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052[神聖ローマ皇帝]

052

[神聖ローマ皇帝]


 955年春。

ザクセンの豪族ザクセン辺境伯ヘルマン・ビルングが王室を訪れました。


ビルング家は東フランク領王オットー(912-973)の曽祖父リウドルフの妃の家系とされ、

リウドルフィング家とは密接に繋がっていました。

オットーは王に即位すると、ヘルマンにザクセン辺境伯の地位を与え、

自身が遠征する際にはザクセンの留守を頼める人物でした。


「ハンガリー大公国が??」


  「はい、、まだ続々と侵入しているようです。

   マジャール人は、バイエルンはもちろん、

   シュヴァーベン地方にまで侵蝕しつつあるようです。」


「やはり、先の戦争が彼らをより助長させてしまったか……。」


東フランク領王オットーは唸りました。

新興勢力のハンガリー大公国を建てたアールパード(845-907)が亡くなったのは907年。

もう48年も昔の事でした。

キリスト教化したハンガリーは世襲化して『アールパード家』がハンガリー大公位を継承するようになっていました。

アールパードの死後はある程度は大人しくしていたものの、947年に代が変わると再び進撃を開始していました。

現在ハンガリーを率いるのは、アールパードの孫のタクショニュ(931-970)。

若き首長を支える軍総司令官はブルシュといいます。

先年のリウドルフとコンラート赤毛公の反乱鎮圧には、マジャール人の侵攻の噂を流した事が大きく左右していました。

彼らの動きはこの春から夏にかけてさらに活発化していました。


「直に成敗しに行かなくてはならないな……。

 ヘルマン殿、またザクセンを空ける事になる。

 ザクセンを頼んだぞ!!」


   「は!しかと留守を預からせていただきます!」


955年夏、ハンガリー大公タクショニュ率いるマジャール軍がバイエルンからシュヴァーベンに侵入し、

東フランク王国の重要拠点であるアウグスブルクの城壁が破壊されてしまいます。

アウグスブルクの街は包囲されてしまいました。

アウグスブルクが奪われればフランクフルトまで直ぐ近く。

ライン川流域が奪われてしまうとフランク王国全体にとっても命取りとなります。


   ――ライン川は我々の生命線だ!――

   ――マジャール人らをどうにかせんと……!!――

   ――しかし……、奴らに勝つ手段が無い……!――


勢力を拡大してきているマジャール人は、

東西フランク王国のみならず、イタリア王国や、延いては欧州世界にとってかなりの脅威となっていました。


「ドナウ川が奪われたら、ライン川まで直ぐだ………!

 絶対にマジャール人の侵攻を食い止めなければならん!!!

 なんとしてもアウグスブルクを守るのだ!!!」


しかしこの時オットーが集められる重騎兵は8,000ばかり。

相手の半分にも及ばない兵数でした。


955年8月10日、

アウグスブルクの南にあるクロスターレヒフェルトという平原にて、

オットー率いる東フランク軍とブルシュ率いるマジャール軍が激突しました。

相手は軽騎兵のみで構成されているものの数が17,000以上。

素早く動き回れる軽騎兵に対し、東フランク軍は圧されてしまいます。

初日の戦いは惨敗。

続く翌日の戦いも酷いもので、既に数千もの被害がありました。

東フランク軍は窮地に陥ってしまいました。


   「ザクセン殿をお助けせよ!!!!!!」


この時駆けつけたのが、蟄居処分中であったコンラート赤毛公でした。


   「マジャール人を恐れるな!!!

    我々の国を守るのだ!!!

    我々は勝てる!!

    たった48年前にフランク王国は彼らを撃退したのだぞ!!

    半世紀前のフランク人に出来て今の我々が勝てないわけがないではないか!!!!

    戦うのだ!!皆の者!!!!」


「おお、コンラート殿よ!!なんと心強い事だ!!!」


赤毛公の言葉に兵士達は勇気付けられました。

フランク軍は勢い付きました。

形勢は一挙に逆転しました。


「このまま攻め込め!!!一挙に叩きのめせ!!!」


反撃に転じた王国軍は、そもそも重騎兵であったので防御は堅く、敵兵を次々と薙ぎ倒して行きました。

そしてついに敵の総大将ブルシュを始めに多くの指揮官も戦死させ、敵を敗走させる事に成功しました。

 しかしこの戦いのターニングポイントを作ったコンラート赤毛公はこの戦場に散ってしまいました。


コンラート赤毛公が戦死し、その嫡男オットーは948年生まれのまだ7歳。

このレヒフェルトの戦いで活躍したとは言っても、ザーリアー家にロートリンゲン大公位は返還できません。

遺児オットーには引き続きヴォルムスガウス伯のみを継承させ、

ロートリンゲン大公位は引き続きケルン大司教ブルーノが担います。


赤毛公の活躍は周辺国には知られる事はありません。

欧州世界の脅威であるマジャール人を追い払ったのは東フランク帝国軍。

この軍の総指揮をとったのは、王のオットーでした。


  ――レヒフェルトの戦いは東フランク王の勝利だそうだ!!――

  ――マジャール人から帝国を守った!!――

  ――この世界を守ってくれたのはザクセン大公オットー殿!!――

  ――ザクセン殿こそ皇帝に相応しい男だ!!!――――


マジャール人を撃退したザクセン大公オットーは一躍全世界で有名人となりました。

未だに混沌としていたイタリアに於いても、オットーの支持者が増え始めていました。


「イタリアで支持してくれる者が増えれば、

 イタリア王の称号を得られる日も近いかも知れぬ。」


オットーはこの動きも利用しながら、イタリアや領国内の司教や大司教にも支持を取り付けていきました。


 この頃には、教皇庁を牛耳っていたスポレート公アルベリーコ2世(912-954)も亡くなっていました。

しかし、アルベリーコ2世は生前、


「私が死んだ後、その時の教皇が薨去した際、

 次の教皇には我が息子オクタヴィアヌスを推挙せよ。」


と諸侯に誓約させていました。

傀儡である第129代教皇アガペトゥス2世が亡くなったのは、955年11月8日でした。

イタリア諸侯は誓約に従って、

955年12月16日、オクタヴィアヌスを第130代教皇ヨハネス12世として即位させました。

ヨハネス12世は、なんとまだ18歳の青年でした。

政治の事はもちろん、教会が抱える問題も何も教育されていない、

完全に無知の人間が教皇となってしまったのです。

しかも単純な子供というわけではなく、知恵や欲望も備わって来ていた青年。


「教皇直轄領は未だにローマとラヴェンナのみだ。

 もっとイタリア半島に俺の直轄領が欲しい!」


当然、支配欲も強くなってきていました。


さて、これに先駆けて、

オットーの片腕でもあった弟バイエルン大公ハインリヒ1世(919-955)が病死しました。

この数年重病を患っていたのです。


彼の死に乗じて、アンスカリ家のイヴレーア辺境伯父子がバイエルンを狙いました。


「バイエルン大公の継承者は僅か4歳!!

 支配者の居なくなったヴェローナは我らが頂戴する!!!」


バイエルン大公の所領となっていた北イタリア東部の領土が攻め込まれました。

守る者がいなくなったヴェローナは、たちまちアンスカリ家に占拠されてしまいました。


「イヴレーアがまた反乱か!しぶとい奴らめ……!!

 バイエルン大公の領土ヴェローナを守れ!!」


ザクセン大公オットーとイヴレーア辺境伯は再び戦乱に突入しました。

そこで打倒アンスカリ家に名乗り出たのは、地位を取り戻したい長男リウドルフ(930-957)でした。


   「父上!!

    イヴレーアのこれ以上の悪行は許しておけません!

    是非、私を北イタリアへお遣わしください!」


「リウドルフ……、お前の誠意は良く分かった。

 では、忌まわしきイヴレーアの討伐をリウドルフに任ずる!」


956年、リウドルフはアルプスを越えて北イタリアに進軍しました。

この遠征は957年まで続き、

リウドルフの戦績によってアンスカリ家父子をヴェローナから撤退させる事に成功しました。


しかしその帰り道の夏、

リウドルフは疫病に冒されてしまいました。

957年9月6日、遠征先にて、病没。


  「陛下…………!!リウドルフ様がぁっっ!!」


ザクセン宮廷にその悲報が伝わりました。


「リウドルフが、、、病で……??」


戦勝にも関わらず、宮廷には悲しみに包まれました。


「思えばリウドルフにはいつも辛い想いをさせてしまった……。

 リウドルフの子は幾つになっただろう?」


954年生まれのリウドルフの長男オットーはまだ3歳。

シュヴァーベン大公位は本来の領主であるブルヒャルディング家のブルヒャルト3世に返されていましたが、

これを機にリウドルフィング家との繋がりをさらに強化すべく、

亡き弟バイエルン大公ハインリヒ1世の娘ヘートヴィヒ・フォン・バイエルンがブルヒャルト3世に嫁ぐ事になります。


「リウドルフの遺児オットーは私が養子として預かろう。

 我が息子と殆ど同い年、兄弟として仲良くしてくれれば良いのだが。」


オットー王とアーデルハイトとの息子は二人が954年と957に夭折しており、

残るは955年に産まれたばかりの三番目のオットーのみとなっていました。

息子のオットーよりも孫のオットーの方が一歳年上というおかしな事になっていますが、

二人は実の兄弟のように暮らしました。


 この頃西フランク王国では、カロリング家のルイ4世(920-954)からロテール(941-986)に代替わりしたばかりでしたが、

相変わらずロベール家のパリ伯ユーグ大公(898-956)が政治を牛耳っていました。

ところがそのユーグ大公も956年6月16日に没してしまいます。

パリ伯位は嫡男のユーグ(940-996)に継承されますが、

まだ16歳程で、父大公の代わりに王国を牛耳る力を持ちませんでした。

この為、ブロワ伯やアンジュー伯ら離反が相次ぎ王領が次々と分割されてしまいます。

青年ユーグの母はヘートヴィヒ・フォン・ザクセン。

母ヘートヴィヒはザクセン大公オットーの妹にあたり、

彼らの弟であるケルン大司教兼ロートリンゲン大公ブルーノが青年ユーグを引き取る事になります。

ロベール家と共に王家を支える立場であるブルゴーニュ公家も、

ユーグ黒公(-952)の姉(妹)の夫ジルベール(900-956)から、

その娘婿でパリ伯ユーグの弟オトン(945-965)に継がれたばかりで、

パリ伯とブルゴーニュ公共にロベール家の二人は支配力を維持する事が出来ていませんでした。

よって西フランク国王ロテールは、相次ぐ離反を防ぐ事が出来ない状態に陥っていました。


 一方、アンスカリ家のイヴレーア辺境伯父子は、

バイエルンの統治者リウドルフが居なくなった事を良い事に、

959年、再度ヴェローナへと侵攻し、これを掌握しました。


「これで北イタリアは我らの物!!

 さらに中部も手に入れたい!

 教皇ヨハネス12世の本領であるスポレート公領には今やまともな指導者が居ない!

 この機にスポレートも我々が占拠する!」


イヴレーア父子はさらに中部イタリアへの侵攻も開始しました。

トスカーナ辺境伯ウベルトがアンスカリ家の味方をしていたので、父子は難無く中部へと進軍が可能でした。

スポレートはラヴェンナとローマを結ぶ教皇領よりも南。

よってイヴレーア父子は必然的に教皇領へと軍を進める事になります。


「おのれ!我が領土を侵すとは!

 アンスカリ家は許してはおけない!

 奴らを蹴散らしてこい!!」


しかしそもそも有効な軍力などあるはずも無い教皇領国。

教皇ヨハネス12世は、無謀にもアンスカリ家に攻撃を仕掛けました。


「ははは!無能な教皇め!挑発に乗ってきやがった!

 教皇領へと攻め込め!」


嵌められた教皇軍は、イヴレーア軍に惨敗しました。

こうしてイヴレーア父子による教皇領の簒奪が始まりました。


「くっそ!!憎っくきアンスカリ家め!

 そうだ!良い事を思いついた!

 アンスカリ家とザクセンの王はずっと敵対しているのだろう?

 奴らに北からイヴレーアを攻めさせろ!」


“奴”呼ばわりされたのは勿論ザクセン大公オットーの事。

960年、教皇ヨハネス12世は、オットーに援軍を要請しました。


「教皇からの救援依頼とは、これ好都合。」


オットーはニヤリと笑いました。

オットーはイタリア王位を念頭に置きながら、遠征の準備を始めました。

イタリア遠征を前にして、オットーはヴォルムスで王国議会を開きました。


「我が妃アーデルハイトとの長男オットーを後継者と定め、

 これからは共同で王国を統治するものとする。」


オットー2世(955-983)を共同統治者に任命し、

その同年の961年5月、オットー2世が東フランク領の共同王として戴冠しました。


「兵を集めよ!イタリアへ進軍する!」


 961年8月、オットー1世軍はイタリア遠征を開始。

アルプスを越えてヴェローナへと進軍しました。

既にオットーに味方する北イタリアの大司教や有力者は多かったので、

リウドルフの時と同様に難なく北イタリアへ足を運べていました。


その頃、イヴレーア辺境伯の父ベレンガーリオ2世はパヴィーアに居ました。


「この場に居ては危険だ!

 館に火をかけるのだ!

 ここは一旦退いて………、そうだ!

 サン・レオ城ならば安全だぞ……!」


ラヴェンナ近く、教皇領から奪ったリミニのサン・レオ城に籠城を決めました。


サン・レオ城はラヴェンナよりも南に位置し、リミニよりも内陸の山岳地帯で、

岩舟のような断崖絶壁の先端に築かれた要塞でした。

要害の城ですが、北イタリアの支配地域よりもだいぶ南であり、戦場とはなりにくい場所に逃げ込んだと言ってもいいでしょう。

 一方、子のアダルベルト2世は前線のヴェローナに居ました。

ヴェローナはアルプスから南下して来たその地点に位置するので、まさに前線に位置している都市でした。


ヴェローナの砦に集められていた傭兵達は、不思議がっていました。


   「今日は、一度もアダルベルト様を見かけていないよな?」

   「見てないなぁ。妙だな?」


 「おい、傭兵達よ、アダルベルト殿を見てはいないか?」


   「いえ、今日は姿を見せていないのです。」

   「城主殿も居場所をご存知無いのですか?」


 「朝の会議もあったのだが、すっぽかされた。

  どうなっているのだ?」


     「殿!妙です!

      アダルベルト殿の側近の者も、誰一人見た者はいないと!!」


   「まさか!!」


「「「我々を置いて逃げ出したのか!!」」」


アンスカリ家はオットー軍進軍を聞いて、逃亡していました。

これによってアンスカリ家父子の信用は格段に下がり、彼らのイタリア王位は完全に剥奪されました。


オットー率いる東フランク軍はヴェローナからパヴィーアに入り、ここでイタリア王に承認されました。

パヴィーアで年を越したオットー軍は、ラヴェンナを経由して、

962年1月31日にローマに到着しました。


「よくぞここまで参った、ザクセン大公殿よ。」


教皇ヨハネス12世がオットーを迎えました。


「御目通りが叶い光栄です。」


オットーは儀礼的に挨拶しました。

ここでオットーは、教皇との約束通り、

ピピン3世やカール大帝のように領土を寄進する事で皇帝に戴冠する事になります。

しかし、オットーは先例とは違いました。

オットーは既に多くの大司教や世俗領主の支持を取り付けていました。

即位と戴冠に関しても、彼らと既に打ち合わせ済みでした。


「皇帝位は、我々数人の選ばれし大司教らが適任と判断した人物が帝冠する権利を持つ。

 教皇は、その選ばれた者に帝冠を授けさえすれば良い。」


「え?いま、なんと?」


ヨハネス12世は頭に疑問符が浮かんでいました。


「分かるように説明してくれ。

 教皇は、皇帝を選ぶ権利があるのではないのか?」


   「違います。

    “西方ローマ教会の宗主権が及ぶ領土”の複数の有力者によって選ばれた者、

    すなわち“ローマ王”が皇帝に戴冠される権利があり、

    教皇はこの儀式を務めさえすれば良いのです。

    また、教皇位は、“皇帝に忠誠を誓った者”が叙任される権利を持ちます。」


ヨハネス12世は目を丸くしました。


「いや!待て?!どういう事だ?

 教皇は、皇帝に忠誠を誓わなければ教皇になれないというのか?!」


   「その通りです。

    教皇選挙によって教皇が選ばれ、皇帝に忠誠を誓う事で正式に即位とみなし、

    諸大司教と諸領主よって推挙されたローマ王に対して帝冠を授ける権利のみを持ちます。」


「それでは……!皇帝の方が上に見られてしまうではないか!!!」


   「いいえ、最終決定を下すのは教皇です。」


「で、では、、俺はオットーを認めないぞ……??」


   「聖下はザクセン大公殿を否認なさると?

    ところで聖下は、この数十年の教皇の生涯を勉強されましたかな?」


「お、、お、脅す気か!!!!!

 えええい!!!分かった………!

 やむを得ん!!

 オットーを皇帝と認めてやる!!!!」


こうして―――。

962年2月2日。

多くの聖職者の中で、ザクセン大公オットーは新たな皇帝に戴冠する事になりました。

ここに登場する『ローマ王』という称号は、都市ローマの王という意味では無く、

ローマ(カトリック)教会の宗主権の及ぶ地域の王を意味し、

それは西ローマ帝国の再建を意図していました。

このローマ王に選ばれた者が、教皇によって戴冠されると『ローマ皇帝』として認められた事になります。

“よってローマ王”の称号とは、皇帝となる前段階のような意味合いを持つようになります。

こうしてこれまでの皇帝とは全く違う体制によって、オットーは皇帝となったのです。

またこの時、皇后であるアーデルハイト・フォン・ブルグントも塗油と戴冠を受けました。

皇后の戴冠はこれが初めての事でした。

この時をもって『神聖ローマ帝国』の誕生とされる事が多いものの、その名称はこの時はまだ使われません。

オットーの事は、今後オットー大帝と呼ぶ事にします。


「許せぬぞ……!

 騙された!!俺はオットーの事は認めてはいないぞ…!!」


ヨハネス12世は、やはり、大帝と私有教会のやり方が気に食いません。


「奴の敵であるアンスカリ家に連絡出来るか?!」


ヨハネス12世は、逃亡していたイヴレーア辺境伯父子と共謀しようとしました。

しかしこれが露見。


「皇帝命により、教皇ヨハネス12世を廃位する!」


963年12月、教会会議に於いてヨハネス12世の廃位が決まり、

ヨハネス12世はローマから追放されました。


次の教皇レオ8世は僅か2日のうちにいくつもの儀式を終えて、

963年12月6日、第131代教皇に就任しました。


「なんと、、こんなに早く教皇になれてしまうとは思わなかった…!」


ところがあまりに短期間で選ばれたので、

レオ8世はまだローマ市民からの支持は殆ど得られていませんでした。


 オットー大帝はいつまでもローマに居座っているわけにはいきません。

レオ8世の就任を見届けると、

964年2月、オットー大帝はローマを退去します。

しかしもちろんザクセンに直帰するわけではありません。

オットー大帝はトスカーナへ進軍すると、

トスカーナ辺境伯ウベルトとそこに匿われていたアンスカリ家のイヴレーア辺境伯アダルベルト2世を海外へ敗走させます。

降伏してきたアダルベルト2世の母ウィラ・ディ・トスカーナをサン・レオ城に向かわせ、

父ベレンガーリオ2世に開城と降伏を迫りました。

弟のグイードとコッラードは既に大帝に降伏及び臣従を誓っており、

二人にイヴレーア辺境伯位を渡す事で開城し、ベレンガーリオ2世は逮捕されました。

こうしてようやく大帝ら一行は帰路についたのです。


しかし―――


「もうオットーはローマにいない!

 再び俺が教皇に返り咲いてやる!!」


今度は前教皇ヨハネス12世がローマに凱旋しました。

支持の少なかったレオ8世は追われて海外へ逃亡しました。

ところが964年5月14日、ヨハネス12世が薨去しました。


  「聖下が亡くなられたと??」

  「そりゃ突然だな……??」

  「どうやら、夫ある女と関係を持った事で、夫が逆上して殺害に及んだという……。」

  「まさか、、冗談だろ。」

  「恐らくは……、教会による陰謀だろう……」

  「レオ8世は逃げてしまった。次は誰が適任か??」


ローマ市民は今度は助祭を務めていたベネディクトゥス5世を教皇に担ぎ上げました。


「わ、私が??教皇ですと……?

 そんな、、畏れ多い………!」


半ば無理やりベネディクトゥス5世は教皇に即位してしまいます。


帰路の途中でオットー大帝はこの教皇交代劇を聞きました。

大帝はこの選出を認めず、レオ8世の復位を要求しました。

ベネディクトゥス5世の即位一ヶ月後の965年6月23日、

新教皇は自ら離任を認め、レオ8世の復位に同意しました。

オットー大帝の権力も影響して、

ローマ市民やローマ貴族もレオ8世を認め、正式に教皇に復位となりました。


965年、再度大帝がイタリアから退去すると、アンスカリ家のアダルベルト2世は再び北イタリアに進軍を計画しました。

ところがブルヒャルディング家のシュヴァーベン大公ブルヒャルト3世によって鎮圧されます。

アダルベルト2世は、妻ジュルベルガ・フォン・マコンの実家であるマコンに亡命しました。

マコンは西フランク王国のブルゴーニュ公領最南部でアルル(ブルグント)王国との境界に位置します。

アルル王国はここから東北部へ細長く延びてブルゴーニュ公領の東側一帯にまで広がっていました。

つまりアルル王国は、アダルベルト2世に領土を横断されてしまった事になります。


 965年10月11日、ケルン大司教ブルーノが逝去しました。

ロートリンゲン大公位も有していたブルーノのでしたが、

ブルーノは既に、互いに婚姻関係で結ばれているジラール家とアルデンヌ家にロートリンゲンを分配し、

低地側、つまり下ロタリンギア公のジラール家に対してはエノー伯領も与えました。

エノー伯兼下ロタリンギア公ゴドフロワは遠征中に若くして亡くなってしまった為、

同じくブルーノに師事し、オットー大帝にも重用されていたリシェ・ド・モンスにこれらの領土を与えられます。

ケルン大司教位の叙任も滞りなく済みます。


 966年中には、共同王であるオットー2世が東フランク領の実質的に王の任務を務めていました。

既に直接的血縁で無い者にまで教会を通してオットー大帝の号令が行き届くようになっていました。

旧東フランク王国領をオットー2世に任せられると判断したオットー大帝は、引き続きイタリアに滞在しました。


「イタリア統治はまだ完全ではない。

 教皇庁やその周辺の問題は未だに健在だ。

 諸侯たちを完全に従わせねばならんからな。」


ところが、オットー大帝の敵は、遥か東の果てに存在しました。


  「皇帝を僭称するとは放置は出来ん!」


ヨーロッパ世界に於けるもう一人の皇帝、

東ローマ帝国、フォカス家の皇帝ニケフォロス2世フォカス(913-969)でした。

ニケフォロス2世は963年に戴冠したばかり。

フォカス家はマケドニア王朝家の人間ではなく、王朝家に仕える軍事貴族でした。

 マケドニア王朝はマケドニア地方農民出身のバシレイオス1世(816-886)から始まりましたが、

数十年のうちに古代ローマ時代を見るかのように、政治・経済に加えて文化面でも飛躍的に繁栄しました。

子のレオーン6世は法を整え、孫のコンスタンティノス7世は文化を発展させました。

このコンスタンティノス7世の時代にもなると、

マケドニア朝は古代ローマ時代を復興(ルネサンス)したかのように栄えました。

そしてその子にあたるのが、ロマノス2世(939-963)でした。

963年に皇帝ロマノス2世が24歳で早世してしまい、後継者がまだ5歳だった為、

摂政として実権を握る軍事貴族フォカス家のニケフォロス・フォカスが支持されて即位に繋がりました。

ニケフォロスは極度な迄に敬虔な人物で、即位後は幾度となくイスラーム勢への遠征を仕掛けるようになりました。


  「総主教座であるアンティオキア、そしてエルサレムを、

   キリスト教徒の為に勝ち取ろう!!!!」


彼は6世紀から7世紀の間でイスラーム勢との紛争地帯と化し荒廃が激しかったアナトリア南岸からシリア地方へと軍を進めていました。

965年夏にキプロス島を奪還すると、そこを東征の重要拠点とします。

そんな軍務を続けている中で、

オットー大帝及びオットー2世の皇帝への戴冠が行なわれた事を知ります。


  「皇帝とは何か!!

   なぜ世俗領主が勝手に教会堂を建て、

   なぜ大司教や司教を任ずる事が出来るようになっているのだ!!

   東ローマ帝国はそもそも西の帝国をローマ帝国の後継とは認めてはいない!

   カール大帝の時、“フランク人の皇帝”とは認めたが、

   それはあくまでフランク人による帝国の統治者に対してである!

   今やその国の王はフランク人ですらない!

   王は教会を私利私欲の為に動かし、

   西方教会が勝手に最上位だとしているローマ大司教を傀儡としている!

   これは帝位の簒奪ではないのか!

   事と次第によっては異教徒と見做すぞ!!」


この東ローマ帝国の動きに、オットー大帝は大きな溜息を吐きました。


「ギリシア帝国が敵意を示した……、と。

 それは困った事になったな。

 教会を通して西欧世界を統一したい者にとっては、

 東方教会に自らの存在を認めさせなければならんな。」


東方教会は、そもそも教皇という地位を認めておらず、

皇帝に臣従する教皇による戴冠で皇帝となった者を認める筈がありません。

また、問題は教理だけではなく、物理的にもありました。

北部イタリアと中部イタリアは西方教会方となっていましたが、

東ローマ帝国は南部イタリアに領土を保持していたのです。

領国が接する事は、物理的な接触は避けられません。

ちなみに、シチリア島は未だにムスリムによるシチリア首長国が存続しており、

ニケフォロス2世フォカスは965年にシチリアへ遠征し、これに失敗していました。


  「陛下。

   フォカスは先年のシチリア遠征の失敗で支持がガタ落ちであるとも聞いています。

   これをダシにして、

   ギリシアと結婚政策で近づくのはいかがでしょう?

   マケドニア王朝と血縁関係を結ぶのです。」


ヘルマン・ビルングの提案に大帝も賛成でした。


「東ローマ帝国と血縁となり正統性を高めなければならんという事だな。」


大帝の後継者たるオットー2世は11歳。

そろそろ相手を決定しておくべき年齢になっていました。


しかし、フォカス側とは話がまとまる事はありませんでした。

よって境界であるイタリア半島では緊張が高まるようになってしまいます。

ところがフォカス家による東ローマ統治も当然一筋縄ではありません。

マケドニア朝統治下でフォカス家と同様に軍事貴族であり甥の家でもあるツィミスケス家との対立関係が浮き彫りになってきていました。


 さて。

965年春に教皇レオ8世が薨去し、

オットー大帝は次の第133代教皇にローマ貴族のヨハネス13世を選出しました。

この教皇は大帝に忠実で、領邦各地の大司教や司教、領主の同意の下で即位します。


 967年ラヴェンナ総会。


「マクデブルク大司教座の設立を許可する。」


オットー大帝と教皇ヨハネス13世らで話し合われ、

マクデブルクをハルバーシュタット司教区から独立する事が承認されました。

独立に反対していたハルバーシュタット司教ベルンハルトはゆっくりと目を瞑り、

これを泣く泣く肯定しました。

ベルンハルトは既にかなり高齢となっており、大帝の熱意に折れた形となります。


ところが、未だに強く反発していた者がもう一人。

マインツ大司教のヴィルヘルムでした。


   「父上は何故私を無視するのだ……!

    マクデブルクが大司教座になったら、マインツの地位はどうなってしまうのか!!」


ヴィルヘルムの反対意見にオットー大帝は答えます。


「マインツ大司教の地位は王国内で最上の権威があるのは変わらぬ。

 マクデブルクを大司教座に昇格させる事は、

 東の非キリスト教の民をキリスト教化する為の拠点としたいからである。

 何故分かってくれないのか……、ヴィルヘルムは……。」


自分の地位を失うと危惧していたマインツ大司教ヴィルヘルム。

彼がまだマクデブルク大司教座の設置を反対しており、なかなか話が進められずにいました。


 共同統治王オットー2世は967年秋に共同皇帝としても認められ、

オットー2世のローマ入りが決定します。

オットー2世は教皇ヨハネス13世よって、967年12月25日に戴冠されました。


 968年3月2日。

悲報が飛び込んで来ました。

庶子マインツ大司教ヴィルヘルムが病死しました。

オットー大帝にとっては、正嫡リウドルフに次いで亡くした掛け替えのない長子。


「まさか……、ヴィルヘルムが死んでしまったとは………。」


しかし大帝は複雑な気持ちでした。

悲願であったマクデブルク大司教座の設置がこれでようやく進められる事になったのです。

この前月、968年2月にハルバーシュタット司教ベルンハルトも高齢によって逝去。

反対してきた二人が居なくなった事で、本格的にマクデブルク大司教座の設置に動く事が可能となりました。

教皇庁とも話し合い、マクデブルク大司教には、

トリーア大司教区で宣教師として活躍していたアデルベルトに決定。

968年秋に正式にマクデブルク大司教に就任する事になります。


 一方、皇帝ニケフォロス2世(913-)は、シリア方面への遠征を続けていました。

967年から968年、アルメニアとの同盟を成功させます。

さらにはキプロス島を制圧していた事から海上からの攻撃も用意となっていました。

タルトゥースやベイルートなどの港湾都市を奪うと、

サフィータを陥落させ、トリポリを南北から包囲して奪いました。

トリポリを奪取した事によってアンティオキアも南北から挟んで孤立させます。

そして969年夏、ついにアンティオキアを奪還しました。


  ――アンティオキアが遂にキリスト教の手に!!――

  ――聖地エルサレム奪還までもう間近だ!!!――


凱旋するニケフォロス2世フォカスは喝采を浴びました。

彼の功績によって、“聖地奪還も夢では無いかも知れない”という熱が強くなっていく事になります。

しかしその一方で、彼を疎ましく思う者も増えて来ていました。


  ――フォカス家中心の政治になって商売がやりにくくなってしまった。――

  ――イタリアやフランク王国を敵に回すようなやり方には不満だ。――

  ――戦いに戦いを重ねてニケフォロス様は変わってしまった。――


ニケフォロス2世への不満が募っていたコンスタンティノポリス。

その甥にあたるツィミスケス(925-976)は決意しました。


「分かった、テオファノ。

 では日取りを決めよう。」


ニケフォロス2世の妃であるテオファノ(941-978)、否、

ツィミスケス自身の愛人であるテオファノと結託し、ニケフォロス2世を暗殺する計画を立てたのです。

969年12月10日深夜、ツィミスケスは、

聖像(イコン)の前で就寝していたニケフォロス2世を斬り付けました。

ツィミスケスはその場で止めを刺しました。


翌朝、大衆の前で宣言しました。


「皇帝ニケフォロス2世が遺体で発見された!

 その犯人は、皇后であるテオファノと特定され、現在捕らえられている。」


   ――皇帝が?!殺された?!!――

   ――なんと!!そんな事件が起こってしまうとは……!――


大衆は動揺しましたが、最近不評であったニケフォロスを顧みる人は多くありませんでした。

寧ろ……、


   ――では!ヨハネス・ツィミスケス様が皇帝に相応しい!――

   ――ヨハネス様に引っ張ってもらおう!!!――

   ――ヨハネス様!!ヨハネス皇帝陛下!!――


大衆は、ツィミスケスに期待しました。

ニケフォロス殺害の罪を着せられたテオファノは国外追放されました。

そもそも、テオファノは金銭目的でマケドニア王朝家に近付き、

先代皇帝ロマノス2世(939-963)の継室にまで上り詰めました。

ロマノス2世の死後にニケフォロス2世と結婚、皇帝の正室となります。

テオファノは影では悪女とまで呼ばれていました。

ツィミスケスは初めから、ニケフォロスの隙を突く為にテオファノに近づいていたのです。

大衆の要望を受けたツィミスケスは即日、

つまりニケフォロス2世の死の翌969年12月11日、皇帝となります。

皇帝としては、ヨハネス1世・ツィミスケスとなります。

しかしマケドニア家にはロマノス2世帝の男子が複数おり、

ツィミスケスが帝位を継ぐには正統性が低いのも事実。

彼は皇帝となる正統性を高める為、先々代コンスタンティノス7世の娘でロマノス2世の妹であるテオドラと結婚しました。


 この東ローマ皇帝の交代劇。

東フランク皇帝オットー大帝にとっては好都合でした。


ツィミスケス自身、帝位を簒奪した者であるという意識も強いので、

他の強力な味方が必要であった事、

そして、敵対したフォカス家がリウドルフィング家と敵対した事などから、

必然的にツィミスケス家はオットー大帝に接近する事になります。


「我が姪を、大帝の後継者であるオットー2世殿へ嫁がせましょう。」


ツィミスケスの姪ともされ、マケドニア王朝の血を引くともされるテオファヌ(960-991)との結婚が決められました。

972年、東ローマ帝国からテオファヌの輿入れの豪華な行列が動きました。

東ローマ帝国から外国への輿入れは史上初となります。


結婚式は972年4月14日にローマのサン・ピエトロ大聖堂にて執り行われました。

そして同日、テオファヌも帝冠を授けられ、皇后に戴冠しました。


「うむ、なんとも美しい。

 二人とも皇帝に相応しい顔つきになって来たな。」


大帝はもう60歳、増えて来ていた皺をさらに深くしました。


 テオファヌ一行がザクセンの宮廷に入ると、その生活は一変しました。


「まぁ驚いたわ……、手掴みで食事をするなんて!」


肉を切るナイフや、汁物を食べる為のスプーンはもちろん使用していましたが、

西欧では、切った肉は手掴みで食べていました。


「ローマ帝国ではこれを使って食べるのよ。」


取り出した道具は、尖った部分を二つ持った小さな熊手のようなものでした。


「この熊手(フォルカ)を使えばある程度は肉も切れるし、

 これで押さえてナイフを使えばもっと切りやすいでしょ?

 それで、こうやって突き刺して食べるのよ。」


ザクセンの宮廷の皆々は驚嘆しました。


「こ、こんな単純な道具なのに……!」

「おお、これはとても便利だ!」

「これなら手を汚さずに食事が出来ますな!」


櫛の歯をもっと増やせないだろうか?

スプーンのように曲げると乗せたり掬ったりいろいろ出来るのでは?

などとこの道具が発達していくのはまだまだ先の話になりますが、

二つ又のフォークはこの時に西欧にもたらされ、広まっていきました。


 もちろん音楽文化も流入します。

当時、東西フランク帝国では統一的なグレゴリオ聖歌が普及していましたが、基本的には口伝であり、記譜は一切されてきませんでした。

ところが9世紀頃には、おそらく東ローマ帝国でネウマ譜が開発されており、

記譜して歌を伝えていくという方法が生まれていました。

ネウマ譜の誕生によって、曲は間違う事なく同じ旋律で歌えるようになります。


「これがローマ帝国の生活だったのか………!」


他にもフランク帝国には無かった文化が多数持ち込まれ、華やかに、上品なものに変化していきました。


また同じ972年、

大帝の弟ハインリヒの嫡男バイエルン大公ハインリヒ2世(951-995)も成人しており、

アルル国王コンラート平和王(925-993)の娘ギーゼラ・フォン・ブルグント(955-1007)と結婚します。

これは、アンスカリ家を匿ったロベール家のブルゴーニュ公国を牽制する意味も込められた結婚政策でした。

アルル王国、つまりブルグントとプロヴァンスを領有する古ヴェルフ家は帝国と密な関係を築く事になります。


翌年、973年3月27日、ザクセン辺境伯爵位と大帝の代理人を務めていたビルング家のヘルマン・ビルングが逝去。

辺境伯位は嫡男ベルンハルト1世(950-1011)に継がれました。


「ベルンハルトよ……。」


大帝は力尽きた声でベルンハルトに話しかけました。

ベルンハルトは大帝の手を取りました。


「君の父は良くザクセンを守ってくれた。

 これを機に、君には大公位を与えよう。」


ベルンハルトは恭しくこれを受け入れます。

ビルング家が、ザクセン大公位を与えられました。


 973年5月7日、オットー大帝、崩御。61年の生涯を閉じました。


大帝の嫡男オットー2世夫妻が単独の皇帝夫妻となりました。

オットー2世の治世は、ビルング家のザクセン大公ベルンハルト1世、

大帝の弟ハインリヒの嫡男であるバイエルン大公ハインリヒ2世(951-995)、

バイエルンの辺境地のルイトポルト家のケルンテン辺境伯ハインリヒ3世(940-989)、

ザーリアー家の赤毛公の嫡男でヴォルムスガウ伯オットー(948-1004)、

そして、ブルヒャルディング家のシュヴァーベン大公ブルヒャルト3世らが支える事になります。


ところが、大帝の没後半年、

973年11月12日、シュヴァーベン大公ブルヒャルト3世(915-973)が逝去。

ブルヒャルト3世には継承者がいませんでした。

よって、


「先代のシュヴァーベン大公リウドルフ殿の嫡男にして我が甥である、

 オットーにシュヴァーベン大公位を与える。」


大帝の嫡孫にあたるオットー1世(954-982)がシュヴァーベン大公位を得ました。

しかしこれは、新たな波紋を呼ぶ事になってしまいます。


 975年頃、大帝と何度となく争ったアンスカリ家のアダルベルト2世(931-975)はブルゴーニュで亡くなりました。

没年は971年とも言われており、もしかすると大帝の死後まで隠蔽していた可能性もあるでしょう。

アダルベルト2世は962年産まれのオットー・ギョームを含む数人の子を残しました。

寡婦ジュルベルガは、ブルゴーニュ公アンリ1世(946-1002)と再婚する事になります。

ブルゴーニュ公は、パリ伯ユーグ大公(898-956)とオットー大帝の妹ヘートヴィヒの息子、

先代ブルゴーニュ公オトンの弟でもあり、

パリ伯ユーグ・カペー(940-996)の実弟にあたります。

西フランク国王ロテール(941-986)及び後継のルイ5世(967-987)の治世は安定しておらず、家臣の離反は止まりません。

パリ伯ユーグ・カペーもその一人となり、ロテールと対立してしまいます。

王権の及ぶ範囲はイル・ド・フランスとオルレアンのみと極端に縮小したしまいました。


「カロリング家の故地は下ロレーヌだ……!

 せめて下ロレーヌはフランク王国領に取り戻したい……!」


ロテールは領土を挽回するべくロレーヌ地方の奪還を狙って、皇帝オットー2世と対立するようになってしまいます。

既に東フランク王国領は単なる“帝国”と呼ばれ、フランク人の国では無くなっており、

フランク王国の国号を持つ国はこの西フランク王国のみとなっていたので、

西フランク王国は単にフランク王国と呼ばれるようになっていました。

その領内の言葉はゲルマン語系とは既に異なり、イタリック語派ロマンス語によって、『フランス王国』と変化するようになります。


 東ローマ帝国の皇帝ヨハネス1世ツィミスケスは、

軍務に於いてはニケフォロス2世フォカスを受け継ぎ、

北の大国ブルガリア帝国に対抗するべくキエフ大公国との友好も継続しました。

そしてもちろん、シリア方面への遠征も継続していました。

975年、シリア戦線では、ダマスカス、ナザレと占領しました。


「今年の戦役も終わりだ、これ以上進むのは良くないだろう。」


その冬に帰路についたツィミスケスでしたが、途上で突然病に倒れてしまいます。

コンスタンティノポリスに着いて療養しましたが、甲斐無く、

976年1月10日、ツィミスケスは病没しました。


 ロマノス2世の長子バシレイオス2世(958-1025)が晴れて正帝となりました。

しかし、フォカス家とツィミスケス家と二代に渡って軍事貴族が台頭した事から、他の軍事貴族も反乱を起こすようになります。

新たに東ローマ皇帝となったバシレイオス2世は、ブルガリア帝国との戦いと国内においても悩まされる事になります。


 王権が著しく低下したフランス王国。

諸外国との戦争に明け暮れる事になる東ローマ帝国。

その間に位置する“神聖ローマ帝国”は、

リウドルフィング家の政治方針からその権威そのものは失う事はありませんでしたが、

権威のみが大きな存在となり、オットー2世もやがて反乱に悩まされる事になるのでした。


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