追放された死神
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「国王陛下のサインはここに。陛下の名代として、この私が判決を下す――魔法士クロヴィス・エキャルラット、今日をもって貴様を罷免する!」
美しい女の肩を抱き、書類を手に毅然として宣言する凛々しい貴公子。彼らと対峙する自分はさながら悪の魔法使いだと、クロヴィスは諦め気味に天を仰いだ。
「聖女シビルを貶めた罪は何より重い。しかしシビルは、慈悲深くも貴様への罰の軽減を願った。忘れるな、貴様の首が今もまだ胴と繋がっているのはシビルの慈愛あってのものだということを!」
(慈悲深い、ねぇ……)
その言葉に、クロヴィスの脳裏にある少女が浮かぶ。彼女が今の言葉を聞いたら、「罪を贖う機会すら与えずに、生き恥を晒し続けよとはなんと非道な……! それならば、彼がこれ以上罪の重さに苦しめられないよう、死による救済を示したほうが慈悲と呼べるのではありませんか?」と心の底からわななくのだろう。クロヴィスが一番知っている慈悲深い聖職者は、そういう頭のおかしい娘だ。
その意味では、眼前の聖女サマのほうがよほど聖女らしいのかもしれない。本音はどうだか知らないが。
「だが、もし再びその薄汚い足で宮廷を穢し、私やシビルの前に現れるのなら、今度こそその命はないと思え!」
この青年も、昔はもっと利発で公正だったのに。だが、それも聖女様と婚約する前の、ほんの子供の頃までの話だ。今ではすっかり婚約者に骨抜きの馬鹿と化している。時の流れはかくも残酷らしい。
「聖女シビル様の慈悲深さに感謝いたします。それじゃあ俺は、これで退場させていただきますね。……どうぞお元気で、アドリアン殿下、シビル様」
なぁにが聖女だ。偽物のくせに。
稀代の詐欺師もとい公爵令嬢と、婚約者の虚飾も見抜けない馬鹿な王子に向けて心の中で舌を出す。慇懃に礼をしたクロヴィスは、灰色のローブを翻して悠々と王宮を後にした。
その歩みはあまりにも堂々としていて、とても宮廷から追い出された罪人には見えない。自信に満ちた美貌もあいまってか、宮廷人達は道を譲って深く頭を下げる。それは、これまでとなんら変わらない光景だ。
彼は『死神』と呼ばれた魔法使い。彼は存在自体が畏怖の象徴だった。そんなクロヴィス・エキャルラット二十四歳、この瞬間から住所不定無職である。
*
「おやおや。職を失い屋敷を差し押さえられ、転がり込んできたのがわたしのところとは。他に頼れるご友人はいないのですか?」
「うるせぇな。教会ってのは誰にでも門戸を開いてるものなんじゃねぇのか?」
クロヴィスは魔法士として、国家の治安と司法を司る組織に所属していた。組織の名は剪定鋏。どちらかと言えば法の網をかいくぐるような姑息な犯罪者や、法律では裁けない犯罪者の捕縛ならびに刑の執行を主目的とする組織だ。国という王の庭の秩序を保つため、王家の庭師とも呼ばれている。剪定鋏所属の執行官達は通常の警察よりも強い権限を持っていたが、だからこそ常に自分を律している必要があった。
出自と年齢のわりには高い地位にあったと思う。正義のために手を血に染めることも多かったが、クロヴィスは己の職務に誇りを持っていた。しかしそれも昨日までのことだ。クビになってしまったので、もうそんなことも言っていられない。
これまでクロヴィスが住んでいた屋敷は、宮廷に仕える魔法使い、すなわち魔法士に下賜されたものだ。罷免されて士爵位を返上した今、屋敷の所有権はもちろんクロヴィスにはなかった。
私財で揃えていた家財道具は当面の生活費として売り払い、必要最低限の荷物だけ持って戸を叩いたのは知人が運営する教会だ。運営と言っても、廃教会を勝手に改装して居座っているだけのようだが。この土地の権利がどうなっているのか、はなはだ疑問である。
「もちろん、神の手は誰の前にも等しく差し伸べられていますとも。それではともに神に祈りましょう、クロヴィスさん。神による死は、きっとあなたにも与えられます。あなた用の棺桶を用意しますのでしばしお待ちを。地下霊廟での暮らし、きっと気に入っていただけるかと思います」
「この、似非修道女が……」
生気の感じられない蒼白な肌と、星空を思わせる金が散った深い藍の瞳。十代の少女―少なくとも外見上は。この数年、彼女の容姿は一切変わっていない―にもかかわらず、肩の上で無造作に切られた髪は老婆のようにくすんだ白色をしている。一分の隙もなくかっちり着こなした修道服が表すのは、貞淑さというより潔癖さのように思えた。
美しくはあるがどこか人間離れした、年齢不詳かつ不気味な容貌の修道女はクロヴィスの知己で、名をサンドリヨンと言った。灰被りというこの珍妙な名が偽名であるとは本人の申告である。どうせ訊いても教えてもらえないだろう本名は、とうにクロヴィスの興味の外にあった。
「あなたの淪落ぶりは、わたしの耳にも入っていますよ。なんでも、聖女を貶めて王子の不興を買ったとか? 天才魔法使いさんも、こうなってしまえば形無しですね」
貶めたわけではない。これまで聖女の実家が政敵を蹴落とそうとしたり、彼女自身が不貞を行っていたりした証拠を集め、それらを王子に突きつけただけだ。結果は、鼻で笑われただけだったが。
シビルの実家である公爵家の暗躍を暴いてなおも無視されて、もはやお手上げ状態だった。公爵家の暗躍が許されるなら、もういつ国家がひっくり返ってもおかしくないじゃないか。下手するとあの公爵家、王朝の簒奪すら狙えるほどの資金と備蓄を隠し持っていたというのに。
いち貴族家が王家と張り合えるだけの権力を持っていたら、今の体制の崩壊すらありえる。だが、「公爵家は国のことを第一に考えてくれている。庭師達と同じだ」と言われてしまえばもう反論はできなかった。同じじゃない、少なくとも王子は傀儡にされているし本格的に王権を乗っ取られる前に公爵家を取り調べたほうがいい、とクロヴィスがわめいたところで詭弁としか取られないだろう。
「すべてを擲って王家に尽くしてきたクロヴィスさんを斬り捨てるだなんて……ああ、人の世のなんと無情なことか」
「俺も自分の見る目のなさには嫌気がさしてるところだよ。ま、しょせん俺の忠義なんて女の色仕掛けに負ける程度の薄っぺらいものだったってことだ」
サンドリヨンは穏やかな微笑を浮かべながらクロヴィスを中に招き入れた。まだ陽が沈んだばかりとはいえ、礼拝堂に人の気配はない。と言っても、この教会にサンドリヨン以外の人間がいることはほとんどなかった。
礼拝堂の奥の扉に通され、廊下の向こうの階段を上がる。二階はサンドリヨンの居住スペースだ。この教会に祈る目的で来たことのないクロヴィスにとっては、二階の居間のほうが馴染みのある場所だった。
「夕食はまだでしょう? 用意するのでしばしお待ちを。その間に客室の掃除をやっていただけると助かるのですが。なにぶん、普段は使っていない部屋でして」
「ベッドが棺桶じゃなければ喜んで。それぐらいはもちろんやるさ」
当面の宿代として金の入った袋をテーブルに置いて居間を出る。物置から掃除用具を引っ張り出して、たった一つの客室のドアを開けた。簡素だが、最低限のものはある部屋だ。しばらく暮らす分には困らないだろう。荷物を置いて簡単に掃除を済ませる。腹が減った。
食堂に向かうと、ちょうどサンドリヨンが配膳を終えたところだった。素朴で家庭的な料理が並んでいる。
食前の祈りもそこそこに夕食に手をつける。素材の味を活かした、繊細な味わいだ。たまに手料理を振る舞ってもらうが、彼女の料理はいつ食べても美味い。向かいに座ったサンドリヨンは、いつも通りの何を考えているかわからない微笑を湛えてクロヴィスを見ていた。
「俺は、自分が正しいと思ったことをしたんだ」
この胡散臭い修道女に告解したいわけでも、弁明したいわけでもない。それでも自然と言葉があふれる。
「シビルは本物の聖女なんかじゃない。シビルは、その地位を乗っ取っただけなんだよ。本物の聖女は、きっとリーズだったんだ」
「だから、あなたはシビルさんの罪を糾弾したのですか? ……けれどシビルさんの真偽も、リーズさんの消失も、あなたには関係のないことでしょう。シビルさんが何をしても、見てみぬふりでもしていればよかったのに。そうすれば、あなたまで宮廷を追われることはありませんでした」
「このままシビルがのうのうと暮らしてたら、リーズが浮かばれないだろうが。……俺はこれ以上、後悔したくないんだよ」
サンドリヨンは呆れたようにため息をつく。「わたしに異教徒のことは皆目見当もつきませんが」と前置きし、彼女は黒パンを小さく千切った。
「誰が聖女であろうと、別にどうでもいいのでは? シビルさんが聖女の役目を果たせるなら、それでいいではありませんか。そもそもリーズさんのことを知っているのは、今となってはあなた一人だけです。存在すら消された人のことを、どうしていつまでも引きずるのですか?」
「誰からも忘れられてるからだよ。せめて俺だけは、あいつのことを大切にしなきゃいけないんだ。……人でなしのお前には、わからないだろうけどな」
リーズ。リーズ・ラピス。かつて自分が殺したとある少女の名前を、クロヴィスは心の中で繰り返す。大丈夫、今日もまだ彼女のことを覚えている。たとえそれが、欠片でしかなかったとしても。
「はぁ。まったくもって理解不能ですね。再三言っていますが、リーズさんの件はあなたが気にすることではありません」
「お前が言うことじゃないと思うんだが」
当事者でもないサンドリヨンに何がわかるというのか。リーズ本人から許されたいわけでは決してないが、だからこそ何も知らない者が軽々しくこの罪を量ろうとするのは気に食わない。だが、サンドリヨンはどこ吹く風だ。
「仮にリーズさんが本物の聖女だったとしても、罪人を祀り上げては問題になるのでは? シビルさんという後釜が現れてくれたことに感謝すべきだと思うのですが。少なくとも、わたしはしていますよ」
「なんでお前が感謝なんてしてるんだよ」
「おかげで、わたしが表舞台に立つ必要がなくなりましたから。聖女になれば、我が神の教えを広められるやもしれません。ですがそれでは押し付けになってしまいます。ですからわたしはここでひっそりと、救いを求める子らを待つのみです。人が心から祈ってこそ、救いは救いたりえるのですよ?」
「邪教徒のくせに、自分に聖女が務まるっていう自信はどこから来るんだ? いっぺん鏡見てこい鏡」
すかさず突っ込む。サンドリヨンは小首をかしげた。こっちは真剣に悩んでいるというのに、相変わらず腹立たしい女だ。
「お前の神は、お前が自分で考えた神だろうが」
「ですがもっとも慈悲深き神です。何か問題でも?」
信奉するのは葬送の神。彼女は自らをその代理人であると公言してやまない。ゆえにサンドリヨンは死を救済とみなし、生きることに疲れた子羊達に安息を与える。ただし彼女が殺めるのは、自ら生を諦め命を捨てたがる者だけだった。
それ以外の人間は決して手にかけないし、生きる勇気を取り戻した者のことは無理に追おうともしない。おまけに供養やら遺族の対応やらの事後処理も完璧とくれば、罪は罪でもクロヴィスとしては裁く理由が見つからなかった。彼女の慈悲で不幸になった者はいないからだ。
そんな厄介な狂信者の世話にしばらくなろうと思ったのは、他ならないクロヴィス自身だった。……他に選択肢がなかったとはいえ、ちょっと早まったかなと思わなくもない。
*
サンドリヨンの教会で暮らすようになって早一週間。サンドリヨンがまだぐうすか寝ている中、新聞を開いたクロヴィスの表情が曇る。さっそく危惧していた事態になった。
「なにが『慈悲深い聖女』だ」
新聞には、高貴な家柄の婦人達を、聖女を貶めた罪で急遽処刑する告知が載っていた。日時は今日の正午だ。おそらく、有力貴族達の力を削ぎつつ聖女への畏怖を集めるのが狙いだろう。
シビルは四年ほど前から次代の聖女として扱われていた。先代聖女が崩御したのが半月前だ。シビルはあと数日もすれば正式に聖女として任命される。任命に際する一斉処刑で、聖女の威光を知らしめるに違いない。
聖女を貶めた罪という名の、王子に対する諫言はクロヴィスもずっとしていた。だがクロヴィスは、士爵に叙勲されただけの平民だ。見せしめに処刑する意味はない。魔力こそ強力だが、だからこそ下手に殺すわけにはいかなかったというのもあるだろう。
負の感情を抱えた人間が無念の死を遂げると、その魂は穢霊となって生者の世界に牙を剥くことがある。魔力が高ければ穢霊化の危険も高まるし、高い魔力持ちが転じた穢霊は総じて強力だ。
穢霊を祓うことができるのは聖職者だけであり、その聖職者達を取りまとめるのが祓聖庁だった。と言っても、邪教徒のサンドリヨンもかなり強めの祓いの力が使えるので、祓いの適性に信仰心は関係ないんじゃないかと思う今日この頃だ。
サンドリヨンいわく、「死してなお魂が安寧を得られないことなどあってはならないことです。彷徨える魂を主の御許へ正しく導くことも、当然わたしの役割でしょう?」らしい。それが彼女を異端とはいえ聖職者と呼ばざるを得ないゆえんであり、四年ほど友人をやっている理由だった。
当代でもっとも強い祓いの力を持つ者は、聖人と呼ばれて信仰の象徴となる。しかしシビルがそこまでの逸材だとはどうしても思えなかった。もし強力な魔法使いであるクロヴィスが穢霊となってしまえば、偽聖女の手に負えないはずだ。その点、贄に選ばれた婦人達なら穢霊化しても問題ないと判断されたのだろう。胸糞悪いことこのうえない。
クロヴィスは一度追放された身だ。宮廷に戻るようなことがあれば、不都合があるに違いない――――それでも、見過ごしてはいけないものがある。
「処刑人が殺していいのは、国と民に仇なす罪人だけだろうが。……言葉が通じないだけで諦めたのが間違いだった。国賊は、俺が殺す」
サンドリヨン宛に書置きを残し、クロヴィスは教会を出た。
あまりに馬鹿らしくなって捨ててしまった忠義の刃をもう一度拾う。国の敵は見定めた。なら、たとえ刺し違えてでも滅ぼすまでだ。
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婦人達の処刑は王都の中央広場で執り行われるらしい。そのやり方は、まるで一種の見世物のようだった。実際、その解釈は間違っていないのだろう。
処刑台の上で、粗末な服を着せられた五人の婦人達が震えている。年のころは二十歳くらいといったところか。大体シビルと同年代だろう。直接面識のある顔はないが、処刑台に引き立てられるほど素行に問題のある者がいないことはわかる。これでも司法に携わる仕事をしていた身だ。
処刑を見物に来た群衆に紛れて処刑台に近づく。王子アドリアンと聖女シビルは特等席にいた。満足げに処刑台を見下ろしている。
(あの二人に、守護の魔法は……そりゃ、ぶ厚いのがかかってるよな。ま、この程度なら突破できるか)
これ以上、シビルの好きにさせはしない。この婦人達がいなくなれば、本当にシビルの天下になってしまう。
まずは処刑台の上。転移の魔法を使ってそこまで移動し、婦人達の安全を確保する。突然展開された守護の魔法に、広場がざわめき出した。
役人の一人がクロヴィスを指さしている。処刑人は慌てふためき、婦人達は縋るようにクロヴィスを見ていた。それに構わずクロヴィスはシビルとアドリアンに向けて、射出の魔法を放った。研ぎ澄まされた魔力はまるで死の弾丸だ。
二つの弾丸は幾重にも張り巡らされた守護の魔法を穿ち、国を蝕む偽りの聖女と傀儡の王子の心臓を貫いた。何が起こったのかわからないと言いたげに目を見開いた二人は、胸に開いた大きな穴から鮮血を散らして崩れ落ちる。人を殺すのは決して初めてではないが、こんな大勢の前で殺したのは初めてだった。
ふと、人混みの向こうに一人の修道女が見えた。広場に向かって慌てて走ってくる。相変わらず目立つ風貌だが、状況が状況であるせいか誰も彼女のことなど気にも留めていない。
サンドリヨンは他の観衆同様驚いた顔をしていた。クロヴィスに向かって何か叫んでいる。だが、その声はクロヴィスには届かなかった。
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