049[フランク帝国]
049
[フランク帝国]
ヨーロッパ半島をカロリング家のシャルル1世(後のカール大帝(742-815))が隆盛を極めていた頃、既に地中海の南側では新たな王朝が生まれていました。
イスラーム帝国ウマイヤ朝は661年に誕生した世襲王朝でしたが、
アラブ人ムスリムと非アラブ人ムスリムに税金の差別があった事などから批判が相次ぎ、
750年、アブー・アル=アッバースによって『アッバース朝』が建国されていました。
アッバースは税金の問題を解決して瞬く間にウマイヤ朝の領域をアッバース朝に塗り替えました。
ところが、ウマイヤ朝王家の一人アブド・アッラフマーン1世は虐殺から逃れてシリアから脱走、変装に変装を重ねてイベリア半島に到着していました。
そして756年、コルドバで旧臣らと共に『後ウマイヤ朝』を建国していました。
その頃フランク王国カロリング朝の国王シャルル1世は、
ローマ教皇庁との連携も相まって、次々と国土を広げていました。
シャルル1世は、メロヴィング朝時代には中心的な王宮はゲルマニア内陸部のフランクフルトにありましたが、
より西のアーヘンに王宮を移すようになりました。
アーヘンはゲルマニア最西部の低地地方とガリアとを結ぶ中継地。
王国の臍に当たるような場所に位置しており、より西方へと拡大する為の発信基地にもなります。
反乱分子の多いガリア南西部アキテーヌにも新たにフランク人を送り込んで掌握、
ボルドー川以南のヴァスコニア(ガスコーニュ)も服従させました。
この地域の山岳民族バスク人を支配していたのは、ヴァスコニア公ルポ3世。
彼の出自がフランク人かは分からないものの、バスク人と同化していました。
778年春、フランク軍は後ウマイヤ朝のイベリア半島への出兵を決めます。
「神を称えずムハンマドを拝む輩は所詮滅亡は逃れられない!」
これは当時の誤解であり、イスラームはキリスト教と同じユダヤ教から発展したもので、本来は同じ一つの神。
当時のキリスト教社会では、イスラームを敵とする理由付けの為なのかこのような解釈のされ方をしていました。
しかも出兵の理由は、アッバース朝と軍事同盟して後ウマイヤ朝を滅ぼそうとするアッバース朝からの申し出によるものでした。
軍事支援と引き換えに、アッバース朝はサラゴサの開城と服従を申し出ていたのです。
「サラゴサが手に入れば、
イベリア半島を再度キリスト教国に塗り替える足掛かりとなる!」
これをキリスト教拡大の契機と考えたシャルル1世は、
アッバース朝との軍事同盟と出兵を決定しました。
4月、シャルル1世は、甥でブルターニュ辺境伯ローランを含む勇士と共にネウストリア軍を編成し、ヴァスコニアを経由の西ピレネー越えをします。
シャルル1世とローランはヴァスコニアを通過する際、
ムーア人と結託する恐れのあるバスク人の城壁や街を破壊してフランク人の駐屯基地を造営したとされています。
また、本軍とは別にアウストラシア軍やブルグント軍は東ピレネーからカタルーニャへ侵攻しました。
さて、フランク軍はサラゴサでアッバース朝の指揮官フサインと合流しました。
フランク軍の到着を受けて、後ウマイヤ朝がコルドバから軍を派遣してきました。
フランク軍とサラゴサの同盟軍はこれを迎え撃ち、その指揮官を捕らえました。
緒戦は勝利。
しかしここで、サラゴサのフサインには欲が芽生えていました。
――このまま後ウマイヤ朝を滅ぼしてしまえば、
俺はフランク人に服従せねばならない……!
だが、ここで後ウマイヤ朝を俺の手柄で助ければ、
イベリア半島を支配する力を得られる……!――
フサインは突如シャルル1世への降伏を拒否し、後ウマイヤ朝との交渉を開始してしまいます。
このフサインの動きを知ってフランク王国軍は慌て、激怒しました。
「どういうつもりなのだ!!サラゴサが我々を裏切ったぞ!!!」
フランク軍はサラゴサを包囲しました。
本体のアッバース朝にしても、フランク王国の軍力を失いたくは無かったので、
新たにフランク軍に協力する為の軍がバグダードから送られて来ました。
そこで観念したフサインは、シャルル1世と休戦するという運びとなります。
「休戦の使者に誰を遣わすのが良いか?」
シャルル1世は皆に問いました。
しかし、裏切り者の所へ行くのは、殺される可能性があるので誰も行きたくはありません。
しかしここでローランが発言しました。
「ガヌロンさんが適役ではないでしょうか?
もともと休戦案を出したのはガヌロンさんです。
何か策があるのでしょう?
智謀に長けた貴方なら、上手く話を纏められる筈です!」
ローランは若く無垢な心のまま発言しました。
会議に集まった面々は皆、ガヌロンを使者に遣わす事に賛成しました。
「な、なんと……?!私が……??」
シャルル1世もガヌロンを使者とするのを賛成。
ガヌロンは断る事が出来ませんでした。
(くそっ!ローランめ!日頃のいびりを妬んでいて、
ここぞとばかりに俺を危険な目に遭わせるつもりか!!)
嫌々ながらもガヌロンは休戦交渉をしに行きました。
フサインは多額の賠償金を払う事を約束し、交渉は成立、
フランク王国軍はサラゴサの包囲を解く事になりました。
その直後、北のサクソン人の反乱の報が入ったので、
シャルル1世は帰国せねばならなくなりました。
イベリアには新たなアッバース朝軍も到着しており、
手柄を横取りされる可能性もあるフランク王国軍を駐留させて置く必要も無いので帰国を認められます。
よって、ここでフランク王国軍は帰国する事になりました。
シャルル1世らは再びパンプローナを経由して西ピレネーを越えて北上する事になります。
「殿軍は誰がいいだろうか?」
「殿軍ならばローランが良いだろう。
とても重要な役割だ。
これをしっかり務められてこそ一人前の勇士となるのだ。」
これを進言したのは、ガヌロンでした。
(なんと……、ガヌロンはまたローランを虐めるのか!)
(そんな危険な役をローランに押し付けるのだな!)
ガヌロンの陰謀に反して、
多くの指揮官がローランに味方して、ローランと共に殿軍を務める事になりました。
その数はなんと2万人にも達したと言われていますが、もちろんこれは誇張で、
本当は全軍でも騎士3,000人程の軍でした。
さて、パンプローナからピレネー山脈を越える為、
ロンセスバージェスへと登り、ロンスヴォー峠に差し掛かっていました。
峠道は急坂が続き視界も悪く、普段は勇士である騎士でさえも歩行は困難でした。
しかし、そんな険しい山道での戦闘を得意とする部族が山中に潜んでいました。
778年8月15日。
「て………、敵襲!!!!!!」
「前から救援を!!!!」
「敵が!!!やばい、、、、、!!!」
急襲したのは、以前フランク軍に街を破壊されたバスク人たちでした。
その怨みを持って、山岳民族であるバスク人はフランク王国軍の殿軍を襲ったのです。
「逃げろっっ!!!」「早い!!逃げ切れない!」
「勝てるか?!!」「無茶だ………!!」
多くの騎士がローランと共に殿軍にいたので、ある程度持ち堪える事も出来ましたが……、
バスク人は、敵軍が苦手とし、自らが得意とする地形にやってくるまでフランク軍を追尾して、そして先回りをしてから急襲したので、
到底フランク軍に勝ち目はありませんでした。
ロンスヴォーの戦いは、殿軍が全滅という大敗北に終わりました。
一説にはバスク人を指揮したのは、
フランク王国への臣従に不服であったヴァスコニア公ルポ3世自身であるともされていますが、ガヌロンが裏で手を回していたとも。
この戦いでローランは戦死。
この話は後に悲劇として伝わり、
ガヌロンという敵役を配置し、戦いの相手をバスク人では無くムスリムに置き換え、
叙事詩『ローランの歌』として十字軍の盛んな11世紀に成立しました。
ロンスヴォーの戦いで敗北したフランク王国でしたが、その後はまた順調に領土拡大を進めました。
ゲルマニアに東征を繰り返してザクセン人を圧迫、
785年にはザクセン人を降伏、服従させ、ゲルマニア西部を支配下に置きました。
さらにゲルマニア東部からクロアチア地域に至るまで宗主権が及ぶようになりました。
ゲルマニア南西部から侵入していたモンゴル系遊牧民と思われるアヴァール人と接触し、
791年から805年に掛けてアヴァール人を撃退します。
東からの民族の侵入を防いだ事によって、
ゲルマニアより東はマジャール人やブルガール人、スラブ人が支配していくようになります。
西はブリトン人の抵抗も鎮圧してブルターニュも服従させました。
そして雪辱のイベリアにも拡大していました。
795年にはピレネー南麓をスペイン辺境領として獲得し、
801年にはバルセロナを支配下に置くまでに至ったのです。
それよりも少し前―――……
―――……‥‥・・・
―――……‥‥・・・
―――799年4月25日、ローマ教皇庁。
「ぐわあぁあっっ!!!!」
突然町中で悲痛の叫びが聞こえました。
教皇庁の面々が行進している最中の出来事でした。
その場に居合わせた聖職者やローマ市民が慌てふためきます。
「猊下っ!!!お怪我は?!」
―――レオを殺れ!!!―――
暗殺者集団は、教皇レオ3世(750-816)を狙っていました。
レオ3世の目の前には、聖職者の遺体が転がっていました。
「怪我は無い!早くっ!早く敵を仕留めろ!」
怯えたまま、しかし必至に命令を飛ばしました。
護衛のフランク人の兵士が戦いました。
「猊下をお守りしろ!!」
「相手は何者だ???」
「東ローマの連中か?!」
暗殺者の何人かは捕えられました。
大混乱のローマ市内。
護衛隊に護られて、命からがら、ようやく安全な教会堂まで逃げ込みました。
息を切らしたレオ3世、汗よりも冷や汗が止まりませんでした。
「猊下……、お怪我は??」
「狙った相手は??」
「はぁっ、はぁっ……、はぁ……。」
息を切らしたレオ3世は暫く動けませんでした。
それから上を見上げて、大きく溜息を吐きました。
「私が貧民層の出身である事が、人々には気に食わぬのだろうな……。」
レオ3世は、出自は貧民階級でした。
次第に統率力が買われて頭角を現し、795年に教皇に就任しました。
「この反乱を機に、他にも私に刃向かう者が出るかも知れない。」
ローマ教皇庁はローマ市が危険だと判断しました。
「では、早くここから逃げた方が良い。
フランク王国の保護を頼りにすべきでしょう。」
レオ3世らは、フランク国王シャルル1世と連絡を取り、
数日後の夜に密かに教会堂を抜け出し、ローマを脱出しました。
逃亡したレオ3世はアルプスを越え、フランク王国パーダーボルンで保護されました。
パーダーボルンはかつてシャルル1世がザクセン支配の拠点として城を建設しており、
この都市はしばしば王国議会や教会会議が開催されていました。
ここでレオ3世も直接何度か面会しており、今回も二人はパーダーボルンの城で対面しました。
ここで二人の間でどのような話し合いが行われたのか、
具体的な話がどこまで進んでいたのか、正確なところは分かっていません。
ただ言える事は、
「教皇の窮地を助けて保護してくれた褒賞があるので、ローマへ来るように。」と言われ、それが実現する事が決定したのです。
レオ3世は、フランク王国の尽力によってローマ市の反乱分子も無くなり、
799年10月末には無事に、しかも歓迎されてローマ市に戻る事が出来ました。
「おお!皆の者!ありがとう!!
これは紛れも無く神の思し召し………!
シャルルマーニュこそ教会の保護者に最も適したローマ皇帝だ!!!」
レオ3世はローマの歓迎を受けて喜びました。
そして彼は、来年ローマにやって来るシャルル1世の為に、戴冠式の準備を始めました。
レオ3世にとっては、シャルル1世が800年早々に来訪する事を期待していましたが、
それとは裏腹にシャルル1世は王国内を転戦して各問題を対処して周り、夏も過ぎてからイタリアに向かいました。
さらにラヴェンナとベネヴェントにも滞在して、西方教会と東方教会の対立に関する詳しい話を耳にする事になりました。
800年11月23日、シャルル1世は家族や高貴な聖職者と共に大行列を成してローマへと行進しました。
「あの出迎えは??」
アペニン山脈を越えて、メンターナの街に入る時でした。
ローマから北東約20km地点のメンターナの街。
そこで、なんと、ローマ教皇自らが出迎えてくれていたのです。
シャルル1世の軍は、大層な歓迎を受けて街に入りました。
「おおお!シャルルマーニュよ!!」
レオ3世は手を広げて喜びました。
「どれだけ心待ちにしていた事か!
いや、わざわざのご来京、誠に感謝する。
貴方がいなければローマ教会は立ち行かなかった。
この感謝を是非とも早く伝えたく、
こうして遥々出迎えにあがったのです!!」
「おお、教皇猊下、ご足労痛み入ります!!」
シャルル1世は儀礼的に跪き礼をします。
しかし内心では、“遥々だと??”と鼻で笑っていたかも知れません。
“明言してはいないが、おそらくは、
私を東ローマ皇帝の対抗馬にしたいだけなのであろうな。”
なんとなくそれと勘付いていながらも、皇帝となる事は実際悪い話では無い。
西ローマ帝国領の大帝となる事は、
その名を使って周辺諸国をも従わせる良い材料となる事は明確。
“ゆえに、ローマ遠征に同意してここまでやって来たのだ”
シャルル1世ら一行は翌日24日にローマ市に入りました。
この時には行列も教皇庁の面々が賑々しく華やかに演出しており、
ローマ側での大歓迎は、あたかもローマ皇帝凱旋帰国かのようでした。
シャルル1世らは数週間かけて即位にあたっての準備をします。
この間にも当然、教皇の行ないを批判する者が現れていましたが、
そういった種は早くに摘んでしまいます。
歴代の多くの皇帝の戴冠式は、通常はサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラン大聖堂で執り行われていました。
ラテラン大聖堂は古代ローマ時代、ラテラヌス家の邸宅があり、この邸宅は3世紀末頃に皇帝によって没収されました。
ラテラヌス邸は皇帝コンスタンティウス・クロルス(250-306)の子で後に皇帝となるコンスタンティヌス1世(272-337)の妃に与えられました。
このコンスタンティヌス1世は、皇帝で初めてキリスト教徒になった人物でした。
邸宅は後にキリスト教会に寄贈されましたが、
その年を、コンスタンティヌス1世がローマ皇帝の正帝となった312年頃としており、
その頃に大聖堂としての改修が始まったとされています。
この名誉ある大聖堂は後に古代四大大聖堂とされるのですが、
教皇レオ3世が選んだのは、同じく四大大聖堂の一つの別の大聖堂でした。
「ローマ皇帝にとって名誉あるラテラン大聖堂ではなく、
キリスト教徒全体にとって最も尊い大聖堂である、
サン・ピエトロ大聖堂で戴冠式を執り行う。」
サン・ピエトロ大聖堂は、確証は無いものの、
イエスの使徒ペトロが殉教した場所で、墓所であるとされている場所に、
コンスタンティヌス1世が命じて建築された大聖堂。
ローマで最初にキリスト教を広めたペトロの墓所であり、
キリスト教を公認した皇帝により建てられた大聖堂。
よって、最も聖なる大聖堂とされているのです。
―――そして。
800年12月25日、フランク国王シャルル1世の即位式が執り行われました。
サン・ピエトロ大聖堂には周辺各地からも高位聖職者が集まっていました。
それは、通常の降誕祭ミサの一部として行われました。
堂々と大聖堂に入場したシャルル1世でしたが、明らかに様子が異なりました。
保護者を迎えるような態度では無く、歓迎する様子もなく、優位性すら感じられる程でした。
(こ、、これは一体どういう事なのだ!!!!)
内心では激しく怒りを覚えていたものの、儀式を続けていました。
シャルル1世は壇上に上がる事は無く、他の聖職者と同じ高さの場所に立ち、
直立不動の聖職者に囲まれた状態で跪かねばなりませんでした。
教皇が『ロンバルディアの鉄王冠』を頭の上に乗せます。
これを以って『ローマ王』に戴冠した事を意味します。
続いて、教皇は鉄王冠を取り去り、その上から聖油を頭に塗りました。
「これをもって、シャルル1世をローマ皇帝に任命する。」
(なんだと?!?!?!
これはどういう事だ!!!!)
シャルル1世は唖然として言葉が出ませんでした。
これでは、ローマ皇帝を選ぶ権利が教皇庁にある事になってしまいます。
ここまで来てシャルル1世は気が付きました。
この戴冠式は、欧州世界の覇者でさえも教皇庁の手に委ねられている事を示すデモンストレーションであった事を。
(そういう事か……!
ローマ帝国の皇帝までも傀儡にする、
それが教皇庁の魂胆なのだな!!
良いだろう、従うものか!
いずれ世俗の王が教皇庁をも支配するような世の中にしてくれる!!!)
シャルル1世は激怒して大聖堂を後にしました―――
この儀式を、当然東ローマ皇帝は認めませんでした。
「フランク人の王がローマ皇帝だと?!
しかも、ローマ総主教が勝手に行なったとは!
ローマ皇帝はコンスタンティノポリスにただ一人!
帝国が東西に分かれて統治していた時も、
東西の皇帝は互いに承認しあっていて帝国としては一つ!
故に現在は帝国の首都コンスタンティノポリスの皇帝のみがローマ皇帝!
一総主教が選んだ国王など、ただの僭称に過ぎぬ!」
これは当然の事でした。
シャルル1世にしても想定以上の横暴と思っていました。
皇帝が教皇よりも格下の存在とされてしまったのですから。
シャルル1世は独自に東のローマ皇帝との縁組などを模索したりもしますが、どれも失敗に終わりました。
フランク王国と東ローマ帝国は、制海権を巡って争う関係となります。
シャルル1世は既に781年にランゴバルド分国王(イタリア王)として次男ピピン(770-810)に分国していましたが、
イタリア半島では、「教皇が上位である」という認識になってしまった為、
そのイメージを払拭する為に腐心しなければなりませんでした。
しかし皇帝位を得てより、シャルル1世は大帝という地位を確立し、
カール大帝、もしくはシャルルマーニュと呼ばれるようになります。
フランク王国の首都は全土のほぼ中心地のアーヘンに置かれました。
ゲルマン人には古来より統治者を選挙で決める風習がありましたが、
シャルルマーニュはその中でもフランク人的な統治法を考えており、
フランクの伝統的な分割統治を進めていました。
国王位は終身ではなく、存命中から時期王位である長男と共同統治を行ない、
800年には長男シャルル(770-811)にフランク王位を共にしていました。
先述した通り781年には次男ピピンにイタリアを任せており、
三男ルイ(778-840)には追々アキテーヌ王として即位させるつもりでいました。
806年にはこの分国法をまとめます。
本国を継ぐ予定の長男シャルルとは違い、次男ピピンは北イタリア支配を進めました。
その中でも、狙うのはもっとも裕福と言っても過言では無いヴェネツィア共和国。
ヴェネツィアはもともとゲルマン民族の大移動の時にウェネティ人が避難した場所。
そこは湿地帯と干潟ばかりで住みにくく、しかし攻められにくいという特徴的な地域でした。
彼らは湾内の潟に定住、697年には共和国として成立します。
アドリア海の制海権を有しているのは東ローマ帝国で、その最奥地であるヴェネツィアは、この大国に保護されている状況であるので、安定して貿易が行われていました。
この為、ヴェネツィアからアカイア経由のアナトリア方面や、
南イタリアからシチリアを経由してチュニスなどのムスリム国家との貿易も行なえていました。
そのお蔭もあり、彼らは独立傾向にありました。
803年には東ローマ帝国からも独立国として見られている事が確認されます。
810年、イタリア王ピピンはヴェネツィアを支配下に置く為にヴェネツィアに攻め込みました。
しかし、ヴェネツィアに撃退されてしまい、ピピンは同年の7月に死去してしまいました。
さらに翌年811年12月、長男シャルルが戦地のバイエルンで脳卒中を起こして死去してしまいます。
シャルルマーニュの晩年、相次いで息子が亡くなった事で、
フランク王国の最盛期は終わりを迎える事になりました。
そのころ、フランク帝国と敵対していた東ローマ帝国は、
イサウリア朝のエイレーネー女帝(752-803)の後にニケフォロス朝(802-813)に継承されていたのですが、
811年、ブルガリア帝国との戦いで皇帝ニケフォロス1世(760-811)が戦死、
長男スタウラキオス(?-812)も重傷を負って翌年に亡くなってしまい、
帝位は、娘婿のミカエル1世ランガペ(770-844)が継承する事になります。
この混乱の最中で、東ローマ皇帝ミカエル1世はシャルルマーニュの皇帝位問題について妥協しました。
「たびたび侵攻しているヴェネツィアから手を退くというならば、
“皇帝”の称号を名乗る事を許そう。
ただし当然ローマ皇帝はコンスタンティノポリスの皇帝のみ。
シャルルマーニュは“フランク皇帝”として認める。」
812年、シャルルマーニュはフランク皇帝として東ローマ帝国からも認められる存在となりました。
よって、西方教会が支配するローマ皇帝のフランク国王シャルルマーニュと、
東方教会と東ローマ帝国が認めるローマ皇帝のニケフォロス朝ミカエル1世という、
東西の教会それぞれの教区にローマ皇帝が存在する事になったのです。
しかしミカエル1世は813年6月には再びブルガリア帝国に敗北し、
7月、クーデターによって廃位に追い込まれました。
東ローマ帝国は東ローマ帝国で問題が続いていたのでした。
シャルルマーニュは父ピピン3世を引き継いでグレゴリオ聖歌の発展に大きく貢献しました。
ピピンの頃にはローマ式典礼を推進していましたが、
シャルルマーニュは東ローマ帝国から聖礼典式書を献上させ、東ローマ帝国で確立されつつあった八調と呼ばれる八種類の祈祷文を参考にして西方教会の旋法を成立させていきます。
八種の祈祷文はそれぞれ八種の旋法で歌われていたもので、
これにある程度則りつつ、ガリア聖歌とローマ聖歌を融合させたグレゴリオ聖歌にいくつかの旋法にまとめてあげていきます。
やがてこれは、古代ギリシアで使われていた八つの旋法の名称が割り当てられて分類され、
新しくグレゴリオ聖歌で用いる教会旋法となります。
八つの旋法とは、『ドリア』『フリギア』『リディア』『ミクソリディア』の四つの終始音を持つ正格旋法と、
それぞれ四度低い音から始まる旋法で、変格旋法と呼びます。
よって、例えばD音から始まるドリア(DEFGABCD)とA音から始まるヒポドリア(ABCDEFGA)は終始音は同じD音ですが音域が異なる事になります。
四つの正格旋法はD・E・F・Gから始まる旋法ですが、A・B・Cから始まる旋法は当時存在せず、
やがて『エオリア』『ロクリア』『イオニア』と名付けられる旋法が追加される事になります。
シャルルマーニュは帝国内でグレゴリオ聖歌を強制的に普及させました。
統一的な聖歌を広める事で、聖俗双方に対して権力の強化を図ったのです。
この結果、フランク帝国中にグレゴリオ聖歌は広まりました。
814年1月28日、
フランク皇帝シャルルマーニュ(カール大帝)(742-815)崩御。
前年より共同皇帝であった三男ルイ(ルートヴィヒ1世)が全領土を受け継ぐ事になります。
またこれを機に、ルイ1世の長男ロテールには次代の王として実践を積ませる為にバイエルンを任せるようになります。
フランク国王ルイ1世(ルートヴィヒ1世)(778-840)は、
庶民的であった父シャルルマーニュとは違い、敬虔な性格で、敬虔王とも呼ばれます。
その為、父の有した皇帝位もそのまま教皇によって受け継ぎました。
ただし政治方針が全く異なっており、
父の政治顧問を引退させ、より厳格で教会寄りの人物を新たに登用させたりしました。
817年のある時。
「先日の天災による宮廷の破損は、
我が死が近づいている事の神からの警笛である。
よって、帝国の相続について決めた事がある。
先ず、長男ロテールはネウストリアとアウストラシアとイタリア王位を、
次男ピピンにはアキテーヌを、
三男ルイにはバイエルンを分け与える。
フランク人の慣らいとして領国を分割するが、
ピピンとルイは副帝として、皇帝位を受け継ぐロテールを支えるように。」
しかし宮廷破損は、皇帝ルイ敬虔王本人の死を予告したものではありませんでした。
819年、既に前妻と死別していた皇帝ルイ敬虔王は、アルトドルフ伯ヴェルフ1世の娘ユーディト(795/807-843)と再婚します。
このヴェルフとユーディトの父娘は、かなりの野心家だったのです。
バイエルン出身の一族でしたが、彼らはシュヴァーベン南部のアルトドルフ伯を歴任しました。
ヴェルフ1世はザクセン人貴族の娘と結婚してゲルマニア北部にも関係を作ると、
ブルグント地方に影響力を持つようになります。
この家系が、ヴェルフ家(『古ヴェルフ家』)となります。
823年、皇帝ルイ1世とユーディトの間に四男シャルルが生まれました。
シャルルは後々、“禿頭王”と呼ばれるようになりますが、
これはもともと土地を持っていなかった“失地王”を意味する言葉という可能性もあるそうです。
「私の息子にも所領を与えよ。」
ユーディトは、我が子シャルルへ相続する領土を要求しました。
ルイ敬虔王は再度領土の見直しをしました。
「四男シャルルには、ロテールの領土からアルザスやアレマニア(シュヴァーベン)、ブルグントの一部を与える。」
この決定は、他の息子達の反感を買い、父皇帝ルイ敬虔王を幽閉させる等の反乱となります。
さらに、ロテールの独占状態になると危惧した弟達が結託して、再び父を復位させたりと、帝国は混乱しました。
ユーディトの野心が、再び帝国を分裂させる事になったのです。
これら混乱の中で欧州世界の秩序が徐々に乱れていき、各地の民族は独自に動き出すようになっていきます。
それぞれの民族は、海岸から、山から、帝国領土を侵蝕するようになります。
827年、東ローマ帝国領となっていたシチリア島にアッバース朝支配下のアラブ人が侵攻、
831年にはシチリア首長国を誕生させて902年にはシチリア島を完全に征服してしまいます。
よって、イタリア半島は、
北部がフランク王国、中間部はフランク王国の合間に教皇領、
南部が東ローマ帝国、シチリア島がイスラームによるシチリア首長国と入り乱れている状況となりました。
この時の東ローマ帝国は、南イタリア、バルカン半島、アナトリアが領土で、
ほぼこの版図のまま、アナトリア出身のアモリア朝が820年から867年まで3代続き、
その後アルメニア人のマケドニア朝が867年から1057年まで続く事になります。
民族大移動の時期にバルカン半島にも多数の民族が移住しましたが、
その中央に鎮座するカルパチア山脈によって、
北側を進む者と、南に回る者で異なる性格を持つようになりました。
フン族が去ったのち、6世紀にアヴァール族がカルパチア山脈の北側からパンノニア平原に進出し、
8世紀にかけて支配地域を拡げて行きました。
しかし7世紀からスラヴ人も西進し、カルパチア山脈に突き当たります。
スラヴ人は大きく二手に分かれました。
西スラヴ人はアヴァール領を通過してモラヴィア地方へ、
南スラヴ人はダキアを支配するブルガール人のブルガリア、及び東ローマ帝国を通過して、
やがてパンノニア平原で再び交わる事になります。
7世紀に最初の西スラヴ人国家サモ王国がアヴァールから独立して誕生します。
やがてアヴァールは、スラヴ、フランク、ブルガールの圧迫により崩壊し、
9世紀には、西スラヴ人のモラヴィア族が建てたモラヴィア公国がサモ王国をも吸収し、
アヴァールの領土をスラヴ系に塗り替えました。
モラヴィア公国はチェコ族・モラヴィア族を統合して大モラヴィア王国とも呼ばれるようになるも、
東フランク王国からの圧迫や、
9世紀頃に新たに現れるマジャル人の侵攻によって衰退が始まります。
スカンジナビア半島やバルト海沿岸(湾、フィヨルド(vik)に住む民族が各地沿岸に出没するようになっていました。
北方に住む彼らの事を“北の人”を意味するノルマン人と呼びます。
小氷期の収束するこの頃は温暖化が始まり、人口増加が問題になっていたという説もあります。
彼らは海洋技術を発達させ、各地に交易を目的として航海を行なうようになっていました。
海洋技術と共に、当然、襲ってくる敵にも対応する必要が生まれ、
一部は武装船団として、そして一部は海賊行為によって生計を立てる者も現れるようになります。
彼らをヴァイキングと呼びます。
ノルマン人以外にもヴァイキング行為を行なう部族がいました。
デーン人はユトランド半島周辺に居住していましたが、
9世紀になるとフェロー諸島、アイスランド、グリーンランドと活動範囲を拡大しました。
デーン人はブリテン島やイベリア半島にも進出するようになります。
ヴァイキングの航海技術はこうしてヨーロッパに広まっていきます。
ブリテン島にはケルト系ブルトン人が暮らしていましたが、
5世紀頃から、大陸側からゲルマン民族のアングロ人、ジュート人、ザクセン人(アングロ・サクソン人)らが流入し、
彼らは小国をたくさん形成しました。
7世紀頃には大きく7つの王国(七王国時代)にまとまっていましたが、
9世紀初め、南部を支配したウェセックス王国国王エグバート(769-839)が島の殆どを統一しました。
824年頃、イベリア半島では、バスク人の族長イニゴ・アリスタ(790-852)がパンプローナでフランク王国から離反、パンプローナ王国として独立しました。
フランク王国の分裂は、
その周辺各国の誕生にも大なり小なり影響を与えていたのでした。




