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世界を渡った草魔族  作者: 沖野 深津
2/3

世界を渡った草魔族 中編

前後編にするつもりが、予想以上に伸びました……。

すいません、さらに分けさせていただきます。

大学の合間に、何気なしにバイトに行き、面倒くさいと吐きながら仕事をこなしていた日々。その日から、葉汰のその生活の中に、シルビアとの交流という彩が添えられた。彼女は人間非ざる者であるからして、おいそれと外を出歩くことはできない。それに魔力の乏しいこの世界では、生きるだけでも精一杯。なので、彼女と話をする際には、魔力水がしみ込んだあの花壇へと赴く必要があった。


最初は、バイトの休憩中とバイト終わりにのみ、魔力水を持っていくことを兼ねて会いに行くパターンだった。しかし、やがてその制約は消え、葉汰はバイトのない日でも頻繁に彼女のもとへ赴くようになった。



彼女は、純粋で非常に可愛い。



もしシルビアがいない場で、こっそり葉汰に彼女のことを聞けば、このような言葉を吐くだろう。確かにシルビアは、この世界に毒されておらず擦れていない。その反応は純粋で、ころころとよく表情が変わる。少しからかった際に頬を膨らませて不機嫌を現した際には、心臓を貫かれたかと思った。あれは反則だ。


彼女が言うには、魔力を温存させるために幼い姿を保っているが、本来はもう少し成長した姿がデフォルトだという。それにしたって、反応が可愛すぎだろうと、三次元を諦めていた葉汰は思った。

彼曰く、こんな妹がほしかった。


一方のシルビアのほうも、葉汰との歓談の時間を楽しむようになっていた。初めは、こちらの生命線ともいえる魔力水を提供してくれる、救世主兼得体のしれない人物だという印象だった。下手に葉汰を刺激して魔力水の供給が途絶えたら、そこでシルビアとミミズの命は終わったに等しい。そのため、会話にはある程度の緊張が伴っていた。


しかし、その緊張も回数彼と話をしていると、次第に溶けて行った。代わりに湧いて出てきたのは、葉汰に対する淡い恋心であった。


葉汰同様、異性経験がほとんどなかったシルビア。そんな彼女に対して、葉汰は命を救うような行為をし、その後の対応も非常に好ましい。へたれで、頑張ってもいい人どまりな彼であるが、彼女にはその優しさが心を揺さぶる武器となった。時折意地悪なことを言ってくるが、それもなんだかうれしい。


ついでに言うと、たいして格好良くもない葉汰のモブ顔であるが、シルビアにとってはドストライクだった。彼女は、イケメン派ではなくモブ顔派という特殊性癖の持ち主だった。もし仮にこちらの世界で彼女が生まれ、今のような性格のままであったら、確実に悪い男に騙されるだろうというような塩梅だ。捨てられかけてもダメンズに尽くしそうな勢いである。


だが同時に、シルビアはこのままではいけないという思いも持っていた。


彼女は魔族である。加えてこの世界の住人ですらない。一方葉汰は人間だ。それにこの世界の住人である。この事実が、シルビアの中で影を落としていた。魔族と人間……この組み合わせは、両者にとって良いものではない。住む環境も文化も身体的特徴も……なにもかもが異なる上、周りへの波紋の大きさが尋常ではない。魔族の世界にも人間の世界にもつまはじきにされ、行く末は最底辺の生活だ。


逆に最底辺でも生きているのなら幸運だ。


両者から刺客が送られる立場にあり、異常であるとして殺されるのが関の山。……そもそも、お互いが好き合うということ自体が、畜生道と言える。葉汰はどうか定かではないが、シルビアの常識ではそのような認識だった。


故に、この想いは表に出してはいけない。勘づかれてはいけない。彼に迷惑をかけたくない。

幸いにして、鈍感な葉汰である。それは今まで経験がなかったことが功を奏しているのかもしれない。自分では隠せていると思っているシルビアの、隠しきれていない熱い視線を受けながらも、全然勘づく様子はなかった。







そんなこんなで、シルビアと葉汰が交流を始めて数か月が経ったある日。


「…………前から、すごい気になってたことがあるんだけどさ」

『? なんでしょう?』


当初のような余所余所しい敬語がなくなり、フランクに話しかけるようになった葉汰。それにキョトンとした表情で応じる、相変わらず敬語で話す幼女形態のシルビア。どうらやそれが素のようである。


季節は夏。前期最後の講義のテストが終わった帰りに、葉汰はシルビアの元へ赴いた。鞄の中には数本の魔力水を忍ばせている。講義が終わり夏休みに入るということで、葉汰は実家への帰省を考えているのだ。そうなると、しばらくは魔力水を提供できなくなる。早々にバイトの休みもとっているので、会える機会はこの数日しかない。帰省中に魔力の枯渇が起きないよう、今回は多めの持参である。


少し鞄に重さを感じつつ、店舗裏の花壇へと向かう。魔力水のおかげか、それとも草魔族であるシルビアのおかげか、乾ききった土しかなかった花壇は、草花が成長できそうな肥沃な土になっていた。葉汰が近づくと、その花壇に生えていた雑草……シルビアが小さくその葉を揺らす。葉汰の存在を確認できた彼女は、すぐさま雑草の形態から人型へと変化した。人型なった際に顔に出ている表情は、完全に想い人に出会った時のそれである。

そうしていつものように何気ない話を交わしていた時に、そう葉汰が口にしたのだ。



「いや、なんというか。嫌なこと思い出させるかなと思って、聞きそびれてたんだけどさ」

歯切れが悪そうに言う葉汰が見ている先には、店舗裏の地面に設置されている古臭い鉄製の開き戸があった。

「あの扉から、こっちの世界に来たって言ってたよね?」

やはりサブカルチャー好きの葉汰。異世界への扉という存在に興味津々であったようだ。彼の視線を追うように、シルビアも扉へと目を向ける。確かに、多少なりとも当時のことを思い起こさせる存在だ。だが想い人が近くにいるからか、今の彼女は心を強く持てていた。恋は病とは、よく言ったものだ。


『そうですね。向こうの世界では、祠に祭られていた大きな扉だったのですが。私も、このようなところに出るとは思いもしませんでした』

世界を渡るような強力な魔法を内包した扉だ。シルビアとしても、元いた世界で意匠を凝らした扉を見ていたため、出口もそのようなものであろうと思っていた。しかしいざ出てみると、意匠を凝らした扉の相方は、このような安っぽいもの。辺りの見たこともないような材質の建物と比較して、殊更陳腐さが浮き彫りになっている。でも、そのおかげでシルビアは生き延びることが出来ているし、葉汰と出会うことができた。最初こそ恐々としていたが、今では感謝さえ捧げたくなっているシルビアである。


シルビアの横を離れ、葉汰は開き戸の前へ向かった。真正面から見ても、何の変哲もない古臭い鉄製の扉だ。

「この得体のしれない扉が、まさか異世界につながってるとはね……」

よっこらせと、肩にかけていたバックを脇に置きながらしゃがみ込む。

「発動させるのに、何か唱えるような呪文とかあるの?」

コンコンと意味もなく扉をノックしながら、葉汰はシルビアに尋ねる。問われたシルビアは、口を開く際に極力魔力が放出しないようにした。かなりの魔力が必要なので、よっぽどのことがない限り発動はしないはずだが、万が一のことを考えてのことだった。


『ありますよ。『デルオーツアル セイオエーツ イセイテ』という感じです。草葉一族に伝わる呪文です。……本当は、内緒なんですけどね』

肩をすぼめて、ぺろりと小さく舌を出すシルビア。その可愛らしい挙動に、葉汰は奇声を上げかけた。喉元まで出てきたが、なんとか抑えることに成功した。

だからそういうのは反則だと、何度も言ったではありませんか。心の中で、だけど。


「……え、えっと。デ、デル……なんだっけ?」

気を取り直して、葉汰は今聞いた呪文というのにチャレンジしようとした。だが、聞いたこともない言語なうえ、ちょっと長い。一発で覚えられるようなものでもなかった。葉汰のまごつき具合に母性をくすぐられたシルビアは、小さく笑みをこぼした。

『デルオーツアル セイオエーツ イセイテです。知らない言語の呪文なので、モリサキ様には難しいかもしれませんね』

そして、シルビアのその言葉に無駄な反骨心を抱いてしまった葉汰。絶対に唱えてやるぞとなってしまうのは、シルビアの前で良いところを見せたいと思うが故か。


しかし、葉汰は意外にも物覚えは早かった。



「『デル オーツ アル セイ オエーツ イセイテ』開門せよ。……なんつって」



何度かシルビアからの助けを得ながら、ついに詠唱に成功した葉汰は、ついでに仰々しくポーズをとってみた。しかしすぐ恥ずかしくなって居住まいを正す。


その直後である。


「……え?」

なんと、詠唱に呼応して鉄製の扉が光を発し始めたのだ。これに驚いたのは、目の前に立っていた葉汰だけではない。シルビアも、思わず花壇から腰を上げた。

『う、うそ……っ』

「す、すげえ……。マジで反応した!」

光は徐々に強さを増し、興奮冷めやらぬ葉汰の視界を奪い始める。流石の葉汰も、まずいのではないかと、シルビアの元まで避難しようとした。


だが、遅かった。



「……え――」



扉が詠唱した葉汰を逃がすまいと、光の中心へと誘う暴風を発生させたのだ。それでもなんとかシルビアの元へと進めようとする葉汰。しかしその歩みは、一歩で終焉を迎える。

「やっべ――」

余りの暴風に、体重をかけ軸としていた片足を滑らせた。その瞬間、自身で終わりを悟る。


『モリサキ様っ』


まさか発動するとは思っていなかったシルビア。目の前の事実を噛み砕くのに数瞬を要した彼女は、反応が遅れてしまった。バランスを崩した葉汰を助けようと腕を伸ばしたものの、あと一歩というところで間に合わない。シルビアの目の前で、悲鳴を上げながら葉汰が光の中へと消えていく。


『モリサキ様!!』


それでもなおシルビアは諦めきれず、光へと手を差し伸べる。しかしその手は虚しく空を切り、光は鉄の扉の中へと吸収されていった。


『っ、この』


すぐさま鉄の扉を無理やり開きにかかるシルビア。魔族である彼女は、人間よりはるかに膂力が大きい。気合一閃、シルビアは身の丈に迫ろうかという鉄の扉を、蝶番ごと引きはがした。しかし、扉の向こうには何もなく、小さな空間が存在しているだけ。葉汰の姿は微塵も見受けられなかった。


『っ…………』

自身の不注意で、葉汰を巻き込んでしまった。目の前だったのに助けられなかった。不甲斐なさに、思わず掴んでいる鉄の板を投げ捨てようという衝動が駆け巡ったが、何とか押しとどめる。こんなものを投げたところで、何も解決するわけではない。苦々しい表情を浮かべながら、シルビアは扉を元の状態に戻した。



「……まさか、発動するとは思わなかったな」



ぼそりとつぶやいたのは、ミミズである。彼もことの顛末について、驚きを隠せないでいた。


「あたりの魔力が減ったようには見えず、それにあの人間が膨大な魔力を有していたわけでもない。……考えられることと言えば、あの人間には魔力の才能だけが有り、そして都合よく向こうの世界で魔力の供給があった……ということか?」

「……それはつまり、あちらの世界では魔法が使えるものが扉の目前にいる、ということですか?」

「考えられることとしては、な。しかし……ゼロではないとはいえ、そんなことがあり得るのか……?」

「…………」

ミミズからは、冷静にことを分析しようという姿勢を感じる。元来そういう学者気質なのかもしれない。


だが、シルビアは違う。

心の中では、さまざまな感情がまじりあっていた。


都合よく向こうの世界で魔力の供給があった。空気中の魔力だけで発動するほど、異世界を渡るこの魔法は生易しいものではない。実際に発動させたシルビアだからこそ、それが痛いほどわかる。

……つまり、扉のすぐ向こう側に魔法を使えるものがいて、魔力を供給したということが考えられる。

そうなると、向こう側にいる魔法使いとは誰なのだろうか。

……考えられる人物として、襲撃者の人間たちか一族の生き残りが有力だ。


では、そこに不意に葉汰が現れたらどうか。


前者なら、まず問い詰められるだろうか。どうやって発動させたのか、どこからやってきたのか……聞かれることは多いだろう。だが、言語が違う。扉を発動させるほどの魔力を持った魔法使いがいるのなら、翻訳魔法の一つでも使えるかもしれない。だが、荒事を専門としているような人種だった場合、そう穏やかにことが進むだろうか……?



それなら一方、後者はどうか。



……そのことを考えた際、葉汰が無残にも殺される未来しか想像できなかった。


「…………申し訳ございません」


シルビアは、不意に葉汰が置いて行った鞄の前にしゃがみ込んだ。頭の隅で申し訳なさを感じつつも、無遠慮にその中身へと手を突っ込む。その始終を見て、シルビアの意図を察したミミズは、一旦考え込むことをやめた。

「……戻るつもりか?」

「当たり前です。……私の不注意が、モリサキ様を巻き込んでしまいました。モリサキ様は、命の恩人です。迷惑なんて、絶対にかけたくありませんから」

「…………」


ミミズの問いに答えつつも、シルビアは着々と準備を進めていた。葉汰の鞄から取り出したものは、魔力水。多少なりとも魔力が漏れ出していたので、あることはわかっていた。タイミングが良かったと言っていいのか、都合よく今回は複数本が入っている。これだけあれば、確実に扉を発動させることが出来ると、シルビアは算段をつける。葉汰を助けるという目的にしか注力されていないようで、その目は据わっていた。


「時間軸が同じなのか、分からないのだ。もしかしたら、襲撃者がまだいるかもしれぬぞ?」

「例えそうであったとしても、モリサキ様の身の安全が最優先です」

「君の身の安全はどうなる?」

「私も魔族です。人間よりは頑丈にできています」

「…………」

取り付く島もないというのは、まさにこのことか。


ミミズとしては、どちらの身を案じるかと言われれば、同じ魔族であるシルビアのほうをとる。確かに葉汰には恩を感じている。しかし、やはりそれだけでは彼の優先順位が覆ることはなかった。

シルビアの啖呵に口をつぐんだミミズ。問答は終わりだというように、魔力水を吸収し、さらに周囲へ撒くことへと集中し始めたシルビア。



「……分かった。私も行こう」



やがて、ミミズはそう口にした。そこで初めてシルビアがミミズの方を振り返った。

「……ミミズ様にまで迷惑をおかけするわけにはいきません」

「……だったら、初めから無茶なことを言ってくれるな……と言いたいところだがな。同じ魔族の好だ。それにあの人間には恩もある。協力しようではないか」

「……よろしいのですか? 失礼ですけど、ミミズ様は……」

「これは仮の姿だ。本来は戦えるような姿をしている。問題はない」

落ち着いた物言いで、貫禄のある雰囲気をまとう彼。しかし、その姿は地を這う環形動物である。その姿しか目にしたことのないシルビアには、元の姿は一切想像できない。戦えるといっても、一体どの程度のものなのか……。


しかし、今は時間もない。押し問答をするのも煩わしいほど。なのでシルビアは、ミミズの提案を早々に受けることにした。



「……分かりました。ご助力感謝いたします」



シルビアはミミズへと手を伸ばし、その掌に載せる。その重さは非常に頼りなく、一抹の不安がよぎるものの、もう後戻りはできない。いざとなれば、ミミズも守らなければならないなと、片隅で考えた。ここ数日お世話になった人物だ。出来るだけ考慮したいところ。しかし彼女にとってミミズの優先順位は、葉汰の下であった。もし葉汰とミミズを天秤にかけるような時が来れば、彼女は迷いなく葉汰をとるつもりだ。


高濃度の魔力水が入ったペットボトル二本を、まるまる周囲にばらまいたおかげで、程よく高密度の魔力が辺りに充満しはじめる。大魔法を行使し得るだけの環境が整っていた。あとは、扉に向けて詠唱とともに魔力を注入するだけである。


「……何があるか分からん。気を引き締めることだ」

「ご忠告、ありがとうございます。……けれど、油断はしませんよ。たとえ同族であったとしても……モリサキ様を傷つけているようであったなら、切り捨てる覚悟はあります」

「…………そういうことを言いたいわけではないのだが」

シルビアの物言いに、ため息混じりのミミズ。そんな彼は、小さな声で「……これも血筋か」と呟いたが、すぐに大気へと霧散した。



「……それでは、参ります」



やがて準備を整えたシルビアがそう口にする。その後目を閉じて集中する姿勢になった彼女の足元から、光が漏れ始めた。その光は、足元にある扉へと吸収されていく。光はどんどん扉へと集まっていき、次第に扉自体が光を放つようになった。

頃合いである。



「『デルオーツアル セイオエーツ イセイテ』」



彼女は唱える。その瞬間、扉から光の柱がたち、目前にいたシルビアとミミズを包み込んだ。シルビアたちを囲った光は、一度大きくその径を広げると、直後一瞬にして収束した。ほんの数秒の出来事である。その数秒後には、シルビアたちの姿はなく、まるで蛍のような光の残滓がちらつくだけであった。







最初は気が付かなかったが、異世界転移はまるで川の中に沈み流されるような心地だと、シルビアは思った。自身の姿勢が定まらず、どこかに浮いているような感覚。それなのに、前へと進んでいる感触がある。辺りがモノクロの絵の具をぶちまけたような背景なのも相まって、自分という存在があいまいになっていくような印象を受ける。


だが、その不思議な感覚にも構っていられないほど、シルビアの心の中は使命感に支配されていた。

葉汰の無事を確認したい。その一心であった。


「……モリサキ様。すぐに迎えに行きます」


誰に対していうでもなく、シルビアはそう小さくつぶやいた。


やがてその不思議な空間は、終わりを遂げる。不意に空間に現れた、意匠を凝らした扉。流れの先にあったその扉の前で、地に足が付く感触を覚える。同時に流れるような感覚も消え失せ、モノクロの世界が遠のいていく。代わりに現れたのは、扉が祭られている見慣れた祠であった。


否、祠があったであろう建物の残骸であった。



「…………」



なぜだか扉とその周辺の壁だけ無事であり、空間に突如として現れているような装いになっていた。手痛い猛攻を受けたのか、霊験あらたかな雰囲気があった周囲の景色は、今や残骸のみが残るだけで、非常に見晴らしがよくなっていた。


「……酷い」


思わずシルビアはそう漏らす。辺りを見回して、気が付いたからだ。

無くなっていたのは、祠だけではない。青々と茂り、風に揺られ涼やかな音色を立てていた大樹たちが……シルビアが生まれた時から見てきた森全体が、焼け野原になっていた。


「……なんで、こんな」


余りの衝撃に、思わずよろめく。よろめいた際に踏みしめた大地は、シルビアの知っている肥沃な大地ではなかった。焼き払われた木々の怨念が聞こえるような、煤だらけの大地だった。

「…………」

しばらく茫然と凄惨な景色を眺める。あんなに生命の息吹を感じられた光景は、一族が笑顔で日々を過ごしていた日常は、もうそこにはない。



「…………大丈夫か、草葉の娘よ」



そこでミミズが声をかけてきた。その一言で我に返るシルビア。一瞬手元にいるミミズのほうを見下ろすと、なにかを振り払うように頭を振る。

「……大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

正気に戻ったシルビアは、改めて目標の再確認をする。それは勿論、葉汰の安否の確認だ。残酷な景色を見てしまったおかげで、大きな不安がシルビアの心に影を落とす。


「……モリサキ様、どちらにおられますか?」


吐き気がするような大地を踏みしめ、辺りの散策を始めるシルビア。見晴らしは以前よりは良くなったというものの、そこかしらに黒焦げになった木々がたっている。焼けただれた彼らから、なぜお前は無事なんだと責められている心地がして、思わず苦々しい表情になってしまう。



どれだけ胸糞悪い景色を練り歩いただろうか。

不意に聞こえてきた、何かの話声。

そして僅かに鼻に入ってきた、血の匂い。



すぐさまシルビアは、声のほうへと駆けた。聞こえてきたのは、どうやら人間たちの言語のようだったが、たまらなく不安が押し寄せる。話し声は比較的大きく、シルビアの駆ける音が目立たないくらいであった。

黒焦げの木々の合間を縫って、声のする場所へと近づく。近づくにつれ、複数人が存在するということが分かった。そしてどんどん強くなる血の匂い。不安で不安で、思わず叫びたくなりそうだった。


モリサキ様。どうか……どうかご無事でいてください。


想い人がその場にいないことを切に願う。あの優しいひとには、血の匂いは似合わない。どうか違っていてくださいと、祈り続ける。


そうしたなか、遂に声の出どころへとたどり着いた。

ミミズの止める声も聞かず、木々の前に堂々と姿を見せる。


予想した通り、その場には十人程度の屈強な人間たちがいた。人間の傭兵たちだ。そして、近くには使い古されて色あせているものと、それと比較して綺麗で高級感あふれるものの、二つのテントがあった。おそらく、ここは傭兵たちの拠点としている場所であろう。その他さまざまなものが無造作に置かれているその広場で、彼らは半円で何かを囲うような配置で立っていた。


一体何を囲んでいるのか。その答えはすぐにわかることになる。


人間の一人が、シルビアの存在に気づき、立ち位置を変えた。そのおかげで囲っているものの全容が目に入ってきた。



「……あぁあ」



思わずシルビアの口から声が漏れる。その声に、傭兵たちがシルビアへと目を向けた。だが、彼女はお構いなしに円の中央を眺めた。


円の中央にいたのは、想い人。

血まみれで地に伏せる、葉汰の姿だった。


人間の一人が、シルビアを威圧するように何かを言う。同時に手に持っていたものを適当に投げ捨て、腰に差した剣へと手をかける。穏やかではない、明らかな敵意が見て取れたが、彼女にとってそれはどうでもいいことであった。それより、彼女が気になるものがあった。

シルビアの視線を奪って止まないもの。それは先ほどの傭兵が投げ捨てたものだ。


宙を舞い地に落ちたのは、細身の人間の片腕。それは間違いなく、彼の腕だ。幾度となく手をつなごうと試みては果たせなかった、葉汰の腕であった。

その時、シルビアは初めて実感した。



臆病だと思っていた自分の中にも、こんな殺意が隠れ潜んでいたということを。




「ああああああぁああぁあああああぁ!!」




シルビアは叫んだ。その叫び声は魔力を帯び、辺りを震わせるほどのものであった。それはまるで、齢を重ねた竜の咆哮のよう。この世界で最強だと言われる生物に迫るほどの勢い。傭兵たちの間に、先ほどにはなかった焦りが浮かんだ。



「人間共っ、殺してやる!!」



シルビアの激昂に、まずいと思ったのは傭兵たちだけではない。彼女の右手に支えられていたミミズも然りだった。彼が地面へと飛び降りた直後、シルビアの右手が万人を貫くような鋭利で武骨な枝へと変化した。


シルビアは叫びながら地を蹴る。人間にはない膂力を持つ彼女の初速は、傭兵たちの動体視力では観測できないほどの速度だった。剣すら構える余裕がないまま、一番近くにいた傭兵の一人が、シルビアの腕の餌食となった。枝へと変化した指に串刺しにされ、無遠慮に真横へと投げつけられる。近くの枯れ木にたたきつけられた彼は、辺りに血飛沫をまき散らしながら動かなくなった。誰の目で見ても、即死は明らかであった。



「ああああああああああ!!」



戦略もくそもない。シルビアはただ暴れ回る。貫き、切り裂く。彼女が腕を振る度に、一人、また一人と肉片へと変えられていく。


「よくも……よくもよくもよくもよくもぉぉぉ!!」


完全に我を失っているシルビア。一矢報いようとした傭兵たちの斬りかかりを身に受けようとも、全く意に介さない。自身が血を流そうとも、それ以上の鮮血を相手から引きずり出す。まさに狂戦士という言葉がしっくりくる所業であった。


だが、ここで経験の差が現れてきた。傭兵たちの動きが変わり、徐々にシルビアの傷が増えていく。

「くそっ、くそ、くそ、くそおぉぉぉ!!」

もどかしさから、さらにがむしゃらに腕を振るう。急に動きを速めた彼女の腕に、一人の傭兵が切り裂かれ、後方へと吹き飛んだ。そこまでなら、今までの死んでいった傭兵たちと同じであっただろうが、その男の場合だけは違った。


位置が非常に悪かった。


男が吹き飛ばされた先には、倒れ伏した葉汰の姿があったのだ。


吹き飛ばされた男が、叩きつけるように葉汰の上へとのしかかる。びしゃっと、血飛沫が上がった。



「あ――」



不意に、シルビアの動きが止まった。先ほどまでの修羅の表情が成りを潜め、茫然とした表情になる。

「あ、あぁ……」

急にシルビアの動きが止まったことに動揺を隠せない傭兵たち。突然のこと過ぎて、迂闊に手が出せないといった塩梅だ。


そこに乱入してきたのが、魔法で出来た火炎弾だった。


傭兵たちの合間を縫って迫ってきた火炎弾は、茫然と立っていたシルビアへと直撃した。真横からの衝撃に、小さな体が地面を滑り、幾度となくたたきつけられる。

「ぐ……」

数度回転した後、シルビアはうつぶせの状態で止まった。全身が焼かれる鈍い痛みと焦げた臭いを感じながら、倒れ伏したまま顔を上げる。


視線の先に現れたのは、貴族のような装いをした人間だった。騒ぎを聞きつけて、高級な方のテントから出てきたようだった。杖を持っていることから、おそらくこの男が、先ほどの火炎弾を生成したのだろう。そして、たぶん扉を行使するほどの魔力を発揮したのも、この男で間違いない。随分と魔力を蓄えているように見えた。


貴族風の男の表情は、非常に嗜虐的に歪んでいた。一撃で仕留めることが出来たが、手加減をしたといった様子。ここにきて一番の敵が現れたようだ。葉汰の状態が気になって仕方がないシルビアは、その男の登場に苦い顔をする。何とかして男を打倒しようと、シルビアは体を起こそうとした。だが、思った以上に傷が深いらしい。プルプルと震えるだけで、なかなか体が言うことを聞かない。


そんな状態のシルビアを見て、男は無遠慮に彼女の頭を踏みつけてきた。象徴であり、余程のことでない限り他者に触れさせることのない、頭に生えた八方に伸びた葉ごとだ。その葉に触れていいのは、両親と、親友たち……そして想い人だけである。


なのに、この男は。土足で踏みにじった。


憎らしいことに、どうやら草魔族の一族にとって頭上の葉がどのようなものか、貴族風の男は分かっているらしい。言葉は分からないが、少なくとも下品な笑い方で楽しんでいることは分かった。


悔しかった。


本当なら、近々葉汰に触れてもらう予定であった。そのために、限りのある魔力を使ってでも浄化してきたし、雨の日には念入りに洗いもした。誰が見てもきれいだと思えるように、努力した。ただ葉汰に触れてほしい一心で、初めてここまで手入れに気合いを入れた。友人が同種の男性に気に入ってもらうために、日々手入れしていたという話を聞きつつも、彼女自身は実行することはなかったのに、である。


にもかかわらず。今や貴族風の男に踏みにじられたせいで、元の整った姿は見る影もなくなった。醜くつぶれ、一部はちぎれてしまっている。元の姿を取り戻すのに、数年を要するだろう。


踏みにじることに満足した貴族風の男。シルビアの無残な姿にご満悦な様子の彼は、遂に手元に大きな火球を生み出し始めた。かなりの魔力が集約されていることが、足元にいるシルビアにまで伝わってくる。あれをぶつけられては、即死するのは容易に想像できた。


怖いという感情も、もちろんある。

だがそれ以上にシルビアの中に存在しているのは、葉汰への申し訳なさであった。


私が……私があの世界に来てしまったせいで、モリサキ様が今、命の危機に瀕している。私が……私が彼に近づこうとしたから。あのまま、魔力水だけ頂く関係であったなら。彼に扉を発動させる呪文も教えることはなかっただろうし、彼も遠慮してくれたかもしれない。


ごめんなさい、ごめんなさい。……でも、最後のわがままをお許しください。こんな身勝手な私ですけど、どうか、死をお供させてください。


自身の限界もいよいよ近づいていることを感じている。それを察しつつシルビアが願うのは、葉汰と同じときに死ぬことだった。


魔力はどんどん濃縮されていく。笑い声もそれに乗じて大きくなっていく。死が駆け足で迫ってきていると、まるで他人事のように感じてしまう。



すいません、モリサキ様……。シルビアは、先に逝かせていただきます。



シルビアが諦めたその時だった。



場の空気が変わった。



「……え」

その変化に、シルビアも気が付いた。思わず声を漏らす。


貴族風の男が生み出していた魔力が、どこかへ吸い込まれていく。否、彼の魔力だけではない。シルビアのもの以外のすべての魔力が、どこか一か所に吸収されつつあった。



「月並みのセリフで済まないが。諦めるのは早いぞ、草葉の娘よ」



そこで聞こえた声。それはここ最近聞き慣れた、ミミズの声に違いない。だが、声の下方向を振り向いてみても、あの特徴的なフォルムは見られない。


代わりにいたのは、全身を黒に染め上げた一人の青年であった。


その青年は、軽く右手を体の前に突き出している。驚くことに、場にあるすべての魔力が、その突き出された彼の掌に集められていることがわかった。

「……ふん、この程度か。人間の魔力も落ちたものだな」

青年の声は、ミミズが発していたそれだ。つまりこの姿が、彼の本来の姿なのだろうか。


突然の青年の登場に、その場にいた誰もが驚いた。見た感じ細身の人間である青年が、場の魔力を掌握しているのだ。いかに高名な魔法使いと言えど、ここまで強制的に場の魔力を操ることは不可能だ。いたとしても、それはおとぎ話に出てくるような英雄と呼ばれる傑物たちだけである。実在したかも怪しい。……だがそれが今、目の前で展開されている。貴族風の男だけでなく、生き残りの傭兵たちも、信じられない光景にただ茫然と立っていることしかできない。


「先ほど保管していた魔力が届いたところだ。本来なら、もう少し馴染んでから使いたいところだが……。今は時間もない」

そう言って青年は突き出していた右手を顔のそばまで持ってきた。そして、そこから無造作に横へ振り払う。


「消えろ」


その瞬間、青年から貴族風の男や傭兵たちに向かって魔力の波が放たれた。しかし、何事もなくその波は通り過ぎる。一体何をやったんだと、傭兵たちが疑問に思い始めた。その直後である。


何の前触れもなく、傭兵たちが固まり、まるでガラスのように砕け散った。


血の一滴も上がることなく、大気へと霧散していく。それは本来醜い人間たちの成れの果てのはずなのに、ひどく神秘的な光景だった。

あれほど集まっていた人間たちが、一瞬にして跡形もなく消失する。

あとに残ったのは、やれやれと両腕を広げる黒づくめの青年と地に伏したシルビア、そして今もなお血を吐き出し続けている葉汰だけであった。


「……あなたは」

あまりに突然のことに、シルビアは怒りも忘れて青年に問いかける。当の青年は、遠目でちらりと葉汰の姿を確認した後、シルビアの元へと歩み寄る。

「君とこちらの世界に来た、ミミズさ。こちらの世界では、元々このような姿かたちをしていてね。それと、遅くなり済まなかった」


シルビアの元へと赴いた青年は、地に伏せる彼女へと手をかざした。すると、先ほどとはうって変わって、暖かい光が放たれる。高位の回復魔法だとシルビアが気付いたときには、もうほとんど体の傷は癒えていた。

「……ありがとうございます」

「この程度なら、造作もない。……ただ――」

とそこで、青年が言い淀んだ。そんな彼はとある方向を眺め見ている。何気なしに彼の視線を追ったシルビアの、後の行動は劇的だった。


「……モリサキ様!?」


青年の視線の先にいたのは、葉汰だった。同じく彼を視界にとらえたシルビアは、弾丸のように飛び出して、葉汰の元へと駆けよる。

「モリサキ様っ、モリサキ様!?」

自身の体が血にまみれるのも厭わずに、シルビアは葉汰の上半身を抱え上げる。

改めて確認すると、至る所に剣で切り付けられた深い傷が存在することに気が付いた。加えて、片腕が二の腕部分からごっそりと切り落とされている。顔は土気色に染まり、生きているようには見えない。


「……っ」


「……済まない。ここまで損傷がひどいと、私の力ではどうしようもできない」

青年が言いにくそうにしていたことは、このことであった。彼は回復魔法も使うことはできるが、専門ではない。治療できる傷には限界があるのだ。


「モリサキ……様……っ。ごめんなさい……ごめんなさい……っ」


葉汰を抱えているシルビアには、血が流れ過ぎ、段々と冷たくなっていく様子が感じ取れてしまう。つい先ほど事切れたのかもしれない。まだ暖かかったのが、余計にシルビアの心を締め付ける。安らかとは程遠い苦しそうな表情のままの彼に、シルビアは涙が止まらなくなった。


「ごめんなさい、ごめんなさいっ」


もはや聞こえていないのは分かっている。それでもシルビアはそう叫んだ。堪らなくなって、ついには葉汰の胸元へと顔をうずめる。初めて飛び込んだ彼の胸は、ひどく冷たかった。


「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ごめんなさ――」


顔元まで血に濡れながら壊れたように叫ぶシルビアの声が、不意に止まる。一度葉汰の胸から顔を放し、涙をたたえた目を大きく見開いて見返す。

信じられないものを見たような茫然とした表情。それが次の瞬間にくしゃっと歪んだ。



「……まだ、生きてる……っ」



胸元に顔をうずめた時。ほんのかすかにだが、心臓が脈打つのが聞こえた。彼はまだ、死の淵で耐え続けていた。

「なんと。……思った以上に頑丈なのだな」

これには青年も驚きを隠せない様子だった。だが、そうであったとしても彼には打つ手がない。

「しかし、どうするつもりだ。施す手段などないぞ?」

驚異的な生命力を有していたとしても、もはや空前の灯である葉汰。気休め程度の回復魔法では、ろくな延命にならないであろうことは容易に想像できた。


だが、シルビアは一切諦めるそぶりを見せなかった。その瞳には、ゆるぎない意志が宿っている。



「……モリサキ様」



シルビアはゆっくりと葉汰の上半身を下ろすと、自身の胸元へ両手を重ねて持って行った。その途端、辺りにやわらかな暖かい魔力が渦巻きだす。

「……まさか」

シルビアが何をやろうとしているのか。青年はすぐさま気が付いた。

なにせ、過去同じものを見たことがあったからだ。


シルビアが発する暖かな魔力は、徐々に彼女の胸元に重ねた両手へと集まっていく。魔力はやがて塊となり、小さな植物の種子のような形へと変化した。


草魔族の女には、一生に一度だけ使える魔法がある。それがこの、命の種子の生成だ。


この種子は、この世界の何ものにも勝る、全てを癒す秘薬である。それは、たとえ四肢が吹き飛ぼうとも、生きてさえいれば治すことができるほど、強力な治癒能力を持つ。これを目当てに、捕まり、結果殺される草魔族も少なくない。彼女たちが真に望まなければ発動しない魔法だという。


シルビアは、その種子を使うことで葉汰を救うつもりのようだ。


一生に一度ということから、自身の身を捧げるに等しい行為とされる種子の授与を、葉汰に対して行う。それはつまり、彼女は葉汰と一生寄り添うことを決心したということだった。


「……再び目にすることがあるとはな」

口元に苦笑いを浮かべながら、青年はぼそりと呟いた。青年がこの種子を見るのは、これで二度目である。最初に目にしたのは……彼の妻から送られたものだった。普段気の強い妻が、恥ずかしそうに種子を送ってきたその光景は、今もなお青年の心を揺らし、心の支えとなってくれている。


種子を生成するシルビアから視線をそらし、青年は踵を返す。種子の授与は、草魔族にとって神聖な儀式だ。部外者がその場にいていい道理はない。

「……全く。草魔族は揃いもそろってとんでもない種族だな」

自身の嫁のことも頭に思い浮かべつつ、青年はその場を後にした。






命の種子を作り上げるには、一定以上の年齢が必要となる。ある時不意に、自身の中に強力な魔法が内包されていることに気が付くのだ。それまでは、年上の女性から話を聞くくらいしか知るすべはなく、また大抵美化されて伝わる。故に子供のころから、草魔族の女性の間では、命の種子に対する強いあこがれが存在する。シルビアも、そのうちの一人であった。


丁度シルビアが、自身の命の種子の存在に気が付いたころ。近所に住んでいた年上の男女が、命の種子の授与式を行った。人間世界でいうところの結婚式のようなそれは、シルビアの中に強い憧れを抱かせた。儀式が非常に秀麗なものであったこともある。だが、それ以上に印象に残ったのが、種子を渡した女性の、言葉に表せないくらい嬉しげな表情であった。涙ながらに幸せと口にする彼女に、シルビアは目を奪われた。


いつか自分も、あんな表情を浮かべられるようになりたい。あんな幸せな顔にしてくれる素敵な人と出会いたい。


彼女の中で、何ものにも代えがたい願いが生まれた瞬間であった。


しかしそれ以後は、あれほど感情が揺られる機会がなかった。歳を重ねるごとに、周りがどんどん色気づいていき、好きだ嫌いだといった話が舞い込んでくる。中には、命の種子まで渡したがるほどの、強烈な感情を持つ友人もいた。だが、強い憧れがあるはずのシルビアには、その感情はよくわからなかった。


けれど、今ならわかる。


好きな人が出来て、命の種子を渡そうという願い。それは、何ものにも代えがたい、強烈な想い。確かに今の状況では、種子の授与は違う意味を持つかもしれない。葉汰の命を救うために、選ばざるを得ない選択肢だったと、そう見えるかもしれない。

けれど、彼女の中ではそんなことはなかった。

それよりも強い……強い強い想いが、シルビアを動かす。



「モリサキ様…………いえ、ヨウタ様」



生成の完了した種子を片手に持ち、シルビアは愛おしそうに葉汰の上半身を抱き起した。



「私は……シルビアは。ヨウタ様をお慕い申しております」



熱っぽく呟くと、シルビアは命の種子を口に含み、そのまま葉汰へと口づけを交わす。口移しで渡された命の種子は、葉汰の体を淡く輝かせだした。




「ヨウタ様。……大好きです」




種子の授与を終え一度は顔を放したシルビアだったが、再度顔を近づけた。葉汰を包み込む光が、嬉し涙をたたえたシルビアの横顔を暖かく照らし続けた。


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