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世界を渡った草魔族  作者: 沖野 深津
1/3

世界を渡った草魔族 前編

もともと長い話で書こうと思っていたものを短編化し、さらに思った以上に文字数が伸びたので前後編でわけました。


※前後編でも厳しかったので、さらに分けさせていただきます……。

「ふぅ……」


青年――森崎葉汰は、どかっと今は使われていない花壇のふちに座り込んだ。

「……もうそろそろ春も終わるかぁ」

日に日に強くなっているようにも思える日差しを、まぶしそうに仰ぎながら葉汰はため息をついた。

「ここに逃げ込むのも、限界が近いのかもしれん……」

 ちらりと背後にある建物の一区画を眺め見ると、肩を落とす。


 現在葉汰は小売店のアルバイトの最中である。といってもさぼっているわけではない。彼は今昼休憩の時間を与えられているのだ。一時間ごとに数人のアルバイトが昼休憩をローテーションさせている。その組み合わせは葉汰的に非常に悪く、葉汰と休憩がかぶるアルバイトは、皆姦しい感じの女学生数人なのだ。あまり広くない休憩室には、今や黄色い声が飛び交っている。その中にいられない葉汰は、こうして外で休憩を消化しているという始末だ。


「数年歳が違うだけで別生物だよなぁ、今時の女の子は」

自身も大学生の端くれであるからして、高校生が相手でもその年の差はまだ片手の指で数えることができる。……が、彼女らの話している内容とテンションには、到底追い付けそうになかった。自分がいては女の子たちも賑わい辛いだろうと、自分のことも相手のことも考えた、葉汰の粋な計らいだ。まあ……ただのヘタレであると、世間一般では言われるのだろうが。


 それはそれとして。幸いなことに、建物の裏手には腰を下ろすには丁度いい高さに作られている花壇がある。この店舗を建てる際に店長であった人物が、ガーデニングが趣味だったという。その店長が無理やりこのようなスペースを確保してもらったらしい。行動力が素晴らしい初代店長であるが、葉汰がアルバイトとして応募する遥か前に別店舗に異動したため、会う機会はなかった。それ以来この花壇は誰の手も入らなくなったらしい。今は乾いた土が敷き詰められているだけの、殺風景な景色が広がっている。


 「……まあいい。とりあえず飯だ飯」

 言いつつ葉汰は手元にあったビニール袋から菓子パンを取り出してほおばり始める。数口食べたところで、再びビニール袋に手を突っ込んで、ペットボトルを取り出した。中身はなんともないミネラルウォーターに見える。だがそれに張り付いているラベルは、何語かもわからない文字で彩られており、どこか怪しい雰囲気がある。

 「……思わずもらってしまったが、怪しいよなこれ……」


 この飲料はコンビニやスーパーで買ったものではない。友人からのもらいものである。友人の談では『健康のことを考えた魔力が込められた水』とのこと。近頃マルチまがいの宣伝と勧誘を始めた友人であるからして、これもその商品の試飲をといった魂胆なのだろう。一体なんだよ健康のことを考えた魔力って……と率直な感想を抱くのは、なにも葉汰だけではないはずだ。怪しさがほとばしる一品で、葉汰自身は心の底からご遠慮願いたかったのだが、友人きっての頼みは断れない男だった。


 「……ぶふっ!? ま、まずぅ……なんか味付いてるし、ただの水じゃないやんけ!」


 意を決し一口含んだ葉汰。だがすぐさま噴き出す羽目になった。まじまじと手元にあるペットボトルを凝視する。

 「怪しい、怪しすぎるぞこれ……」

 再び口に含む勇気がわいてこない葉汰。しばらく眉をひそめて謎飲料をにらみつける。

 「捨てるしかないやろこれ」

 やがてそう結論付けた葉汰は、謎飲料を捨てるべく花壇に目をやった。休憩室の水道までわざわざ捨てに行くのも面倒だと思った彼は、目の前にある花壇に撒けばいいだろうと考えたのだ。


 「……ん?」


 ふと花壇に目を向けた葉汰は、そこに生えている雑草に気が付いた。その雑草は、いかにも路傍に生えていそうな見てくれだったが、八方に葉が均等に伸びていて小奇麗な印象を覚えた。

 「ずいぶんと綺麗に伸びてるなこいつ。……でもなんか萎れてるっぽいが」

 ここ数日は天気のいい日が続いている。もしかしたら水分が足らないのかもしれない。そう思った葉汰は手元の謎飲料に目を向けた。

 「……まぁ、そこらへんの地面に捨てるよりは貢献するだろう」


 思い立ったが吉日と、葉汰はその雑草の中心にどばどばと謎飲料をまき散らした。雑草の周りに小さな水たまりが形成されたが、よほど地面が乾いていたのか、すぐさまその水たまりは消滅した。

 「……飲み物買ってくるか」

 少しの間雑草を眺め見ていた葉汰。だが、のどの渇きを覚えた彼は、面倒くさそうにため息をつくと、ゆっくりとした動作でその場を後にした。







 「……ん」


 彼女が目を覚ました時には、あたりは日が落ちて暗くなっていた。

 「私は……っ」

 意識を取り戻した途端頭をよぎったのは、自身が住んでいた村が焼かれ、両親が命を張って自分を逃がしてくれた光景だった。生きていてほしいと心から思うが、あの火の手と襲撃者の様子からすると、それも難しいかもしれないと冷静に分析してしまう。


 「…………」


 涙を流そうにも、この形態では叶わない。それどころか、人型にならなければ満足に動くこともままならない。魔力が乏しいこの空間では、人型になるために使う魔力すら捻出できそうになかった。

 故に、今の彼女は傍から見たらただの雑草である。



 「ほう。意識が戻ったのか、草葉の娘よ」



 だが、その雑草然とした彼女に声をかけるものがいた。実際の目がないので感覚を声のした方に向ける。

 「……貴方は?」

 感覚の先にいたのは、ミミズだった。そのミミズが、どこか分からない口を使っているのか否か……定かではないが、彼女に向って話しかけていた。

 「私は……まぁ、名は向こうの世界に置いてきたからな。『ミミズ』と呼んでくれてかまわない」

 「ミミズ様……ですか。私はシルビアと申します。……本来だったら、この形態ではなくちゃんとした格好でご挨拶をするべきなのですが――」

 彼女――シルビアは葉を揺らし申し訳なさそうな様子である。それにミミズは「いやいや」と首を振った。

 「君もあの扉を渡ってきたのなら知っているかと思うが、この世界は魔力というものがほとんど感じられない」


元々、シルビアはこの世界で生まれたわけではない。魔法というものが実際に存在し、魔力が溢れている世界で植物の魔族として生を受けた。魔族は、魔力を糧にして生きている。魔力が尽き供給もなくなってしまうと、自我が消滅して死に至ると言われている。実際にそのような状況に陥ることは普通ないので、知識だけの情報だ。だが、この世界には魔力がほとんど存在しないようで、その普通起こらないようなことが起こってしまっていた。魔力供給のないこの状況で、シルビアは自我を保つだけで精いっぱいだ。形態まで考える余裕はない。


「私ももうあと数日もしたら、自我のないただの土の中這う動物に成り下がっていたことだろう。君だってそうだ。下手をしたら、明日にでもただの雑草に成り下がっていたかもしれない」

その言葉に、シルビアは肯定する。彼女自身、ほとんど自我がない状態になっていたことを、何となくだが感じていた。虚ろな意識の中で、何もかもが遠ざかっていくような空虚な感覚。今考えてみると、とても恐ろしい状況であったと改めて思う。


「……でも、なぜ突然魔力が現れたのでしょう?」

しかし、シルビアの自我は消滅することはなかった。どうやら自我を失う寸前になって、どこかから魔力の供給があったようだ。かなり高濃度の魔力が与えられたようで、シルビアの意識が戻ったのに加えて、目の前のミミズも不自由なく意思疎通ができるほど魔力が回復している様子だ。

「私も詳しくはわからぬ。今日の昼頃か、突然魔力が供給されたのだ。恐らく高濃度の魔力水が用いられた様子ではあったが……」

「高濃度の魔力水……ですか。一体どなたがそんな高級なものを……?」


魔力水というのは、魔力を溶かし込んだ溶液のことだ。基本的に水に対する魔力の溶解度は高くない。なので、大体世に出回っているものは低級のものであり、それを口にしたところで吸収できる魔力量は限られてくる。高濃度の魔力水を作ろうとすると、高圧化でかつ一定速度で魔力を流し続けるなど、厳しい条件をクリアしなければならない。それ故、濃度が高くなればなるほど、一般には出回らない代物になっている。


しかし、昼頃に供給されたという魔力水はかなり高濃度なものであったらしい。シルビアとミミズが吸収した魔力を差し引いても、時間がたった今でも残り続けているくらいだ。

「私が見た限りでは……人間のようだったがな」

「人間が……」

ミミズの言葉にシルビアは驚いた。魔族と人間は古くから相容れない関係である。魔族を絶対悪と決めつけている人間は、事あるごとに魔族たちを蹂躙する。地力は魔族たちの方が遥かに高いので、普通に戦う分には負ける要素はない。


だが、人間たちは知恵が回り狡猾だ。


あの手この手で魔族の先を行き、多くの種族を絶滅の危機に陥らせている。シルビアの住んでいた草魔族の集落も、先日人間たちの襲撃に遭って燃やされたのだ。戦う力がないわけではないが、火に弱いという分かりやすい弱点を持つため、容易く蹂躙されてしまった。


「……何か裏があるのでしょうか?」

先日人間たちに集落を襲われ、やむなくこの世界に流れ着いたシルビアだ。彼女が信用できずそう勘ぐってしまうのも無理はない。シルビアの言葉に、ミミズはうむ……とうなった。

「……正直私も意図を測りかねている。そもそも我らが魔族であるということすら、気が付いていないのかもしれない。だとしても、高価な魔力水を打ち捨てるなど……」

いくら考えても、魔力水を供給した人間の行動の意図が読めない。魔族二人はしばらくうんうんと頭を悩ませた。


「……まあ、考えても仕方ないことかもしれぬ。どうせ答えは出ない。それより今は、限られた魔力で細々と繋げられるよう、最小限の生活をするしかない」

「ですね」

結論を出した二人は、場に残っている魔力を節約するため、ゆっくりと眠りについたのだった。







「おつかれっしたー」


アルバイトの勤務時間が終わった葉汰。辺りはすっかり夜である。店舗の裏手の勝手口から出てきたアルバイト一同の中で、今日は葉汰だけが異なる帰宅ルートである。葉汰以外のアルバイトは皆裏手の花壇を観ない方向を歩くが、花壇の横を通る彼だけがその様子に気が付くことができた。


「……なんだか、この雑草前より元気だな」


葉汰が目を向けたのは、先日謎飲料を振りかけた雑草である。振りかけたのはつい数日前だが、以前萎れかけていた様子が少し改善されているように思えた。

「あれから雨は降ってないし……。単に水を与えたことが良かったのか、はたまた『これ』が良かったのか……」

そう言いつつ葉汰がバッグから取り出したのは例の謎飲料である。実は葉汰が友人からもらい受けたのは、先日の一本だけではなかった。どどんとひとケースである。あれ以来触れてもなかったから、在庫は動いていない。今日手に持っていたのは、たまたまである。バイトのメンツに押し付けてやろうと持ってきたはいいが、全力拒否であった。


「……まあ、絶対飲まんし……。やるよ、雑草よ。ありがたく頂くがいい」

バイト終わりで少しテンションが上がっていた葉汰は仰々しくそうつぶやくと、どばどばと謎飲料を雑草へぶちまけた。

「なんかこう、水やって元気になってくれると面白いな。ガーデニングも悪くないかもしれん」

ガーデニングが趣味であったという旧店長のことを思い出しつつ、葉汰はそのまま帰路についた。







それから葉汰は、バイトがある日は例の謎飲料を持っていき、雑草に振りかけるということをした。着々と在庫が減り、なんだか雑草も元気になっているようで、ほくほく顔の葉汰である。


その様子を毎回観察していたのが、雑草とみられているシルビアと地表に一切出てこないミミズである。


彼女らは当初こそ高級な魔力水を惜しげもなくつかう葉汰に疑惑の目を向けていたが、なんとなく他意のなさそうな彼の様子に、少しずつ話をしてみたいと思うようになった。度重なる高濃度の魔力水のおかげで、シルビアは一部人型に変化することができるようになっていた。


今度魔力水を提供してくれた際には、言葉を交わしてみよう。


そうシルビアが意思を固めて臨んだ本日である。




「今日は日差しが強いなぁ。こりゃ暑くなるぞ……」

休日の昼である。一日勤務である葉汰は、相変わらず昼休憩で花壇のところへ赴いていた。

「そろそろここで時間つぶすのも厳しくなるかもしれんな」

「なんか毎回言ってる気がするわ」と愚痴りつつ、恒例の水やりをやろうと持ってきたビニール袋に手を突っ込んだ。お目当てのものを手に取って、いざ雑草へ撒こうとしたときである。



「…………」



目が合った。


花壇に埋もれている何かと目が合った。


「…………………………………え?」


思わず目元を拭い二度見してしまった葉汰。


花壇に埋もれている何かは、幼女だった。

花壇に幼女の生首が生えていた。

身目麗しい幼女である。


「………………………………は?」


葉汰の口から出るのは、言葉にならない呆け声だけ。意味のない五十音のは行あ段である。

人間とは思えない深い緑色をした双眸が、葉汰を射貫く。艶やかな若草色の髪はそのまま地面に埋まってしまっているが、雰囲気長そうである。そして何より目を引くのが、頭頂部のいつも見ていた雑草である。


強い日差しに当てられたせいで、自分は夢でも見ているのだろうか……。そう思ってしまうほど、葉汰の頭は目前の現実に追い付いていなかった。



『~~~~~~~』



不意に若草色の幼女が口を開いた。そこから発せられたのは、聞いたこともない言語。さらに葉汰の混乱を推し進める羽目になった。

『~~~?』

さらに幼女が何か言葉を連ねる。しかし何を言っているのか分からない。

「あ、えっと……」

どう反応したらよいのだろうか。二十余年生きてきた人生の中で、何かいい打開策についての知識がないだろうかと思考を巡らせてみる。だが、こんなとんでも状況自体なかったので、そもそもあてにならなかった。


「……どちら様でしょうか?」


考えた末葉汰の口から出た言葉はそれだった。状況的に的外れな感じも否めないが、これ以上の気の利いた言葉は思いつかなかった。驚きで思考の大半が機能してなかったので、やむなしである。

『…………』

葉汰の言葉を聞いて、幼女は少し驚いたような様子を示した。全く異なる言語を話されたことで、言葉が通じていないことに気が付いたようだ。しばし考え込むようにうつむく幼女。だが、何か決心したように小さく頷くと、次の瞬間には葉汰を驚かすことになる。



「……うおっ!?」



まじまじと花壇に埋もれる幼女を眺め見ていると、突然ボコッと細く白い腕が生えたのだ。驚いてうめき声とともに少し腰を浮かせる葉汰。しかし生えた腕は、葉汰の方には伸びなかった。

どうやら生えた腕は、幼女のものらしい。確かにその腕は細く華奢で、手のひらも葉汰の半分ほどしかないだろう。その腕は幼女の頭に持っていかれ、やがて頭頂部についている雑草へとのびた。


『……っ!?』


腕がその雑草の葉を一枚引っ張り始めると、幼女が苦悶の表情を浮かべる。すごく痛そうだ。だが気合一閃、ぶちりと根元から一枚もぎとった。幼女の口からうめき声が漏れ、じんわりと涙を浮かべる。何もしていない葉汰の方が申し訳なくなってくるほど、痛みを我慢している様子の幼女。


やがて多少痛みが引いたのか、硬直していた表情を緩めた幼女は、もぎ取った葉を葉汰へと差し出してきた。

「えっと、これをどうしろと……?」

差し出される意味が分からず、手が伸びない葉汰に対して、幼女はいったん腕を引いた。そして葉を自身の口元に持ってきたかと思うと、葉を口に含む素振りを見せた後もぐもぐと口を動かし始めた。

「……その葉っぱを食え――ってことなんだろうか?」

彼女の動きから想像できることと言えば、それである。意図が伝わったと判断したのか、幼女は再びもぎ取った葉を葉汰へと差し出してきた。今度は素直に受け取った葉汰だったが、その動きはぎこちない。


「これを、食えと?」

手渡された葉は、どうみてもそこらの道に生えていそうな雑草のそれである。いくら山菜を口にする日本人である彼でも、洗われていない路傍の葉を生で食すような真似はしない。食用かどうかというのも気になるが、せめて一度流水にさらしたい。だが、幼女の目は今すぐ食べてほしそうな雰囲気を醸し出している。


「…………」


視線を幼女と手元の雑草とに行き来させる葉汰。正直なことを言うと、断然口に含みたくない。だが痛みを我慢してまでむしりとった彼女が、何も考えなしに手渡してきているとも思えないため、捨てられない。


「……えぇい、ままよ!」


すごく嫌そうな顔をしつつだが、気合とともに葉汰は雑草を口に含んだ。薄葉特有の口の中で貼りつく様な感覚が葉汰を襲ったが、

「……あれ、意外と美味い」

歯を当てると、程よい甘みが口の中に広がった。雑草のように見えたのに、まるで果物を食べているかのような感覚だ。嫌そうな顔が引っ込み、興味深そうな様子で葉汰は葉を噛みしめる。最後には難なく胃へと落とし込んだ。


「予想外すぎる珍味だわ……」

後味もさっぱりとして悪くない。味の余韻を感じつつ、改めて葉汰は幼女へと目を向けた。葉汰の視線が向いたことを確認した彼女は、再度口を開いた。



『……私の言葉が分かりますか?』



「うおっ」


今日は何度も驚かされている葉汰。思わずまじまじと幼女を見てしまった。

『……? 通じていますか?』

「……え、あぁあ! つ、通じてる通じてる」

『良かったです。私も貴方の言葉が分かるようになりました』

うれしそうに微笑む彼女は非常に愛らしかったが、理解が追い付いていない葉汰はその笑顔に見とれることはなかった。


「な、なんで急に言葉が分かるように……?」

『それは、先ほどの葉を食べていただいたからです。魔力を一部取り込んでいただくことで、少しだけ魔力を共有させてもらいました』

透き通るような声色で、幼女はそう口にした。やはり先ほどまで全く分からなかった幼女の言葉が、今度はしっかり日本語に変換されて聞こえてくる。


『これでようやく意思疎通ができます。……申し遅れました。私はシルビアと申します。まだ完全には形づくりができないためこのような格好でのご挨拶となること、お許しください』


ぺこりと、幼女改めシルビアは頭を垂れた。まあ、首から上しか生えていないので角度を変えただけになってしまうが。

「こ、これはご丁寧に。俺……じゃなくて、僕は森崎葉汰と言います」

『モリサキヨウタ様、ですか』

「あー、えっと。家名が森崎で名前が葉汰ね、一応」

『あぁ、そうでしたか。失礼いたしました。それではモリサキ様とお呼びさせていただきます』

「様っていうのもあれだけど……。と、ところでさ。君……シルビアさんって、いったい何者な……なんですか?」

あまりにシルビアの言動が丁寧なことと、見た目に騙されてはいけないような感覚がひしひしと湧きあがり、思わず口調を改めてしまう葉汰。そう口にすると、シルビアは真剣みを帯びた顔になった。


『……モリサキ様は、私を見てどう思いますか?』


「ど、どうって……」

そう言われて葉汰は改めてシルビアを眺め見る。どう、と言われても正直どこから突っ込みを入れればいいのか悩んでいるところである。何故地面に埋まっているのかとか、そのふつうあり得ない髪の色とか目とか、頭に生えているその雑草は何だとか……。

諸々の言いたいことを含めて、どのように返答すればいいのか悩んでいると、シルビアの方から口を割ってくれた。

『人の子の……しかも魔力の乏しいこの世界の住人である貴方には、私のことは唯々異様に見えていることでしょう。人間のようには思えないと。……その見解は間違っていません』

そこで言葉を区切ると、シルビアは硬い表情で葉汰を見上げた。



『私は、魔族です。貴方方が生きるこの世界とは異なる世界で生まれ育った、人ならざるものです』



そう自らの口で晒すことで、葉汰が衝撃を受けることを予想していたシルビア。しかし、当の葉汰の反応は小さかった。精々目を見開いて瞬きをした程度だ。あ、あれ……? と少なからず内心困惑するシルビア。

魔力が乏しいこの世界は、魔族が存在できる環境ではない。故に、この世界には魔族は存在しないどころか、魔法の類すらないのかもしれない……というのがシルビアとミミズの共通認識だった。だが、それは間違いだったのだろうか? 下手に大袈裟な反応をされて騒ぎになるよりはマシだと分かっている彼女も、あまりの反応の薄さに困惑を強めていた。


一方、葉汰の内心もシルビアとは方向性は異なるが、混乱していた。明らかに人間じゃない容姿、食べるだけで意思疎通ができるようになり、その理由が魔力の共有であるという説明。葉汰はすぐさま、彼女が人間ではない別の生物であることを理解していた。それに『異世界』『魔族』という心を震わせるキーワード。伊達に中二病を患っていた過去を持っていない。ファンタジー小説、アニメ等大好物の葉汰である。魔族の女の子が美少女なのはテンプレートです。


しかし架空の話に出てくる設定が、いざ現実に転写されると容易には受け入れられないものである。本来あり得ないと思っていたものが存在している……常識が覆されるほどの衝撃的な出来事は、簡単に咀嚼できるものではない。目の前の現実は、理解の範疇を超えてしまっていた。予想はついていた分、大袈裟に驚きはしない。だが、理解が追い付かなかった。



『…………』

「…………」



二人してどのように声をかければいいのか分からずに、ただただ見つめ合うまま過ぎていく空白の時間。


「……あー」


その気まずい雰囲気を破るべく口を開いたのは、葉汰の方だった。

「えっと。シルビアさんは、異世界から来たっておっしゃっていましたが……どうやってこの世界に来られたんですか?」

異世界を行き来する方法がもしかして存在するかもしれない。好奇心があふれ出てたまらず問いかけてしまっただけの葉汰だった。だが、そのおかげで会話が動き始めたこともまた事実である。


『……こちらの世界には、扉を用いて渡りました。私たちの集落には、世界を渡ることができる扉が祭られている祠があったのです。ただ、実際にその扉が使われたという記録はなく、言い伝え程度の情報で、信ぴょう性はありませんでした。ですけど、それに縋るしかなく……。結果的に世界を渡ることには成功して、あちらの扉からこの世界に来ることができました』

あちらの、と言われて思わず視線をそちらに向けた葉汰。その先にあったのは、店舗裏の地面に設置されている古臭い鉄製の開き戸である。地下でもあるのだろうかと、アルバイト採用された当日から気になっていたその開き戸は、葉汰が知る限り一度も使われたことはない。まさか異世界へとつながっていたとは……少しテンションの上がった葉汰であった。


『……あの、何とも思わないのですか?』


あれが異世界に繋がっている扉か……と興味津々な目を向けていると、不意にシルビアがおずおずといった様子でそう口にした。その言葉に改めてシルビアの方に視線を戻す葉汰。

「ん? 何とも思わないというのは?」

『だからその……私は異世界出身の、魔族です。貴方とは異なる存在です。そのような者が目の前に現れて、その……怖いとか、危ないとか……そのように思ったりはしないのですか?』

魔族と人間は基本的に相容れない。お互いがお互いを認識したら、必ずと言っていいほど距離をとるか、あるいは武器を手に取る。魔族より身体的に劣る人間は特に反応が大きい。殺される危険性があるからだ。警戒するのは当然である。


しかし、葉汰はそのようなそぶりを見せない。魔族と聞いておきながら、戸惑いこそ見せてはいるが、下手をしたらどこか嬉しそうにも見えてしまう。確かに、魔族がどういったものなのかという知識がこの世界にはないのかもしれない。雰囲気からして、『魔族』という概念は存在していそうだが……それにしたって、見知らぬものに対しての警戒が薄すぎる気もする。危険の多い世界で生きていたシルビアからしたら、考えられない態度である。


シルビアの問いに、葉汰は「んー……」とうなると思案気に腕を組んだ。

「まぁ確かに、これがいかにも『お前を骨まで食らいつくしてやる!』とか言いそうな恐ろしい見た目だったら、真っ先に逃げ出していると思いますけど。なんというか、シルビアさんは、その……そんなことするように見えないですし、大丈夫かなと」

可愛らしい、と言おうと思ったが咄嗟に伏せる。伊達にヘタレをやっていない。その歯切れの悪さを誤魔化すように、葉汰は手ぶりを加えて力説した。

「だ、だってすごく丁寧に名前名乗るところから入ったし。話をしに来たって感じで、害そうという気持ちはないってことですよね、それは? だったら、怖いとかそういう感じにはなりませんよ。そりゃあ、驚きはしますけど……」

『…………そう、ですか』


世界が違えば常識も違う。それは当然シルビアも考えることであって、そんなものだろうと理解はしている。だがやはり、実際に自身の持つ常識との差を目前にすると、混乱もひとしおである。気の利いた返答を返せないのは葉汰のみならず、シルビアも同様であった。

その後、どちらも何を話していいのかわからず、お互いがお互いの言葉を待った。その結果顕現する沈黙。



「……あ、やべ。そろそろ戻らないと」



やや経って、腕時計で時間を確認した葉汰がそうつぶやいた。結局未知との遭遇に度肝を抜かれてしまい、昼を食さぬまま休憩時間が終わろうとしていた。

「ごめん、そろそろバイト……あー、仕事に戻らないといけないから。失礼しますね」

『あ、あぁすみません。お仕事中だったのですね』

花壇から腰を上げた葉汰を見上げつつ、シルビアは申し訳なさそうに口を開いた。それに対し、葉汰は「大丈夫です」と軽く手を振る。

「えっと、仕事が終わり次第また来るつもりなので。夜にはまた来ます」

『…………はい、わかりました。お仕事頑張ってきてください』

「ありがとうございます。じゃまた」

そう言葉を残すと、そそくさと店内へと戻っていく葉汰。その後姿を、シルビアはずっと眺めていた。







「おつかれっしたー」


夜になり閉店時間が過ぎると、バイトの面々は店舗裏で挨拶を済ませ、各々の方向へと帰路につく。姦しい女学生集団と、ぼっちの葉汰に分かれる。別に話せることは何もないので、帰り道が同じでも困ると言えば困るのだが。それでも、こう集団に取り残されることに若干の虚しさを感じるのは、ハイレベルのぼっちになりきれていないからか。だが、なりたいかと言われると、素直に首は縦に振ることが出来ない半端な男であった。

そんな半端男の葉汰だが、本日は一人ではない。



『……あ、モリサキ様。お疲れ様です』



店舗の裏口から、角を通って自転車置き場までの短いルート。その間にこぢんまりと拵えられた、乾いた土が敷き詰められた花壇。その縁に、一人の少女が腰を下ろしていた。


年は十歳前後と言ったところか。深い緑色をした双眸を有する顔はとても整っている。細身の体を覆うのは、ノースリーブの簡素な白いワンピース。月の光を浴びて、華奢な四肢が白く輝く。腰にまで伸びる若草色の髪はさらさらで、わずかに吹く夜風になびいている。そしてその頭頂部に存在するのは、綺麗に枝分かれした瑞々しい葉っぱだ。今朝一本抜いた分だけ少し間を広げ、八方だったのが七方になっていたが。

昼の休憩時に会話した首だけ幼女の完全体が、そこには存在していた。


『……どうしました?』

あまりの可憐さに言葉を失い呆けている葉汰に、首をかしげながら問いかける幼女完全体シルビア。その際にさらりと前髪が垂れる様子が、葉汰の萌え心に風穴を開ける。

『……あ、あの』

「……っ、あ、あぁごめん」

困惑気に口を開くシルビアを前に、なんとか我にかえることが出来た葉汰は、大きく息を吐きだした。今の一撃はやばかったぜ……と内心痛い言葉を並べる。


「と、取り敢えず仕事は終わったよ。また昼の話の続きを聞いてもいいでしょうか?」

『そうですね。私も少し間をおいて冷静になることが出来ました。私もお伺いしたいことがあったのです』

『よろしければどうぞ』とシルビアが自身の横の空間を示す。それに葉汰は「ど、ども」と若干キョドりながら応じた。


「えーっと。……それで、お伺いしたいことっていうのは?」

座ってひと心地つくと、葉汰は改めてシルビアを眺める。パーツそれぞれが、絶対に人間では出せないような色合いで彩られた彼女は、とても神秘的であった。まるで妖精の姫様のようだ、というのが葉汰の率直な印象である。

そんな装いのシルビアは、非常にきれいな姿勢で葉汰へと相対した。


『はい。お伺いしたいことというのは、モリサキ様が恵んでくださった魔力水についてです』


「……はぁ」

すぐに言われたことを咀嚼することが出来なかった葉汰。都合しまらない声を漏らしてしまったが、その後すぐに頭に浮かぶものがあった。

「あー……。もしかして……これ?」

そう言いつつショルダーバッグから取り出したのは、例の謎飲料である。飲む気はさらさらなく、今日も今日とて花壇に撒こうと思っての持参だった。昼間に実行しようと思っていたが、シルビアとの衝撃的な遭遇があったため、出来なかった。故に、まだ新品同様である。


『っ、それです!? こ、これをどこで……?』

この謎飲料に見覚えがあるのか、シルビアは驚きに目を丸くした。慄いた様子で出所を聞いてくるが、葉汰にとってもそれはよくわからない。

「友人からもらったんですよ。まあ、その友人がどこから仕入れてきたのかって聞かれても、わからないんですけどね」

「見ますか?」と差し出された謎飲料を、シルビアは恐る恐る手に取った。葉汰にとっては何でもないペットボトルだが、同じもののはずなのにシルビアが持つと大きく見えてしまう。おそらくペットボトルとの初対面であったのだろう。下手に扱って破損させてはいけないという意識が働いているのかもしれない。シルビアはまるで壊れ物でも扱うかのように、しっかりと両手を使って支えていた。


『……どうして、こんなものがここに』

「えっと、その液体について何かご存知なんですか?」

シルビアの物言いに何か知っている様子を見た葉汰は、そう聞いてみた。そうするとシルビアは少し驚いたような表情を葉汰に向けたが、やがて納得したように表情を戻した。

『……確かに魔力の乏しいこの世界では、馴染みのないものかもしれませんね。これは私たちの世界で魔力水と呼ばれるものです。その中でもこれは、かなり高濃度のものです』

「魔力水……。魔力が回復するとか、そういう系ですかね……?」

『そうですけど……ご存じなのですか?』

「あ、いや。ゲームとかラノベとか……って言っても分からないか。こちらの世界では、異世界の冒険譚とかを題材にした書籍とかに、空想の産物として出てくるんですよ、魔力っていうのが。大体、魔法を使う際に用いるものなんですけど、あってますかね……?」

『私たちの世界の魔力も、そのような見解で間違いはありません。……もしかしたら、過去に私のように扉を通ってこちらの世界に渡ったどなたかが、広めたのかもしれませんね』

「なるほど……。なかなか夢のある話だな……」

現にこうして、人外であるシルビアがこちらの世界にやってきているのだ。過去にそういう事例があっても不思議ではない。


「……それで、その魔力水というのはすごいものなのですか?」

要はMPポーションのようなものではないかと、葉汰はあたりを付けた。シルビアのいた世界は、魔法とか魔力とかが平然と横行している世界のようだ。それならば、MPポーションのようなものが存在してもいいだろう。その中に等級だって存在するかもしれない。

葉汰の言葉に、シルビアは『それはもう……』と眩しそうに魔力水の入ったボトルを眺めた。

『元々市場に出回る魔力水は低級のもので、溶けている魔力は少ないです。でも、これは違う……。この魔力水は、空間に魔力を充填させることが出来るほど、濃く魔力が内包されています。それこそ、今こうして私が人型を保っていられるのも、先日までモリサキ様が恵んでくださった、魔力水のおかげなのです』


『ありがとうございます』と頭を下げながら、シルビアは魔力水を差し出してきた。どうやら返してくれるようだが、怪しげなものとしか認識できない葉汰は、正直いらないんだよなと内心思っていた。

「よかったらあげますよ」

『えっ、よろしいのですか?』

「まぁ、だって僕の手元にあっても使わないですし。それなら、魔力が必要なシルビアさんが使ってくれた方がいいでしょう」

葉汰の言葉に、ぱちぱちと大きな目を開閉するシルビア。本心では譲ってほしいと思っていた彼女であったが、ここまであっさりといただくことができるとは、思っていなかったのだ。


『……本当に、頂いてもよろしいのですか?』


おずおずと、確認を挟んでしまう。その上目遣いに、ガツンと精神を揺さぶられる葉汰。女性経験のなさが仇となり、すぐに彼女から目をそらしてしまった。

「いいですよほんとにっ。な、なんならうちにまだ十数本とかあるんで、少しずつですけど、持ってきますよ」

『………………』

明後日の方向を見ながらそういう葉汰に、シルビアは自身の目元が潤むのを感じた。住んでいた集落を追われ、両親の安否は分からず、こちらの世界では死の淵まで体験した。そのタイミングで、本来一生拝むことができないであろう高濃度の魔力水を、何の見返りもなく提供してくれた葉汰は、彼女にとっては救世主そのものだった。……はたから見れば、弱っているところに付け込んだ男と言えるだろうが。良くも悪くも、シルビアは非常に純粋で素直な少女であった。



『……ありがとうございます』



シルビアは、まるで宝物のように魔力水を胸元で抱え、葉汰に向けて深く深く首を垂れた。当の葉汰は、まさか友人からの迷惑品がここまで喜ばれるとは予想外であり、なんとも微妙な心持だ。シルビアのような美少女に感謝されるのは、勿論気分がいい。だが流石に費用対効果が釣り合わない気がして、若干申し訳ない気持ちを抱えるヘタレ青年であった。


「えっと……。それじゃあ僕はそろそろ帰ろうと思いますけど。シルビアさんは、これからどうするんですか?」

言いつつ葉汰は花壇から腰を上げた。本当だったら、もう少しこの美少女と会話をしていたい。そう考えていた葉汰であったが、残念ながら明日提出である課題がまだ終わっていなかった。彼女に会っていなければ、早急に荷物をまとめて帰路についていたところである。

『私は、草の形態に変化することが出来ますから。普段からこの花壇でお世話になっているんです。魔力水がしみ込んでいるおかげで、魔力のないこの世界でも過ごすことが出来るんですよ』

「……へ、へぇ」

にこやかに想像できないことを言ってのけるシルビア。葉汰は咄嗟に理解のある返答を返すことが出来なかった。質量保存はどうなるんだと真っ先に考えてしまうのは、ちゃんと理系をやっている証拠か。腐っても葉汰は工業大学生であった。加えて、恋愛経験は残念ながら皆無であった。


「そ、それじゃあ失礼します。一週間後には必ず来ますけど、余裕があればそれ以前でも魔力水を持ってきますよ」

『……すいません。本当にありがとうございます』

「い、いいですよ。出所不明な貰い物ですし」

再度深々と頭を下げ始めたシルビアに対し、慌てて葉汰は両手を振って何でもないことをアピールする。その後気恥ずかしくなった彼は、「そ、それじゃ」と言い残してそそくさと駐輪場へと姿を消した。やがて自転車に跨った葉汰が、勢いよく路地の向こうに走り去っていった。その胸の内にあるのは、シルビアの可憐な容姿と「なんであいつあんなもん持ってたんだ」という友人への疑問だろうか。







「……我々魔族にも善悪の区別があるように、人間の中にも一風変わった者は居るものだな」

「……そうですね」


葉汰が走り去った後。店舗裏の花壇では、地上へとはい出てきたミミズと、人型のまま月光浴をしていたシルビアが言葉を交わしていた。

「というよりも、この世界の特色なのかもしれぬな。そもそも魔族というものが存在しない世界だ。敵対する、という概念がないのかもしれん」

「……おそらく、そうなのでしょうね」


車通りからは少し外れた脇道であるここは、車の音は響いてくるが、ひどく薄暗く人気がない。月の光がさしていなければ、足元もおぼつかないような暗闇になるかもしれない。街灯は確かに存在するが、満足に光が届く距離ではなかった。街中にいながら、世俗から離れた位置にいる二体の魔族は、比較的大見得を切って姿を現すことができていた。


「しかし、幸運であった。まさか理解のある人間が、高濃度の魔力水を無償で提供するなどと……長い私の生涯の中でも、初めてのことだ」

「……私もですね」

「まだ十数本は存在すると言っていたな。……この、瓶……と言ってよいのだろうか? この器分の魔力水が十本もあれば、季節が一回りする程度は持つやもしれん」

「……かもしれませんね」


「…………」

「…………」


ミミズは何気なしにシルビアを見上げた。花壇の淵に腰掛ける彼女は、ミミズの斜め前に座る形になっている。両手にしっかりと魔力水の入ったペットボトルを握りしめている様子はうかがえるが、月を見上げているであろうその表情は確認することはできない。

ミミズが言葉を発さなくなると、辺りは静寂に包まれた。時々通りを走る車の音が聞こえてくるが、場を乱すような騒音にまでは至らない。


「…………」

「…………」


その静寂の中、相方の動向をうかがっていたのは、ミミズのほうであった。再びちらりとシルビアのほうを眺めると、小さくため息をつく。この場で彼が人間のような姿かたちをしていたならば、おそらくやれやれと肩をすぼめていただろう。



「……先に私は土の中に戻っておこう」



そう言って器用に体をくねらせながら、身を土の中に埋めていく。そして完全に埋もれたかと思ったら、不意に少しだけ頭を出してきた。

「……近くに人の気配もない。少しくらい騒いだところで、不都合はないだろう」

そして一言だけ漏らし、そそくさと土の中へ戻っていった。


「…………」


ミミズが一言置いて戻ってしまった後も、シルビアは動くことはなかった。大事そうにペットボトルを抱え、月を見上げる。


そんな彼女に、やがて変化が訪れた。



「…………っ」



今まで無表情に閉じられていた口元が、何かに耐えるように歪む。ペットボトルをつかむ指に力が入り、小さな音を立てた。



「…………う」



堪らなくなって、シルビアは上げていた顔をうつむかせた。



「……う、あぁ……っ」



顔をうつむかせた拍子に、ひざ元に水滴が落ちる。その水滴は暖かい。



「あぁあ……っ、あぁああっ」



もう、耐えられなかった。




「あああぁああぁぁあぁっ」




押し殺したようなうめき声をやめ、シルビアは声を張り上げて泣いた。


家族や友人達と充実した生活を送っていたのに、ある日突然、すべてがなくなった。目の前で村に火が放たれ、次々と焼け死んでいく村人たち。その中には、つい数時間前まで歓談していた友人の姿だってあった。辛うじて村の奥地のほうに住んでいたシルビア一家は、襲撃を受けてから逃げるまでに若干の余裕があった。逆に言うと、村が刻一刻と死滅していく様子を、目の当たりにする時間があったということだ。



怖かった。



両親に叱咤され、無我夢中で森の奥へと逃げた。けれど襲撃者は諦めてくれない。襲撃者は狡猾で、シルビア達草葉の一族が力を発揮できないような、特殊な結界を用意していた。故にシルビアたちにできるのは、逃げることだけだった。


村の奥地の祠まで逃げれば、異世界へ通ずるという扉がある。その扉は、草葉一族に伝わる方法でしか、使用することが出来ない。襲撃者から身を守るには、この方法しかない……そう思って、ただひたすらに走った。

だが、襲撃者はすぐ後ろというところまで肉薄してきていた。元来あまり活発な質でなかったシルビアの足では、荒事が得意な彼らの追っ手をまけなかったのだ。


もう、おしまいだ。……そう思っていたシルビアを助けたのが、前を走っていた両親だった。


急に方向を変え、襲撃者へと立ち向かっていった両親は、シルビアを守るように立ちふさがる。その様子に足を止めようとした彼女に、両親は振り向かず走れと叫んだ。生まれてからすっと一緒に過ごしてきた中で、初めてきいた怒号だった。



怖かった。



両親が足止めしてくれたおかげか、シルビアは無事祠へとたどり着いた。その場で両親を待とうとも思った。だが火の手が予想以上に近場に迫っており、シルビア自身の身も危うい状況だった。両親が体を張って守ってくれた命……シルビアは意を決し、一人で扉の発動を試みた。



怖かった。



扉の向こうは、夜であった。何処からともなく機械音がして、見たこともない材質で家が建てられている、未知の世界。そして、なにより魔力が極端に少なかった。幸いと言っていいのが、近くに身を隠せるような土の大地があったことだ。それ以外の場所は、石のようなもので覆われ、とてもじゃないが使えない。扉の発動に魔力を持っていかれたシルビアは、辺りの確認も早々に土の中へと逃げ込んだ。


そこから先は、ただただ震える毎日だった。



怖かった。



やがて魔力が底をつきかけてきて、意識ももうろうとなる。もしかして、こんな異国で、誰にも知られないうちに死んでしまうのかなと、そんなことが脳裏をよぎる。



怖かった。

恐ろしかった。

泣きたくなった。

怒りたくなった。

謝りたくなった。



そして、何も考えたくなくなった。

何も考えられなくなった。



そんなときである。


葉汰が救いの手を差し伸べてきたのは。



村を襲撃し、火の海にした憎き種族である人間。けれど、彼はその人間でありながら、いくらの値段が付くかもわからない貴重な魔力水を分け与えてくれた。村を焼かれ、死を待つだけの魔族に、生きることを続けさせてくれた。


どれだけ救われたか――。それは、シルビア自身にも把握が付かなかった。



「うっ、ありがとう……、ありがとう、ございます……っ」



シルビアは嗚咽混じりに、何度も何度も感謝の言葉を漏らした。端から見たら、壊れた機械のように見えるかもしれない。しかし、辺りには人気はない。

彼女は心の底から泣き、心の底から感謝を吐き出し続けた。


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