〈ヨシュアとティアラ〉 プロポーズ
夜が更け、しんしんと雪が大地に降り積もり、凍えるような寒さが身に沁みる時分。
ティアラは、とある扉の前でまごまごしていた。
ついさっき、シモンに付き添われたレイネが寮に帰り、色んな気持ちの整理がつかない内に、ファウストからヨシュアと話をするよう告げられたからだ。
ヨシュアと二人きりになるのが気まずいのもあるし、そうするよう言ってきたのが他でもない兄だったのも、どう捉えていいのかわからなかった。
そんな胸の中を、レイネの言葉がちくちくと刺激する。
ヨシュアと別れる覚悟があるのか、と。
「入らないのか」
いつまでも動かない気配に痺れを切らしたのか、先に扉の向こうから声をかけられた。
「入る! ……入ってもいい?」
「どうぞ。だいたい、呼んだのは俺の方だぞ」
ファウスト経由の言い方だと違う風に聞こえたのだが、とにかく、少しも着飾ったところのない素のヨシュアが迎え入れてくれた。
ヨシュアはティアラを椅子に座らせると、手ずから温かいお茶を淹れて差し出してくる。
そして、珍しいことに、真向かいに座った。
いつもなら斜めにずれて座るはずのヨシュアなので、ティアラは嫌な予感しかしなかった。
「シンドリーに帰るの?」
不安げに見上げてくるティアラに、直球でど真ん中を射抜かれたヨシュアはちょっと怯んだ。
「違う。いや、まあ、ちょっとは、そのつもりだったんだけど……」
どぎまぎと言い返してから、流されないできちんと話をしようと頑張って立て直す。
「じゃなくて、誤解を解こうと思って呼んだんだ」
「それなら、レイネが教えてくれた。ヨシュアがうっかりしすぎて、人喰い妖怪に味見されたようなものだから気にするなって」
「……」
「違うの?」
純真な瞳で見つめられ、違うとも、違わないとも答えようがなかった。
「とにかく、何もなかったってことだけ知っててくれればいいから」
なんて、咳払いをしながら返すのが精々だった。
「悪かったな」
謝られて、ティアラは考える。
ヨシュアは謝るようなことをしたのだろうか、と。
確かに、ヨシュアの様子がおかしかったので心配はした。
釣られるように、自分も沈んでいた気がする。
だけど、そんな状態でもヨシュアは側にいてくれて、ウェイデルンセンやオアシスを守ってくれた。
レイネは怒っていたけれど、ティアラはあんまり、そんな気にはならなかった。
「ねえ、さっき、ヨシュアは帰るつもりだったって言ってたけど、本当?」
「ああ、本当だ」
ヨシュアは少しも誤魔化したりしなかった。
こちらの方が、ティアラはよほど胸が痛む。
嫌だとわがままを言いたかった。
別れる覚悟なんて、全然できていなかったのだ。
ヨシュアに初めて会った時、ただ、綺麗な横顔というだけの印象だった。
なにせ、ベールで顔を隠して隣に並び、一言も交わさずに物の数分で別れてしまったのだから。
次に会えた時は人目があって、よく思われたかったのもあったから、姫巫女仕様で控えめに並んで歩いていた。
その後で、思いきって部屋に押しかけた時には大の女嫌いを告白されて、婚約にちっとも乗り気でないのだとあからさまな態度を取られた。
なのに、手を繋いで命からがら一緒に逃げたりしてくれたりもしてくれる、スメラギ・ヨシュアは実に謎な人だった。
ティアラが婚約者の話を聞かされてぼんやりと思い描いたのは、エヴァンに対するファウストのように優しくて、寂しい時には必ず寄り添ってくれるカミみたいに尽くしてくれる人物像だった。
だけど、やってきたヨシュアは丸っきり違っていた。
自分のことで精一杯で、心の底から近寄るなと遠ざけて、本気で女の人に怯えていた。
考えてみれば、あのファウストが普通の婚約者を選んでくるわけがなかったのだ。
それでも、ティアラは毎日が楽しくて仕方なかった。
口でも態度でも迷惑だと示しながらも、いつだって助けてくれて、夜の訪問だって邪険に扱うくせに、取り決めた時間までは絶対に追い出したりしない。
生まれ故郷のシンドリーにだって連れて行ってくれた。
いい思い出がたくさんできた。
それだけで充分だったはずなのに……。
「ヨシュアは叔母様の下で働くの?」
どこか恨みがましい口調に、ヨシュアは困った顔をする。
それが、ティアラには少し腹立たしかった。
ヨシュアの帰省から城に戻った、その日。
ティアラはカミから、レスターと和解したという表現で、よりを戻したことを知らされた。
いつかはと予感がしていたものの、いざ、その時が来たら絶対に拗ねた気持ちになるのだろうと思っていたのに、現実には驚くほど素直に祝福する気持ちしか湧いてこなかった。
そんな自分に、これが大人になるってことなのかもと得意になっていた。
ところが数日後。
ヨシュアがしばらくオアシスに滞在すると聞かされて、その話を持ちかけたのがレスターだと知った時には、信じられないくらいムカついてしまった。
これまでと違ってヨシュアが自身が直接教えてくれたし、ファウストやレスターみたいに後ろめたさを誤魔化すかめの極端な甘やかしだってなかった。
それなのに、ティアラは日に日に苛立ちを募らせてしまい、そんな自分を知られたくなくて頑張って明るく振る舞ってみるのだけど、肝心のヨシュアの前ではちっとも上手くいかなかった。
「言っとくけど、あの時、皇帝神に表明したのは苦し紛れのはったりだからな。まあ、オアシスに興味がないわけじゃないけど」
「そう……」
それきり、ティアラは黙りこくった。
なんてことはない。
ティアラはヨシュアと一緒にいたかっただけで、なのに、レスターみたいに惹きつけるものなんて何もなくて、だから、引き止めるための言葉が見つからないだけだ。
「なあ、ティアラ。どうしてあの時、結婚したいだなんて言ったんだ」
聞かれて、ティアラはちょっと驚いた。
あんな非常時に捻り出したお願いなんて、まともに取り合ってもらえないで終わりだと思っていたから。
ヨシュアは静かに、なんとも不思議な顔つきでティアラの答えを待っていた。
「だって、ヨシュアと別れたくなかったから」
ティアラは迷いながらも正直に答えた。
迷惑に思われても、自分でこの気持ちをなかったことにはしたくなかったから。
「……」
一方、答えてもらったヨシュアは、どう受け取ったらいいのか悩んでいた。
嘘でないことくらいはわかるものの、これでは幼い頃に大狼のカミと結婚すると誓った約束のノリと変わらないようで、どこまで本気にしていいのか困ってしまう。
当人は上目遣いで拗ねたような、いじけたような、それでいてどこか挑むみたいな視線を向けてくる。
そんなティアラから顔を逸らして、ヨシュアは一つの秘密について考える。
ティアラとの別れを決意した夜、ヨシュアには知られたくない秘密が二つあった。
一つは、情けないと自覚しつつも、これで無意味な努力は終わりにしようと自分に見切りをつけてしまった逃げの選択。
もう一つは、やけくそな気の緩みでプラタナ・ソウラに寄り添われて眠ってしまっていた迂闊さ――ではなかった。
本当に知られたくなかったのは、お茶の効能が残っているぼんやりとした頭で意識を取り戻しかけた時、側に誰かがいると感じてティアラの名前を呼んでしまったこと。
相手が違うと気付いた瞬間は何に驚いているのかもわからなかったけれど、後になって、目覚めた時にティアラが側にいてもおかしくないと無意識に認めていた自分に思い至った時が一番の衝撃だった。
それと同時に、誰かに気を許してしまえばしまうほど油断が生まれて、本当に大切になった時には誰も守れなくなってしまう気がして怖かった。
女嫌いで、寄り添って慰めてやる包容力を持たないヨシュアがしてやれるのは、精々、身を挺して守ってやることくらいしかないのだから――と、そこまで突き詰めて考えた時、ある驚愕の結論が導かれたので困惑してしまった。
そこには確かに、ティアラを好意的に見ているヨシュアが存在していたのだ。
「ティアラ」
自覚してしまえば、何度も呼んでいた名前さえ妙な緊張を孕むようだ。
「俺は、父や兄と違って不器用だから、極端な女嫌いを完全に克服するのは一生無理だと思うし、心のどこかで克服なんてしなくてもいいって考えてる。好きでこんな風に捻くれて育ったわけじゃないけど、だからこそ得てきたものだってあるから」
ろくに眠れないほど研ぎ澄まされた危険に対する敏感さや、面倒な性格だと理解しながらも付き合ってくれている二人の友人。
辛い報いが多かったから逃げ出してきたくせに、同じくらい救われる幸いもあったのだ。
「だからって、こうなりたいって強く言えるものがあるわけじゃなくて、ファウスト王にティアラを置いていけって言われた時も、反論しないで従おうともした」
ここまで言ってティアラの反応を見てみると、今にも泣き出しそうに見えたから、ヨシュアは笑いたくなった。
「ティアラの言った通り、俺は少しも優しくないし、これからだって優しくしてやれる自信なんかない。今は俺しかいないように思えているかもしれないけど、ティアラならもっと普通に優しくて頼り甲斐のある相手はいくらでも見つかる。まあ、あの兄王を認めさせるのは大変かもしれないけど、可能性はいくらだってあるんだ」
今度もティアラは、全然、納得していない顔で唇を尖らせて不満をあらわにしている。
ヨシュアは苦笑しながら、でもな、と続けた。
「でもな、俺がもし、誰かと一緒にいようと思うなら、それはティアラしかいないんだろうなって気がしてる。アベルやエルマに散々言われたけど、俺は自分でも嫌になるくらい面倒な性格だから、それに付き合ってくれる女の子なんてティアラくらいなんだろうって思う」
言って、これじゃあ、ずるい気がして修正を入れる。
「俺にだって、どこか他に合う人がいるのかもしれない。だとしても、最初に縁あって、手を取ってくれたティアラがいいと思ったんだ。だから、いつか結婚するなら相手はティアラしか考えられないし、そうじゃないなら一生結婚はしない。本当に今更だけど、本気で前向きにティアラとの結婚を考てもいいか?」
「私だって、ヨシュアがいいに決まってる!」
ヨシュアにはかなり勇気のいった告白の返事は、息を飲む暇もないほど勢いよく返された。
「どこかに誰かがいるのかもしれないけど、私はヨシュアを選びたい。他の誰かがいたって、ヨシュアがいなくちゃ楽しくないから。だから、私もヨシュアがいい」
ティアラはびっくりするくらい前のめりでヨシュアを受け入れてくれた。
「うん、ありがとう」
小さく頷いたヨシュアは、これまでどんな女の子に好意を寄せられても嬉しいと感じたことはなかったのに、今は胸がいっぱいになるくらい嬉しかった。
きっとまだ、どちらも真実には結婚の意味を理解してはいないのだろうけど、二人一緒なら大丈夫だと思える自分がおかしくて、なのに少しも悪い気がしないのもまたおかしかった。