修道女はかく語る
「で? 具体的に、俺達はどうすればいいんだ? 何をすれば、世界の歪みを元に戻せる?」
サンドリヨンの説教をたっぷり一時間ほど虚無の表情で聞き流し、クロヴィスはようやく本題に入る。電波を撒き散らし終えたサンドリヨンはすっかり満足げだ。
「元凶を叩くのがもっとも確実かと。アレを表舞台に引きずり出す……わたし達の前に現れさせるんです。あとはわたしがどうにかしましょう。アレにとってわたしは、天敵も同然でしょうから」
「アレっていうのは、シビルのことか?」
尋ねると、サンドリヨンは首を横に振る。「その裏にいる、もっと純粋で禍々しいものです」そう答えた声は、深い悲しみを湛えているように聞こえた。
「アレは、神を気取って世界を思い通りに動かし、人を掌の上で転がすことを楽しんでいます。いえ、アレの行動原理などわたしの知るよしもないことではありますが……少なくとも、わたしの目にはそう見えます」
「シビルじゃないならなんなんだよ、そのアレっていうのは」
「わたしの定義で呼称するなら、悪魔という言葉が適切かと。神の愛の伝道者でないにもかかわらず、アレは死ぬこともないままに永遠を生きます。つまり、神の愛を享受できないばかりかありとあらゆる摂理から外れた存在なのです。……アレほど哀れな存在を、わたしは知りません」
領域から外れた生命。もはや生きるものとして扱っていいかもわからない、ひととは次元の違うなにか――――悪魔について語る言葉はお得意の電波のようにも聞こえたが、クロヴィスは口を閉ざした。それだけサンドリヨンの表情が憂いに満ちていたからだ。
「わたしは神の代理人であり、そのことを自覚した者です。ゆえに、悪魔について多少の知識はあります。悪魔はどういう理由かシビルさんに協力し、彼女にとって都合のいい世界を造り上げています。世界を歪ませている悪魔に対抗できるのはわたしと……そしておそらく、あなただけです」
それでも、伏せられた顔はすぐに上がる。強い決意を秘めた瞳がじっとクロヴィスを見ていた。どこまでも広がる満天の星空を思わせる、藍と金の瞳。思わず吸い込まれそうになり、クロヴィスは小さく息を飲んだ。
「わかった。じゃあまずは、どうやって悪魔って奴を引きずり出すか考えないとな。……悪魔がシビルに協力してるなら、シビルにとって何か都合の悪いことをすればまた何かしらの歪みが起きるのか?」
「そうでしょうね。世界を歪ませているのは悪魔のほうですから、シビルさんの身に何か起きたとしても世界は歪んでしまいます。かといって、シビルさんに問答無用の救済を与えれば悪魔に肉薄する間もなく……時間を、戻されてしまうでしょう。そうなればすべてやり直しです」
「俺達にとって悪い方向に世界が歪まないようにことを進めて、なおかつ悪魔と接触する……中々難易度が高いな、おい」
だが、やってやれないことはないはずだ。
剪定鋏の執行官、魔法士クロヴィス・エキャルラットはもういない。それでも、『死神』と呼ばれた魔法使いクロヴィス・エキャルラットはここにいる。たとえ職を失い、所属を外れても、国を美しく整えて罪人を刈り取るという意志は潰えない。
シビルが、そして彼女の後ろにいる悪魔が、世界にとっての敵となるのなら。『死神』は、偽りの聖女も哀れな悪魔も殺してみせよう。それが、クロヴィスのなすべき正義だ。
「悪魔はシビルさんの傍……シビルさんを見守れる位置にいるはずです。本来なら彼らは人間とは次元の違う存在ですから、そもそもわたし達の感知できる空間にはいないのだと思いますが……この世界を歪ませるために、悪魔はそこを離れてこの時空に降り立ったのでしょう」
「それも、神託とやらでお前の神が教えてくれたのか」
「もちろんです」
クロヴィスは嗤うが、サンドリヨンの言葉を否定はしない。サンドリヨンが謳う神は、彼女が造り上げた存在しない神だ。いもしない神の声に従うなど馬鹿げているが、そもそも世界が歪んでいるなどという与太話に乗るのだからこっちだって馬鹿にならなければいけない。
クロヴィスには一つの大きな後悔があった。リーズ・ラピスという少女の半生を奪ったことだ。彼女は今もどこかで、誰からも気づかれないまま生きているのかもしれないし、その虚無に耐えかねて自ら命を絶ったかもしれない。リーズの犯した罪の真偽はもうわからず、けれど万が一それがシビルの偽証によって成立したものだというのなら、クロヴィスは取り返しのつかない過ちを犯したことになる。そうであるなら、その罪は償わなければいけない。
忘れてしまった真相を明らかにしたいし、リーズが無実だった場合彼女を取り戻せるならその可能性に縋りたい。次代の聖女に濡れ衣を着せて断罪した真の罪人がいるかどうか、確かめなければいけない。だからクロヴィスは、サンドリヨンのたわごとを信じることにしたのだ。それはクロヴィスの信じる正義のためであり、彼自身のためだった。
「それでも、シビルさんを注視していれば知覚できる、という単純な話ではありません。ですが、世界に歪みをもたらす際には必ず受肉しているはずですし、もし悪魔がシビルさんと接触しているのであればその際にも受肉はしているでしょう。この世界に生きる人間に影響を及ぼすのですから、いかに悪魔が別次元の存在といえどその程度の干渉は必要です。狙うとしたら、そのどちらかになるかと」
「ようは悪魔が歪みを引き起こす直前か、聖女サマと悪魔の密会現場に乗り込めばいいんだな?」
ひとまずの目的はできた。あとは、どうやってそれを達成するかだ。悩むクロヴィスに、手を胸の前で組んだサンドリヨンは微笑を浮かべた。
「ご安心を。そのどちらか、あるいは両方を満たす――そんなうってつけの機会が一週間後に訪れると、神託が降りましたので」
*
「これまでおつらかったでしょう。ですが、神はあなたを見ていました。自ら受難の道を進み、あなたの体と心が茨で傷だらけになっていくさまを、神はひどく嘆いて……けれど同時に、その健闘を称えています」
そろそろミサも終盤らしい。よくやるよ、とクロヴィスはため息をついた。
廃教会の礼拝堂、その最後列の長椅子に座るクロヴィスだが、別にサンドリヨンの説教を聞きたいわけではない。昨日の朝から教会を留守にしていて、今日の夕方に帰ってきたらミサの最中だったので、仕方なく手ごろな椅子に座っただけだ。
「あなたは十二分に頑張りました。もう休んでいいのです。さあ、永遠の安息を求めるのなら神に跪いて祈りましょう。恐れることは何もありません、神の愛に包まれるだけなのですから。あるいは、今一度受難の道へ還りますか? それをも神は赦しましょう。神は常にあなたの傍に寄り添い、慈悲と博愛をもってあなたに手を差し伸べています。その手を取るなら安寧を、歩き続けるのなら勇気をたまわることでしょう。どちらを選ぶかはあなた次第です」
サンドリヨンは説教台の影に隠れている。今頃、文字を打ち込みそれを読み上げる魔法具を動かしているはずだ。祭壇に鎮座する気味の悪い石碑は、葬送の神の偶像兼拡声の魔法具だった。
今日のミサの参加者は、三名ほどの暗い顔をした貧民だ。「天使様、天使様」とありがたそうに祈っているが、誰も「救済してください」とは言いださない。「神様が見守ってくださるならまだ頑張れる」「たとえ今よりどん底に落ちても、その時は神様が救ってくださるんだ」などと満足げに去っていく。その神は異端の神だけどいいのか、と水を差すのは野暮なので黙っておいた。
「おい、全員帰ったぞ」
声をかけると、説教台の影からサンドリヨンが出てきた。小さく伸びをしている。
この奇妙なミサは、どうやら四年前から行われているらしい。
サンドリヨンと初めて出会ったのも、四年前のある夜のことだった。この四年間ずっと十六、七歳程度にしか見えず、成長している様子もないサンドリヨンの実年齢について気にすることはとっくにやめている。
当時、クロヴィスはちょっとしたヘマをやらかした。市井をにぎわせていた凶悪な連続殺人犯の凶行に居合わせ、被害者を助けて犯人を追い詰めたのはいいものの、犯人からの激しい抵抗を受けてつい力加減を誤った。その場で犯人を殺してしまったのだ。それだけならまだよかったのだが、最悪なことにその犯人は穢霊、それも中々強力な個体に転じてしまった。
「まだ死にたくない」「よくも殺したな」と殺人者への身勝手な憎悪を剥き出しにしたその罪人は、死してなお穢霊となってクロヴィスに再び襲い掛かった。祓いの心得はクロヴィスにはなく、穢霊に対抗できるのは聖職者しかいない。さすがのクロヴィスも死を覚悟した。
人通りのない場所での出来事であり、他に巻き込まれる無辜の犠牲者がいなかったのは不幸中の幸いだが、穢霊に殺される執行官など笑えない。それに、もしクロヴィスが穢霊に殺されれば、解き放たれた穢霊は死してなお罪を重ね続けるだろう。
国家に仇なす者を取り逃し、あまつさえ無辜の民が傷つけられる。そんな未来を予期してさぁっと青ざめた時、偶然通りがかったのがサンドリヨンだった。
老婆のようなくすんだ白い髪と、星の煌めく夜空をそのまま映した瞳。逃げろと叫ぶより早く、その華奢で美しい少女は穢霊をあっさりと祓った。呆気に取られるクロヴィスに気づき、彼女は不思議そうに小首を傾げた。
「おや? わたしが見えているのですか?」
妙なことを言う少女だった。彼女が纏ったぼろぼろの服は、よく見れば拘束衣の成れの果てのようだ。奇異な風貌も相まって、少女への警戒心が強まる。穢霊を祓ってくれたことに感謝こそすれ、彼女が敵でない保証はなかった。
「どうしてこんなところに、人が……。そもそもお前、なんなんだ?」
「なんなんだとはご挨拶ですね。もしかして見えているだけで、わたしのことはわかりませんか?」
こんな奇抜な知人はいない。クロヴィスの沈黙を肯定と受け取り、少女は仕切り直すように咳払いをする。
「わたしは通りすがりの神の代理人、繝ェ繝シ繧コ・繝サ繝ゥ繝斐せです。この道を少し行くと、打ち捨てられた廃教会があるんです。そこがわたしの家なのですが」
「は? 悪い、代理人? の、なんだって?」
急に異国の言語を混ぜて話さないでほしい。まるでひび割れてぐちゃぐちゃになったような不快な音だ。一体どう発音したらそんな声が出るのだろう。
眉をひそめて聞き返すと、少女はきょとんとした顔をした。しかしそれは一瞬のことで、彼女はまたすぐに口を開く。
「ではわたしのことは、灰被りの娘とでもお呼びください。ほらこの髪、まるで灰を被ったようでしょう? あなたとの……出逢いの記念に、あなたの名前をうかがっても?」
月を背に受け、サンドリヨンは慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
それから、この怪しさ全開の自称神の代理人を監視するため、クロヴィスはたびたびサンドリヨンの様子を見に行くようになった。サンドリヨンが住み着いた教会に、「なんでも悩みを聞いて正しい道を示してくれる天使がいる」という噂がいつのころからか流れ出し、悩める自殺志願者がひっそりと足を運ぶようになってしまったからだ。
サンドリヨンのことは剪定鋏の上層部に報告したものの、死にたがりを死なせてやっているだけだから、と静観する方向になった。というか、庭師達の捜査網にサンドリヨンは不思議と引っかからなかった。廃教会で人間が生活している痕跡こそ見つけたものの、主人であるサンドリヨンはどこにも見当たらなかったらしい。そのため、目に見えた実害と一切の証拠がないことを理由に本格的な捜査がはじまらなかったのだ。
もしサンドリヨンが無差別に殺人を行っていたら、あるいはサンドリヨンに相談したため逆に半端な気持ちで自殺するのはやめようと思った実例が出ていなかったら、こう簡単に諦められはしなかっただろう。
そもそも同僚の中では、サンドリヨンの存在を疑う声が多かった。実際にサンドリヨンに会ったことがあるのがクロヴィスだけで、庭師達が把握できたサンドリヨンの行動もクロヴィスの調査報告によるものだけなのだから、それも仕方ないことだ。下手をするとクロヴィスのほうが狂人扱いされそうだったので、クロヴィスとしては引き下がるほかなかったとも言える。
サンドリヨンは神の慈愛を謳うものの根本的には人間が嫌いなのか、めったに人に会いたがらない。サンドリヨンが姿を見せるのは、クロヴィス一人きりの時だけだ。ごく少数の迷える子羊を前にするミサですら、サンドリヨンは決して人前には出ずわざわざ貴重な魔法具を使って説教をしていた。
存在するかも怪しい得体の知れない『天使』のことより、国家に仇なす罪人のほうが剪定鋏にとって優先順位が高かった。この国に、自殺やその幇助を咎める法律はない。人殺しは人殺しであるため「法律では裁けない」の範疇には入るだろうが、そもそもサンドリヨンが行った殺人の罪どころかまずサンドリヨンの実在が証明できないので出る幕がないのだ。
いつしかサンドリヨンのことは忘れられ、天使がいる教会のことなど「妖精の買い物――いつの間にか消えている商品と置かれた貨幣」「彷徨う幻影――街を漂う謎の白いもや」と同じような怪異の噂の一つとして数えられるようになった。
クロヴィスだけは、サンドリヨンが妙なことをしでかさないか、私的な時間を使って引き続き見張りを続けたが、それが結局友人じみた関係に落ち着いたのだから不思議なものだ。
「お帰りなさい、クロヴィスさん。何かわかりましたか?」
「集められる情報は集めてきたぞ。大した話は出てこなかったが、何かの役には立つだろ」
すでに罷免された身とはいえツテはある。昨日と今日の二日間、クロヴィスは情報収集に奔走していた。
外部の人間に教えられるような話は本来ならばほとんどないのだが、それでも剪定鋏の中には王子アドリアンと聖女シビルのやり方に疑問を持つ者がいた。そんな彼らは、二人にたてついたせいで追放された元同僚のクロヴィスに対して陰ながら協力を約束してくれたのだ。クロヴィスがとある極秘事項を知っていたせいもあるだろう。情報源が胡散臭い似非修道女であることは、さすがに黙っていたが。
サンドリヨンが神託で知ったという、罪のない婦人達が一斉に処刑される日まであと五日。それは、クロヴィス達が悪魔と対峙できる日でもあった。