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第11話 運命の出会い

1564年は、語呂合わせで「人殺し=1564」の年といわれているということは、前世でも習ったことがある。

また、この年は、ウィリアム・シェークスピアが生まれた年とも言われる。

その頃のヨーロッパでは、1572年にフランスで、サン・バルデルミの虐殺という、当時のカトリックの信徒たちが、プロテスタントの信徒たちを虐殺するという事件があった。

その頃の日本では、戦国の世は、新たな展開を迎えようとしていた。


1565年。室町幕府は12代将軍義晴(よしはる)の後、13将軍に義輝(よしてる)が就任したが、

「何者じゃ!?無礼者め!」

「我々は三好長慶(みよし・ながよし)様と、松永久秀(まつなが・ひさひで)様の、手の者だ。

お命頂戴つかまつる!覚悟!」


ズバッ!ブシャッ!


「うわあっ!」


ドシャッ…


三好、松永の手によって、将軍義輝(よしてる)は殺されてしまう。

そして三好、松永は、従兄弟(いとこ)義栄(よしひで)を、14代将軍に就けたが、実権は後見人の、三好と松永が握っていた。

14代将軍の義栄(よしひで)もまた、ほとんどお飾りの将軍でしかなかったという。


その知らせはすぐに、各地の諸大名に伝えられる。

甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、それから相模の北条氏康らも、即座に反応した。


甲斐の武田信玄はこう言った。

「将軍義輝が殺された!?

それで、将軍義輝を殺した方のやつらが、勝手気ままに政治をやっていると…!」


一方、相模の北条氏康は、こう反応した。


「これで室町幕府もおしまいじゃ。

てか、今まで形ばかりでも、ここまで続いてきたということの方が不思議なくらいじゃ。」


翌年の1566年、木下藤吉郎の策略によって、美濃方の軍師、竹中半兵衛を味方につけた、織田信長はついに、美濃の稲葉山城を手中におさめ、同年稲葉山城を岐阜城に改名した。


その間、天海は、実は何の活躍もしないまま、ただこの移り変わりを、見届けていただけだった。

しかしこの時、天海にとっての、運命の出会いが訪れる。

殺害された義輝(よしてる)の弟の、義昭(よしあき)の使いの者と名乗る者たちが、稲葉山城から岐阜城に名を改めたばかりの、城にやってきたのだった。

その使いの者というのは、1人は細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)

そして、もう1人は、あの明智光秀(あけち・みつひで)だった。

その2人に直接会いに行った信長。そのお供として、天海も同行した。

これが何を意味するのかというと、わざわざお供に連れていくということは、それだけ信頼を置いているということなのだ。

そして、信長と細川藤孝、明智光秀、それと天海の、4人での対面となった。

「このたびは、わざわざお越しいただき…。」


まずは細川藤孝が事情を説明した。

「今、京の都では、14代将軍に、義栄(よしひで)様をまつりあげ、三好と松永が、勝手気ままに政治を行っております。

我々は、これに対抗するため、亡き義輝(よしてる)様の弟君、義昭(よしあき)様をまつりあげたいと…。」

細川藤孝が事情を説明する中で、藤孝の後ろにいた、明智光秀が、天海に話しかける。

「そちらの者は?」

すると、ただちに返答する。これが天海と明智光秀の、運命の出会いとなった。

「はい、それがしは、天海(てんかい)と申す、見ての通りの、坊主にございます。」

天海(てんかい)殿と申されるか。なるほどな…。

そなたとは今後、深い付き合いとなることであろうのう…。」


これが天海と明智光秀の初対面となったわけだが、ここで1つ疑問が。

天海=実は明智光秀だったのではないかという説があったが、この展開では、天海と明智光秀は、全くの別人ということになってしまう。

後世に残っている、天海の肖像画と、明智光秀の肖像画を見比べてみると、なるほど、顔立ちから何から、全然違うということがわかる。

天海=明智光秀だったと、はっきりと証明できるような証拠は、実はこれといってないという。

したがってここでは、天海は明智光秀本人ではなかったにしろ、明智光秀とは非常に深い関わりを持っていたのではないかという、仮説からこの展開になっているわけだ。


そして、1567年までには、尾張、美濃を完全に平定し、三河の家康との同盟関係も確固たるものにしていた信長。


一方で、斉藤龍興(さいとう・たつおき)は捕らえられ、処刑されてしまった。


そして、時は1568年。信長は既に34歳になっていた。

そう、人間50年、人生わずか50年と言っていた、その50年まで、あと16年しかなかった。

信長は、休む間もなく、むしろ進軍のペースを加速させていくことになるのだった。

「これより、我ら織田軍は、京の都に上洛(じょうらく)する!皆のもの、心せよ!」

「ははーっ!」

そして1568年、ついに信長は、上洛(じょうらく)を決意する。上洛(じょうらく)とは、京の都に上り、天下を統一することを内外に示すことだった。

しかしながら、天海にとっては、とにかくこの、天海大僧正の没した年齢である、108歳まで、生きて、生きて、生き延び続けなければならないのだ。


でないと、史実の通りには、ならないからである。


全く、なんてことだよ。


長生きするのも楽ではない。


ましてやこの、日常的に人が殺される、血で血を洗う争いが繰り返される、戦国の世においては、なおさら、長生きするのは大変だ。


それに、いくら今の時代よりも、衛生状態が悪いとはいっても、病気にもなれない。


これはとんでもなく長い長い道のりになりそうだ…。



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