忘れた記憶、交わした約束
――――四年前
処刑を間近に控えた大罪人だけが収容される監獄塔の地下にクロヴィスが足を運んだのは、事情聴取のためだった。
目指す先の牢に囚われているのは、男爵家の養女だという。さる公爵令嬢によってその罪を暴かれて投獄されたらしい。平民出の孤児ながら男爵家の養女となった彼女の正体は、危険思想を持つ殺人者だとか。
罪人の名はリーズ・ラピス。クロヴィスより四つ年下の十六歳だ。そんな子供が、一体どんな凶悪な思想の持ち主なのか。それを確かめるため、クロヴィスは上司に命じられて面会にやってきた。
看守に案内された独房の中で、鎖に繋がれた一人の少女が跪いて祈りを捧げていた。薄暗い牢獄の中でありながら、そこだけ荘厳な空気を纏っている。
この場面だけ切り取れば、まるで高名な画家が描いた宗教画か何かのようだ。俗世の罪を一身に背負い、自らを贄とすることで人の罪を贖おうとする清らなる少女。罪人を見てそんなことを思うなんて、とクロヴィスは自嘲気味な笑みを浮かべた。
「おーい?」
黙したまま目を閉じる彼女は、クロヴィス達に気づいた様子はない。看守は気まずげに目をそらし、クロヴィスに一礼して去っていく。本来なら罪人との面会で看守が付き添わないことはないのだが、クロヴィスの職業――――剪定鋏の執行官ゆえその必要はないと判断されたのだろう。
「聞こえないのか? それとも無視してるだけか?」
「……おや。どちら様でしょう」
再度声をかける。ようやく少女が目を開けた。看守の手によって雑に切られたダークブラウンの髪が無造作に揺れる。
美しく輝く深い藍色の瞳に、クロヴィスは内心首をかしげる。これまで何人もの凶悪犯を見てきたが、彼らはみな瞳の奥に昏く淀んだものを潜ませていた。だが、この少女にはそれがない。巧妙に悪心を隠している風でもなかった。
「俺はクロヴィス・エキャルラット、剪定鋏の執行官……で通じるか? 非公式だが、お前を取り調べに来た」
「お噂はかねがね。確か、『死神』と呼ばれている方でしたよね」
こんな女の子にまでその二つ名が知れ渡っているのか。クロヴィスは露骨に眉をひそめた。
必要とあらば超法規的措置が許される庭師達は、凶悪犯を取り逃がすぐらいならその場で粛清することを選ぶ者が多い。次の犠牲が出るよりマシだろう。当然クロヴィスもそのくちだ。
しかもクロヴィスは、相手が穢霊化しないよう一瞬で、かつ自身の死を悟られないよう相手の命を奪う技術に長けていた。静かに忍び寄って罪人の命を刈り取るクロヴィスに、つけられたあだ名が『死神』だ。喧伝するようなものでもない。
「ですが、話なら警察の方にすべてさせていただきましたよ? 剪定鋏の方に話すようなことは特にないのですが……」
「お前に話すことがなくても、俺には訊くことがあるんでな。ま、さっきも言った通り非公式だ。そう固くならず、世間話程度に話してくれればそれでいい」
その場に座り、筆記具を出す。「まず、お前は九件の殺人の容疑で起訴されてる。何か弁明は?」リーズは小さく首を横に振った。
「ずいぶんと物分かりがいいじゃねぇか。なら、お前の過去について訊かせてもらおうか。ついでにそれぞれの事件の様子でもかいつまんで話してくれりゃあ十分だ」
「では」
リーズは軽く咳払いをして居住まいを正す。
「幼き頃より、鳥獣を殺める機会は多かったですね。初めて人を殺めたのは七歳の時です。その時手にかけたのは父でした。それから、伯父に引き取られて祓聖庁の学び舎に預けられるまで、三人殺めました。一人は自暴自棄の浮浪者、一人は不治の病に冒された少年、一人は近所に住んでいた孤独な老婆です」
「待て待て待て」
「学び舎に預けられてからは、穢霊を祓うことが生活の中心となりましたが……それでも、五人ばかりは殺めたかと」
「待てって言ってるだろうが!」
「話せというから話しただけでしょう。……ああ、学園に通ってからは、鳥獣しか殺めていませんよ?」
前言撤回。とんでもない殺人鬼だった。
(待てよ。こいつ、父親の次に殺した被害者について、なんて言った?)
流水のようによどみなく告げられた証言を頭の中で反芻する。浮かび上がるのは、被害者達の共通点だ。
「お前が殺した連中は、全員訳アリだったのか?」
「ええ。父を含め、誰もが生を諦めて希望を失い、せめて死ぬことで俗世の苦難から解放されることを願っていました。ですのでわたしは、その願いを叶えたんです。中には、わたしとの対話を経て逆に生きる道へと再び進んだ方もいましたが」
「鳥獣を殺したのは?」
「野生に戻っても生きながらえられないほどの深い負傷をしていたからです。苦しみにのたうつ命を放置して、いつ実るかもわからない努力を無責任に無理強いするより、今以上に苦しむことなく安らかに眠らせるべきだと判断しました。それは人間にも言えることですが」
リーズは微笑んでいた。慈愛に満ちた、優しい笑みだ。
「お前が」
声が喉に張りついた。それでもクロヴィスはなんとか言葉を紡ぐ。
「お前が、そこまでする義理はねぇだろうが……」
死にたいと、殺してくれと懇願されたからって。それで相手を殺すなんて馬鹿げてる。自分が人殺しの咎を負う意味を、命を奪うことの重さを、この少女は一体なんだと捉えているのだろう。
「だって皆さん、とてもつらそうで、悲しそうでしたから。助けたいと思うのは、それほどおかしいことですか?」
それでもリーズは、平然とそう答えた。瞳には一片の曇りもなく、声音には一切の迷いがない。自らの手を汚してまで慈悲を謳うその少女は、ただまっすぐにクロヴィスだけを見つめている。
「この国の法において、殺人は犯罪です。法律を軽視したつもりはありませんし、そのことはわたしもきちんと理解しています。……それでもわたしは、死の影に惑い生の苦難に嘆く人々の心に寄り添いたいと思ったんです。誰であろうとせめて最期は安らかに、どんな痛みや恐怖からも解放されて、永遠の眠りにつける。それがわたしの神の教えです。そのことを後悔はしていませんし、間違ったことをしたとも思っていません。だってこれは、あの人々にとっての救済なのですから」
この国に、自殺やその幇助そのものを罪に問う法律はない。しかし幇助については、やりようによっては殺人罪で起訴することもできるだろう。リーズが投獄されたのもそれが理由に違いない――――けれど。
(国のために悪人を殺す俺と、人のために死にたがりを殺すこの女。一体何が違うんだ?)
クロヴィスが剪定鋏になったのは、正義を遂行するためだ。何者にもおびやかされず、悪と定めたものを残らず刈り取るためだ。
しかしクロヴィスが信じる正義は、あくまでもクロヴィスだけのものだった。法という根拠こそあれど、自分の正義が万人に通用するとはクロヴィスも思っていない。クロヴィスの正義は誰かにとっての悪になりえるし、誰かにとっては何の価値もない戯れ言だ。
それでも剪定鋏の執行官たるクロヴィスは、どれだけの悪人をその場で殺したとしても殺人の罪に問われることはない。相手が法の名において罪人であるとみなされたとき、クロヴィスが振りかざす正義は人殺しの大義名分となる。
リーズも、彼女が信じる正義のために人を殺している。慈愛という名のリーズだけの正義は、クロヴィスだけの正義とは違ってどんな大義名分も持ちえない。
法と秩序のもとに人を殺すクロヴィス、愛と慈しみのもとに人を殺すリーズ。謳う信念の形こそ違えど、クロヴィスはリーズの罪を量れなかった。
*
リーズへの情状酌量をクロヴィスが訴える間もなく、処刑の日はあっさりと来た。斬首刑だ。
せめて彼女の死にざまを目に焼きつけようと、クロヴィスも見物人に混じっていた。リーズは粛々と処刑台の階段を上がっていった。
処刑人の剣が、少女の細首に振り下ろされる――――それでも、彼女の首は落ちなかった。
「――――ッッッ!!」
壮絶な悲鳴が響く。血を撒き散らし、少女がのたうち回っていた。暴れるリーズの動きに合わせ、鎖が耳障りな音を立てている。
下手くそな処刑人だ。いくら大罪人とはいえ人は人、それも一見無力な少女。せめて即死させてやれば、彼女がここまで苦しむことはなかったのに。
その場にいた誰もがそう思った。クロヴィスもそう思った。それは、はからずもリーズが謳う慈悲の形とまったく同じものだった。
「――――」
どれほどの時が経っただろう。陽はすっかり傾いていた。
大粒の涙をぼろぼろ流す少女の苦悶は、もはや声にならなかった。
何度剣が折れ、何人もの処刑人が処刑台に上っても、その少女は死ななかった。
その日のリーズ・ラピスの処刑は、中止になった。
リーズは監獄塔に戻された。駆けつけたクロヴィスは、鉄格子越しの少女に向けて叫んだ。
「おいリーズ、あれは一体どういうことだ!? お前、怪我とか大丈夫なのかよ!?」
「……」
リーズの首は何事もなかったかのように繋がっていて、薄皮一枚切れた形跡がなかった。あれほど激しく出血し、骨まで見えていたのが嘘のようだ。
その異常さに目を剥くが、異変はそれだけではなかった。
リーズの双眸に、星が煌いていた。いや、違う。藍色の瞳に、金色の点のようなものが散らばって浮かんでいるのだ。それはまるで夜空をそのまま落とし込んだようでもあった。
その異様な瞳は虚空を見つめている。リーズは祈るように手を胸の前で組み、瞬きの一つもしていない。その目にクロヴィスは映っていなかった。
「なあリーズ、返事しろよ、聞こえてるんだろ!?」
「お静かに。神の声が……世界の意志が、聴こえるのです」
「何言って……!」
「嗚呼……わたしは、そのために……! それは……なんて、なんて素晴らしいことなのでしょう……!」
それきりリーズは何も言わず、ただ口元をいびつに歪めて歓喜の涙を流していた。
*
リーズの死刑が執行されなかったということは、クロヴィスにとっては猶予ができたということでもある。
それからクロヴィスは国中を駆けずり回った。リーズが救済した者の遺族、リーズが穢霊を祓ったおかげで救われた者、リーズによる救済を示されたことで逆に生きる気力を取り戻した者。彼ら彼女らを探し出し、当時の様子と心情を証言してもらい、減刑嘆願書に署名をもらった。クロヴィスが頭を下げるまでもなく、むしろ誰もが積極的に協力してくれた。
遺族はみな、リーズによる殺人は被害者の懇願のもと行われたこと、被害者達は一様にリーズに感謝していたことを証言した。その幕引きは、遺族にとっても異議のない選択だったのか、リーズを恨んでいる者は一人としていなかった。死に顔は誰が見ても安らかなものだったと、どの遺族も口を揃えて言っていた。身寄りのない被害者についてはもう知りようがないが、きっと同じような状況だったのだろう。
穢霊の被害に遭った者達は、リーズがいなければ自分達は穢霊に殺されていたことや、どの聖職者も祓えなかった穢霊をリーズはたちどころに祓えたことを証言した。もしリーズが巡礼の旅に出ていなかったら、多くの命が犠牲になっていたはずだ。
絞首。服毒。火刑。生き埋め。クロヴィスが減刑を求めて奔走している間にも、ありとあらゆる死の手段がリーズに試されたと聞く。それでもリーズは生きていた。常人ならとっくに何百回と死んでいるにもかかわらず。
どれだけ殺しても死なない、気味の悪い女。十二回目の処刑も失敗し、リーズはまた地下牢に幽閉された。署名と証拠を集めたぶ厚い嘆願書を上司に提出し、クロヴィスは一つの区切りとしてリーズに再び会いに行った。
「どうやらわたしは、神の代理人のようです」
「……はぁ?」
クロヴィスの手が思わず止まる。リーズの口元に運んでいた一口分のグラタンが載ったスプーンは、所在なさげに宙で揺れた。リーズは何を考えているかわからない、口元だけの笑みを浮かべる。
繰り返される処刑のせいか、ダークブラウンの髪はすっかり色が落ちて灰がかった白になっていた。まるで枯れきった老婆のようだ。しかし星空を閉じ込めたような澄んだ瞳にはまだ、かつての少女の面影がある。
以前とは異なり、リーズは鎖ではなく拘束衣を着せられていた。餓死を期待され、食事をもらえないこともあったらしいが、とても飢えに苦しんでいたようには見えない。今も、クロヴィスが差し入れとして持ってきたじゃがいものグラタンを、嬉しそうな様子でひな鳥のようについばんでいた。手が使えないリーズに代わってクロヴィスが手ずから食べさせてやっているから、余計にそう見えるのだろう。
リーズの全身には処刑の際についたひどい傷跡がいくつも残っているらしいが、致命傷だけは完治しているという。もし彼女が飢えによって骨と皮だけの姿になったことがあったとしても、次の日の朝にはすっかり元に戻るのだろう。
「だってそうでしょう? わたしの神は、人に救済を与えるものですから。わたしは救済を与える側の人間、すなわち死んではならないのです。わたしが死ねば、誰が人を救うというのです?」
度重なる処刑のせいでついに頭がおかしくなったのかと思ったが、思い返せばリーズは最初からこんな感じだった。独特な慈愛の精神に、ちょっと電波が加わっただけだ。
「あーはいはい、その通りだな。お前はちゃんと、人を救えてたんじゃねぇの? ……でもよぉ」
自分はまだ、この少女を救えていない。
余計な希望を持たせることは、時として何より残酷な結果を招く。クロヴィスが勝手にやっているだけで、感謝されて恩義を感じられたいわけでもない。だからリーズの減刑を嘆願していることは、彼女には言っていなかった。
嘆願書が受理されるかは、クロヴィスにもまだわからない。上司からは色よい返事をもらえたが、実際に判断するのは司法院だ。すげなく却下されたときこそ、クロヴィスはリーズを助ける手段を失ってしまう。
「もしお前が救われてぇってなったときは、誰がお前を救ってやってくれるんだ?」
そう問われることを予想していなかったのか、リーズは意外そうな顔をした。数秒の沈黙ののち、リーズは口を開く。
「その時は――あなたがわたしを、救済してくださいね。『死神』のクロヴィスさんなら、きっとできますから」
クロヴィスの前で、初めてリーズは年相応の少女のように屈託のない笑みを浮かべた。
その翌日、十三回目となるリーズの処刑が失敗に終わった。
早く嘆願書が受理されてくれるといい。そう願いながらクロヴィスは眠りについた。
――――朝になると、リーズ・ラピスは世界から消えていた。
世界規模で行われた事実の改変に巻き込まれたのは、クロヴィスとて例外ではなかった。
出した覚えのない、体裁がぐちゃぐちゃで内容も不明瞭な書類。上司に「つまらない悪戯をしてる暇があるなら、街をにぎわす件の連続殺人鬼でも捕まえてきたらどうだ」と突き返されて、見に行ってみた地下牢の中は空っぽで。
中にいたのがリーズ・ラピスという少女だったことはわかる。けれど彼女が問われた罪がわからない。そもそも、どんな少女だったのかすらもまるで思い出せなかった。
認識の齟齬は記憶の改竄をもたらす。やがてクロヴィスは、自分の中で納得できる一つの結論に辿り着いた。それが世界の歪みによって誘導されたものなのか、それとも自己の防衛本能が編み出したものなのか、今となってはわからない。