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姉川の戦いでも決定的な勝利は得られず、そしてその間にも情勢の変化、そして北条氏康、毛利元就の相次ぐ死…!

「撃てーっ!」


バン!バン!ババババババン!


合戦が始まり、まずはお互いに鉄砲隊が激しく撃ち合う。これが合戦の始まりの合図だ。


「弓隊、放てー!」


ヒュッ!ヒュッ!ヒュッ!ヒュッ!ヒュッ!ヒュッ!


続いてお互いの弓隊が、弓を射て、矢を放つ。これが次の合図。


「突撃ー!かかれー!」


「うおおおおーっ!」


続いて足軽隊、長槍隊、騎馬武者たちが突入していき、お互いに足軽は足軽同士、長槍は長槍同士、そして騎馬武者は騎馬武者同士で、白兵戦となるが、当然のことながら騎馬武者が足軽に攻撃したりすることもある。


ズバッ!ドスッ!


「ぐおあっ!」


ドシャッ…


織田軍の騎馬武者が敵の足軽を1人、2人と、討ち取っていく。


ズガッ!ドシュッ!


「ぐおおっ!」


ドシャッ…


ここで、敵の長槍隊が織田軍の騎馬武者を一騎、突き刺して討ち取った。

次は、長槍隊同士の突き合い。


カキン!キン!


ドシュッ!バシュッ!


「ぐおあっ!」

「うげっ…!」

「ぐわっ…!おっ母…。」


ドシャッ…ドシャッ…


この足軽や長槍の兵たちは、兵とはいってもその多くは、農民や町人の跡取りではない男子たちや、あるいは仕官が目当てで各地を放浪し、金で雇われたゴロツキ連中などといった者たちだった。


カキン!キン!ズガッ!ブシャッ!


「ぬがっ…!」

「ぐっ…!おあっ…!」


ドシャッ…ドシャッ…



一進一退の攻防が続く。

そして両軍とも兵が1人、2人、次々と倒されていく。が、お互いに決定機が見当たらないまま、兵の犠牲だけが増えていく。

「おのれ、浅井、朝倉め…。」

それはお互いにそう思っていたようで、

「おのれ、信長軍、それと、徳川家康の軍勢めが…。」

「朝倉義景殿、これ以上小競り合いを続けていても、兵の犠牲が増えるばかりでは…?」

「それはそうなのだが、しかしな、浅井長政殿、ここで何とか勝機を見いだし、信長の息の根を止めるところまで、持っていきたいのだが…。」




結局、双方とも決定的な勝利にはつなげられず、姉川の合戦は幕をおろしたのだった。

「結局、姉川の合戦でも、決定的な勝機は見いだせなかったか…。

回りじゅう敵だらけのこの状況を、まずはどこから打開するかじゃ。」

「おやかた様、中でも一番手強い相手は、やはり武田信玄と、朝倉義景といったところでしょう。」

さらに、武田や朝倉を打ち破ったとしても、その後には、越後の上杉謙信、相模の北条、中国地方の毛利などが待ち構えていることだろうということは、容易に想像がついた。


それにしても、足利義昭は、そもそも初めは朝倉を頼ったのだが、

あまり頼りになりそうにないということで、織田信長を頼って、

その結果15代将軍になることができたというのに、結局のところは飾り物の将軍で、

はなっから信長は自分を踏み台にして天下をとるつもりでいたと知るや、

またもや朝倉を頼ったということは、とどのつまりは、なんやかんやいってもそれだけ朝倉義景という大名を義昭は信頼していたということになるのでは?という推察をしてしまったのは、他でもない、天海だった。

「もしこれが仮に本当にそうだったとしたら…。」




そんなさなか、情勢は刻一刻と移り変わっていた。


元亀元年8月20日、遠く九州にて、今山の戦いという合戦が行われ、大友氏の大軍に攻め込まれていた、龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)が勝利をおさめた。

当時の九州は、島津、大友、龍造寺などの各大名がひしめき合い、複雑な勢力図を構築していた頃。


同年10月8日、徳川家康と、上杉輝虎(うえすぎ・てるとら)が、同盟を締結したという。

この上杉輝虎というのは、上杉謙信の本名とされ、もともとは長尾景虎(ながお・かげとら)と名乗っていたが、関東管領上杉氏を継承し、上杉政虎(うえすぎ・まさとら)と名乗るようになったという。

それからさらに、室町幕府13代将軍足利義輝から「輝」の字を授かり、そしてあらためて、上杉輝虎(うえすぎ・てるとら)と名乗ることになったという、実に複雑な経緯があったという。そして、謙信(けんしん)というのは、そのさらに後に名乗った法号(ほうごう)というものだという。


そして、この時期に、家康と謙信は、同盟を締結していたということなのだ。誰と組むか、誰のもとに付くか、というのも、この戦国の世を生き抜いていくうえでの知恵の一つだったといえる。




さらに関東では、相模の北条氏康が55歳で死去した。

後北条氏の祖、北条早雲の孫で、三代目だった。

その後、後北条氏は氏康の息子、早雲から数えるとひ孫にあたる北条氏政が跡を継いだ。


一方、中国地方では、毛利元就が75歳で、その波乱に満ちた生涯を終えた。毛利家は、元就の孫の毛利輝元が跡を継いだ。


織田信長と北条氏康、


織田信長と毛利元就は、直接は対戦することはなかったが、この両者が仮に本当に対戦していたとしたなら、どのような戦いの結果になっていただろうと、想像する。

ただし、毛利輝元とはこの後戦うことになり、また、北条氏政とは、そのさらに後の秀吉の小田原攻めで戦うことになるというのが史実だが、果たして…。




そんなさなか、天海は、この度の戦で討ち死にした兵たちのみたまを弔うために、お経を唱え、冥福を祈っていた。


戦場には雨が降り注いでいた。無情の雨に打たれる戦死者の多くは、名も無き足軽、雑兵。


後に大僧正まで登り詰める仏僧らしく、このような戦があるたびに、その戦死者のみたまを弔うために、祈りを捧げていた天海だった…。

「どうか、安らかに眠りたまえ、安心して成仏してくだされ…。」

こうして祈っておかないと、この成仏できない思いを抱えたままの死体が生き返って、ゾンビとか、あるいは悪霊とかになって、生きている人間を襲い、また新たな仲間を増やそうとするようになってしまうというような話は、南蛮でも、日本でも、古来よりよく聞く話だからだ。


ただし、この戦死者たちの装備品の武器や鎧兜などを、これ見よがしに物色し、かっぱらっていくような不届きな輩も、少なからずいたようだったが…。



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