〈王の審判〉 怯える少年
* * *
「えーと、明日は面会のための予備講座だっけ」
この頃のヨシュアは、部屋で独り言をつぶやくようになっていた。
そうでもしないと、外面ばかりで本音を吐き出す場所がなくなりそうだからだ。
靴を放り出してベッドに飛び込む。
家を出るのが最大の目的なので、他は何も期待していなかったのだが、ベッドの心地だけは儲け物だと思っていた。
レナルトと再会する機会には、どこ商会の製品なのか教えてあげようと考えているくらいだ。
「ヘルマンの奴、また、あの物真似するのかな。……まじで勘弁してほしい」
「同感です」
枕に顔をうずめながらのぼやきに、ありえない賛同が返ってきた。
「は!?」
慌てて顔を上げれば、ランプに照らされて立っている人物が見えた。
声も輪郭も女だと示している。
ヨシュアは思わず悲鳴をあげるところだった。
「あの、騒がないでください。ティアラです」
これまたとんでもない返答だったが、控えめな口調と、壁際から少しも近づいてこない様子で、なんとか自分を取り戻せた。
「色々言いたいことはあるのですが、とりあえず確認をさせてください。俺の話、どこまで聞いているのですか」
「何も。知っているのは創られた設定だけです」
やはりと思う。
「だから、お話がしたくてお邪魔させてもらいました。昼間は楽しかったですし、また、お話したいとおっしゃってくれましたので」
ヨシュアは頭痛がした。
これだから女は恐ろしいし、油断がならない。
社交辞令さえ通じないのだから。
「この際だからはっきり言いますが、俺は女が嫌いなんです。だから、あなたの婚約者に選ばれました。なので、これ以上近寄らないでください」
「それは……」
苦手ではなく嫌い。
こう告げると、たいていの女は笑うかどん引く。
でなければ……
「男の人が好きなのですか?」
と、くる。
「違います。男はあくまで友情の対象です。そうじゃなくて、女性全般が気持ち悪いんです。外ではなんとか我慢できますが、私室に入られるのはきつい。第一、どうやって部屋に入ったんですか」
夫婦になるのだからと合鍵を持たされているなら、即座に返還を要求しなければならない。
「秘密の通路から」
「は?」
「ファウ……兄も知らない通路がありまして、そこを通ってきました。そうでもしないと、ゆっくりお話もできないと思いまして」
申し訳なさそうな態度を見せてはいるが、さっきから、ぺらぺらとよくしゃべってくれる。
昼間のしずしずキャラは完全に作り物だと判明した。
「話なら、昼間にいくらでもできたでしょう」
「あの、気付きませんでしたか? 昼間は、後ろからも横からもぞろぞろと覗かれていたのを」
ヨシュアは沈黙した。
当然、気付いてはいた。
いたけれど、目の前のティアラは何も言わずに覗かせていたのだ。
おそらく、覗きの筆頭はシモンのはずだ。
「あなたの幼馴染みでしょう。どうにかしようとは思わなかったのですか」
「申し訳ありません。シモンに悪気は無いものですから。それに、内緒にするつもりでいるのも本当なのです。ただ、おもてなし精神が旺盛で、聞かれれば精一杯の全力で応えてしまうのはヨシュア様もご存知でしょう」
あれはおもてなし精神なのかと初めて知った。
知らなくても構わない情報だったが。
「ちなみに、兄はシモンに口外禁止を厳命するくらいなら、最初から黙っていると決めているみたいです」
それも、全くどうでもいい情報だった。
「とにかく、そちらの事情はなんでもいいので、今すぐ部屋から出て行ってください」
さっきから、少しでも距離が縮まれば吐いてしまいそうな胸焼けで気分が悪い。
「わかりました、今日は帰ります。ですが、一つだけ。本当は、真っ先に謝りたかったのです。リチャルド様との結婚は少しも望みませんが、その為にあなたを巻き込んでしまったことを。ヨシュア様が望んでいるならまだしも、そのご様子では……兄に利用されたに過ぎないようですし」
ティアラは申し訳なさそうにうなだれていた。
薄暗い部屋の中、髪に隠れてティアラの表情は見えない。
もとから見える表情などなかったが、完全に見えない方が感情が伝わってくる気がした。
少なくとも、謝りたいという気持ちは受け入れてもいいと思えた。
少しも近付いてこないところが、話せば通じる相手だと認識させられたから。
「謝罪は受け入れます。ですが、これは俺にも利点があったので引き受けた話です。そこまで、あなたが気にしないでください。これ以上近付かないでくれるのなら、好きにしてくれて構いません。ただ、勝手に私室に入られるのは困ります。もう絶対、二度とこんな真似はしないでください」
「はい、ごめんなさい」
ティアラはしおらしく頭を下げた。
「では、次からは訪ねる前に必ず声をかけます」
「は?」
いやいやいや、ちょっと待て!
それは違うだろう!!
と、苦情を入れる前に、ティアラはするりと姿を消してしまった。
「なんなんだ、あの女は」
あまりのことに、今頃になって身震いしてしまう。
寒くなったので頭から布団に包まったが、安眠など到底できるものではなかった。
* * *
「おはようございます。今日は午後からヘルマンの予習復習講座ですよ」
天然で笑顔を振りまくシモンが、ヨシュアは眩しくてしょうがなかった。
声をかけられる前に起きてはいたが、見るからにぐったりしているのは隠しきれなかった。
「大丈夫? あ、もしかして、昨日ティアラと会って興奮しちゃったとか。ダメですよ、そういうのは結婚するまで我慢しないと。生粋の箱入りお姫様ですからね」
指摘された元凶は合っていたが、理由はまるっきり間違っている。
昨夜の、お姫様・突撃お部屋訪問! のおかげで、神経質なヨシュアはろくに眠れなかったのだ。
そんな状況で始まった一日は、何もかもにイライラさせられてしょうがなかった。
忙しいくせにわざわざ講座見学に現れたファウスト王に敵意むき出しのオーラを向けられ、妹にどういう教育をしているんだと言い返してやりたい気持ちを根性で抑え込まなければならず、昼からは元凶のティアラと二人きりにされるが、前回と同じく野次馬のわかりやすい覗き見にさらされて余計に神経をすり減らした上に、元凶が目の前にいながらも晴らせない鬱憤がむくむくと膨らんで大変な気苦労だった。
「はあ、思ったより疲れるな」
部屋で一人になったヨシュアは、深いため息と共にようやく素を解放した。
さすがに、私室以外の全てを外面で過ごすのは辛い。
「でも、まあ、明日が峠だからな」
油ギッシュ対策が済めば、疲れたからとしばらく引きこもるつもりでいる。
外聞が悪くても、あの妹バカの王様なら喜んで閉じ込めてくれるだろう。
ベッドに寝転がってぼんやりしていたら、廊下で動く気配がした。
耳を澄ますと、こちらにやって来る存在を確信する。
歩き方でシモンでないのは判断を下せた。
今日はまだ、外面を外せそうにないらしい。
予定にない訪問者は部屋の前でぴたりと止まり、規則正しいノック音を響かせた。
「夜分に申し訳ありません。明日の警護に関することで、いくつか確認をお願いいたします」
ヨシュアは眉間にしわを寄せる。
声が女だからだ。
周囲の誰一人として、ヨシュアが女嫌いだと把握していないらしい。
明日の務めが終わったら、ファウストの認識を確認する必要があるかもしれない。
ため息がもれないよう心を落ち着けてからドアを開いた。
「はじめまして。明日の警護を任されているリラと申します」
その人は護衛官の制服を身につけていた。
背が高く、立ち姿に隙がない。
それでも、一つにくくった明るい髪と細面の柔らかい線が女である主張を惜しんでいなかった。
「若い方なんですね」
責任者という割りに、少し年上くらいにしか見えない。
「頼りないですか? これでも、見習いから数えれば十年は勤めているのですよ」
ヨシュアはちらりと刀に目を向ける。
任務中とはいえ、王族の私室区域に帯刀を許されているのなら、実績と信頼があるのだろう。
これでも、仕事に関して男女の偏見はなかった。
「王がお任せしているのなら構いません。用件をお願いします」
では、とリラは説明を始めた。
薄暗い通路での会話なので、自然と距離が近くなる。
平静にしていられるのは相手が警護官だからだろう。
芯の通った背筋、無駄のない口調、仕事でしかない雰囲気に余計な警戒は必要なかった。
「わかりました。ご苦労様です。明日は、よろしくお願いします」
挨拶をしてヨシュアがドアを閉めるほんの寸前、頑丈なブーツが隙間に入り込んできた。
ぎょっとして顔を上げると、一変したリラが間近で微笑んでいた。
「仕事は終わりました。ですから、明日なんて言わずに、今からよろしくしませんか」
リラが首を傾げると、束ねられた髪がさらりと揺れる。
瞬間、ヨシュアの全身の産毛が逆立ち悪寒が走った。
即座に逃げようとするが、相手が悪かった。
ヨシュアが足を押しやり、ドアを閉めきるより早く、リラが押し込み閉じ込めた。
「ふふふ、可愛い顔でラッキー」
楽しそうに舌舐めずりするリラに、後ろ手で鍵をかけられてしまう。
ヨシュアは逃げようにも、抵抗しようにも、全身の力が入らなかった。
それどころか、押し込められた衝撃のまま立ち上がれずにいる。
「大丈夫、恐いことなんてしないから」
自ら制服のボタンを外しながら、リラがゆっくりと歩み寄ってきた。
「いいこと、しましょ」
腰の抜けてるヨシュアに跨ると、リラは顔を近付けて口づけを迫る。
残り僅かな鼻先、リラが目を閉じようとしたその瞬間に異変は始まった。
「え?」
甲高い、聞いただけで不安を煽るような悲鳴が遠くまで響く。
それによって一番に駆けつけたのは、秘密の通路から現れたティアラだった。
「どうしたの!?」
「えっと……」
困っていたのはリラだ。
馬乗り状態のリラの前で、ヨシュアが耳を塞いで目茶苦茶な悲鳴を上げている。
「何をしたの」
「あー、言っときますけど、王の指示ですからね」
リラが両手を挙げて言い訳をした。
それ以上の追求をティアラはしなかった。
ヨシュアは未だに悲鳴を上げ続けていたからだ。
叱られた子どものようにぎゅっと丸まって、短い呼吸を挟んで奇声に近い叫びが止まらない。
聞いている方が辛くなってくるほどだ。
ティアラは、まずリラを引き離しにかかった。
「ヨシュア様、ヨシュア様!」
離れて呼びかけてみるが、一切返事がない。
「ヨシュア、聞いて! もう嫌なことは何もないから。落ち着いて、ヨシュア!!」
大声で精一杯言い聞かせてみたけれど、やはり応答はなかった。
「何事ですか!?」
ここでシモンとヘルマン、そして王であり兄であるファウストが駆けつけた。
ファウストは、ヨシュアの部屋に愛しのティアラがいたことに驚いたが、それ以上にヨシュアの様子に目を見開いた。
「リラ、何があった」
「あなたの言いつけ通りに行動しただけです」
「私は、噛みつけと言った覚えはないぞ」
ファウストは軽く誘って反応を見てくれと頼んだだけだった。
リラを信頼して任せたのだが、うっかり命でも狙ったのかと疑いたくなる怯えようだ。
「お兄様、話は後です。私達は出るので、彼をお願いします」
ティアラは切羽詰まった表情でリラをつれて出て行った。
それを見て、即座に対応できたのはヘルマンだった。
「ヨシュア殿、私はヘルマンです。わかりますか」
叫び狂うヨシュアの前に屈み込むと、腕を掴んで強引に視線を合わせた。
「もう大丈夫です。この部屋に女性はいません。私は男です。ヨシュア殿、安心していいんですよ」
徐々に悲鳴が治まり、浅い呼吸が落ち着いてくると開ききった瞳孔がヘルマンに定まった。
「わかりますね」
穏やかな口調で呼びかければ、小さく頷く反応があった。
「とりあえず、大丈夫でしょう」
ヘルマンは振り返り、呆然としているファウストとシモンに声をかける。
「そのようだな」
部屋が安堵した空気に包まれた。
「ヨシュア殿、立てますか?」
「はい、ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした」
手を差し出したヘルマンは、すでに自分を取り戻しているヨシュアの様子に驚いた。
「初めてではないですから」
ヨシュアは無表情で返答し、ファウストに向き直った。
「ファウスト王、お聞きになっている報告が作り話でないのは、これで確認できましたでしょう。でしたら、今後、二度と、こういうおふざけはおやめください。」
「わ、わかった。いや、本当にすまなかった」
「信じていただけないのは、よくあることですから。理解していただけたなら構いません。もう、休ませていただいてもよろしいでしょうか」
「ああ、もちろんだ。ゆっくり休んでくれ」
ぎこちなく動揺している王とシモンが出て行くのを眺めていると、最後に続いたヘルマンが痛ましげな視線と共に深く頭を下げてきた。
それらを見送ってから、ヨシュアは震える手でドアに鍵をかける。
ため息と一緒にせり上がってきた吐き気をどうにか押し込めて、力なくベッドに座った。
寒いので毛布を体に巻きつけてみるけど、震えは一向に止まらなかった。
ヨシュアの女嫌いを疑われていたのだ。
そんなところだろうと推察していたが、まさか家を出てもこんな目に遭うとは思わなかった。
恐い、恐い、恐い。
どれだけ淡々と自分に言い聞かせても、この恐怖は乗り越えられるものではなかった。