比叡山延暦寺焼き討ちをためらう天海…!
結局姉川の合戦でも、織田軍は決定的な勝利はおさめられず、なおも苦境にあえぐ中、
次に将軍義昭が仕組んだのは、比叡山延暦寺と、石山本願寺の僧兵部隊と信徒たちを差し向けるというもの。
「ふはは、いくらなんでも、仏を信ずる者たちを相手にしては、うかつに手は出せまい。」
義昭は勝ち誇ったような笑いを見せた。
信長は即座にこのことを知るや、
「今やこの信長の最大の敵は、比叡山延暦寺と、石山本願寺じゃ。」
これも有名な、比叡山延暦寺焼き討ちという話である。
もはや信長にとっては、相手が仏を信仰する者たちであろうと、進攻を邪魔する者は全て敵として討ち滅ぼす、という考えだった。
が、しかし、天海はというと、今度の相手は、自分と同じく仏を拝む立場の仏僧、僧兵、それと兵隊でもない、一般の信徒。
今回ばかりは異議を申し立てることにしたのだった。
「おやかた様、比叡山延暦寺を攻めるということは、仏を信仰する者たちと、一戦交えるということになります。
私は、彼らと同じく仏を信仰する仏僧として、この戦だけは、おやめいただきたいと存じます。」
しかし信長が聞く耳を持つはずはなかった。
「ほほう、天海よ。そちは確か、仏僧であったな。
しかしな、そちはあの者たちをそちと同じ仏僧だと、まことの仏を信奉する者たちと、思うておるのか!?
きやつらは敵の兵じゃ!そして敵の兵がたてこもる、敵の城をこれより攻めようとしていることの、何が悪い!?」
さらに前田利家も、それに続いた。
「きやつらは延暦寺の権勢を笠に着て、傲慢なる振る舞い、
さらには僧本来の修行を怠り(おこたり)、肉を食らい、女を抱き、さらには平気な顔をして、殺生を行う。
このような者どもを放ってはおけぬ!」
このようなことを言っていたが、はたしてそれが、まことのことなのかどうか、
もしかしたら相手の心証を悪くするためにわざと言っているのでは、
それとも本当にそうなのか、
それはこの際、どちらでもいいとして、天海はやはり、仏僧として、同じ仏僧や一般の信徒たちを殺める(あやめる)ということには、ためらいを感じていた。
そこで天海は、ひそかに延暦寺に忍び込み、そこにいる僧や信徒たちを、別の土地に逃がすことを画策した。
「なんと…!天海とやら、そのようなことができると申されるか…。」
「しかし、そのようなことをしたら、そなたの立場まで、危うくなるのではございませぬか?」
すると天海は、
「その点は、ご心配には及びません。
もぬけの空になった後は、建物だけを焼き払います。
これはいわば、延暦寺を焼き討ちにしたぞ、信長に逆らえば皆こうなるのだぞ、ということを内外に示すための、狼煙を上げるという意味合いの戦なのです。
私はやはりあなたがたと同じ仏僧として、あなたがたを見殺しにはできません。」
これで天海は、この僧たちや信徒たちにとっては、まさに命の恩人ということになる。いわば、貸しと借りができたわけだ。
僧たち、そして信徒たちは、天海に感謝感激。
一般の信徒たちの中には、何の罪もない女や子供の信徒もいた。
本当のことを言うと、天海はこの人たちの命こそ、救いたかった。
信長はそんな女子供までも、皆殺しにしろと命じたのだ。
一方で一向宗も、いざ戦に駆り出されれば、死をも恐れずに戦うことが名誉とされる。もちろん、女や子供でも、命を惜しまず戦うことを強制させられる。そんな戦いには、巻き込みたくなかったのだ。
「ああ、あなたさまは、まことに仏のようなお方です。」
仏僧として、これほど役にたてたことは、もしかしたら初めてのことかもしれないと、天海はドヤ顔をしながら、思っていた。
「やったね。」
そして僧たち、信徒たちは逃げようとするが、果たしてどこに逃げるのか。
「して、逃げるといっても、あてはあるのか?」
「…甲斐の国、甲斐の武田信玄殿を頼ろう。あそこなら…。」
こうして彼らは、甲斐の武田信玄のもとへと、逃亡することとなった。
それからまもなく、比叡山延暦寺は焼き討ちにあった。そして寺の建物に、火が放たれた。
が、そこに人は1人もおらず、すでにもぬけの殻となっていた。
しかし比叡山延暦寺の建物は焼け落ちてしまった。
そして比叡山延暦寺の寺の建物を焼き尽くす、燃え盛る炎からたち登る煙が、
まるで織田信長の天下布武を示す狼煙のごとく、どこまでも、どこまでも、たち登っていった…。
「ふはは!この信長に逆らう者どもは、皆こうなるのじゃ!ふはははは!」
一方、天海の計らいによって逃げ延びた者たちは、甲斐の武田信玄のもとに、ようやくたどり着いていた。
「信玄殿!お頼み申す!信長を倒せるのは、もはや信玄殿しかおりませぬ!」
「わかりもうした。そなたたちのお力になりましょう。ふふふ…。」
天海の計らいで、命からがら逃げ延びた、この僧たちと一般信徒たちは、いずれは延暦寺を再興させることを考えていた。
そしてそれが実現したのは、信長の死後だった。
一方で天海の方は、これだけのことをしでかしておきながら、どういうわけか、一切おとがめなしとなったのだった。
信長も実は、見て見ぬふり、知っていて知らぬふりをしていたのか。




