〈子羊の反逆〉 効果は後ほど
「っな!!」
突然の行動についていけず、ヨシュアは目を見開いて見上げるしかなかった。
ハッとして下がろうとした時には、すでに冷たいものを全身に浴びていた。
「臭っ」
思わず声を上げるのと同時に、カミが口に含んでいた酒を吹きかけてきたのだと理解する。
アルコールの匂いに、ほのかな獣臭さが混ざって最悪だった。
「大丈夫?!」
慌てて駆け寄るティアラに少しも被害が及んでいないと気付いて、でかい図体の器用さが憎らしくなる。
「カミ、酷いじゃない!!」
「どこがだ。少し早い、誕生祝いをしてやっただけじゃないか」
ティアラの抗議も、なんのそのだ。
これのどこが祝いなんだとヨシュアが頭にきていたら、カミの鼻先がほんのわずかな距離にあって息が止まった。
「目を閉じていろ」
何をされるのか恐ろしくてたまらないのに、言われた通りに体が動いてしまっていたのが、また悔しい。
次の瞬間、ごわごわした感触が顔全体に当たった。
ぞわっと鳥肌が立ったのを感じた時には、小突かれて尻餅をついていた。
「な、な……」
「神からの祝福だ。感謝しろ」
わなわなと震えるヨシュアを、上からどうだと言わんばかりにカミが見下ろしている。
「何が祝福だ! 何をしたのか教えろ!」
恐怖心を怒りに変えて、全身全霊で言い返した。
「まじないだと教えてやっただろう。ほれ、もう用はないから出ていけ」
尻尾を見せて遠ざかるカミに「勝手な!」と言い返すよりも、べとべとする不快な状態をどうにかする方をヨシュアは選んだ。
本音を言えば、カミから離れることを優先したかったのだ。
暗闇の帰り道、あれはなんだったのかとティアラに確認してみても、やはり、心当たりはないと返されるだけだった。
今のところ、ベタつきと臭い以外の実害はないので、深く気にするのはやめにした。
「ホント、腹立つな。シモンが、まだ部屋に残ってくれてるといいけど。早く洗い流さないと、エヴァンさんを待たせるかもだしな」
「エヴァンに呼ばれてるの?」
ティアラは少し驚いた反応だった。
「お昼に誘われてるんだけど、一緒に行くか?」
ヨシュアは気まぐれに誘ってみたが、珍しいことにティアラは乗ってこなかった。
「ふーん。なら、悪いけど、その本を部屋まで持って来てくれないか」
レスターに借りた本は、祈りの間の控え室に置いていたので無事だった。
とはいえ、洗ってもいない手で触れば間違いなく汚してしまう。
「小説?」
「借り物だから頼む」
「わかった、いいよ」
そんなこんなで、ヨシュアは悪臭を撒き散らし、奇異な目で見られながらティアラと並んで私室に戻っていった。
* * *
「おかえり、ヨシュア」
エヴァンの呼び出しから私室に戻ったヨシュアを、シモンが出迎えてくれた。
「なんか、嬉しそうだね」
「そお?」
シモンは、こっくりと頷いた。
「何かいいことでもあったの」
「んー、妙なことを言われたからかも」
「妙なのに嬉しいの?」
今度は、ヨシュアがこくりと頷いた。
本日一番の謎な発言でありながらも、確かに、一番自分に寄り添ってくれた言葉だったのだから。
「ティアラは構わなくてもいいようにしておいたから、頑張って試験に臨んできなさいって」
城においては、誰もがティアラ中心に考えているだけに、唯一、ヨシュアの目的を忘れないでいてくれたことはじんわり響いた。
「エヴァン様は、それしか言ってなかった?」
「試験が終ったら、少しだけ気にかけてあげてって言われたくらいかな」
「そっか」
「シモン、何かあるの?」
「んー、たぶん、誰も言わなそうだから俺から教えておこうかな。最近、ティアラの姿を見かけなかったのは、エヴァン様の下でシンドリーのマナーや文化を習っていたからなんだよ」
「へえ」
それで、エヴァンの構わなくていい発言に繋がるようだ。
「もしかして、エヴァンさんって、シンドリー出身なの?」
「いや、オアシスの出だよ。運送業を主に扱う豪商のお嬢様なんだ」
「意外。貴族とか、王族の傍系とかじゃないんだ」
「ウェイデルンセンに貴族制度はないから」
「そうだっけ」
「小さな国だからね。城で管理職についている家が近いかな。世襲制じゃないんだけど、代々役員ってところが多いんだ」
「じゃあ、どうしてエヴァンさんに決まったわけ? 王様が探してきたわけじゃないんだろ」
「うん、慣例通り、お見合いだよ。元々、何人かの候補の一人だったらしいね。ファウストは若くして戴冠したから、年下よりは年上がいいだろうって方向にはなってたんだ。エヴァン様は父親についてあちこち見てきている方だから、周辺のどこの国でも対応できる器量があったのが決め手だったみたい」
「へえ」
ヨシュアの中では、うふふと笑う、天然でおおらかな人になっているので、そんな特技を隠し持っているとは驚きだった。
「ああいう雰囲気だから騙される人が多いけど、隙のない方だよ。ティアラが唯一、わがままを通せない存在でもあるからね」
「それも意外。レスターさんじゃなかったんだ」
「レスター様も、結局は身内に甘いから。でもね、頑張るのが苦手なティアラが、今回はエヴァン様に言われたからってだけじゃなく、自分から熱心に取り組んでるんだよ。そういうとこ、ヨシュアは、ちゃんと知っててあげてよね」
頼まなくても包み隠さず教えてくれるシモンは、最後を殊更強調していた。
しかし、ヨシュアは一切心を揺さぶられることもなく、さらりと旅程の最終確認に話題を移して、おしまいにするのだった。
* * *
実家に帰るというだけで事前準備が一苦労だったヨシュアは、それでも、どれも用心深く想定していた誤差の範囲内に収めていた。
出発前日の呼び出しの数々も昼には全てが終り、シモンと最終確認をした後は試験の模試に取り組む余裕があった。
そして本日、見事な秋晴れの下、シンドリーを目指して一行はウェイデルンセンを旅立った。
青空を眺めながら、かっぽかっぽと馬に揺られるヨシュアは、たいそうご機嫌な様子だ。
「雨になったら、ヨシュアも馬車に乗る?」
素朴で頑丈な造りの荷台の窓から、みつあみにまとめた旅装のティアラが顔を出している。
「槍でも降ってこない限り、そっちに乗るつもりはありません」
「じゃあ、バッタの大群が押し寄せても乗ってこないのね」
屁理屈を相手にする気がなくても、うっかり想像してしまったヨシュアは体を震わせた。
それが馬にも伝わり、規則正しかった足並みが乱れる。
「俺に気遣いは無用ですので、お構いなく。お姫様は存分に旅をお楽しみください」
馬を宥めながら、迷惑そうに言い捨てて話を終わらせた。
シンドリーへ向かう一行はヨシュアとティアラに加えて、お供に従者としてシモンが、護衛としてリラが同行している。
ヨシュアにとっては外面を必要としない面子が揃っているのだが、婚約者として馴れた様子だと見られるのが気にかかり、なんともつっけんどんな会話になっていた。
馬車を操るシモンは困ったように横目でちら見し、つまらなそうに引っ込んだティアラの向かいに座っているリラは肩を竦めて呆れていた。
この状況は、荷台という限られた空間で一緒にいて欲しくないファウストの強い願いによるものだ。
ヨシュアとしても同じ思いだったので、貸し出された艶やかな名馬の上で自分の思惑通りになるという幸せな現実を噛みしめていた。
初日の道のりは実に順調に消化している。
旅慣れないティアラに合わせてこまめな休息を計画しているので、ヨシュアがやってきた時よりゆったりしたペースで疲れはまだなく、それよりも、爽快な解放感で充実していた。
「ねえねえ、ヨシュア。あれは何?」
休憩で馬車を下りたティアラは、さっきのツンとしたあしらわれ方を忘れて、ヨシュアの近くで無邪気に尋ねた。
なにせ、ティアラにとっては初めての遠出だ。
はしゃいでしまうのも仕方なかった。
ヨシュアはうざったく思いながらも、休憩の間くらいなら相手をしてやろうと決めていた。
放っておいて、向こうで機嫌を悪くされても大変だからという自分本意な対策として。
「あれって、ただの露店商だろ。飲み物を売ってるだけだよ」
まだウェイデルンセン領地内であり、別段珍しくもない売り物にさえらティアラは目をキラキラさせている。
今からこれでは、先が思いやられるというものだ。
「ね、ヨシュアは喉が渇いてない?」
「え。まあ、別に」
買ってきてくれとねだられる心配をして、曖昧に答えておく。
「じゃあ、私が買ってきてあげる」
「……ティアラが、俺に?」
元気よく頷くと、肩にかけたポーチから、これみよがしに真新しい財布を取り出した。
「エヴァンにお小遣いをもらったの。だから、買ってきてあげる」
そうして、ヨシュアが有無を答える前に行ってしまった。
妙な張り切りぶりを眺めていれば、リラがさりげなく後を追っていた。
「ファウストには内緒にしといた方がいいかもね」
助言をくれたのは他でもない、親しい人には情報が穴あきジョウロなシモンだった。
ヨシュアは密かに、今回の帰省の様子は全てファウストに筒抜けになると覚悟してきている。
「どうして?」
忠告は無意味だと思いながらも、一応は理由を確かめてみる。
「ティアラの初めての買い物だから」
「ああ……」
バカでかい狼とフレンドリーで、夜中に男の部屋に忍んで侵入してくる自由奔放すぎなティアラだが、まぎれもなくお金を使う必要のない箱入りで育ったお姫様なのだった。
「はい、お待たせ」
よく冷えた飲み物を両手に持ってきたティアラは、一つをヨシュアに、もう一つをシモンに渡した。
それから、リラが持っていてくれた二つを受け取って、改めて一つをリラに渡していた。
まったく、全ての行動が子どもくさい。
「どお、美味しい?」
配り終えたティアラがヨシュアの隣にやってきて覗き込んだ。
この調子なら、感想を言うまでじっと見られることになりそうだ。
「美味いよ。ありがとうな」
あまりの初々しさに、小さい子どもを相手にしている気分で、お礼を付け足しておく。
ティアラは満足げに笑ってから、自分の飲み物に口をつけていた。
「ねえ、ヨシュアは、おうちの商会の手伝いをしてたのでしょう。どんなことをしてたの? あんな風に物を売ったりしていた?」
正直、自分の話をするのは苦手であり面倒だった。
それでも、休憩中は構ってやろうと決めていたので、当たり障りのないネタを探して語ってやった。
と、ヨシュアはどこまでも後ろ向きな理由で付き合っていたのだが、何に対してもティアラがいちいち素直に感心するもので、人に教える立場という新鮮な発見があった。
常に遊ばれ、からかわれ、鼻先で笑われるばかりのヨシュアにとって、ものを教える優位さは、くすぐったくも快く感じられるものだった。
以降、休憩時間はヨシュアからも積極的にティアラとの会話を楽しみ、片道の半分に値するオアシスに辿り着いた頃には、とある感情が芽生え始めていた。
専用に書いてるわけじゃないので、微妙な区切りになってしまってしまいます……(>_<")