2.霜月の十六夜
このところ、どうもさらさの様子がおかしい。
木々の葉が赤く染まり、初霜の降りたあたりからだろうか。さらさは床に就いていることが増えていた。
病なのかと問えば、そうではないと答える。ただ寒くて、起きるのがつらいだけなのだと。
はじめはそのようなこともあるかと見過ごしていた。だがさらさの様子は日々おかしくなっていく。
ともかく起きているのがつらいようなのだ。床から這い出した後も、ふとした加減にうつらうつらと寝入りそうになる。
源三郎には多少ながら医術の心得がある。
脈をとり、呼吸をはかり、舌の色を見るが――これといって思い当たる病がない。
だが、どうにも脈が弱く、体が異常なまでに冷えている。まるで死にかけの病人のように。
(どうすればよいのだ――)
不安に胸が押しつぶされそうになる。
さらさの様子は明らかにおかしい。源三郎の知らない、何か重篤な病に冒されているのかもしれない。
もし、さらさがひとではないとすれば。それでは源三郎には――そして他の人間の医師にも、手の施しようがないのではないか。
(さらさに訊ねなくては)
正体を明らかにすれば、さらさは源三郎の許から去っていくかもしれない。
物語の中のもののけの女房たちは、真の姿を知られたとき、例外なく夫のもとから去っていった。さらさと源三郎の間に同じことが起こらないと、どうして言えよう。
それでも、病に冒されたものをむざむざ見殺しにするより、よほどいい。たとえ金輪際会えなくなったとしても、さらさがどこかで生きているならば、それで満足すべきだろう。
一番大切なのは、さらさの身が無事であることなのだから。
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霜月も半ばを過ぎた十六夜の夕べ、源三郎は意を決してさらさに声をかけた。
「さらさ、こっちに来なさい」
囲炉裏端でうつらうつらとしていたさらさは気だるげに眼を開けると、ゆっくりとした動作で源三郎のそばに身を寄せた。
「ああ、そんなに薄着をしていてはいけない。これを」
自分が着ていた羽織を脱ぐと、さらさの肩の上にぱさりと掛ける。
「ありがとうございます」
そう答えるさらさは相変わらず具合が悪そうだ。唇には血の気がなく、ふと触れたその指は氷のように冷たい。
「さらさ、そなたはどう見ても具合が悪そうに見える。だが、何の病なのか、私にはまるで見当がつかない。だから聞かせてほしい。さらさ、そなたは本当に――ひと、なのか」
胸元に寄り添うさらさの肩が、ぴくりとこわばる。
「……どうして、そのようなことを」
ずいぶんと間をおいて、さらさがそう問いかけてきた。
源三郎はさらさの背に腕をまわすと、さらに胸元近くへと引き寄せる。
「つまらぬ思い込みだと笑ってくれていい。だが私は、そなたが心配でならない。何の病なのかを知り、かなうことならそれを癒したい。だから答えてくれ。さらさ、そなたは……」
「源三郎さま……私は……」
さらさは言葉を詰まらせる。
そして源三郎の腕の中からするりと抜け出すと、目前に相対する形で正座した。
さらさは頭を垂れたまま、しばらく考え込んでいた。だが、ようよう決意したのだろう。顔をあげ、思いつめたような表情でゆっくりと話し始めた。
「私は……蛇でございます」
ああ、そうであったのか。
源三郎は不思議なほどすんなりとその言葉を受け入れていた。
「そうです。源三郎さまのおっしゃるとおり、私はひとではございませぬ。このところ体の具合が思わしくないのは、その……本来ならば、眠りに就いているはずの季節であるからなのです」
さらさは語った。
自分は里のはずれの淵に住まう蛇なのだと。
田植えの頃、蛇の姿のまま川遊びを楽しんでいたところ、里人に捕えられ、危うく殺されかけたことがあった。そのとき救ってくれたのが源三郎で、以来、源三郎に心ひかれ、ずっとその姿を追い続けていたのだ……と。
「源三郎さまはお優しい方。源三郎さまにとってはいじめられている生き物を助けるなど珍しくもないことは重々承知しております。私のことなど、とうにお忘れだったことでしょう。ですが私にとっては、唯一無二の出来事だったのでございます」
源三郎はさらさの前ににじりよると、膝の上に置かれていた手を自分の手でそっと包み込んだ。
「すまぬ。蛇を助けたことは覚えている。だが、それがそなたであったとは、今の今まで気づかなんだ」
「無理もないことでございます。蛇がひとに変じるなど、どうしてまことのことだと思えましょう。ですが真実、私はあのときの蛇なのでございます」
「そなたの言葉を疑ったりするものか。しかし、それで近頃は体が冷え切っていたのだな。もう冬眠すべきときだというのに、ずっと目を覚ましたまま過ごしていたとは。ずいぶん無理をしていたのではないか?」
「あの、源三郎さま。蛇と知って恐ろしくはないですか。忌わしくはないですか」
「たしかに驚いた。だがそれよりも、そなたが悪い病ではなかったのだと知って、安堵している。ただ……」
「ただ……何でございましょう」
「私はそなたの正体を暴いてしまった。それでも、そなたは私のもとに居続けてくれるのだろうか」
「はい、もちろん。源三郎さま私を恐れずにいてくださる限りは」
「そうなのか……よかった」
源三郎は自分でも驚いていた。
さらさはおそらく、ひとならざるものであるのだろう。薄々察していたことではある。
その正体を知ったとき、自分は彼女を嫌悪するようになるのではないか。その恐れは常に源三郎の胸の裡にあった。
だが今、さらさの正体が明らかになって最初に覚えた感情は、嫌悪ではなく、納得と安堵だったのだ。
「源三郎さまは、蛇がお好きなのでしょうか」
「蛇が好きかと問われれば、少し困るが」
正直に言えば、あまり好きではない。見るだけで身が竦むというほどではないが、好んでそばに置きたいとは思わない。
だが、その蛇がさらさであるならば話は別だ。
「さらさ、そなたは好きだ。たとえ今の姿がかりそめのものに過ぎないとしても。まあ、閨で、突然蛇に変わるようなことになれば、さすがに私も驚くだろうが」
「ああ、源三郎さま……」
さらさは満足げに夫の名を呼ぶと、源三郎の胸元に頬を擦りつけてきた。源三郎もまたさらさの背に腕をまわし、軽く抱きしめる。
「それにしても、どうしたものか。無理せず冬眠したほうがよいのではないか」
「うんと暖かくしていられるならば、冬じゅう起きていられないわけではないのです。でも、そうですね、本当は春まで眠りに就いていたほうが」
「どうすればよい。この小屋に新たにそなたの寝場所を作ろうか」
「いえ、冬の間だけわが眷属のもとへ帰る、それが一番よい方法ではあるのです。ひとの住まいに居ては、冬越しの眠りに就くのは少しばかり難しくて。ですが、源三郎さまと離れて暮らすなど、考えるだけでも、どうにも耐えがたく」
「私もだよ、さらさ。そなたのおらぬ日々など、もはや考えられぬ。だが、一番大切なのは、そなたの体だ。その身が無事であることをこそ、私は望んでいる」
「源三郎さま……」
「実家に戻り、冬ごもりしなさい。春になったら……戻っておいで。必ず」
「はい……」
少し間をおいて、思い出したようにさらさが言葉を足した。
「あの、源三郎さま。私がおらぬ間、くれぐれも、浮気などなさらないでくださいね?」
「何を言う。そなた以外の女になど、どうして目を向けようか。第一、このような山奥に、わざわざ訪ねてくる女などおらぬ。そのような心配は無用だ」
「源三郎さまはご存じないのです」
少し拗ねたような声でさらさは言う。
「私と同様の者たちが、源三郎さまを狙っております。私がここを離れれば、冬ごもりのいらぬ輩、そうですね――源三郎さまに懸想する女狐やいたちなどが、よい機会が訪れたとばかりに押し掛けてこないとも限りませぬ。実際、そういった者どもは、これまでにも何度か来ておりましたのよ。すべて追い払っておきましたが」
「なんとまあ……」
「源三郎さまは見目よくお優しく、そのうえ分け隔てなさらぬ広いお心をお持ちです。我らにとって、この上なく愛おしいお方でございますれば」
「人間のおなごにもてたためしはないのだが、意外なところでもてているものなのだな」
「源三郎さまの良さがわからぬなど、人間のおなごどもは見る目がなさすぎます」
「いや、そうではない」
源三郎は首を振り、静かな声で言った。
「ひとは、金がなくては暮らしが立たぬ。名がなくては心が保てぬ。愛おしいという思いのみをよすがに生きるのは、ひとの世にあっては難しい。名もなく、金もない我が身は、ひとのおなごにとって、望ましいものとはなり得ぬだろう」
「我らは違いまする」
さらさはひしと源三郎の胸元にすがりついた。
赤子をあやすように、さらさの背を軽くたたきながら、ふと源三郎は思う。
おのれは結局、人並のしあわせからははずれた存在なのだろう。
豊かな暮らしを送ることも、世にその名を知らしめることも、とうにあきらめた。だからこそ、妻がもののけであると知ってもおそれる必要がなく、そのもののけの妻を愛おしいと思えるのかもしれない。
かまうものか。
自分はさらさが愛おしい。
正体が蛇であると知ってもなお、妻とともにあることを喜ばしいと感じている。それはきわめて稀な、有難いことと言えるのではないか。
「さあ、もう閨へゆこう。今宵は心して、そなたをしっかり温めようほどに」
そう囁きかけると、さらさは恥ずかしそうにうつむいて、小さくうなずいた。