なにかがいる
眠れない。
私は寝返りを打った。衣擦れの音が微かに部屋に響く。万年床の足元では古い扇風機が、室内の生温かい空気を掻き回すべく、左右に首を振っている。
私は再び寝返りを打った。
床についてもう何度目の寝返りだろうか。動くたびに体はわずかながら熱を帯び、室温と相まって暑さで寝苦しくなっていく。不快な暑さを感じると、余計眠れなくなり、芋虫のようにモゾモゾと布団の中で動く。眠りたいのに眠れない。眠れないから体を動かす。動かすから余計に眠れない――。
真夏の夜に、私は負のサイクルに陥ってしまっていた。
私は枕元の携帯電話に手を伸ばし、画面を起こした。激しい光が闇に慣れていた目を刺激し、眉をひそめる。画面の時計は深夜一時を回っていた。私が布団に入って、一時間が過ぎているということになる。
私は深く息を吐いた。
明日も仕事だというのに、睡眠時間が減り続けている。人間の三大欲求のうち、睡眠欲に最も重きを置いている私にとって、睡眠不足はその日一日の活力の欠乏を意味する。意識がボーっとして仕事もままならない。
――早く眠らなければ。
私は枕の位置を直し、改めて意識を眠りへと向けた。
誰が言い出したか分からない方法である羊でも数えようかと思っているうちに、ようやく小さな睡魔が私を襲って来てくれた――様な気がした。
恐らくウトウトとしていたのだと思う。睡眠の一歩、いや三歩手前までは来ていたはずだ。私の意識が深い谷へ落ちていきそうだったそのとき、何かの気配を感じた。その気配は谷へ落ちる瞬間、私の意識を強引に引き戻したのだ。
――なんだろう。
目を閉じたまま、その場の雰囲気を感じ取る。
独身男の安アパートである。一緒に寝床に入る相手もいない。だから部屋に誰かがいるなどありえないのだ。
ありえないはずなのに。
今夜はどこかおかしい。なにかがいる雰囲気だけを感じるのだ。
もちろん、なにかがいると感じるだけで、それがなにかは分からない。
目を開けて確認すればいいだけの話なのに、今夜は気が進まない。まぶたを上げるという単純な動作ができない。いや、したくないといった方がいいのかもしれない。瞼が重いのだ。睡魔による重さでではなく、気持ちの問題である。
暗い部屋の中で目を開き体を起こしたときの、なにもなかったという安堵となにかがいたときの不安。その葛藤で私は動けなくなってしまった。
闇の中で私は逡巡する。
今も顔の真上をなにがが通ったような気がする。空気を振動させるほどのものではないが、その物理法則を無視したような細かな動きが私の想像力を掻き立て、不安にさせた。
パキンッ――。
私の体が反射的にビクリと動揺した。自分でも鼓動が速くなっているのが分かる。
ラップ音というやつなのだろうか。普段なら気にならないような音まで気になってしまう。神経が過敏になっているようだ。心霊現象の多くは、臆病者の気のせいだ。怖い怖いと怯えているせいで、ちょっとしたことが怖ろしいものへと置き換えられてしまうのだ。霊など存在するはずがないと、何度も自分に言い聞かせた。
言い聞かせながら、耳をそば立てる。
古い扇風機のモーター音と、少し離れたキッチンの冷蔵庫も低い唸り声を上げていること以外は、相変わらず静かだ。通りから入り込んだアパートのせいもあって、車の音も聞こえない。その静けさが、余計に嫌な想像を掻き立てるのかもしれない。
目を閉じ、呪文のように眠ろう眠ろうと反芻する。
瞼に光を遮られ、真っ暗闇を眺めていると、嫌なことばかりが頭を過った。
明日やらなければならない仕事。
面倒くさい相手に仕事の電話を掛けなければならないこと。
想いを寄せる女性にメールを送ったが、三日も音沙汰ないこと。
学生時代に付き合っていた彼女に二股をかけられ絶望したこと。
小学生時代、見知らぬ土地に紛れこみ、迷子になって鳴き叫んだこと。
忘れかけていた記憶までも蘇り、余計に眠れなくなっていく。楽しいことや嬉しかったことを思いだし、それらの記憶を払拭しようとするが、人の脳というものは嫌なことの方を優先して押し出してくるようだ。
ふぎゃあ――。
再び私は身を固くした。
遠くで赤ん坊の泣き声が聞こえる。
闇に響いてくる赤ん坊の泣き声というものが、これほど恐ろしいものとは思わなかった。掛け布団を頭からかぶり、すべての物音から逃げ出したいが、熱帯夜にそんなことをすれば、ますます睡眠から遠ざかってしまう。
ふぎゅう――。
なんなんだ、あの不気味な声は。ミルクでもやってさっさと寝かしつけてくれ。大体、このアパートは独身用で、赤ん坊が住んでいるはすないのだ。だとすると、ここまで聞こえてくる赤ん坊の泣き声は、相当大きいはずで、近所迷惑もいいとこだ。心霊的な「何か」ではないかという考えも浮かんだが、慌てて頭から追い出した。
眠れないことも相まって、赤ん坊の泣き声にまで腹が立ってくる。
ぎゃあっ――。
あまりの大きさに、私は思わず身を起してしまった。
叫び声が聞こえたかと思った瞬間、ガタンバタンとなにかをひっくり返すような激しい音が響いた。
ニャーッ――。
私は枕元に置いていたペットボトルを取ると、生温くなった水を一気に喉に流し込んだ。喉から胃に流れて行く水の感触が良く伝わる。よほど体の内側が渇いていたようだ。
身を起こしたまま一息つくと、大きくため息をついた。
赤ん坊の泣き声ではなく、発情期の野良猫が階下で唸っていたようだ。しかもメス猫に襲いかかったのはいいものを、邪険にあしらわれてそこにあったものをひっくり返してしまったのだろう。夜中に紛らわしいことをしてくれる。どうせならメス猫をモノにしてくれれば、こんなにビクビクせずにすんだものを。
私は横になって目を閉じた。
勢いよく体を起したせいで、体がほんの少しだけ疲労をしたのだろうか。いままで完全に冴えてしまっていたはずの脳が、睡眠を欲し始めている。
眠るなら今だ。このチャンスを逃してはならない。
少し。
また少し。
ゆっくりと意識が遠くなっていくのが分かった。水面に体を浮かべているかのように心地良い。体中の筋肉が脱力していく。眠ることがこんなに気持ちいいと感じるのは初めてだ。
ようやく。
夢の中へと――。
その瞬間。
私は一気に現実へと引き戻された。遠のいた意識を強引に引っ張り上げられた。ただ、意識を戻されたものの、わずかに眠気は残っている。完全に目が覚めてしまったわけではなかった。このまままどろんでいれば、すぐにでも眠れるはず――。
フワッ――。
まただ。
私を眠りから引き戻したなにか。そのなにかが私の鼻先を通っていった。まるで私が眠るのを待っていたかのようだ。それとも深く眠るのを妨げているのか。
馬鹿馬鹿しい。
一体なにが私の睡眠を邪魔するというのか。部屋には私ひとりしかいないというのに。
――ひとり。
本当にひとりなのだろうか。私には見えないなにかがこの部屋にいて――。
布団の中で私は体を震わせた。扇風機で気休めの涼を取ろうとするほど、蒸し暑い夜にである。寝苦しいくらいの夜のはずが、私は背筋に冷たいものを感じた。腕が毛羽立っているのいるのが分かる。
こうなるとますます目を開けられなくなった。
足元に誰か立っているかもしれないし、枕元に誰かが座っているかもしれない。目を開けると鼻先に目を見開いた誰かが覗いているかもしれない。そんな余計な妄想をしているせいで、体が緊張して瞼の上の世界が気になって仕方がない。
このまま目を開けることなく眠りにつければ、と思ったそのとき。
なにかが耳元をかすっていった。
私は目を閉じたまま体を起こした。暗闇の中、何度も耳のまわりを手で振り払う。だが、右手は虚しく空を切るばかりだった。
きっと気のせいだ。
気のせいだと思っていても、目は開けられない。目を開けるという自然な動きよりも、部屋に充満している違和感による恐怖が勝っていた。五年もこの部屋で一人暮らしをしているのに、こんな感覚は初めてだ。不動産屋も大家も、この部屋で過去になにかがあったなど言っていなかったはずだ。いや、仮になにかあったとしても言わないのが当たり前なのだろうか。
フワッ――。
私は太ももを手で払った。
まただ。
今度は足元をなにかが通っていった。
気のせいではない。確実になにかが私の体に触れたのだ。
――なにかがいる。
そう思えば思うほど、なにかの視線を感じる。
幽霊。
嫌な言葉が頭をよぎった。
そんなはずはない。
これまで私は霊的な現象を体験したことはなかった。霊感があるなど思いもしない。確かに、学生時代は悪友たちといわゆる心霊スポットと呼ばれる場所に遊び半分で行ったことはある。だけど、霊が出ると評判の薄暗いトンネルや殺人事件があったといわれる廃墟に足を踏み入れても、なんの現象も起きなかったし見ることもなかった。背筋が寒くなることさえ皆無だ。一緒に行ったメンバーの中には、なにかがいると震えが止まらない奴もいたが、なんの冗談だと笑い飛ばしていた。そんな私が自分の部屋でそんな怪奇現象に出くわすはずがない。
はずはないのだけれど――。
神経を耳に集中する。目を閉じているから、聴力だけが頼りだ。このまま物音に集中していれば、神経を使いすぎた疲労で眠れるかもしれない。そして朝になれば、何事もなかったように仕事へ出かけるのだ。明るくさえなれば、なにも怖いことなどない。こんなにも陽の光が待ち遠しのは初めてだ。
――今、何時なのだろう。
さっき携帯電話の時計を確認して随分時間が経ったような気がする。一時間、いやそれ以上か。だとすると、もう三時を過ぎた頃か。時間の感覚もおかしくなってしまっている。
サワッ――。
今度はすねから太ももをなぞるようにしてなにかが触れた。
私は思わず太ももを叩いた。パチンと乾いた音が静かな部屋に響き、痺れるような痛みを私が襲う。恐怖のあまり力の加減が分からなくなり、思い切り自分の体を叩いてしまった。おかげで余計に目が冴えた。
眉根を寄せてうん、と唸る。
段々と恐怖より、眠れないことへの苛立ちが大きくなってきた。
そもそも。
仮に幽霊が存在するとして、人の体に触れることができるのだろうか。
テレビや映画で見る幽霊のイメージは、朧げで実体がない。向こう側の景色が透けて見えるくらい薄ぼんやりとしているのではないか。映画によっては、人の首を絞めたり襲いかかって来るような種類もいるようだが、あくまでフィクションの世界だ。誰かの経験から作られたものかもしれないが、どこまで本当なのか分かりはしない。足がなかったり、頭に白い三角巾をつけていたり、その種類は様々だ。そんなものがいたずらに私の体を触ったりするものだろうか。私がここで急に跳び起きて大声を上げれば、逆に向こうが驚いて出て行きはしないだろうか。
ありもしないものにびくびくしてどうする。恐怖に打ち勝って、私は眠るのだ。
私は思い切って目を開けた。
瞼によって光が遮断された真っ暗闇から、微かな光を受けた灰色の世界に視界が開ける。
目の前には禍々しい顔をした老婆がこちらを凝視していた――。
はずもなく、電気を遮断された蛍光灯と天井がそこにあった。
ほっとすると、思わず笑みがこぼれた。今までなにを怖がっていたのだと、我ながら情けなくなってくる。暗闇は人間の想像力を駆り立てるようだ。
さあ、これで眠れると、思ったそのとき――。
耳元から頬へなにかが通過した。
いる。やはりなにかいる。
それは頬を通り、首元からTシャツから出た腕の方へ向かった。そこで感覚は途切れた。恐らく体の下へ下へと向かっているのだろう。服の上からはなにも感じない。素肌に触れたときがチャンスだ。
神経を集中させ、私は身構える。
向こうが私を触れるなら、きっと私も触れることが出来るはずだ。向こうの出来ることが、こちらに出来ない道理はない。散々眠りの邪魔をされた仕返しをしてやる。こちらが抵抗しないのをいいことに、好き勝手されては堪らない。恐怖より、眠りの邪魔をされてることへの怒りが勝った瞬間だ。
さあ、来てみろ。
触れ。
その瞬間はやって来た。
サワワッ。
太ももに相手の感触。
――今だ。
バチン。
さっきよりも素早く、そして強く私は自分の太ももを叩いた。確実に手応えはあった。相手の手か、はたまた足か。なんにせよ、私は仕留めたのだ。
私は布団を飛ばし、跳ね起きた。なにがそこにあるか、見てやるのだ。もし霊なら煙のように消えてしまっているかもしれないが、そのときはガッツポーズでもして勝利宣言でもしてやろう。私にちょっかいを出すとこうなるぞと、見せつけてやるのだ。
ところが部屋を見渡しても、薄暗いだけで誰もいない。気配すら感じない。散らかったいつもの部屋だけで、特に変わった様子もなかった。
私は部屋の明かりを付けた。強い光が暗闇に慣れた瞳を刺激して、思わず目を細める。やはりいつもの部屋に変わりはない。
私は布団の真ん中にちょこんと座り脱力した。太ももには、くっきりと赤い私の掌の跡が浮かんでいた。太ももの赤みは熱を帯び、ジンジンと痛む。それ以外、なにかによる痕跡は見当たらなかった。
結局なんだったんだあれは。
しばらく明かりの灯った部屋で呆けていると、私は違和感を感じた。ふと、さっき太ももを叩いた手に目をやった。
「お前か――」
掌には、一匹の蚊が潰れて死んでいた。