〈神の采配〉 何があったか
* * *
「ねえ、ティアラは何か知ってるの。ヨシュアが、あんなに外面を悪化させてる理由」
ヨシュアだけでなく、ティアラまで、いつもと違う元気のなさを見てとったレイネは、二人きりの部屋でてきぱきとお茶の用意をしながら聞いていた。
「ううん、私にもわからない。でも……」
「でも?」
「見ちゃったから」
何を? と問われて、ティアラは昨夜から何度も繰り返している場面を一から思い返してみた。
* * *
「ティアラ、ティアラ」
低く優しい声に呼ばれて目を覚ましたティアラは、そこにいる人物を見て夢の中だと気付いた。
「寝ちゃったんだ」
明日のパレードについてファウストから再度呼び出されるまでの間、部屋でぼんやりしている内に眠りに落ちてしまったらしい。
「カミ、どうかしたの?」
青々とした草原で寝そべっているティアラを覗き込む不思議な色合いの瞳に、今日は何か気がかりでもありそうな憂いが浮かんで見える。
「ああ、少しな。ヨシュアは、どうしている?」
「部屋で、ファウストに呼ばれるのを待ってるはずだけど」
「……そうか」
「何かあったの?」
「夢に入ろうとしたら、閉じられていた」
それは、嫌な知らせだった。
肉体的疲労や病気でもなければ、通常、夢が閉じられるという例はない。
レスターみたいに自らの意思で行うなど、相当な精神的拒絶をしなければ叶うものではなく、だとすれば、自然でない眠り方をしたのだろうと考える他ない。
具体的な例を挙げるなら、薬の使用や気絶などで、どれも穏やかとは言えないものばかりだ。
「様子を見てくる!」
「一人で行くなよ」
慌てて追いかけた忠告の言葉は、あまりティアラの耳に入っていなかった。
なにせ、目が覚めるなり、すぐさま部屋を飛び出すほど気が急いていたのだから。
廊下に出ると、通路の端に立っている護衛官の灯りがゆらりと揺れている。
まるで何事も起きていないみたいに静かな夜だ。
それで、少しだけ冷静になったティアラは、騒ぎにならないよう忍び足で隣室に向かった。
ヨシュアの部屋の前に立ったティアラは、手のひらで撫でるように扉を叩く。
人の気配に狼並みに敏感なヨシュアには、ノックさえもいらないくらいだ。
なのに、しばらくたっても何も反応がなかった。
途端に、引っ込んでいた不安が再び背中を這い上がる。
もし、慣れない緊張に疲れきって寝入っていただけだったら、騒いで起こせば絶対に怒り出すのは間違いない。
それに、ここはウェイデルンセンでもない。
ティアラの特別な加護は、この場所では通用しない。
それでも、このまま確認しないでいるのも難しいので、いくらか躊躇った後、慎重にそうっと扉に手をかけた。
鍵はかかっていなかった。
しんと静まりかえった薄暗い部屋の中、ティアラはささやくように婚約者の名前を呼ぶ。
何事もなければ、勝手に入るなと怒られるだけで、何かあるよりは、その方がずっとよかった。
かすかに誰かが身じろぎをする気配がして、ほっとしたティアラは取っ手から手を離して、物影の寝台に目を向ける。
夜目の利くティアラは、これくらいの暗さなどものともしない。
「ヨシュア」
もう一度呼びかけて、一歩を踏み出して、雪雲の切れ間から差し込んだ月明かりが浮かび上がらせたのは、ヨシュアではない輪郭だった。
「姫巫女様」
と、呼ばれ、最初に思ったのは部屋を間違えたという恥ずかしさだった。
けれど、そこにいる少女が優しく目を向けた先をつられて追った時は、何を思えばいいのかわからなかった。
何もわからなくて、真っ暗で、ただ一つ、ここにいてはいけないという心の確信に従って部屋を出た。
* * *
「……それって、誰の話?」
答えは聞いてみるまでもなく、もちろんヨシュアに決まっている。
ヨシュアの様子がおかしいと気付いて指摘したのはレイネであり、ティアラに何か心当たりはないかと質問したのもレイネなのだから。
それなのに、どうしても確認しないではいられなかったのだ。
昨夜、ティアラが嫌な予感に突き動かされて部屋に様子を見に行ったら、女の子と手を繋いで、ぐっすりと眠りこけていたヨシュアがいたと言う。
どこを切り取っても、ありえなさしか存在していない。
「もしかしたら、具合が悪いヨシュアを看病してくれてただけかもなんだけど……」
レイネが真実のありかを探して、じっとティアラを見つめていたら、もごもごと言い訳とも知れない解釈をつぶやいて尻切れとんぼになる。
「あのね、そんなわけないでしょ。そもそも、ヨシュアが本当に具合の悪い時に、女の子と二人きりなんかになるわけがないんだから」
どきっぱりと否定されたティアラは、必要以上にしゅんとした。
「それより、ティアラ。ティアラは、どうして怒らないの。これって浮気よ。たとえ、何か事情があったにせよ、そういう状況に陥ったまぬけさに怒り狂って責め立てる権利がティアラにはあるのよ」
穏健な王族の家庭で育ったお姫様なので、お節介焼きなレイネは、こういう場合の気持ちの対処方を知らないのではないかと心配していた。
しかし、しょんぼり風情のティアラは上目遣いに見返しながら、小さく首を振って違うと言い訳した。
「私……とヨシュアは、普通の婚約関係とは違うから」
「知ってるわ。事情があったからで、お互いに好んでしたわけじゃないのでしょう。でも、だから何? それでも、あの女嫌いのヨシュアが、今日までそれを許していたのよ」
ティアラは無言で俯いた。
そんな萎れたティアラを前に、レイネは、もっと自信を持っていいんだと伝えようとして、しかし、一呼吸の間に気を変えた。
いくら、長年ヨシュアを見てきたレイネに映るものがあったとしても、それが本当にティアラの支えになるとは思えなかったし、断ち切った初恋相手に、そこまで世話を焼くのが馬鹿らしくなったからでもあった。
「じゃあ――」
と、別の言葉を紡ぎだしたのは、へたれな元想い人のためなんかでなく、友人になった愛らしいお姫様のためだった。
「じゃあ、ティアラはヨシュアと別れる覚悟はあるの?」
今度もティアラの返事はなかった。
けれど、顔を上げさせることには成功した。
「どうなの、ティアラ」
「それは、だって、最初から、いつかは別れる前提の話だったから」
「だったら、外面のヨシュアだけ見てればいいのよ」
レイネが冷たく言い放った言葉に、ティアラは表情を強張らせた。
「相手がヨシュアじゃなければ、気まぐれで干渉してもいいけど、ヨシュア相手に半端な手出しはやめて」
口にしてしまうと、レイネはどこかで少し怒っている本音に気付いてしまった。
「わからず屋で鈍感なヨシュアだけど、ティアラには正直に女嫌いを告白して、少しずつであっても誠実に接してきたはずよ。それなのに、こんな時になって、ティアラは自分が可愛くて、なんにもする気がないのね」
自分の言葉に衝撃を受けているお姫様を見ていると、レイネは極悪非道ないじめっこになった気分になってくる。
決して、そんなつもりで残ったわけではなかったのに。
「ごめん。ちょっと頭を冷やしてくるわ。ティアラはここにいて」
レイネが告げると、ティアラは捨てられたにゃんこみたいに、潤んだ瞳で声にならない何かを訴えてくる。
レイネは、ほとほと、自分が嫌になった。
この愛くるしいティアラと毎日一緒にいて、ヨシュアはどう感じていたのだろうとか考えてしまう自分の思考に。
「心配しないで、帰ったりしないから。ただ、ちょっと廊下に出るだけ。あ、でも、その前に一つだけ……」
レイネは念のため、とある確認をしてから部屋を出ていった。




