〈王の審判〉 気難しい少年
頭脳明晰な父と兄の言うことに冗談などなかった。
たとえ、冗談だったとしても面白ければ実行してしまえる実力を備えているのが恐るべきところなのだ。
鷹からひよこが生まれたと評判のヨシュアは、突然の宣告通りに容赦なく家を追い出された。
向かうは、見知らぬウェイデルンセンという小さな王国。
目的は面識のないお姫様と結婚するため。
おまけに、息子が初めて婿入り先に向かうというのに、付き添いは父の弟である叔父のレナルトだけだった。
「レナルト叔父さん、いつから知ってたわけ」
「ええっと、一週間ほど前かな」
「ふーん。叔父さんだけは俺の味方だって思ってたんだけどね」
荷馬車を操るレナルトの隣に座るヨシュアは、じと目で無言の非難をしている。
「悪かったよ。これでも、私だって仕事の合間にねじ込まれて大変だったんだ」
困りきった叔父を横目で見て、非難するのをやめにした。
普通に優秀なのに、上にロルフというとんでもない化け物が存在しているがために苦労している人で、ヨシュアを理解してくれる唯一の大人で親戚だ。
非難するよりは同情してもらい、愚痴でも聞いてもらう方がよほど益がある。
ヨシュアの気配が和らいだのを察したレナルトは、話を続けた。
「それにしても、お前が素直に受け入れるとは思わなかったな。二・三日は逃げ回ると予想してたんだが」
「色々、考えたけどね」
昨夜、荷物をまとめながら、幾度も逃げ出せる可能性を模索してみた。
結果、これまでの経験上、二人まとめて本気を出されたら半日もしないで捕獲されるのは確実だった。
「無駄な抵抗はしない。それに、俺にとっても悪い条件じゃなかったから」
「仮面夫婦がか?」
「ああ、偽装結婚よりそっちのがいいな。俺は一生結婚する気はなかったけど、あの家にいる限り安寧はないだろうから」
「ヨシュア。お前、家から出られるから今回の件を引き受けたのか」
「さっすが叔父さん。わかってくれてるね」
心底清々しているヨシュアを見ると、レナルトはスメラギ家の端くれとして複雑なものがあった。
「そんなに、あの家が嫌だったか?」
「んー、どうだろ。父や兄は別として、スメラギの人は嫌いじゃないよ。けど……」
しばらく沈黙が続き、もう続きはないのだろうと思える頃になって、ヨシュアはぼんやりと笑ってこぼした。
「辛いことを全部切り離してみたかったんだ」
「そうか」
春一番の風が吹き、それから二人は、しばらく口を開かなかった。
* * *
こちらは断崖絶壁にそびえるスメラギ邸。
当主の書斎からは青い海と青い空、そして静かなプライベート港が見える。
今は来客もないので、自家用の大小二艘が浮かんでいるだけだ。
「さすがに、少し可哀相でしたね」
長男のミカルは部屋の主に珈琲を渡した。
「そうでもないだろ。家から出られるんだからな」
さらりと父ロルフは言い返したが、ミカルは苦笑しながら今朝、弟が出立した時の様子を思い出す。
会う度に警戒心を剥き出しにしていたくせに、今日に限っては神妙な態度だった。
人生の門出に相応しい様子だったが、妙な淋しさを味わったものだ。
「あれは、二度と帰ってこないつもりでしょうね」
「だろうな」
またもや、ロルフはあっさりしていた。
ミカルは物心がついて、父親が動揺する姿を一度しか見たことがない。
将来有望なミカルは弟を指先でからかうことは出来ても、未だ父親の考えを読みきるのは難しかった。
「今更、心配をするな。誕生日には帰ってくる。結婚までは至らない」
ロルフが言うなら、そうなるだろう。
それが、少し残念でもあった。
ウェイデルンセンのお姫様に最適な物件がヨシュアだった。
しかし、ヨシュアにとっても稀に見る好物件だったのだ。
ミカルは心のどこかで、事が上手く運ぶよう願っていた。
* * *
「おー、高い! 景色いいー」
ヨシュアとレナルトは故郷を抜けて、交易の要である中立地帯・オアシスに入っていた。
ここから更に北に向かい、ボミートを抜ければ目的地のウェイデルンセン王国があるはずだ。
この、はずだ、と曖昧に表現するしかないのは、結婚を宣告された翌日に出立しろという無茶振りのおかげに他ならない。
荷造りをしながら逃げるべきか逃げざるべきかを考えるのに精一杯で、行程を心配する余裕はなかった。
現実として、ヨシュアが心配するまでもなく足が用意されていたわけで、それくらいの準備はしてもらえるだろう打算はしていた。
まあ、道中の連れが肉親ではなく、本家を出ている叔父のレナルトだけだとは思わなかったが。
ともかく、ここで、ウェイデルンセンまでの道のりは半分まで来ていた。
「あ、移動遊園地が出てる。ねえ、叔父さん。この後、貢ぎ物くすねて遊んでこない?」
楽しそうなヨシュアを眺めて、レナルトは苦い気持ちに苛まれる。
家を出てすぐは別として、その後のヨシュアはずっとご機嫌で、家から離れれば離れるほど笑顔を深めていった。
今も、必要があって近辺で一番の高さを誇る塔に上がっているのだが、はしゃぐヨシュアは実年齢より幼く見えて、本人が望まぬ婿として差し出すために連れて行く自分が無慈悲な牛飼いになった錯覚を引き起こす。
「見せたかったのは、それじゃなくてこっちだ」
レナルトは感傷を振り払い、ヨシュアを望遠鏡の前に立たせると、小さな子ども相手のように後ろから腕を伸ばし、視線を向ける先を促した。
ヨシュアの視界には東西に展開するキャンパスと呼ばれる山脈が色薄く広がった。
平地でようやく春の芽吹きが始まったばかりのこの時期では、全体的にまだ白い。
綺麗ではあるが、それだけなら場所を選べばシンドリーにいても大自然を感じられる景色は見られる。
「この先の麓がボミート、その先の、山の中に開けたところが見えるか」
「見えてるよ」
人の手など一切受け付けない荘厳な山脈のわずかな隙間に、色彩の違う空間がある。
それは、単に谷間というより、無邪気な子どもが価値もわからず汚してしまった染みのように映った。
「何も、あんな所に住まなくてもいいのに」
「そう言うな。間近で見れば、印象は違うはずだ」
「叔父さんは行ったことあるの?」
「一度だけな。鉱石の取り引きで。本当は酒も取り引きしたかったんだが、見事に振られた」
石と酒。
聞きたくない単語だったが、名物なのは間違いないらしい。
「どんな所だった?」
「私は城まで入ったわけじゃないから、参考になるかわからないが……神を近くに感じる土地だったな」
「神様ね」
この辺りは万物に神が宿るという昔話が多く、年寄りはなんでもありがたがる傾向がある。
貴族の前に商売人であるスメラギ家は、商売の神と海の神に祈る機会が多々発生する。
それに付き合わされる度に、ヨシュア自身は気休めだと冷めた目で見ていた。
万が一神様が実在するのだとしても、幼いヨシュアは救われなかったのだから。
「目的地はわかったって。だから、移動遊園地に寄って行こう。レースに参加して、買っても負けてもアイスクリームを食うんだ。いいだろ」
無邪気な笑顔を見せてくれる甥っ子と遊び回るのは、さぞかし楽しいだろうと想像する。
それでも、ここでレナルトが情に流されるわけにはいかなかった。
「だめだ。今日は泊まる宿が決まっているから、寄り道は無理」
「別に急ぐ旅でもないんだから、付き合ってくれてもいいのに」
ヨシュアの笑顔が消えると、レナルトは内心で謝った。
レナルトだって気が済むまで付き合ってやりたかったが、そうは出来ない事情を抱えている。
仕事を預けてきているのだ。
レナルトはスメラギ本家を出た身だが、商会を一部を取り仕切る形で頻繁な交流をしている。
そして一週間前、突然、兄ロルフが訪ねて来て、今回の付き添い話を持ってきた。
最初は当然断った。
ヨシュアを想って時間を稼いでやりたかったのもあったが、事実として仕事が山積みで手離せる状態じゃなかったから。
もちろん、商会トップのロルフが把握していないはずもなく、「お前の仕事は俺が代わってやる」と提案してきた。
確かに、兄なら引き継ぎなしで任せても困ることはないだろうが、それ以上に困ったことになる可能性が多分にあった。
訝しんでみれば、案の定、タダでやるとは言わないのだ。
たとえ、そちらからごり押ししてきた案件だとしても。
「出立から一ヶ月。その間は、お前の汚点になる仕事はしない。もちろん、自分の仕事を滞らせたりもしない。どうだ?」
どうだと問いかけながらも脅迫でしかない。
しかも、一ヶ月。
「荷物があるし、行きに二十日程度はかかるだろう。往復で考えれば無理だ」
「行きはな。帰りは婿も荷物もないだろう。お前なら帰ってこられるよな」
やはり、これも、できないとは言わないよな、との脅しだ。
「……わかりました」
と、結局は引き受けるしかなかった。
中年になったレナルトが今でもこれだ。
ヨシュアの場合は、優秀な兄だけでなく、親にそれがついてくる。
甥っ子ながら、本当に不憫でしょうがない。
「遊園地は無理だが、夕食は豪華にしよう。焼き肉にするか?」
「だったら海鮮がいい。生で食べられる店ね」
ちゃっかり、想定以上の要求をしてきたが、前言を翻すつもりはなかった。
ウェイデルンセンは山の王国だ。
今の内に海の幸を味わいたいのかもしれない。
「じゃあ、行くぞ。日が暮れる前に到着したいからな」
レナルトが塔を下りると、移動遊園地に後ろ髪を引かれつつも、ヨシュアは大人しく従った。