プロローグ
「死者には影がない」
この世の全ての物質的な存在には、影がある。
人間、犬、テレビ、ゴミ箱、米粒ひとつにも、影はある。
影は、人や動物が生きている間は、大人しく危害を加えるモノでは無い。どこへ行こうが文句を言うことなく付き従って、共に過ごす時間は他の誰よりも長い。
しかし、どういうわけかそれらの命が絶えると、影はその肉体から離れ、ひとりでに動き始めるのだ。
殆どの影は、人畜無害で、死体から離れた後、数時間で自然消滅する。
しかし、稀に、いつまで経っても消滅せず、ゾンビのように生き物の生気を求めて彷徨う影がいた。
その特異な影は、「イレギュラーイーター」通常「IE」と呼ばれ、その全身が闇のように真黒の姿と生き物の命を蹂躙する圧倒的な力で、人々から恐れられた。
「IE」の力は、人間のそれより何倍も強く、拳ひとつで、いとも簡単に地を割ることができた。
刀も、
銃も、
ミサイルも、
核兵器も。
考えつくありとあらゆる攻撃方法が試された。
しかし、どれも意味をなさなかった。
多くの人間が死んだ。
人間だけでなく、犬や猫、鳥、鯨、百獣の王とまで言われるライオンも。
全ての命動くものは。
皆、抵抗出来ずに死んだ。
日本最古の書物『古事記』や、『万葉集』にもそのおぞましい姿は記録されており、人々がどれだけ苦しんできたかがよくわかった。
地球上の、全ての生きとし生けるものが苦しんだ。
毎日、多くの人間、動物が死に、さらにそれらから発生したイーター共がまた人間、動物を殺した。
終わらない負の連鎖の中で。
心中する家族。
地下に逃げる政府要人。
核により汚染された土壌。
破壊し尽くされ荒廃した建物。
さらに、放置された死体による疫病の蔓延。
まさに、生き地獄であった。
しかし、地上から人の気配がしなくなった頃。
勇気ある人々によって『世界護影師団』が設立された。
まさしく「イーター」に対抗するための組織であった。
設立当初は名前だけの組織であったが、研究員の血と涙の必死の研究によって、「イーター」の急所が判明し、同時に殲滅方法が編み出された。
試行錯誤の末、そして、多くの人々の犠牲のもと、「イーター」を一体討伐することに成功した。
一体殺すのに約10年もの月日がかかった。
しかしそれからはまさに流星のようであった。
地上を闊歩する数多の「IE」が討伐され、瞬く間に世界は復興した。
人口は増え、停滞していた文明は花開いた。
全ての国に対IE用の武器が支給されるまでには実に五年以上かかったが、世界にはやっと人々の笑顔が戻った。
呉鳥羽英治は護影師だ。
所属は日本師団、関東県支部。
24歳、独身。
現在時刻は8時35分。
多くの人間が、自宅で思い思いの時間を過ごす中、呉鳥羽は軽い身のこなしで、民家の屋根伝いに夜の東京の街を駆け抜けていく。
本日の任務は、東京、八王子市近辺の巡回。
しかし、今日は、都会の排煙にまみれた夜空に、珍しく無数の星々が輝いてきた。
屋根の上から見る星空は、まるでプラネタリウムのど真ん中にいるような錯覚に陥らせる。
「綺麗」だと、一言では表せないほどの美しさ。
だから、呉鳥羽は油断してしまったのだ。
ふっと、意識を戻せば、顔面に迫る黒い拳。
咄嗟に防御体制を構えるが、遅い。
骨に響くような重苦しい衝撃と共に、呉鳥羽は軽々と吹っ飛ばされた。
空中を何十メートルも漂って、民家に激突。
壁を貫いて、室内にまで到達する。
「…いっ、たぁ…」
うっすらと目を開けると、視界がものすごく歪んでいた。
それで、気づく。
「…あーぁ、僕の命が…。どこだー?…僕の半身」
IEに吹っ飛ばされた衝撃で、着けていた眼鏡が消えたのだ。
呉鳥羽は、視力がこれでもかというくらい弱い。
眼鏡なしだと、たった30センチ先のものも満足に見えないのだ。
瓦礫が散乱した付近を、手探りで探す。
「あ、あった」
指先に冷たい金属の感触が当たった。
それを拾い上げ、装着すると、途端に視界は鮮明になる。
「・・・・民家壊しちゃったなぁ。・・・てかさ、今時、対衝工事してないとかやばくない?」
服についた砂埃やガラス片を払いながら、そう呟いた。
2000年から、全建物の対衝撃工事が義務付けられている。
イーターからの攻撃による建物崩壊や、戦闘時の不慮の損壊を防ぐためである。
というのも、工事が義務づけられるより以前は、イーターが民家を破壊して中にいた人間を殺したり、護影師が戦闘中に悪気なく破壊してしまう事例が相次いだからである。
しかし、対衝撃工事をとりおこなうことで、建物自体がシェルターとなり、容易には壊せなくなった。
にも関わらず、呉鳥羽がぶつかった民家は、まるでウエハースのごとくバリバリに砕け壊れたのだ。
「・・・まぁ、経費で落とせばいっか・・・」
そう呟いて、立ち上がる。
部屋の惨状を一目確認しておこうと振り返った時だった。
「・・・・・・・・・な、っんじゃこりゃあ・・・」
その壊れた民家の異様さに、呉鳥羽は絶句した。