流れ着くもの
妻が行方不明になってから、もう一年が経った。
一緒に豪華客船のクルーズに参加していた妻は、私が少し目を離した隙にいなくなっていた。船の隅々まで探してみても、妻は見つからなかった。
結局、妻は何らかの形で船の手すりを乗り越え、海の藻屑と消えたのだろうという話になった。妻の存在を欠いたまま私は旅を続け、最終的にこの町に戻って来た。
ここは私の生まれた町だった。元は大きな漁村だったようだが、今はすっかり寂れている。海しかないような、そんな場所だ。
私は長く放っておいた実家に移り住み、一人で暮らし始めた。海に近い場所にある一軒家だ。両親が亡くなってから空き家になっていた為、最初の手入れは大変だったが、今は自分一人何とか住めるようにはなっている。
文筆業を営んでいる自分にとっては、ネットさえ繋がっていれば何処でも仕事は出来る。前から故郷に引っ込んで暮らしたかったのだが、妻がそれを許さなかった。妻のいない今、やっと私はここに戻ることが出来たのだ。
私は毎朝浜辺を散歩することを日課としていた。
インドアな仕事とは言え、運動しなければ身体もなまってしまう。誰もいない朝の浜辺をぶらつきながら、日々のよしなしごとをとりとめもなく思い返したりするのは――あまり周囲の者には理解されないだろうが――楽しかった。
目の前に広がるのは海だった。妻を奪ったかも知れない、巨大な水の塊だ。故郷の海はさして明るくはなかった。栄えていた当時なら違ったかも知れないが、今はむしろ何処か陰鬱な空気を孕んでいる海だった。
だが、その陰鬱さが私の性に合っていた。私はこの海も含め、この浜辺が好きだった。
それを拾ったのは、そんな日々を過ごしていた時だった。
その日も浜辺を歩いていると、波の間に何かが流れ着いているのが見えた。魚や動物ではなさそうだったし、空き瓶や空き缶などのゴミでもなさそうだった。
私がそれに興味を持ったのは、偶々に過ぎない。好奇心という物はひょんな所に顔を出すものだ。私は慎重に波間に踏み出し、それを拾い上げた。
それは、確かに人の手だった。恐らくは女のものだ。すんなりとした指と手入れされた爪を持つ、女の右の手首から先。切り口は滑らかで、血などは出ていない。
私は一目でそれに魅せられた。何か、芸術品のようにも見えた。もしもこれを警察に届けたら、この芸術品は無粋な奴らの手で調べられ、ともすれば切り刻まれるかも知れない。そう考えると我慢がならなかった。
私は辺りを見回して誰もいないことを確かめると、その手を懐に隠した。そのまま私は急ぎ足で家へと帰り着いた。
翌朝。何か予感めいたものを感じながら、私は浜辺へと急いだ。波打ち際を丹念に探す。
果たして、波間に目当ての物は流れ着いていた。すらりと細い色白の、腕。肘から手首までの部分だった。私はそれを拾い上げ、そそくさと家に戻った。
昨日拾った手と合わせてみると、ぴったりと付いて離れなくなった。昨日まで手だった物は、すんなりと伸びた肘までの腕となった。これはこれで美しい。見つめていると、指がかすかに動いた気がした。
それからは、毎朝少しずつ流れ着くパーツを拾うのが私の愉しみとなった。肘から肩へ続く二の腕。左手。左の腕。足。脛。太腿。私は大き目の紙袋を持って浜辺へ向かい、パーツを見つけては素早く仕舞って帰途についた。私がそれらを持ち帰る時は、不思議と人通りはなかった。
胸部分を拾って腕を接続した時、私はふと気付いた。肩にある黒子にどうも見覚えがある。一度そうと思えば、腕にも脚にも憶えがあるように感じる。
これは、妻のものではないのか。
かつて連れ添い、また愛した者の身体ではないのか。腹部、下腹部と揃うに連れ、私にはそう思えてならなかった。その答えは、明日出る筈だった。
そして、いよいよ最後のパーツが揃う日がやって来た。私は普段より早く起き、早朝の海へと急いだ。
いつもの浜辺で。朝日を受けてキラキラと輝く波の間に、それはあった。
最後のパーツ、首だ。
打ち寄せる波に長い黒髪をゆらゆらと揺らし、固く目を閉じた女の生首。その顔は、確かに妻のものだった。
私は、それを持ち帰った。
家に戻り、組み立てておいた身体に首を繋げる。他の部分と同じように、首は元あった場所にぴったりと付いて離れなかった。
私はある期待を込めて見守っていた。しばらくすると、固く閉じた瞼がぴくりと動いた。瞼は徐々に開いて行き、その下から美しい瞳が現れた。
妻はゆっくりと起き上がった。
名前を呼んでみたが、妻はきょとんとしている。口から出て来るのは、「あー」とか「うー」とかいう意味を成さない声ばかりだ。外見はいなくなった時の妻のままだが、中身は赤子の頃まで戻っているようだった。
妻は生まれ直したのかも知れない。私は妻に服を着せ、そのまま一緒に暮らし始めた。無論、一人で外に出すことは出来ない。なるべく外出はせず、どうしてもしなければならない時はしっかりと鍵をかけた。
それ以外は私達は常に一緒にいた。朝も、昼も、夜も。妻はいつもニコニコと無邪気に笑い、私にまとわりついていた。風呂も一緒に入ったし、夜も同じ布団で寝た。
やっと妻を取り戻せた、そう思っていた。
そんな日々を送るうち、私は気付いた。妻が時折、窓の外を見ている事を。それは必ず、海からの風が吹いている時だった。
妻は、海へ帰ろうとしているのかも知れない。私は何となく不安になった。海に呼び戻されないように、私は海に面した窓に残らず板を打ち付けた。
それでも、海風の吹く時間になると、妻は海のある方向をじっと見つめていた。妻は依然として言葉を話さず、何を思っているのかは分からなかった。
名前を呼ぶと、妻は私の方を向いてにっこり笑って「あー」と声を発する。この笑顔を失いたくはなかった。
ある夜、ふと目覚めると、妻の姿がなかった。飛び起きて家中を探したが、見当たらない。玄関まで行くと、鍵をかけていた引き戸が開いている。
私は浜辺へと走った。そこにいるに違いなかった。月光が道を煌々と照らす。それで初めて、今夜が満月だと気が付いた。
予想通り、妻はあの浜辺に突っ立っていた。私は妻の名前を叫んだ。妻が振り向く。ぼんやりとした表情をしていた。
私は妻の肩を抱いて、何か声をかけたように思う。
と。
ぱしゃり、と海の方で音がした。
何かがいる。
暗い海の中に、いくつもの影があった。それらは人の姿をしているように見えた。見ている。私達を、見ている。
カエラナイトイケナイ。
私の腕の中で、妻が小さく言った。片言で、人以外の者が人の言葉を真似しているような言葉遣いだった。
聞き返しても、妻は二度と言葉を発する事はなかった。ここにいてはいけない。そう直感した。ここにいると、私は、再び妻を失う。
その時。
海に集まっていた者達が、声を上げた。それは何かの歌声のようにも聞こえた。私は聞こえない振りをして海に背を向け、妻をそこから無理矢理連れ出そうとした。
妻は。
歌っていた。
海の歌声に合わせるように。
嫌だ。妻を連れて行くな。妻は、私と暮らすんだ。
私は必死に妻の体を抱えて家に逃げ帰った。玄関の戸を閉めて鍵をかけると、妻は糸が切れたようにその場に倒れ込み、すうすうと寝息を立て始めた。
今日は妻を取り戻せた。しかし、次はそうは行かないだろう。妻が海へと還るのなら、私はどうすればいい?
アナタモキテ。
誰かが、私の頭の中で囁いた気がした。
ああ。
それしかないのか。
私も共に、彼らの仲間になるしかないのか。
私は、決断しなければならない。
次の満月の夜までに。
◇
……以上は、連続殺人犯A(仮名)の残した手記である。
Aは複数の女性を殺害し、その遺体をバラバラにして遺棄した。遺体はいずれもその一部が欠損しており、殺害現場となった自宅の状況からして、遺体の一部を繋ぎ合わせて一人分の人体を作ろうとしていたものと思われる。
また、Aの妻と思われる首無しの遺体も発見されており、頭部に使われたものとされている。
Aが作成した「人形」は未だ見つかっておらず、警察が捜索している。
そしてA自身は海に身を投げたらしく、自宅近くの浜辺に遺体が流れ着いている。
Aが何時海に入ったのかはわからない。が、Aの遺体は魚にでも食い荒らされていたように損傷が激しかったという。