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第1話 私がこの時代に転生してきたのは、ちょうど今川義元が家督を継いだという頃でした

あの小坊主が…。


祐筆はそうつぶやいた。


天海大僧正は実は明智光秀だったのではないか?などという噂も流れていたが、実は、この小坊主こそ、後の天海大僧正という、

実際にこの先、108歳まで生きていくことになるという、この小坊主が生まれたのは、

時はまさに戦国乱世のまっただ中、1536年のことだった。


1536年、戦国乱世はこの時代までえんえんと続き、誰もがその日、その時を生き延びるのに精一杯、身内も、味方も、完全には信用できない、いつなんどき、裏切るかもわからない、そんな猜疑心(さいぎしん)に満ちていた、この頃の時代。


最初に戦国乱世のきっかけをつくった人たちは、とっくの昔に年老いて、死に絶えていた。その後も戦国乱世は続き、全国の戦国大名たちが、力づくで、領地の奪いあいをしていた。


僕、高山一郎が、ある日突然、原因不明のめまいに襲われ、そのまま倒れて、死んだ後、転生してきたのは、まさにそんな時代だった。そして、気がついた時には、赤ん坊の姿だった。そう、例の小坊主として、転生してきたのだった。


僕がこの小坊主として生まれたのは、とある寺の中のようだった。とはいっても、この当時の寺の僧侶たちは、ろくに僧侶としての修行もせずに、肉を食らい、女を抱き、そして戦となると、僧兵として、戦いに赴き、殺生を行うという、そんなありさまだった。


そんな中、駿河、遠江、つまり現在の静岡県のあたりを治めていた、今川家において、今川義元が家督を継いだという話が、この寺にも、そしてこの寺の近くの村にも、伝えられていた。


今川義元といえば、桶狭間の戦いで織田信長率いる軍勢に討ち取られた、という印象しかないが、まさか、あの今川義元のことか…?


今川義元は1519年生まれと伝えられる。

1535年、兄の急死に伴い、家督を継ぐことになったが、やがてお家騒動に巻き込まれる。

翌年の1536年にその家督をめぐる争いに勝利し、室町幕府12代将軍足利義晴から異例の「義」の字を授かり、「義元」と名乗ったという経緯があったという。


その日は、その今川義元が、家督を継いだことを皆に報告するための、

いわば祝賀会のような、(うたげ)(もよお)されていた。


もちろんこの僕、高山一郎こと、小坊主は、その時はまだ赤ん坊だったこともあり、その(うたげ)には当然参加などしていないが、さぞや豪華なものだったのだろう。


そして(うたげ)が始まり、まずは今川義元からのご挨拶(あいさつ)

「このたび、今川家の家督(かとく)を相続することにあいなった、今川義元(いまがわ・よしもと)であります。」

それから部下たちも祝辞(しゅくじ)を述べる。

「このたびの義元様の家督(かとく)相続(そうぞく)、まことにもって、おめでとうございます。」

部下の武将たちや、参加者一同が、一斉に一礼をするのであった。



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