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灯火が生まれる

作者: 実莉


灯火が生まれる


彼には名前が無かった。気付けばこの世界で息をし、四肢を動かすことができるようになっていた。彼が初めて知った感情は虚無感だった。自分には何もないのだ。生存するための術こそは知っていても、彼は他に誇れる物は何一つとしてない。


歩けばきっと何かを得られる――。彼には暇を持て余すほどの時間と自由があった。ふと湧きあがった考えに彼は一歩足を踏み出した。生まれて初めて生きること以外に使った足は軽かった。柔らかな草は素足を優しく受け取った。


「君は影なんだよ。」


しばらく歩いた後に彼は小さな池を見つけた。水底までがはっきりと見える澄んだ水だった。そこで彼が喉を潤していると、そこの守り神だという水蛇は冷たく彼へ言ったのだ。


薄いベールを纏い、ふわふわな髪の上には池に自生した花が乗っていた。中性的な顔立ちはただの人間のようで。しかし首筋から頬に掛けて浮かぶ鱗に蛇なのだと彼は理解する。


「ねぇ、聞いてんの?……覗いてみなよ。」


彼は水蛇に言われたとおりに水面を覗く。映ったのはゆらゆらと光に揺れる影だった。水蛇がすっと光を遮れば途端、彼の姿は水面から消え失せた。


「君は影だ。光があってこその影。光を失ったら呆気なく消える哀れな存在だよ。……何、今までそれすらも知らなかった?」


水蛇は嘲笑した。笑うたびに髪からは水滴が滴る。


「泣いてるの?」


彼は初めて言葉を発した。静かでそれでいて落ち着く青年にしては少し高めの声だった。水蛇はその言葉に動きが止まった。


「はぁ?」


水蛇は彼を睨みつけた。ぐっと気温が下がる。空は黄昏に近づいていた。


「泣いてる、」


「ちょっと何言って、」


彼は意見を曲げなかった。確信を持って、水蛇を、水に濡れた水蛇をじっと見つめる。


「……俺と、おなじ……だね?」


「だから!」


「君も消えるから、同じ類の俺を見て、悲しくなったの?」


「な、んで……。」


水蛇は絶句し、何かを誤魔化すように池へと逃げた。太陽は落ち、彼の姿は水面には決して映らない。空は真っ暗だった。


「悲しいよ。」


彼は池の近くにあった切株に腰かけじっと暗い水面を見つめていた。数十分過ぎてあの水蛇がぶくぶくと息を吐く。そして小さく呟いた。


「そうだね、君と同じだ。俺はここから動けない。守り神なんて人の信仰が消えれば存在は失せる。仮ここの池が枯れたなら俺は息を出来ないんだし。」


案外君より俺はか弱いかもね、水蛇は水面から上がり彼の隣へ池の淵に腰かけた。雲が途切れ月明かりが森を照らす。透明な水面に月はきらきらと反射した。


「違うか。俺はきっと君よりか弱い。」


水蛇の顔は青白かった。月光のせいだよと水蛇は訝しげに見る彼に苦笑する。


「君は夜でも月があるのなら生きていけるのか。光と影、表裏一体という言葉、知ってる?」


彼は小さく頷いた。暇を持て余して本で知識だけは大量に得ていた。


「そう。」


「……君だって生きていけるよ。だってこんなにも美しいから。」


「何それ、馬鹿にしてる?」


「してないよ。本当に綺麗だ。太陽の光に照らされた水も、ここから見える月明かりも。きっと君がずっと管理してきたからだね。それに君の姿を見る限り、個々の信仰も篤いみたいだ。」


急に饒舌となった彼に水蛇は驚いた。しかし、ふっと眼を細め微笑する。彼がふっと隣を見ると水蛇は慌ててベールで顔を隠した。


「早く行きなよ。ここにとどまることが目的じゃないだろ?」


「……照れてる?」


「照れてない!」


薄いベールでは表情を読み取れなくとも顔色はわかるんだよ。彼はあえて言わなかった。立ち上がり彼は「またね」と水蛇に背を向ける。


「……ありがとう。」


水蛇は彼が見えなくなると誰にも聞こえない声で呟いた。またね、と彼は言った。さようなら、ではなかった。水蛇の瞳は逸る気持ちに頬を緩める。この池を幾年と守ってきたが、ここを使う人間は誰ひとりとして水蛇の姿を視認しなかった。存在すらも知られない。ここを守っている〈誰か〉の存在は理解していても人間はここに水蛇がいることを知ろうともしなかった。知る術もなかった。水蛇にとって先の彼との会話は、この地で生きることを神に定められてから初めての経験だったのだ。最初は失敗ばかりだった。もう一度やり直したいから。またねという言葉に水蛇は、胸を躍らせた。


慣れ親しんだ池へぴちゃりと足をつける。冷たい、雲一つなくなった空は遠く高く見えた。水蛇は空を仰ぐ。星は水を冷やしていた。


彼はまたひたすら歩き続けていた。そしてあの水蛇のようにまた別の人と出会い、別れることを繰り返していた。学んだことはたくさんあった。彼の感情はもう虚無感だけではない。いろいろな感情が彼自身を彩っていた。人と会話をすることにたどたどしさもいつの間にか消えていた。


彼が出会う人たちに似たりよった人は誰一人としていなかった。それぞれに個性があり、性格があり考え方があった。「自分がわからないんだよ」と問うた彼に、光だというものもいれば、神だと言うものだっていた。どれもピンときた。間違いは一つもない気がした。しかし、彼の中では一番最初に出会ったあの、水蛇の言葉が彼の問いに氷解していたのだ。


自分が誰かを求める旅を何百年と続けてきて、彼は見覚えのある場所に辿り着いたのだ。――あの水蛇が守る池だった。そこはあの時に比べると木は鬱蒼さが増し、薄暗さが目立っていた。しかし、池の水は未だ変わらずにきらきらと僅かばかりの光を反射している。しかし、そこにいるべきはずのあの子の姿はどこにもない。


「おや、珍しい。客人ですか?」


昔、彼が腰かけた切株は長い年月を超えても何も変わっていなかった。また彼はそこへ座り、あの時のように水面から顔を出す水蛇の存在を待っていた。彼に掛けられた声は、水蛇のものではない。


「水蛇さん?」


「そうですね、一応水蛇です。けれどあなたの望んだあの方ではないことをお許しください。」


あの水蛇と外見はそっくりだった。しかし、声に話し方にあの子ではないと彼ははっきり分かった。


「あの水蛇の行方を知っているみたいだけど、俺のことも知っているのかな?」


「えぇ、存じています。影だと、あの方からは伺っておりました。」


「そっか。それで、水蛇の在り処を教えて欲しいんだけど。」


もういません。水蛇の彼女は伏し目がちにそう答えた。その言葉に彼の思考は止まる。


「……私はあの方とここで暮らしていました。いえ、暮らしていたというと語弊を生みますね。私はいわば彼の後釜みたいなものなのです。」


彼女は淡々と語る。


「私たち、守り神はいつか寿命が訪れます。その時に、その場に誰もいなければその人が守っていた場所は一気に荒廃するのです。それが起きることを防ぐために私たちは寿命が訪れる守り神の持ち場に数年前から配属されます。元来その場を守り続ける彼らの力を分け与えてもらい、彼らがその一生を終えるときに私たちは持ち場を引き継ぎます。」


「つまり、あの子はもうここにも、この世にもいないってこと?」


「そうなります。」


そう。あんなにたくさんの感情を学んだというのに、彼はこんな時どうすればいいのかわからなかった。これじゃあ、あの時と何も変わらないよ。何も知らなかった彼に初めて存在を教えてくれた水蛇の存在はもうどこにもない。


「あの方は私がここに配属されてから毎日のようにあなたの話ばかりでした。」


「……うん。」


「それは耳にタコができるほどに、熱心に私にお話しくださいました。またね、と言ってくれたから、と。次にあなたに会える日をあの方は恋い焦がれ続けていたのです。」


陽は傾き、あの時からいくらかばかり増えた樹木のせいで池の周辺は一気に暗くなる。彼が上を見上げると、そこは空一面を覆いつくすような星空が広がっていた。細々とした小さな明かりが夜空に点滅したように見える。池の水面にはそんな幻想的な空が鏡のように映し出されていた。


「……綺麗。」


月のない夜はこんなにも星は綺麗なのかと、彼は詠嘆の息を漏らした。彼女はそれを見てくすりと笑う。報われましたねと。


「何故?」


「だってあの方はこの景色を残すために色々と手を尽くしてましたから。いくら周りに木が増えてきても、この池の周辺には生えないようにと念を押して、そうそうあなたの座っているそこの切り株だってあの方が守っていてくれたんですよ?そこはあの影君が座る場所だから、取っておきたいんだって。」


ちゃぷり、彼女は池の水に足をつけた。透明な水は彼女の元々日に焼けていない真っ白な足をなお白く見せた。池の淵に腰掛けて空を仰ぐ彼女の横顔は美しかった。二人の間を夜に冷えた風が通り抜ける。


「……少し話過ぎましたね。私も誰かと話すことは久しいもので、すみません。」


「別にいいよ。君の話を聞いてるとあの子と会話しているみたいだから。おかしいね。君とあの子は別人なのに。」


もう少し、あと少し早くここを訪れたら、彼はあの子と出会えたのか。彼の中には後悔のみが駆け巡った。


「『ねぇ、もしも俺が消えた後に影が来たらさ伝えてくれないかな。――ありがとうって。』……これがあの方の最期の言葉です。」


私の役目は終わりました。彼女は彼を見つめて薄らと微笑んだ。


「私に課せられた仕事は、勿論ここの守護ですが、あの方から請け負ったあなたへの言伝の守り人は責任をもって全うしましたから。……私はもう池に潜りますね。――火影さん。」


「ほかげ……?」


「ふふ、今のあなたは灯火を手に入れましたから。それでは、私はこの辺で。」


彼は彼女の言葉の意味を考えた。“火影”は灯火の後ろに生まれる影だ。それがどうして自分だというのか。笑みを浮かべた彼女はそのまま池の中に体を滑り込ませ、真っ白い蛇となり岩陰の隙間へと消えた。


灯火、灯された明かり。彼――火影は合点がいった。ああ、そうか。火影は手の平を握る。力を込めてそしてゆっくりと開く。数百年も前にあの水蛇が言ったことは言いえて妙だったのだ。影は光がないと存在しえないと、水蛇だって言ったではないか。虚無感しかなかった火影が今、あの子を失って喪失ということを知った。火影の心に仄かな炎が静かに寄り添う。こんなにも胸が締め付けられるような感情は初めてだった。失うことはこんなにも悲しくて、辛い。だけど、ただ純粋に自分とまた巡り合う″二度目″を待ち続けた水蛇のあの子が自分を導く、存在を維持させる灯火と生まれ変わるのなら。


「……もう俺は自分の存在がわからないことは二度とないね。」


火影は水面を覗き込んで笑う。頬から伝う涙が水上に落ちて波紋を生み出した。自分の影がもろく儚くも崩れる。しかし、あの時のように彼の姿が水面から消えることは無かった。


『時が俺の目を曇らせたんだろうね。そこまであの影を思い続ける、なんて随分と酔狂なことだよ。……俺だってわかってる。あーあ、俺があの子を思い浮かべて幾時が過ぎたのかな?……だけどね?後悔はしてないよ。もう一度が叶わなくたって、それでいいんだ。』

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