〈王の審判〉 招かれざる歓迎
* * *
暦の上ではとっくに春だが、さすがに北方の裾野は空気が違う。
まだまだ冬の最中だ。
「ひっくしゅん」
馬車の荷台で揺られているヨシュアは盛大にくしゃみをした。
「まだ寒いのか」
レナルトは、毛布を巻きつけ、もこもこに丸くなっている甥っ子に笑いながら声をかけた。
「向こうで、誰かが噂でもしてるんだろ」
対する返事は、ずいぶんむっすりとしたものだ。
あれだけ楽しそうにしていたヨシュアの表情が、ボミートの国境を越えた辺りから硬く戻っていた。
既にウェイデルンセン王国の領地に入っている。
この道を数時間も進めば、目的地に到着だった。
「城の中もこんなだったら、布団から一歩も出ないで生活するしかないな」
「はは、それはないだろう。よくしてくれるさ」
「だろうね。可愛いお姫様のためだし、貢ぎ物だって奮発してるんだから」
ヨシュアはあくまで貢ぎ物と呼んだが、正しくは結納品だ。
全部理解した上でそう呼ぶ甥っ子に、レナルトは苦笑するしかない。
けれども、ヨシュア自身が自分もその貢ぎ物の一部だと考えていることはわかっていなかった。
やがて、前方に谷間の最奥に建てられた城が見えてきた。
「……綺麗だ」
それは、硬くしたヨシュアの表情を変えるほど美しい建造物だった。
針葉樹の合間に雪を乗せた鋭い屋根が特徴的な、建物自体も雪で出来ているかのように真白い城が現れた。
「どうだ、考えが変わっただろ」
「そうだね、鳥かごにしては上等かな」
レナルトは、やはり苦笑して何も返さなかった。
城に着くと、レナルトは門番といくつか言葉を交わし、荷物は全て任せた。
それからすぐに城内の貴賓室に案内され、至れり尽くせりのもてなしを受ける。
心配していた部屋は暖かく、見た目も鮮やかな料理に始まり、優雅な生演奏で歓迎された。
話し相手になったのは、王の側近でシモンと名乗る男だ。
八つ離れたヨシュアの兄より若く見えるが、不快にさせずに途切れもしない会話術は感心させられた。
それでも、ヨシュアは決して口を開かなかった。
黙って味のしない食事を腹に入れ、話に耳を傾けつつも窓の外ばかりを見ていた。
食後のお茶もとうに終えた頃になって、ようやく王との対面が叶った。
案内されたのは謁見の間だ。
重厚な両開きの扉が開かれて、最初に目に入ったのは、優美な女神像とその前に立っている背の高い男だった。
それが王だというのは、格好からも雰囲気からも一目でわかる。
他は年配の男が控えているだけだ。
そして、案内してきたシモンとレナルトとヨシュアが揃った所で扉が閉じられた。
「お待たせして申し訳ない。王のファウストです」
「王自らの歓迎、ありがたく存じます。私はスメラギ家当主の代理として参りました、ロルフと申します。お約束通り、こちらのヨシュアを連れて参りました」
「長旅で、お疲れのことでしょう」
「ご配慮ありがとうございます。私は仕事柄慣れていますので問題ありません。ヨシュアの方は大変だったと思います」
「そうでしたか。こちらに入られてから、不都合はなかったですか」
「そちらについては、何も申し上げることがないほど丁寧な扱いを受けました。シモン殿は博識な方ですね」
「ええ、自慢の側近です」
王との会見は、和やかな印象のまま進んでいった。
ヨシュアは話を振られないのをいいことに、じっくりと義兄になるであろう王を観察する。
こちらは兄と同年齢のようで、一国を治めるには、だいぶ若い。
それでも、自分の兄を思えば若すぎるとも思わない。
無茶な交渉を持ちかけてきた元凶だが、まともな王として映え、少なくとも、公の場で失言を繰り返す迂闊さはなさそうだ。
「正式には明日、ここで重役達に発表させていただきます。外への公表はいずれ時期を見てとなりますが、例の男には明日の時点で伝わるでしょうから事は足ります。レナルト殿も、明日はご参加ください」
「承知しました。それで……妹姫は?」
「それも明日」
浅く微笑んだ王の瞳には、剣呑な気配が潜んで見えた。
「では、明日の発表が済み次第、私はシンドリーに戻ります」
「大切な甥子さんの心配をするなと言っても無理でしょうが、不自由はさせないつもりですので、ご安心ください」
「よろしくお願いいたします」
王との面談はそれで終わった。
何を言ってくるかと待ち構えていたヨシュアには、明日はよろしくと去り際に微笑みかけてきただけだった。
その後、使用人の案内で部屋を移動する。
ここで生活していく予定のヨシュアには奥に私室を用意しているとの話だが、今日のところはレナルトと続きの客室をあてがってくれていた。
後は、王の側近のシモンがいくつか部屋について説明を済ませると、後ほど明日の打ち合わせに戻ると言い置いて出て行った。
使用人もいなくなり、二人きりになったのを見計らってヨシュアは内輪の話としてレナルトに尋ねる。
「どう思う?」
「正直、私が帰った後が心配だな」
率直すぎる意見だったが、ヨシュアも全く同じ感想だった。
謁見の間に入った瞬間と妹姫の話題が出た一瞬、ヨシュアはファウスト王の笑顔の下に殺気に近い憎悪を受け取った。
よほど、妹姫が可愛くて仕方ないらしい。
「ま、なんとかなるでしょ。こっちの話を聞いてるなら心配は不要だって理解してるはずだし、だからこそ、俺が選ばれた意味があるんだから」
当人はそっけなく返したが、レナルトは尚更、心配になる。
ヨシュアのトラウマは、実情を知らない人には笑い話にしか聞こえないのだから。
「それより叔父さん、明日には帰るんだね」
「ああ、そうだな」
レナルトは答えながら、淋しさを隠していない甥っ子に胸を痛める。
「真っ直ぐ帰るの?」
「オアシスの知り合いに馬車を預けて、単騎に乗り換えて戻るつもりだ」
「最後まで馬車を使わないんだ」
「あまり、のんびりしていられなくてな」
でなければ、留守を引き受けているロルフが刻限を分刻みで過ぎるごとに大変な方向に導いてくれる手筈になっているからだとは告げなかった。
これ以上、父親の印象を悪くする必要はないのだから。
* * *
翌日。
ヨシュアとレナルトが王と再び対面したのは、ウェイデルンセンの身内に公表する身仕度が整った頃だ。
「ヨシュア殿、似合っていますよ」
衣装は城で用意された物で、全てがウェイデルンセン仕様だ。
ファウストは微笑んでいるが、目の奥は笑っていない。
チリチリするものを感じながらも、ヨシュアは失礼のない表情で会釈して応えた。
「説明したように、今日はあくまで内輪の発表。書類や贈り物の交換は行わず、それが済めばヨシュア殿には王族専用棟に入ってもらい、しばらくは城の生活に慣れるだけに専念してもらうつもりです。要望があれば、遠慮なく申し出るように」
「ご配慮、ありがとうございます」
と、上っ面だけの会話をして面会は終わった。
レナルトは自分が会話するよりも緊張して、どっと冷や汗をかいているようだ。
「ヨシュア、大丈夫か」
「大丈夫だよ」
言葉の通りだと笑顔を返してみせる。
レナルト相手だからそうしたが、本当なら「大丈夫じゃなくたって、どうしようもないだろう」と喚きたかった。
ヨシュアには決定権どころか選択肢すらない。
それでも、あの家にいるよりましという一念でなんとか自分を保っている。
どれだけ敵視されていようと、ヨシュアの身に何か起きれば困るのは王であって、少なくともここで命を狙われる心配はないのだから。
「レナルト叔父さん」
ふと、ヨシュアはレナルトに呼びかけた。
「今までありがとう。あの家で、まともでいられたのは叔父さんがいたからだと思ってる。ここまで付き添ってくれたのが叔父さんでよかった。おかげで楽しくしていられた」
「そんな、最後みたいな言い方をするな」
「たぶん最後だよ。もう、あの家には帰らない」
帰れないではなく、ヨシュアの意思で帰らない。
「それでもな、永遠の別れみたいに言うな。二度と私と会わないつもりか?」
「だって……」
「お前が呼んだら、私はいつでも駆けつける。だから、お前も私が呼んだら会いにきてくれ」
「俺が行くの?」
「そうだ。私は時々、無性にヨシュアに会いたくなるからな」
きょとんとしたヨシュアだが、意味を理解してじわりと心を動かされた。
「ありがとう、レナルト叔父さん。俺、実家には帰らないけど、叔父さんのところには行くよ」
「よし、絶対だぞ」
レナルトは、もう小さくはない手を握りしめる。
もう少しだけ身内の暖かさを味わわせてやりたいと切に願ったが、ドア越しに移動を指示されてしまい、次の瞬間には、ヨシュアは何者にも心を動かされない外面仕様になっていた。
「じゃあね、レナルト叔父さん」
ヨシュアは心配しなくていいからと笑って部屋を出て行った。
その後、レナルトが甥っ子の姿を目にしたのは婚約発表のわずかであり、直接会話をする機会もなくウェイデルンセンを出立した。
* * *
「以上の説明に質問はありませんか」
「今のところはありません」
「では、しばらくは私、シモンがヨシュア様付きとしてお仕えしますので、何事もお申し付けください。明日は城内案内を予定しております」
「わかりました。さすがに今日は疲れたので、早めに休ませていただきます」
「そうですね、どうぞゆっくりお休みください。では、失礼いたします」
誰一人部屋からいなくなって、ヨシュアは対外用の表情を外した。
「ろくなもんじゃなかったな」
レナルトと別れてからの一連を思い出して、早くもうんざりしきっていた。
内輪の婚約発表と聞いていたが、控え室に一人で散々待たされた挙句、ようやく始まった発表の場はものの数分で終わってしまった。
集まった人達は食事会に流れたようだが、ヨシュアはそこからまた延々と一人で待たされ、次に待っていたのが王と二人きりの夕食だった。
ファウスト王は笑顔でいながら、いくつもの要求をさりげなく押し付けてきた。
どれもこれも妹姫に手を出すな、という意味でしかない。
黙って聞いていたヨシュアだが、そもそも、肝心の結婚相手であるお姫様がどんな顔をしているのかさえわかっていないのに、手を出すも何もないだろうと内心で呆れていた。
発表の場に現れた姫君は、繊細な刺繍の施された薄緑のドレスで着飾っていた。
ついでに、すっぽりとベールで覆われていたのでどんな人物かわからなかった。
あれでは、中身が本人じゃなくても構わない。
「それならそれでいいけどね」
顔も知らないのに夫婦をやっていく。
仮面夫婦、ぴったりではないか。
現在ヨシュアが知る結婚相手の情報は、ティアラという名前と二つ年下の十五歳だということ。
それから、ヒールを履いてヨシュアより少し低い背丈という、たわいもない事実だけだ。
「あー、疲れた」
ベッドに気持ちよく背中から倒れ込んだところで、すぐに半身を起こして辺りを見回す。
近くに人の気配を感じたのだ。
けれど、いくら確認しても誰もいなかった。
いなくて当たり前だ。
「変に緊張してるせいかな。大丈夫、大丈夫なはず。ここはきっと大丈夫」
ヨシュアは自分にしっかり言い聞かせながら、嗅ぎ慣れない匂いの部屋で眠りに落ちていった。