イビキの行方
山田さんが退院して2日目、そろそろ開いているベッドが埋まるなと思っていたら、案の定、新しい人が入ってきた。
「はじめまして。お世話になります。」
その人はでっぷりと太った50代半ばくらいの人で、村山と名乗った。
「私、ひとつ皆さんに謝らなければなりません。」
初っ端から、こんな風に切り出したものだから、何事かと思ったが、どうもイビキが酷いらしい。
「本当は一人部屋がいいんですが、こればかりは自分でも止めようがなくて、いろいろ試しても見たんですが、どれも結局ダメでしてね。皆さんにご迷惑をおかけすることになると思うんですよ。」
「なあに、イビキなんか俺も時々ありますから。」
向かいのベッドにいる城山は、気さくに言った。自分はイビキをするとは今まで言われたことがなかったが、病院ではわがままも言えまい。ただでさえ夜は眠りが浅くなっているので、本当は迷惑なのだが、仕方ないと思っていた。
「2~3日で一人部屋が空くそうなので、しばらくの間だけご容赦願います。」
村山さんは申し訳なさそうに頭を下げたが、どうせ自分で言うほどの事も無かろうと自分は嵩を括っていた。
その夜はまさに地獄だった。
村山さんのイビキは、天を揺るがし地を震わせるほどの轟音であった。飛行場で眠っていてもこれほどの事はあるまいと思えるほど凄まじい騒音なのである。
就寝してから1時間くらいからイビキが始まったと見るや、その音はわずか数分で爆音に変わった。思わずカーテンを開けてみたが、向かいの城山も同じだったらしく、カーテンを開けて嫌な顔をしているのが見えた。その日は仕方なく、ヘッドホンをしてこっそりスマホにつないで音楽をかけてなんとか眠った。
「すいませんでした。五月蠅かったでしょう?」
翌朝、村山さんは申し訳なさそうに、自分と城山に謝った。
「いやあ、ホントすさまじかったですね。おかげで寝不足ですわ。」
城山は笑っていたが、目は充血していた。
村山さんがいないときに、城山は看護師に聞いていたらしい。村山さんは緊急の患者の為に、一人部屋から移ってきたらしい。村山さんのイビキは看護師たちには有名な話らしく、一人欠けている自分たちの部屋が一番被害が少ないだろうと、この部屋にあてがわれてきたのだそうだ。
「申し訳ありません。もう少しで退院の患者さんがいらっしゃるので、少しの間だけ勘弁していただけませんか?」
「それにしても、すごいイビキだよな。」
「ええ、実は前にも部屋替えをしていただいたことがあって、その時は両隣と向かい側の部屋からも苦情が来たぐらいでして、ここは角部屋だし、患者さんも二人だけなので・・・。」
自分も城山も、ある程度入院していて看護師とも顔見知りである。申し訳なさそうな顔をした看護師を責められなかった。まあ少しだけなら仕方あるまいと納得したものの、今夜もアレの爆音の中で過ごすのかと思うと気が滅入った。
だが、不思議なことに、その夜は村山さんが眠る前に、自分が先に落ちた。たぶん昨夜の睡眠不足の疲れがあったのだろう。夜中に村山さんのイビキに苛まれることなく、翌朝までグッスリと眠ったようだ。
朝起きると、城山と目が合った。奴の目は充血していて不機嫌そうな顔をこちらに向けていた。
「おはようございます。昨日も酷かったでしょう。本当に申し訳ありません。」
村山さんはまた申し訳なさそうに謝った。
「いや、昨日はグッスリ眠れましたよ。人間何事も慣れるもんですね。」
城山には申し訳ないが、自分はグッスリ眠れたものだから、笑いがこぼれた。しかし城山は、怒った顔をしてカーテンを荒々しく締めた。
「おい、さすがにあれはないだろう。」
自分は城山に言った。こいつとはお互いに入院が長引いているせいもあって、割と親しい間柄になっている。何でも、とまでは言えないが、それなりの友達関係は出来ているつもりだった。
「ふざけんなよ。」
城山はギロリと自分をにらんだ。
「何が?」
「昨日はお前が五月蠅かったんだ。」
「うそ?」
今まで自分のイビキが五月蠅いと人に指摘されたことはなかった。
「村山のイビキがうつったみたいに凄まじい轟音でしたァ。お蔭で二晩続きで徹夜だわ。」
自分には何の心当たりもなかった。前にイビキが五月蠅いという上司が「自分のイビキで目を覚ました。」なんてことを言っていたが、そういう事もなかったし、とうの村山さんもイビキで起きるということもなさそうだった。
おかしい、体調が優れないのか? 自分は本当はイビキが凄かったのか? 悶々としているうちにまた夜が来た。今度は眠らないようにしよう。少なくとも城山が寝てから寝れば、少なくとも少しくらいは眠れるだろう。
そう思っていた。就寝の時間が過ぎ、村山さんはスースーと気持ちよさそうに寝息を立て始めた。初日もこうだったのだ。だから油断していたとも言える。
寝てはいけない。寝ると自分がイビキをかく。眠らないようにじっと我慢をしていた。やがて軽いイビキが始まると、すぐにその音は轟音へと変わった。
『ああ、まただよ。城山眠れてるかなあ・・』ふと思った。轟音には違いないが、その音は向かいのベッドの方から聞こえてくるような気がした。カーテンを開けてみると、やっぱり飛行機の爆音のような音は城山のベッドから聞こえてきていた。
自分はそっとカーテンを開けて、村山さんのカーテンを開けてみたが、村山さんはスースーと静かな寝息を立てて眠っていた。城山は自分の事をうつったみたいと言っていたが、風邪でもあるまいし、イビキが人にうつるなんて事があるのだろうか?
村山さんのカーテンをそっと閉めて、城山のベッドに向かった。ちょっと薄気味悪かったが、カーテンを捲って城山を見ると、やはりイビキをかき大口を開けていたのは城山だった。お互いにけっこう長くいたが、城山がこんなイビキをするのを見たのは初めてだった。
その晩は一睡もできなかった。
「昨日はグッスリ眠れたかい?」
嫌味満載で城山に尋ねた。村山さんは今日も申し開けなさそうに謝っていたが、昨日は城山が五月蠅かったのだ。
「ああ、昨日はグッスリ眠れたよ。二晩徹夜だろ。そのせいかな? それとも慣れてきたかな、お前の言うう通りにさ。」
城山は昨日とは打って変わって、笑顔で言った。
「お前さー。昨日はお前が五月蠅かったんだよ。」
「え? 俺が?」
「そうだよ、気づいてないのか?」
自分の事は棚に上げた。
「なあ・・・。」
城山は少し考えこんでから、ポツンと言った。
「・・・村山さんはどうなんだろう?」
「え? 村山さんはイビキもかかずに寝てたみたいだけど。」
「・・・それって変じゃないか?」
「何が?」
「あの轟音の中、お前は眠れるか? それなのに何で村山さんは毎朝俺たちに謝るんだ?」
言われてみれば、その通りだった。あの殺人的なイビキの音量に目を覚まさない人間などいないのではないかと言うほどの音量である。我々が疲れて眠って、イビキをかいたのはありうるとしても、村山さんはどうして目を覚まさないのだろう?
その晩は、二人とも眠らないように気を付けていた。やがて就寝時間が来て、いつも通り村山さんはベッドの明かりを消して眠りについたらしい。自分と城山も電気を消してベッドにもぐりこんでいる。不意に眠らないように目は開けたままである。
やがて軽いイビキが聞こえ始めると、いつもと同じ爆音が轟き始めた。
カーテンをそっと開ける。城山も顔を出していた。
「え?」
二人は静かにカーテンを閉めた。
イビキが止まった訳ではない。しかし眠れるわけでもない。
特に今日は、別の意味で眠れそうもなかった。
どうして? って。
だって、イビキは誰もいないベットから聞こえてきたのだもの。
どうも怖いのは苦手だ。