〈魔王の微笑み・貴公子の寵愛〉 波乱の幕開け
* * *
「まあ、さすがはヨシュア様だわ」
きゃっきゃっと弾む声に囲まれて、装甲を厚くしたはずのヨシュアの鉄壁外面がひくひくと限界を示していた。
目前の令嬢から視線を外してみても、辺り一面に映るのは色鮮やかなドレスの海だ。
こうなったきっかけなら、はっきりしている。
父、ロルフが母親のセレスティアを伴って現れたからだ。
両親の近くにいるだけで気力を消耗してしまうヨシュアは、ティアラ達と挨拶をしている間にさり気なく離れて一人になった。
アベルと食べ物でも調達してこようと考えていたのだが、さほど進まぬ内にどこぞのご令嬢に捕まり、そのまま次から次へとご令嬢やご婦人ばかりがひっきりなしに挨拶をしてきて逃げようがなかった。
「エルマはまだなのか。ティアラでもシモンでも、なんだったらリラさんでもいいから俺を連れ出してくれよ」
優雅に飲み物を口にする素振りをしながら、グラスに愚痴をつぶやくしかできないヨシュアである。
ティアラと一緒にいる間はよかったが、離れた途端に逆効果となり、どんな関係なのかと遠回しに探られるばかりでうんざりしていた。
自分の立てた作戦を悔やんでいると、不意にレイネの言葉が思い浮かぶ。
「これが自業自得……?」
いやいやいや、と首をぷるぷる振り、目の前のご婦人を追い払うべく愛想笑いを強化した。
「ヨシュア、こんな所にいたのか」
場所を取る膨らみたっぷりの鮮やかな布の群れをかき分けてやってきた待望の救世主は、こんな時でもヨシュアを複雑な気分にしてくれるようだ。
「ずいぶん、人気者だな」
やってきたのは、軽く微笑んだだけで黄色い歓声を沸かせる兄のミカルだった。
「誰かが呼んでいるのですか?」
そうだと言ってくれ、という願望を込めて爽やかに声をかける。
「ああ、リリーが演奏を始める。特等席で聞いてほしいそうだ」
「では、参らないわけにはいきませんね。ご婦人方、そういうわけですので、私は失礼させていただきます。よろしければ、皆様もご清聴ください」
兄ではなくリーデルリディアに救われたと知り、素直に感謝するヨシュアだった。
* * *
ヨシュアに似ているところがロルフにあるだろうかと真剣に探していたティアラは、いつの間にか姿を消してしまったヨシュアにがっかりしていた。
せめて、後で庭を案内するという約束を忘れていないといいのに、と淡い期待だけを残して。
「ごめんなさいね。きっと、私がいるから席を外したのだと思うわ」
余所見をしていたティアラに話しかけてきたのは、ヨシュアの母のセレスティアだ。
誰よりも素朴な装いで、ヨシュアともミカルとも印象は重ならない気がする。
「本当にヨシュアを祝うつもりなら、私が欠席をするべきなのでしょうけど、お客様の手前、そうもいかなくて。ウェイデルンセンでは、伸び伸び暮らしていると聞いているわ。きっと、あなたのおかげね。これからも仲よくしてあげてね」
優雅でも可憐でもなく、素直で柔和な微笑みに、ティアラは束の間、ここが華やかな広間だということを忘れてしまった。
そして、この人は紛れもなくヨシュアのお母さんなのだと肌で感じられた。
「あの……」
自分が知っているヨシュアを教えてあげたいと口を開き、言葉を探しているうちに横から声をかけられる。
「こんばんは、ごきげんよう」
ミカルの婚約者、リーデルリディアだ。
もうすぐ演奏を始めるからと知らせにきてくれたのだ。
「婚約者に使いを頼んで、我が家の長男はどうしているんだ」
ロルフの質問に、リーデルリディアは笑って答えた。
「可愛い弟君をお迎えに行っていますよ」
「なるほど、仲のよい兄弟だな。では、私達は先にピアノの前で待つとするか」
ティアラもスメラギ夫妻に続こうとスカートの裾を手繰り寄せていると、近くで甘い香りがした。
顔を上げると、すぐ側にリーデルリディアが立っている。
「あなたは大切なお客様だから、少しだけ協力してあげる」
きょとんとするティアラに、リーデルリディアはいくらかの耳打ちをして離れて行った。
* * *
「お前がヨシュアだな」
涼しい夜風が心地よい庭を歩いていたヨシュアとティアラは、なぜだか妙な輩に絡まれてしまっていた。
「女子嫌いと聞いていたのに、二人きりで仲よくお散歩とは驚きだ」
「失礼ですが、どなたでしょうか」
「もちろん教えてやるさ。俺はな、お前が散々弄んでくれた可愛いシャルロットの兄だ」
ヨシュアは目の前に立ちはだかる巨漢の青年と、その後ろから顔だけ覗かせている、か細い女の子を見比べる。
兄と名乗る青年に面識はないが、妹の方は同級生であり、家は宝石商だったはずだ。
なんにせよ、弄んだ記憶など欠片もないのは間違いない。
「おそらく、勘違いだと思いますが」
いかにも困ったという風情を醸して、ヨシュアは社交的に揉め事を回避しようと試みていた。
一体、どこでこうなったのか、ため息がこぼれそうになる。
流れの始まりを思い起こすのなら、人の悪い兄の、よくできた婚約者であるリーデルリディア嬢の演奏開始まで遡るべきだろう。
趣味のピアノを披露すべく、リーデルリディアは大広間で暖かい拍手に笑顔で応えて椅子に座った辺りから流れができた気がする。
手始めに誕生祝いの定番曲を軽快に弾いた後は、可憐な見た目からは想像もできない重厚で情緒ある演奏を聞かせてくれた。
物語でも語り聞かせているかのような演奏は、芸術を人付き合いを円滑にするための知識としか考えていないヨシュアにも飽きずに聞いていられるものだった。
煌々と明るく賑わう大広間から、淡い月明かりの下にひっそりと移動したのは、この後のこと。
次の曲目が始まった頃を見計らって、隣に並んでいたティアラが手を引いて席を外させたのだ。
「おい、途中で抜けるなんて失礼だろ。数曲くらい、大人しくしてられないのか」
広間を出てからヨシュアが注意すると、ややふくれっ面をしてティアラが反論した。
「リーデルリディアさんに頼まれたの。三曲目が始まったら、ヨシュアを会場から連れ出してあげてって」
「え、あの人が?」
「疲れているだろうから、息抜きをさせてあげてって。それに……」
「それに?」
「ううん、なんでもない。とにかく、私が大人しくできないわけじゃないんだから」
「はいはい、わかりました」
というわけで、失礼に当たらないならヨシュア自身が誰よりも抜け出す機会を望んでいたので、一も二もなく乗っかった。
久々に好奇心をむき出しの不躾な視線にさらされ、意識して力を入れていた体を冷ますつもりで、ひんやりとしているだろう庭をヨシュアは目指した。
その理由の端っこに、ティアラと交わした口約束を含みながら。
そんな直後だった。
唐突に、覚えのない難癖を吹っかけられたのは。
「お前の正体は知れてるんだ。今更、いい子ぶってんじゃねえぞ」
いきなり現れ、面識もない青年が好き勝手に非難してくれる。
不審者に言われ放題のヨシュアは、完璧な外面でいるのが馬鹿らしくなっていた。
「じゃあ、こっちも言わせてもらうけど、あんたの妹をまともに相手にした覚えなんてないんだけど」
たいした用もないのに話しかけくるので辛辣な十倍返しで泣かせて恨まれたりしたこともないくらい、問題のシャルロットは遠巻きな同級生でしかなかった。
「ど、どんな女の子にもきついから、そういう人なんだって諦めてたのに、なんでその子だけ特別なの? ずるいじゃない。私、私は……」
大きなお兄ちゃんに隠れながらも、やっと自分で口を開いたかと思えば、見事に手前勝手な理屈を並べて瞳を潤ませている。
「俺が誰と仲よくしようと、君にどうこう言われる筋合いはない」
迷惑そうに答えれば、仕舞いには泣き出してしまった。
「なんなんだよ」
「それはこっちのセリフだ。よくも俺の目の前で妹を泣かせてくれたな」
妹が妹なら、兄も兄だった。
「まともに聞く耳があればわかるはずだろ。俺はこの子に何もしていない」
「そっちこそ理解力が足りないんじゃないのか。だからこそ、悪いって言ってるんだ。俺の世界一の妹がお前を好いてやってるっていうのに涼しい顔をしやがって、この野郎!!」
「うわっ、マジか?!」
理不尽な理屈を振りかざして、青年は長く重たげな棒を振り回して襲いかかってきた。
ヨシュアは、とっさに脇差しを鞘ごと引き抜いて対抗する。
巨漢のお兄ちゃんの攻撃は感情的になっているので、単調な上に大振りなせいで避けるくらいはわけないが、力任せの勢いがあってヨシュアの方がやや押されていた。
「オラオラオラ、少しは反撃してみろ!」
ヨシュアは冷静に応戦しながら、陶酔しきっている青年に対し、どこの家庭の兄も妹至上主義なのかと不思議でならなかった。
ともかく、背後のティアラを気にかけながら、時間さえ稼げればリラが加勢してくるだろうと考えて、この場を凌ぐことに専念した。
何度か押し引きを繰り返していると、ヨシュアは目の前で激昂しているお兄ちゃんより、周囲の不穏さが気になってきた。
最初は客人が野次馬根性で見学しているのかと思ったが、どうにも、一般人とは考にくかった。
なぜなら、大多数が屋敷の中でなく、庭の暗闇から密かに様子を窺っているのだから。
「本当は何が目的なんだ」
ひときわ低い金属音が響き渡り、ギリギリと互いの武器が交差する。
そのまま力のせめぎ合いで近づいたところで、ヨシュアは低い声で問いかけた。
さっきまでとは違う鋭さに、体の大きなお兄ちゃんは優勢であるにも関わらず眉をひそめる。
「俺の目的は、さっき言った通りだ。ただ、他の理由でお前に用事があるっていう奴らがいたから、連れてきてやっただけだ」
「他の理由?」
同級生の保護者達が娘の恨みを晴らすために共闘でもしているのかと考えてみるが、潜んでいる見物人達のほとんどが堅気の気配でないのでありえなかった。
一瞬のうちに様々な可能性を巡らせても、しばらくシンドリーを離れていた身でピンと思い当たる何かはなかった。
最近発生した貴族の内紛や商会関係の揉め事ならば、今のヨシュアに知るすべはない。
家と縁を切るつもりでいたので、情報収集を怠っていたのを、今更ながらに悔やんだ。
苦悩の色を見せるヨシュアに、力任せのお兄ちゃんは機嫌をよくして、更に苦しませようと口を開いた。
「全員は知らないが、一人は脅迫してやろうとしたら、アジトを叩かれた上に説教をされたと言っていたぞ」
今度は楽に見当がついた。
脅迫だというのなら、シンドリー国王の後継者問題で貴族間の争いに巻き込まれていた頃のどれかだろう。
結論として、いつも通りの巻き込まれ型逆恨み難に違いなかった。
「他にはそうだな、誘拐の邪魔をされたとか言ってる奴もいたな」
ヨシュアのしかめ面を追い込んでいると勘違いした青年は、畳みかけるつもりで知っている情報を考えなしにしゃべっていた。
調子に乗りすぎた、それが青年の運の尽きだった。
ちょっと、場面が飛び飛びで申し訳ないです(;-ω-)ノ