待ち人
九月。夏休みが終わり久々の学園をだるく思いながら中庭を通って教室に向かう。二つの校舎に挟まれて通路になっている中庭は何本かの大きな木が木陰を作り、まだ暑いこの季節でも髪がさらっと靡く程度の優しい風と合わさると十分に涼しさを感じさせた。
俺はここのベンチに座ってゆったりとした時間を過ごすのが好きだった。だけど今は寂しさを感じるからあまり寄りつかなくなっていた。その理由を俺は分かっている。
「早く帰ってこいよ」
暫く会っていない親友を思いながら俺は中庭を通り抜けた。
『待ち人』
教室につくと椅子に座ってイヤホンを耳につけて愛読書を開いた。席は窓側の一番後ろで、基本的に誰にも邪魔されないそこは俺のお気に入りの場所だった。
「慎也!」
……ただ例外も存在する。例えばこうやってイヤホンを引き抜いて強制的に話を聞かせようとするこの女とか。
「凜那、お前さ、一学期もそうだったけど毎朝俺の邪魔して何が楽しいわけ」
二学期が始まって早々、なぜ俺は従兄妹に読書という至福の時間を邪魔されなければいけないのか。
「そんなうっとおしそうな顔しないでくれる?」
したくもなる。
「で、要件は何だ」
「顔のことはスルーなのね」
当たり前だ。自分がそんな顔をしていることは自覚してる。なんせわざとやってるんだから。
「まぁいいわ。今日から学園祭の日まで放課後に中庭の花壇に水をやって欲しいの」
耳だけ凜那の言葉に傾けて本に目を通し始めた俺はいつも通り凜那の無駄話が始まるのだと思っていたわけで、水やりをして欲しいと言われた時には頭にはてなが浮かぶのは仕方がなかったと思う。
大体、緑化委員でもない俺がどうして水やりをしなくちゃならないのか。
「なんで?」
「中庭の花壇は『あいつ』が水やりしてたでしょ? 梅雨時は水やりなんてしなくてよかったし夏休みは先生達がしてくれてたんだけど……」
「やる人がいない、と」
「そう。緑化委員は学園祭で使う花の世話をしてもらってるから、学園祭が終わるまでやってもらえないかしら」
―それにあいつが帰ってきた時、元気がない花達を見たら悲しむでしょ―
そう言いくるめられて如雨露を持って中庭に来ている俺は相当滑稽というかなんというか。あいつのことを引き合いに出すと俺が弱いことを知っている凜那は流石、この学園の女王様といったところか。
俺も大事に育てていた花が放置されたことを悲しむあいつを見たくないからいいか、と考えている時点でただの馬鹿なんだろう。
こうして始まった水やり生活。
やり始めると案外これがはまった。
一日目はめんどくさいなと思いながらやっていたのが、三日目ともなると楽しくなってくる。暑さで萎れている花に水をやると、少し元気になるのが分かるようになったからかもしれない。
そういえばあいつが水やりをしてた頃、その様子を本を読みながら後ろから見ててあまりにも笑顔で水をやるもんだから、楽しいかと聞いたことがあった。たかが水やりでにこにこできるあいつを不思議に思っていたのが声に現れていたんだろう、あいつは勢いよく俺の方に振り向いて、楽しいよ! と言った。きっとあいつには水をやることで花に現れる変化に気づいていて、それを嬉しく思っていたんだ。今なら分かる。
「上機嫌ねぇ」
花の上から如雨露で人工的な雨を降らせていると、声をかけられた。くすくすと笑いながら俺の様子を楽しむこの声の主は間違いない。凜那だ。
「なんですか、女王様」
「その呼び方やめて。皮肉だわ」
勿論皮肉を込めて言っているから当たり前だけど、そんなことを言ったらどんな報復があるか分からない。ここは黙って従っておくのが賢明だ。
「はいはい、悪かったよ。今度はどうした?」
こいつが俺に話しかけてくる時はろくなことがないからな。
「今日は何もないわ。ただちゃんとやってるのか見に来ただけ」
珍しい。何もないなんて滅多にあることじゃない。
学園祭の準備で多忙を極めているだろうにわざわざ見に来たということは息抜きでもしたくなったんだろうか。あいつがいない今、学園を取り仕切るのは主に凜那の役目だ。かなり大変なんだろうな。
「そうか。あんまり無理すんなよ」
「あ、ありがと」
少し照れたようにお礼を言う従兄妹に心の中で頑張れとエールを送った。
次々に花に水をやっていく。一つの花壇に何種類かの花が植えられていて、それぞれに可愛らしさ、凛々しさがある。
「あら、それジニアね」
凜那が一つの花を指してそう言った。
可愛らしい色とりどりのそれは、見かけることはあってもあまり聞きなれない名前の花だった。
「百日草って聞いたことない?」
「ある」
それがこの花だとは知らなかったが。
「この花はあいつが慎也のことを思って育て始めた花なの」
「俺のことを?」
「ええ。確か花言葉は……『不在の友を思う』だったかしら」
その花言葉を聞いてあいつがどんな風にこの花を育てていたのか、容易に想像できた。
幼い頃は仲が良かった俺とあいつだったけど、この学園に入ってあいつと再会しても直ぐにはあいつだと気付いてやれなかった。だから本当の親友に戻れるまでこの花を育てていたんじゃないだろうか。
それでいてこの花は今もその時と同じように咲き続けている。つまり今度は俺があいつを待たなくちゃならない。
「もう三ヶ月、経つんだな……」
あいつがいなくなって三ヶ月。まるでこの花があいつを象徴しているかのようだ。
「待ちましょ、気長に」
「……そうだな」
大事に育てよう。あいつがいつ帰ってきてもいいように。
それから一週間。学園祭当日の朝。
生徒達が学園祭の最終準備をしている中、俺は如雨露を片手に中庭に向かった。
今日で花に水をやるのも最後だと気づき、心なしか寂しい気持ちになる。それはきっと水やりという行為が俺の日常にすっかり溶け込んでいたからなんだろう。
任された限りしっかりとやりきろうと決めて中庭に到着する。
けれどそこには先客がいた。
久しぶりのその後ろ姿に思わず手に持っていた如雨露を落としそうになる。
「――ゆう、と」
無意識に出たあいつの名前はたった三ヶ月ほど口にしてなかっただけなのに、とても懐かしく感じられた。
俺が名前を呼んだことに反応して悠人は短い金髪の髪を靡かせながら振り返る。そしてジニアに優しく触れてこう言った。
「ただいま、慎也」