表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
63/296

063[大空位時代]

063

[大空位時代]


 ―――大空位時代のドイツ。


皇帝フリードリヒ2世(1194-1250)の死後、

教皇庁や高位貴族の支配欲のお陰で、混乱は未だに続けられていました。


ローマ王の選挙権を持つものは、正式には4人の選帝侯のみ。

高位聖職者のマインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教、そして世俗君主のライン宮中伯。

しかし世襲制であるライン宮中伯をバイエルン大公が兼ねるようになり、

その二つの称号は上バイエルン公及びライン宮中伯ルートヴィヒ2世と下バイエルン公ハインリヒ13世の兄弟に分家した為、

バイエルン領主にも選帝侯に類似する権利が与えられました。

選挙は、立候補者から選ぶのでは無く、選帝候にのみエントリーの権利がありました。

その為事実上は、王位に就くよりも選帝候職に就く事の方が、国を左右出来る、そんな地位でした。

もちろん適当に選んでも行けません。

選帝侯が選出した新ローマ王があまりに政治に無頓着過ぎて統率力がなれば、

今度はその人物を選出した選帝侯らの権威を疑われるからです。

それなりの地位と財産と人心を掴める人物である事も重要でした。

領民からの人望もあり且つ、選帝侯に忠実で扱い易い人物を選ぶ必要がありました。

こうした考え方から、帝国に干渉しにくい土地の領主まで候補に選ばれていました。

つまり、海の向こうの遠地の人間を名目上ローマ王に据えるのみで、実効支配と都市収入は、現地高位貴族に、と。


「ローマ王には、コーンウォール伯リチャード殿を推薦したい。」


この選挙に積極的に介入していたのが、ボヘミア国王オタカル2世(1230-)でした。

オタカル2世は1252年にバーベンベルク家の当主たるマルガレーテ・フォン・バーベンベルク(1205-1266)と結婚した為、オーストリア公領及びシュタイアーマルク公領を獲得しました。

バーベンベルク家は古くから帝国に大きな発言権を持っており、

問題無く男系継承ができていれば世俗の選帝侯の第一候補であった事でしょう。

そんな領土の領主である事から、ボヘミア国王オタカル2世も大きな顔で帝国会議に口出しするようになっていたのです。


 1252年、オタカル2世がマルガレーテと結婚した直後、

オーストリア公領のもう1人の相続者ゲルトルートが、

ハールィチ・ボルィーニ大公及びキエフ大公、そして全ルーシの王ダヌィーロ・ロマーノヴィチの次男ロマンと結婚しました。

この結婚を取り持ったハンガリー国王ベーラ4世(1206-)がオタカル2世に対抗しました。

ベーラ4世がオーストリア公領を得る為の口述として結んだものでした。

1253年には離婚してしまいますが、

ハンガリーとボヘミアの戦争は続きました。

そもそも、ゲルトルートの祖父且つマルガレーテの父であるオーストリア公レオポルト6世の母がハンガリー国王ゲーザ2世(1130-1162)の娘である事から、

ハンガリー国王はしばしばオーストリア公と対立していました。


「ボヘミア国王はハンガリー国王との和睦の徴として、

 シュタイアーマルク領を公領として割譲せよ。」


1254年、ボヘミア王国の領土拡大を嫌う教皇インノケンティウス4世(在1243-1254/12/7)によって、シュタイアーマルク領がハンガリーに奪われてしまいます。


オタカル2世は、とにかく帝国内での権威強化を試みていた事からも教皇による決定を拒む事は出来ませんでした。


「戦を鎮める為の聖下の決定、恐れ入りました。

 帝国平和の為なら私は喜んでシュタイアーマルク領をハンガリーに渡しましょう。」


もちろんそれで納得していたわけではありません。

オタカル2世は帝国平和令を発令して支持を増やしていく傍ら、

次第に教会や諸都市を優遇する動きを見せ、歴代の皇帝の施策にも似た体勢を作っていきました。


 さて一方ハンガリー国内では、ベーラ4世の嫡男イシュトヴァーン5世(1239-)が独立を画策して父に反抗していました。

1257年から58年にかけて反乱が起こり、イシュトヴァーン5世はトランシルヴァニアの支配権を獲得しました。


そして―――


   ――うちらシュタイアーマルクはハンガリーにやる支配ば望まなか!!――

   ――うちらん領主はボヘミア様だ!!――


ハンガリー王国領となったシュタイアーマルクで反乱が起こります。


「俺がスティリアの反乱を鎮めてその支配者となってやる!!」


イシュトヴァーン5世が反乱鎮圧に当たりますが、なかなか上手くいきません。


ボヘミア国王オタカル2世はシュタイアーマルクの反乱を煽りました。


「シュタイアーマルクは私に助けを求めている!

 領民はハンガリー王国の支配を嫌がっているならば仕方ない。

 反乱を鎮めるべく、ボヘミアはシュタイアーマルクに軍を進める!!」


1259年末、オタカル2世はシュタイアーマルクに進軍し、

領内のハンガリー軍を駆逐していきました。

シュタイアーマルクの領主達は直ぐにオタカル2世への従属を示しました。


    「おのれオタカルめ!!

     スティリアを奪い返すのだ!

     息子イシュトヴァーンにも命令する!

     直ちにオーストリアに軍を揃えよ!」


ハンガリー国王ベーラ4世も、ハールィチ・ボルィーニや、ブルガリア、ウクライナの軍を結集させました。

ところが、軍内では不安がありました。


  「国王陛下とイシュトヴァーン殿下が同陣……。」

  「恐ろしい……、何か企みがあったらどうする……?」

  「もし殿下がボヘミア軍に寝返ったら、我々はどうすれば……?」


つい先日まで国王と王子の対立で争っていたので、各軍は気が気ではありませんでした。


一方ボヘミア国王オタカル2世は、自軍、シュタイアーマルク軍のほか、

チュートン騎士団や、ベーラ4世による支配を望まないハンガリー諸領主も味方に付けました。


1260年7月13日、両軍は、シュタイアーマルクとハンガリー国境付近のドナウ川北岸、

ゲンゼルンドルフ郡のクレッセンブルン、

ドナウ川支流のモラヴァ川で対峙しました。

両軍それぞれ3万から4万もの兵がありました。


    「者共!!!ボヘミアに報復を!!!」


戦況は詳しくは伝わりません。

功を焦ったイシュトヴァーン5世の無謀な進軍で渡河に苦慮した事や、

そもそも健在していた軍内の不安が影響して、ボヘミア国王軍の勝利に終わります。


ハンガリー国王ベーラ4世は、その後もイシュトヴァーン5世と領土を巡って争わなくてはならなかった事に加え、

モンゴル帝国からの侵攻にも対処しなければなりませんでした。


1261年5月31日、ウィーンに於いてボヘミア王国とハンガリー王国には講和が結ばれ、

ボヘミア王国が再度シュタイアーマルクを獲得する事になりました。

さらに、バーベンベルク家マルガレーテと離婚し、

ベーラ4世の孫娘でありルーシの皇族であるクンフタ((1246-)と再婚しました。

シュタイアーマルクには、モラヴィア人が多く要職に就くようになりました。

こうしてオタカル2世は全オーストリア公領を支配するに至りました。

多くの領地支配を確実なものとしたオタカル2世は、神聖ローマ帝国の政界にしばしば介入するようになるのです。


「コーンウォール伯リチャードにオーストリア領の一部を与え、

 帝国東方の守護に当たらせたい。」


1262年、オタカル2世は、ローマ王候補者であるリシャールにオーストリア公領の一部を与えました。


  「なんの権限があってボヘミアはコーンウォールに領土を与えるのだ?!」

  「異例中の異例である!!」


    「自領を親しい人間に与える事に権限も何も無いであろう。」


「オーストリア公領は帝国の重要な土地!

 それを我々に相談無しで与えるとはどういう事か!」


    「ボヘミア殿の事ならば確かなのであろう。」


「そもそもオタカル2世はマルガレーテと離婚した!

 バーベンベルク家の遺領を領有する権利に疑問がある!!」


ボヘミア国王の行ないも、帝国議会では激しく攻撃されました。

その後もオタカル2世は帝国の南東部でますます権力を行使していくようになっていました。

帝国議会では、コーンウォール伯派とカスティリア国王派で二分されている中で、

オタカル2世の扱いも論争が続いていました。


また、シュタイアーマルクを初めに、

オーストリアの民衆は、外国人の支配を好みませんでした。


 1264年、ツェーリンゲン家領を継承していたキーブルク家の男系継承者が断絶してしまいます。

キーブルク伯ウルリヒの長男ヴェルナー・ウルリヒが1228年に逝去すると、

その子のハルトマン・ヴェルナーを次男のハルトマン・ウルリヒが後見しました。

ハルトマン・ヴェルナーが1263年に逝去すると、

その娘アンナを引き続きハルトマン・ウルリヒが後見しました。

しかし、そのハルトマン・ウルリヒも、1264年に逝去してしまうのです。


   「アンナ様を保護して頂けるのは何方でしょうか……。」

   「やはり、ウルリヒ様の長女ハイルヴィヒ様の子、

    ハプスブルク伯のルドルフ様ではないでしょうか。」

   「確かに。ルドルフ様にお願いしましょう。」


キーブルク家の家臣達は、ハプスブルク家に後見を依頼しました。


「うむ。」


ハプスブルク伯ルドルフ4世(1218-)は頷きました。


「頼りにしていただいて誠に感謝している。

 これまで君達には、ツェーリンゲン家やキーブルク家、

 それに私と同族のラウフェンブルク家との争いに巻き込んでしまった。

 本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 だが、今、我がハプスブルク家はラウフェンブルク家と和睦しており、

 バーデン地方の諸領主ともとても良好な関係を築いている。

 キーブルク家とも今後とも良好な関係を続けたい。」


ルドルフがキーブルク家を後見し、

ラウフェンブルク家の1人エーバーハルトとアンナ・フォン・キーブルクを結婚させました。

ハプスブルク家は結婚政策によって次々と所領を増やしていました。

そもそもハプスブルク家がアールガウ地方に所領を得たのも結婚によるところが大きく、

その為か、それは、争いを避けて結婚政策によって拡大する事を家訓のようにしていました。

その後、この夫妻からラウフェンブルク家領内の都市を購入。

これによってハプスブルク家は父代で分裂したハプスブルク家所領を統一しました。

ツェーリンゲン家旧領とキーブルク家領を併せると、ハプスブルク家は、

南は北イタリア西部、西はプロヴァンス及びブルゴーニュ伯領、

北はライン川沿岸地域とシュヴァーベン、東はバイエルンと、

東西南北の街道の中心地を全て支配する事になり、

その都市収入は、大公領や選帝侯に匹敵する程になっていました。

にも関わらず、敵がいないという、他の大領主とは違う特性を持っていました。

よって、危険視もされておらず、シュヴァーベン地域以外からは全く認知度の低い人物でした。

 

 ボヘミア国王オタカル2世も、北バイエルン方面の結婚政策を指南し、

北イタリア方面へも勢力を拡大していました。

トリーア大司教らは、オタカル2世の権力を利用しようとしました。


   「オタカル殿……。

    もし我々に協力していただけるのなら……、

    つまり、ローマ王選挙に於いて、カスティリア国王を推薦して頂けるのなら、

    フリウーリ総督の地位を与えましょう。

    アドリア海支配の要となりましょう。」


オタカル2世はニヤリと笑いました。

こうして、オタカル2世は鞍替えしました。


「ローマ王には、カスティリア国王アルフォンソ10世を推薦したい。」


オタカル2世の影響力は帝国内でかなり大きなものとなっていました。


    ・・・‥‥……―――


  ―――ライン宮中伯邸。


  「馬鹿な?!??

   ボヘミアが裏切った?!」


    「はい!!明確に、カスティリア国王を推薦すると!!」


  「くそっ!!!」


ライン宮中伯ルートヴィヒ2世は思い切り机を殴りました。


  「トリーアかザクセンらが餌でも撒いたか……!!

   奴を牽制する、何か別の策を練らねばならんか……!」


ライン宮中伯及びバイエルンと、ボヘミア王国には亀裂が生じていました。


    ・・・‥‥……―――


  ・・・‥‥……―――


 1266年2月末日、帝国議会。


  「アンジュー伯シャルル・ダンジューが、

   ベネヴェントの戦いでマンフレーディを敗死させました。」


会場はどよめきました。


     「おおなんと!」「ついにシチリアを制圧したか!」

     「これでシチリアの収入が……ぐはは……、

      あ、いやぁ!つい口走ってしまった!ははは!」


議会は安堵と、そして卑しい笑いが響きます。


  「アンジュー殿は我々に忠誠を誓っている。

   これで、シチリア王位を彼に認める代わりに、

   プロヴァンス地方の都市を教皇庁の管轄に置ければ万々歳だ。」


   「なかなか良いように事が進んでおりますな!ははは。」


   「そして彼を十字軍として聖地へ派遣してしまうと。」

   

   「その通り。支配地から遠ざけてしまって、

    より我々に忠実な人物を代官に置いてしまう。」


   「これで彼の領地の都市収入が我々の手に。」


   「ではアンジュー殿に、十字軍の要請を……。」


     ―――……‥‥・・・


   ―――……‥‥・・・


ところが、シャルル・ダンジューはその後ベネヴェントを軍事力で制圧して自領に組み込み、

さらにアカイア公国と同盟を結んでその相続権を得ます。

シャルルは次々と地中海の都市を掌握していきました。


    「アンジューを野放しにしていて良い筈が無い!」

    「アンジューはいずれ我々にも牙を剥くぞ!!」

    「コッラディーノを渡せ!シチリア国王位は彼の物だ!」


  「コッラディーノを物のように扱うな!」

  「フランスの力無くして世界平和は訪れない!」


    「偽善者振るのもいい加減にしたまえ!」


  「収益の事しか考えない者共め!」


「諸君!待ちたまえ!

 先ず尋ねたいのは、アラゴン王国の動きである!

 マンフレーディの死後、

 マンフレーディの娘と結婚したアラゴン王子にはその相続権がある。」


    「アラゴンは当然アンジューによるシチリア支配は望んで居ない!」

    「アンジュー一人でティレニア海とアドリア海を持つ事など許さない筈だ!」


おおよそカスティリア国王アルフォンソ10世を推す勢力によって、

アラゴン軍及びカスティリア軍の派兵が進められ、

ついに、コッラディーノは挙兵してしまいます。


 1268年8月23日、タリアコッツォの戦いで、アンジュー伯シャルル・ダンジューが勝利しました。


   「コッラディーノは教皇が支持したアンジュー殿に対して刃を向けた!」

   「これは決して許してはならない重罪である!」

   「コッラディーノは斬首の刑を!!!」


10月29日、ナポリで、コッラディーノの斬首刑が行われました。

これにてシュタウフェン家は断絶してしまいます。


アンジュー伯シャルルは、ナポリを中心にシチリア王国の統治を開始していました。


もちろん、シチリア王国民は不満で不満で仕方ありませんでした。


  ――まさか……、斬首までする事ないのに……!――

  ――卑怯なやり方だ……!教皇庁の手下め!――

  ――これでオートヴィル家の血は終わってしまった……!――

  ――いや、マンフレーディ様の娘がアラゴンにいるのでは……?――


イタリアの皇帝派(ギベリン)の諸侯は、反仏派に転じて行くようになります。

直後、1268年11月、アンジュー伯支持者であった教皇クレメンス4世が高齢の為薨去。

教皇選挙(コンクラーヴェ)は滞りました。


 1270年8月、十字軍が駐屯したチュニスで疫病が流行りました。

フランス国王、聖王ルイ9世(1214-1270)が崩御。

シャルル・ダンジューは、

現地にいた王子、改め、国王フィリップ3世の摂政位として権力を行使した他、

同様に十字軍に参加していたアングルテール王子エドゥアルドをも手駒にするような感覚でいました。

さらに1271年5月に兄アルフォンスを疫病にやられ、逝去。

フランス王国も、シチリア王国も、アカイア公国も、

ラテン帝国遺領も、エルサレムも……。


  (地中海の殆どが俺の手の内にある……!!

   凄いぞ、これは!

   俺は、世界の殆どを支配しているんだ……!!

   ふはは……!!俺は王者だ!!

   世界の覇者なのだ!!)


     ―――……‥‥・・・


   ―――……‥‥・・・


 1271年9月、前教皇薨去後3年を経て、ようやく教皇が決定しました。

当時、アングルテール王子エドゥアルドと共に十字軍に参加していたテオバルト・ヴィスコンティ(1210-)でした。

教皇名は、グレゴリウス10世。

彼は、アンジュー伯シャルルの驕りを完全に否定していました。


「教皇庁との約束を完全に反故にして私闘を繰り返している。

 直ちに約束通りに十字軍に参加せよ!!!」


この教皇命を受けたシャルルは、とりあえずは従う事にします。

そうしなければ、自身の支持を失いかねず、

甥のフランス国王フィリップ3世をローマ王に選出する計画も無駄になってしまう可能性もあるからでした。

シャルルはおとなしくシリアへの派兵を決定しました。


ところが、1271年12月、

シリアのアングルテール軍とバブリー・マムルーク軍が休戦協定を結びました。


「休戦したのなら仕方あるまいよ。」


シャルルは、シリアへは向かわず、地中海の覇権確立に向けて動いていました。

1272年2月にはアルバニア王国とも同盟を結び、アドリア海も手中にしました。

よってヴェネツィアとも交易を結ぶに至り、

ジェノヴァとヴェネツィアの覇権争いにも介入するようになります。


 ・・・‥‥……―――


 ――貴族と密接に結び付く事で都市の発展を目指しましょう!――


貴族と連携しようとする黒党(ネーリ)と、


  ――貴族の高圧的な態度は許せん!

    俺らは俺らで独立しよう!

    俺らの自治権を確立しよう!!――


貴族支配を認めず独立しようとする白党(ビアンコ)で、教皇派(ゲルフ)は分裂しました。


ここで、ドイツ王選挙にも転機が訪れました。

1272年1月、イングランドで、コーンウォール伯リシャールが逝去したのです。


  ――ローマ王にはボヘミア国王が良いだろう!――

  ――オタカル様は様々な問題を解決して帝国を平和に導いている!――

  ――ザーリアー家はシュタウフェン家の良い政策を受け継いだとても良い王だと聞くぞ。――


そんな噂を耳にして、オタカル2世は御満悦でした。


「ザクセンやブランデンブルク側を味方に付けておいて正解だった。

 この私をローマ王に推薦する人々が増えて来ている。

 このまま多くの支持を取り付けて、

 大司教らに承認させれば、私がローマ王だ。ふふふ。

 だが厄介なのは、シチリア国王か……。

 シチリアを如何に操っていくかが問題となる……。」


 さて。


1272年3月、ローマに戻ったグレゴリウス10世は、正式に教皇としての戴冠式を行いました。


   「ところで聖下。

    いま神聖ローマ帝国ではローマ王が決まらず空位の状態が続いてしまっています。

    ローマ王について、何かお考えがあればお聞かせください。」


集まった諸侯らの注目は、やはりそこでした。


「ローマ王は選帝侯の推薦者による選挙で行われる。

 いま候補に挙がっている人物は、

 カスティリア国王、亡きイングランド王子、

 フランス国王、ボヘミア国王などなど……。

 なぜ外国人ばかりなのか、その理由を教えていただきたいものだが。」


    「あぁ!いえいえ、

     ボヘミア国王はオーストリア公であり、

     帝国内の重役である事はご存知のはず!!」


「質問と答えが違うな。」


  「帝国内の人物を選出すれば、

   必ず他家との軋轢が生まれ、戦争となってしまいます。

   ゆえに他国から……」


「それで国内の貴族が納得するのか?

 外国人の支配を嫌って今シチリアでは戦争が起こっている。

 外国人を王にすれば、帝国全土が同様に戦争となるのではないか?」


  「それは、、そうならないように………」


「選帝侯が全てを掌握して操りたいと?」


  「いえいえそのような事は!!!」


帝国諸領主らは焦りました。


    (この教皇では、、まずいのではないか………?!)


そして教皇は言いました。


「ローマ王には、神聖ローマ帝国内の人物を選びたまえ。」


選帝侯らは困惑しました。

国内に居ても、自分らに忠実に従う扱い易い人物などいるのか……?


  「王に適任なのは??」

   「ボヘミア王は??」

   「オタカル2世はチュートン騎士団とも結託して、

    さらにチェコ地方の開拓で鉱山を掘り当ててから独自に財を得ている。

    そのような強力な人物を王にするわけにはいかん!

    国王代理人の地位だけ与えておけばこちらには関与しない。」

   「国内人物ならば、適当な小領主でも良いのではないか。」

   「財力も支持も無い人物を選んでも意味が無い!」

   「財の無い領主を選んでも我々の利益にならんからな。」


数名の領主が候補に挙がりましたが、いずれも決定打に欠けました。


 「領土が狭い。」「割譲してもらっても我々は特しない。」

 「金にならない。」「敵対している領主から攻撃されかねない。」


などなど、選帝侯らの欲望を絡めると、どれも却下されました。


「ツェーリンゲン公領か?」

「バーデン辺境伯?」

「ヘルマン6世は1250年に亡くなってしまっている。」

「なんと。彼ならば支持も集め易いかと思ったのだが。」

「ではツェーリンゲン家の遺領は誰が継承している?」

「キーブルク家は?」

「いや、確かキーブルク家も断絶したような?」

「あぁそういえば、アールガウ地域の領主では?」

「アールガウとはまた随分田舎だな。そんな所にいい人材が?」

「ツェーリンゲン家の遺領は全てその者の所領となっているのか??」

「オーストリアとボヘミアの和約にも一枚噛んでいるらしい。

 しかも、シュタウフェン家の血を引いているという。」

「なんと!シュタウフェン家の?!」

「そう。なんでも、赤髭帝の曽孫にあたるそうだ。」

「おおそれは。血統もあるなら申し分ないではないか!」

「その人物とは?」


  「ハプスブルク家のハプスブルク伯ルドルフ4世だ。」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ