れた。それは、他ならぬ自分に向けられたものだ。


「……そうだ」

「イルニス、馬鹿なこと考えるなよ」


 ホルダーの武器を掴もうとしたイルニスをディルクが見咎める。


「お前がそんなもの使う必要なんか無いんだ。それに、使ったってどうしようもない」


 素人が武器を使ったところで、今のケディの前では最早些事さじだ。それに、下手を打てばアリエレスの邪魔にすらなってしまう。それはイルニスとて理解している。だが、ディルクの全ての言葉に肯と返すつもりも否と返すつもりもない。

 助けるために、やれることを。そう決めたのだから。


「どうしようもないかなんて、全部やってみた後に嫌でも分かる」


 ホルダーから引き抜いたナイフを首元に寄せる。これが、分水嶺となるかは分からない。だけど、もう武器を持つ手は震えなかった。


「イルニス!?」


 掴んだ髪を持ち上げる。そして、握りしめたナイフを振り抜いた。


「……!」


 切り裂く音が放られる。髪束かみたばは繋がりを断ち切られ、短いそれへと変わったイルニスの頭髪が風に揺れた。


「私を食べれば上手くいくって言ってた。なら、一部だけでも効果があるかもしれない」


 意地でも命を捨ててなどやるものか。ケディに何も失わせてなるものか。生きて、取り戻す。自分達の平和を。笑い合っていた安寧あんねいの日々を。


 そんな揺らぎも譲りもしない、イルニスの覚悟を前にして。ディルクは思わず呆れ混じりの笑いを零す。どことなく、楽しそうな色を乗せながら。


「まったく……。何で俺の周りはこう思い切りが良いやつばっかかね」

「ふふ。案外、類に呼ばれたんだったりして」

「言ってくれるよ、本当に」


 命を掛けた大勝負。その最中にしてはいささか異色で楽しげな笑みを向け合うのはここまでだ。仕舞い込んだそれに、死なず死なせないための思考で鍵を掛ける。


「ディルク、お願い。私を、ケディのところまで連れていって」


 確たる策ではないことも、危険であるのことも承知の上だ。特にイルニスは、今のケディの動作は直撃せずともただでは済まないだろう。だけど、それでも。


「私たちは、今までずっと傍にいた。それだけでも同じようにすれば、私を分かってくれるかもしれない」


 ケディを助けたい。危険だろうと不確実だろうと、進む道になれるのは抱いた切望ひとつだけだ。

 

「分かったよ」


 ディルクとて、懸念が無いと言いはしない。だが、それに構うのはこの際野暮で、無粋で、そしてなにより無意味なのだろう。


「止めたって、どうせ聞かないしな」


 天真爛漫てんしんらんまんな天使と重ねた時点で、返事など既に決まっていたのだから。


「タイミングは任せる」

「分かった」


 崖の上から、イルニスはケディの挙動だけに意識を向ける。身体の動き、目線の運び。表情、声、果ては雰囲気にまで。記憶の内にいるケディと重ね合わせる。どう動くか、いつが最適かを見極めるために。


 そして、その目は捉えた。ケディを縛る理不尽を砕く、その時を。







 弾き飛ばされ転がったアリエレスの身体が、背中から崖壁に強かに打ち付けられる。負傷と疲労が蓄積された状態では即反撃とは叶わずに、なんとか倒れずに立ったままでいるのが精いっぱいだ。血にまみれた全身は、未だ思うままに動かせるというわけにはいかなくなってきている。あちこちが軋み、時折意思より遅れて動く。ほんのわずかであろうとも、充分すぎるほどに命取りだ。ドラゴンという存在を相手にしているのだから尚更に。

 だが、それでも。アリエレスという暴れたがりが止まる理由には足り得ない。上手く力が入らずに小さく打ち震える足を、身体を叱責し顔を上げる。

 そして、そのまま、動きを止めた。不敵の中に安堵が滲む、そんな笑みを浮かべて。視界に小さく、だけど確かに捉えた姿があったから。


「ケディ」


 状況には随分と似合わない、アリエレスの楽しそうな声がケディを呼んだ。


「いつまでも離れてる気は無いってさ」


 ケディと合わせていた目線を、ほんの少し上に移す。視界の端にわずかに入り込んでいた人影が、少しだけ鮮明なそれに変わった。


「お迎えだ」


 ケディがアリエレスの視線を追う。その先にいた相手に何かを言わんとしたのだろうか、口を開き声を上げた。


 その動きを。少女が好機と捉え、叫んだ。


いま!」


 イルニスの声が響き渡る。それを合図に、黒色の羽を広げイルニスを抱えたディルクが地を蹴りケディの元へと飛び降りた。2人が辿り着こうとしているところへ、同じくしてアリエレスも走り出す。イルニス達の方へと歩を踏み出したケディの身体を駆け上がり、振り絞った全力を込めてケディの頭に思い切り蹴りを入れた。

 その甲斐あってか、それとも否か。ケディの動きが、一瞬止まった。それをイルニスが見逃すはずもない。振り下ろされた右手から、握りしめられていた髪束がケディの方へとほうられる。


 自身に迫るそれを、ケディは拒まなかった。牙の内側へと受け入れ、その身の内へと取り込み、そして。


 ケディの目から、怒りを交えた闘志の色が。確かにうすらと成り変わった。


「ディルク!」


 名を呼ぶ少女の意思を受け、ディルクがその手に退魔の力を込める。そして、辿り着くと同時にケディの背に平手を叩きつけた。身を守るための硬く、厚い鱗に覆われた身体に、それでも貫けと意地と力を注ぎ込む。


 外側から己に混じり巡った力に、ケディが天を仰ぎ声を響かせた。恨みや怒りに支配されていない、純真たる己の声を。


 吉凶禍福(きっきょうかふく)いずれが出るか。ディルクは未だ左腕でイルニスを抱えたままケディの背で、アリエレスは転がり落ちた先の尾の上で。事態がどう転ぼうとすぐに動けるようにとそれぞれ身構え、そして。


 ケディの姿が、消えた。


「「「!?」」」


 予想外の出来事に驚くと同時に、足場を失った三人の身体が地面へと落ちていく。その最中さなか、イルニスは確かにその目に見た。


「……ケディ」


 ずっと隣にいた、慣れ親しんだ姿の友達ケディを。


「ぐぇっ」

「アリエレス!」


 羽で身体を包んだものの、受け身は取れずに地面に落ちる。そんなアリエレスより少し遅れて地面へ着地したディルクが、寝そべったままの彼女へ駆け寄った。


「大丈夫か?」

「あー、平気平気。それよりイルニス」


 自分達と比べれば巨躯と呼んで差し支えない、けれど先程の姿と比べれば随分と小さくなったケディに。次いで、ようやくディルクの腕から地面へと降ろされたイルニスへと視線を移す。


「行ってやりなよ。もう、大丈夫だ」


 柔らかな笑みを浮かべて告げられたその言葉を受けて、イルニスはケディへと振り返る。視線の先にケディは静かに佇んでいる、ずっとイルニスの隣にいたその姿で。


「ケディ」


 踵を返し、歩き出す。その歩みは早足に、そしてすぐに駆け足へと変わった。


「ケディ!」


 自分へ駆け寄ったイルニスを、ケディはその身で受け止めた。鋭利な爪、強靭な牙、堅剛な尾。そのどれもが乱暴に振るわれることはなく、ただ穏やかにそこにあった。


「本当に大丈夫なのか」

「大丈夫だよ」


 ケディがイルニスの頬へと自分の頬を摺り寄せる。慈愛を揺らめかせ、万に一つも傷付けないようにと強く慮りながら。


「何もかもブチ壊してやろうなんてツラじゃないさ」


 歓喜と安堵の涙を滲ませながら笑うイルニスと、柔らかい様子で傍にいるケディ。取り戻したお互いを自分達で壊すことはないだろうと、アリエレスは心底から安堵していた。


「……そうか」


 問いつつも、イルニスを止めなかった時点でディルクも本気でケディを疑っていたわけではないのだろう。気を張り詰めさせていた彼の警戒の色は、既に成りを潜めていた。


 そんなディルクにアリエレスが手を伸ばした。起こしてくれ、という意図を正しく汲み取ったディルクがその手を掴んで引っ張り起こす。

 そうしてようやっと起き上がり、今は地面に座ったままイルニスとケディを眺めている。少しの間そうしていた後、そろそろ良い頃合だろうとのんびりとした仕草で立ち上がった。


「ディルク。ケディ戻してくれてありがとね」

「イルニスの髪を食ってたのもあるし、退魔がどれくらい役に立ったかは謎だがな」

「いーじゃんいーじゃん、戻ったんだしおてがらおてがら~」

「まったく……」


 あっけらかんと笑うアリエレスの相変わらずの適当さに、ディルクは呆れたように眉を下げた。


「そもそもイルニスが近くにいたのが大きかったのかもしれないな」

「だねぇ、ちょくちょく反応してたっぽいし。……もしかしたら、取り戻そうとしてたのかもね」


 イルニスが最初にケディに声を掛けた直後に、ケディはその爪を猛威の如く振るってみせた。だけどイルニスやアリエレスの意思を伝えた後は、力を、怒りをぶつける先は一貫してアリエレスだけだった。


「ケディからすりゃ何者かも分からない天使と悪魔から、大事な大事な友達を」

「……かもな」


 混濁した理性と意識の中で。それでも必死に拾い上げていたのだろう。記憶を、友の姿を、誰もの言葉を。手放してなるものかと、失ってなるものかと。イルニスと同じ願いを、意地を抱きながら。


「ま、なんにせよ丸く収まって良かった良かった」


 全身の外傷とは随分不似合いな様子でカラカラと笑いながら、アリエレスはイルニスとケディのところへと歩き出した。手を上げながら声を掛け、顔を合わせた二人と何やら和やかに話している。


 そんな三人から、ディルクが崖上へと視線を移す。丸く収まった。それにしては、随分と険しい顔で視線の先を睨みつけていた。







「おー、すっかり大人しくなって」


 アリエレスが近付いても、ケディの様子が変わることも特に無かった。良かったなー、なんて言っていると、するりとケディがアリエレスの羽に顔を寄せる。


「んー?」


 ぼろぼろになった羽に、傷だらけの身体に。確かめるように、うれうような目を向ける。そんなケディに、アリエレスはふは、と思わず笑った。


「だぁいじょうぶだよ、こんなんすぐ治るから」


 なんせ天使なもんで、なんて冗談めかした口調で告げながらケディの頭を撫でる。


「それに、ケンカの殴る蹴るなんてお互い様だからねぇ」


 アリエレスにとっては、なんら理不尽なところなど無かった。暴れたがりの欲望を満たしたかったアリエレスと、抱えさせられた怒りのぶつけどころが欲しかったケディ。利害が一致した二人が力をぶつけ合ったというだけの話なのだから。理不尽も不条理もないそこにあったのは、せいぜい力の差くらいのものだ。

 そんなアリエレスに、ケディが静かに頭を下げる。厳かな動きから伝わる感謝に、律儀だなぁとアリエレスはまた笑った。


「こちらこそ。まぁつっても、ケディを戻したのはイルニスとディルクなんだけど。ねぇディルク」


 先ほどまでいた場所を振り返ってそう声を掛けた、のだが。


「あれぇー?」


 予想に反して誰もいなかった。イルニスが当たりをきょろきょろと見回してディルクを探すが、姿が見当たらない。


「ディルクどこ行っちゃったんだろ?」

「どこ行ったかな。さっきまで一緒にいたんだけど」

「え、帰っちゃったってことないよね?」

「いやぁ、黙って帰るタイプじゃないよ。どっかその辺にはいるいる」

「適当だなぁ……」


 各々別の方向を見渡すが、やはりディルクの姿は見当たらなかった。







 ディルクー? どこ行ったー。付き合いも相応に長くなった天使が崖下から自分を呼ぶ声を放ったまま、木を身体の支えに座り込んでいる男をディルクは冷えた目で見下ろしている。


「お前らは何が目的だった」

「……私は・・、解き明かしたかった。舞い込んできた未知を。……それだけだよ、本当だ」


 毒気が抜けたような表情で、研究所の所長であるらしい男は語る。


「だけど他の研究員は、私に従っていただけだよ。あの子……イルニスの作用も、知らずにいた者がほとんどだ」

「……舞い込んできたってのは」

「依頼された。『生物兵器として運用できるように研究を』と、引き渡されたのがあの子達だ」


 イルニスとケディの権利を、命を、自由を奪おうとしていた行為。どんな理由があろうと、それは当然に不愉快だ。

 だけど、それでも。人の心は、必ずしも一辺倒ではないことも、とうの昔に知っていた。


「何でイルニスを俺の……退魔の悪魔のところに寄越した」

「あぁ、退魔の悪魔は君の方だったか。あの子から理由を聞かずにここまで来たのか?」

「俺を狙った理由じゃねぇよ。逃げられるリスクを冒してまでわざわざイルニスを選んで寄越した理由だ」

「……研究員の誰かが行ったところで、追い返されるか、最悪殺されて終わりそうだったからな」

「イルニスのことは殺そうとしといてよく言えたもんだ」


 受け取った説明に多少の鬱憤うっぷんを覚えてそう吐き捨てる。自分とて誰もに平等になど到底生きていないことを自覚しているが、それでも理屈と感情が噛み合わないことがあるのは仕方がないだろうと自分のことは棚に上げておいた。


「そもそもお前らの目論見もくろみに俺が必要だったかも疑問だな。お前らにとってはイルニスだけがいれば良かったんじゃないのか」

「はは、そんなの」


 朗らかに、男は笑う。どこかあどけなさすら感じるその表情は、初対面時の印象とは随分と違って見えるものだった。


「死なせる以外の手があるなら、そっちの方が良いじゃないか」

「……そうかよ」


 誰かから奪い取った、大切にいだかれていた何か。それを乗せた時点で、どちらに傾こうがろくでもない天秤なのは明白だ。

 だけど、それでも。


「それでも結局は殺そうとしたんだ。殺されたって文句は言わないさ」


 奪うものが少ない方へ傾かせんとする足掻あがきは、確かにここにあったらしい。免罪符足り得るとは思わないが、それを全く意味が無かったものだと思う気にもまたなれなかった。

 そんなことを思いながら、崖下に耳を傾ける。会話の内容までは分からないが、微かに届く声たちは無邪気で楽しそうなそれだ。


「あの子のいるところで、これ以上面倒事を引っ掻き回すのは御免だね」


 取り戻した笑顔を、平穏を。わざわざ曇らせたいはずはない。


「……そうか」

「まぁ、後始末は必要だろうがな」


 そう結論付けて、いくつか言葉を交わしていった。




 話を終えて、ようやっとディルクは崖上から顔を覗かせた。あ、ディルクいたぁー、なんて天使の呑気な声を聞きながら、三人の姿を確かめる。物騒に命を掛けてみせた、あの剣呑はどこへやら。打ち解け合った景色は、随分と穏やかなものだった。

 そんな三人の元へと、羽を広げて崖の上から飛び降りた。







「二人とも、本当にありがとう」


 隣のケディも、イルニスと同じように頭を下げる。見たところケディにもイルニスにも、ひとまず外傷は無いようだった。変わったのは切り落して短くなった髪くらいだ。


「いいさ。無事に済んで良かった」


 満身創痍まんしんそういであるアリエレスの現状を果たして無事と称するべきなのかと言われれば否なのだろうが。様子を見た限りでは平気そうだし、とりあえずは大丈夫だろうと判断した。慣れとは強いものである。


「研究所には遅かれ早かれ警察やら捜査員やらが調べに来るだろ」

「だねぇ。イルニスとケディのデータだけ回収して離れようか」

「……イルニス、ケディ。お前達はどうしたい」

「え?」

「一番の被害者はお前達だろ。……報復を望む権利は、あるんじゃないのか」


 重く口を開いたディルクの言葉に、くっついていたイルニスとケディが顔を見合わせる。お互いに目をしばたたかせた後に、暗い昏い表情のディルクとは対照的な笑顔を向けた。


「私たちは、同じことが起こらなければそれで良いの。平和に、一緒にいたいだけだから」

「……そっか」


 心底安堵したように、今度はディルクも笑ってみせた。権利はあるだろうと言いながら、復讐心を押し殺して生きていくのは苦しいだろうと知りながら。それでも手を血で汚すような真似をしてほしかったはずはないのだから。

 そして相棒のそんな気質を知っているアリエレスもまた、安堵に表情を和らげていた。


「んじゃ、話もまとまったことだし適当にやって帰ろーぜ!」

「いや適当にはやるな」

「あっはっは」


 アリエレスの言葉にディルクが呆れ、その様子にイルニスが笑い声を上げた。ケディは心なしか楽しそうに見守っている。少し違っていたら訪れなかったかもしれないこの光景は、紛れもなく平穏だった。







 それから何事も無く過ぎ去った、数日後のとある日の夜。



 ドガッ、と音を立ててドアが蹴り壊された。中にいた人間達は何事かとざわめき立てながら、見知らぬ男の乱入に武器を取る。


「はーいこんばんはー」


 困惑、敵意、果てには殺意。室内のあちらこちらで様々生まれた感情は、向けられる先だけは一様だ。それを一身に受ける当の本人といえば、どうでもいいとばかりに構う素振りも何も無し。


「別に恨みってほどのもんは無いし、お前らが研究所に依頼を投げた目的も正直知ったこっちゃないんだけどな? でもまたあのドラゴンに手ぇ出されんのは面倒なわけで」


 静かで温かな湖畔に岩を投げ込まれるような面倒を、繰り返させる道理は無い。ではそのためにはどうするか。何処ぞの天使ではないが、答えなど至極シンプルだ。


「そうなると、潰すのが一番手っ取り早いよな」


 暴れるのは、相棒だけの専売特許ではないのだから。






『孔雀山の研究所は、引き続き調査が行われるようです。――の拠点で、違法に武器を売買していた組織の構成員が逮捕されました。構成員は、『悪魔に殺される』などと発言しており―――』


 ディルクの住まいの、開け放たれた窓のふち。そこで羽を休めている伝達鳥でんたつどりが、最近のニュースを喋り上げている。なんとまぁ、何処ぞで物騒な事件があったらしい。


「へぇ~」


 椅子で寛ぎながらニュースを聞いていたアリエレスが、間延びした声で興味を示す。


「どこの誰が何したんだか」


 開け放した窓の外から部屋の中へ、良く晴れた空の下でイルニスとケディがはしゃぐ声と、心地の良いそよ風が入り込んでいる。


「さぁなぁ」


 数日前の騒動とは対照的な、穏やかな昼下がり。それを満喫しているディルクは、何をするでもなくともご機嫌だ。


「どこぞの悪魔に喧嘩でも売られたのかもな」


 満足気にそう言い放ったディルクに、アリエレスは愉悦に跳ねた心のままに笑った。

 この度は、『象徴からの外れ者』を読んで頂きありがとうございます。未熟者の作品ではありますが、少しでも楽しんで頂けたなら幸いです。


 この作品は、『存在に対する固定観念から外れたキャラクターを描きたい』という思い付きから書き始めました。それをベースにしつつ、固定観念に当てはまる部分も残して書いてみました。

 穏やか、品行方正などとはかけ離れた天使アリエレス、他人への優しさや情が強い悪魔ディルク。元来の性格では荒事を好まずに、人と穏やかに生きるドラゴンのケディ。人にはそこまで強い固定観念が無かったので、人間同士は性格を遠くしたり二面性を見せたりという形を取ってみました。とはいえ、ドラゴンなんかは人によりイメージが分かれるような気もします。


 もしよろしければ、評価や誤字脱字の報告、コメント等頂ければ嬉しいです。


 最後に改めて、当作品を読んで下さり本当にありがとうございました。

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