第四話 03
消失点が第弐東京海堡と定められた時点で、浮き水自体は第弐東京海堡のどこでも降ろしても良いらしいのだが、この場所自体が狭い島表面に灯台や砲台などが設置された手狭な場所なので、降下場所は限られる。それでも第弐東京海堡には海からの物資の荷揚げなどに使われる広場があるのでそこへ降ろす。第弐東京海堡側にも水保本庁から既に連絡が行っているので、広場には何も置かれていないクリーンな状態。
龍雅は下降の動きを保ちつつも、左舷や右舷に調律櫂を頻繁に入れ替えて、浮き水の位置を修正する。
そうしてなんとか第弐東京海堡の灯台前広場へと浮き水を接地させた。多少は造成された土手にめり込んで土を掘り返してしまったが、始めてにしては上出来の結果だろう。
「いやー、ちゃんと最後までこなせたね! 私の出番が一度も無かったよ!」
ムムは試験監督として同乗している他にも、適正試験を受ける隊員が全く浮き水を動かせなくなった場合に備えて乗っている訳だが、そのムムに調律櫂を一度も握らせること無く、龍雅は試験を終えた。
「じゃあ龍雅、こっちに来て」
「はい」
ムムは立ち上がると龍雅を招き、龍雅も内甲板に下りると調律櫂を持ったままムムの前に立った。
「ちょっとそれ貸して」
「あ、はい」
龍雅がここまで浮き水を運んできた調律櫂をムムに手渡す。
「浮き水使い試験担当官プロキシムム・カトルデキムは、本日試験に臨みました村雨龍雅隊員には浮き水を操作する適正があると認め、浮き水使いとしての資格をここに与えます」
ムムはそう言いながら調律櫂を再び龍雅に渡した。
浮き水使いの適正能力が無ければそのままこの調律櫂は取り上げられてしまう。だからこれを改めて手渡された龍雅は、本当の意味でこの調律櫂を持ちし者となったのだ。新たな浮き水使いの一人として。
「おめでとぅっ!」
ムムはそう言いながらと、右腕で最敬礼を決めた。
「あ、ありがとうございます」
龍雅はその言葉を受けて腰を90度に曲げて深々と頭を下げた。
本当は龍雅も敬礼で返さなければならないのだが「まぁ厳密には軍隊じゃないから良いか」と、ムムはそれを見て苦笑しながら右腕を降ろした。
「さって浮き水が消えてなくなるまでまだまだ時間がかかるからね、一息入れるか」
舟舷から顔を出しながらムムが言う。
消失点に指定された土地へと着地した浮き水は、徐々に地面に吸い込まれ最後には消えてなくなる。
そこから地下水となって再び東京湾に流れ出ていくのであるが、それで大丈夫なのかと思われるが、空を旅することによりその歪みが抜けるとされてるので、季候の歪みの温床には再びならない。
こうして季候の歪みを抜いた水を循環させることにより、東京湾水系の水の魔物の数を減らしているのだ。しかして完全に消滅させるまでには、百年とも千年とも時間がかかるとは言われている。
「あの、浮き水から本当に緊急で脱出しないといけない時は、どうするんですか?」
姿勢を戻した龍雅が、地面への設置面から徐々に吸い込まれて小さくなっていく浮き水を見ながら訊いた。
「今は浮き水の中に飛び込んじゃえば泳いで下に着けますけど、飛んで浮いている時はどうすれば良いのかと」
今回は龍雅もムムも浮き水が動かせたから良いが、龍雅にその適正が無く、更には調律櫂や小早が破損等の理由で使用不能となってしまった場合、空の上で停止してしまった浮き水からどのように脱出するのだろうか。
「あ、パラシュートあるよベースジャンプ用のが」
ムムはそう言いながら前部甲板下の扉を開くと、中の倉庫からベルトが何本も付いた小さめの座布団状の物を出した。低高度降下用パラシュートである。
「あの、そっちの降下訓練をやる方が先なんじゃないんでしょうか?」
「あっはっはっはっは、いや~、ほら、飛行機が墜落しそうになっても別に乗客の人は事前にパラシュート開いて落ちる練習なんてしないじゃん」
「……そう言うと思いました」
そうして時間を過ごしていると浮き水が膝上の高さまで縮んで来たので、二人は小早から飛び降りて浮き水の中を歩き、ようやく地上へと降り立った。
二人が浮き水から出ると、そこにはこの第弐東京海堡の基地司令が直々に迎えに出てきていた。
「戦車小隊一番隊プロキシムム・カトルデキム並びに村雨龍雅、浮き水移送の任で第弐東京海堡へ到着しました」
ムムが最敬礼で到着連絡をする。隣の龍雅もぎこちないながらも敬礼を見せる。
「了解しました」
基地司令がそれを返礼を持って了承する。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
しかし形式的な軍隊的雰囲気はすぐに終わり、基地司令が腕を下ろすとねぎらいの挨拶を言い、ムムも腕を下ろしてそれに答える。龍雅も腕を下ろしながら頭を下げる。
「試験はどうでしたか?」
もちろん今回の浮き水運びが適正試験を兼ねているのはこの第弐東京海堡全体に知らされているので、基地司令も結果を尋ねてきた。
「バッチリです」
ムムが笑顔で答える。Vサインでも出しそうな言葉の雰囲気だが、さすがにムムもそこまではしなかった。基地司令が龍雅の方に顔を向けると、龍雅は少し照れたように再び少し頭を下げた。
「帰りはどうします?」
基地司令が帰還方法を訊いた。第弐東京海堡と第参東京海堡の間はそんなには距離が無いが、乗ってきた小早をどうするかという問題もある。
「せっかく海辺で終わりましたので自力で帰ろうと思います。ですので、申し訳ないのですが」
内陸が消失点であれば小早をトレーラー等に載せて輸送艦まで運ぶか、もしくは輸送機で運ぶかの手段を考えなければならないが、本日は海の近くで、しかも自分たちの根拠地にも近いので、ムムも小早を漕いで帰ろうと思っていた。
「ええ、分かってますとも。おーい工兵隊! 頼むぞ!」
基地司令の指示を受けて、この第弐東京海堡で作業用に使われているのであろうクローラークレーンが作業員を引き連れてやって来た。消滅中の浮き水に乗り入れそのまま掻き分けて進み、手早く小早にワイヤーを引っ掛けると、台車に載せて海岸まで運んでいく。そして吊り上げ作業がまた行われ、小早は桟橋の一つに係留された。
「では私はこれにて」
他に色々と仕事もあるのだろう、ここでの役目を終えた基地司令は一礼を残して戻っていった。
「さて、私らはちょっと休憩してから帰ろっか」
「はい」
第弐東京海堡西側の突端。そこにある砲台周囲の斜面に腰掛けて、二人は海を見ていた。海など毎日見飽きるほどに見ているのだが、普段とは違う陸地から見る海もまた違うものだと、ここから海原を眺めていた。
「この先に元々の第参東京海堡があったんですよね」
「そうだよ」
龍雅たちの暮らす(仕事場でもあるが)第参東京海堡は、実は二代目である。
海の遠くの方に東京湾の中にある島の一つである猿島が見えるが、旧第参東京海堡はその猿島とこの第弐東京海堡の間にかつては存在していた。
しかし完成して僅か二年後に起こった大地震により、旧第参東京海堡の殆どが海没してしまったのである。
それから長い間放置された状態であったのだが、近年になって交通の妨げであると指摘され、残っていた旧第参東京海堡は全て撤去され、今は何もなくなっている。
その際に引き上げられた旧兵舎などは沿岸公園などに展示されていたのだが、千刃県沖にできた新島(火山島)を造成して新第参東京海堡を作るに辺り、旧時代の面影を残すものとして移設されている。
だから本当の意味で代替わりが行われ、この場所には、もう何も残っていない。
「……」
その何もなくなった海面を見つめながら、龍雅はここまで浮き水に乗ってやってきた小さな旅を思い出していた。
調律櫂をそっと水面に静め、そしてゆっくりと返して、漣を起こす。小さな波は、小早が秘めた力に合わさって増幅さてて浮き水全体に広がり、縦横20メートルの巨体を動かす力となる。
ゆっくりゆっくり、そして確実に。小さい綺麗な世界を壊さないように。そうっと、そうっと。宙に浮いた水面は、何者にも邪魔されない蒼空の境界。そこにあるのは、静かな旋律と、静かな風の匂いと、静かな水の匂いだけ。
後は何も無い。本当に何も無い。
憎しみも、悲しみも、怒りも、絶望も。ただ清浄な気持ちだけに満たされた世界。
誰にも邪魔されず、この美しい世界を独り占めできてしまったような感覚。
「……」
浮き水使いを職業としている者は、その場所から離れたくない気持ちを、いつも感じると言う。美しく広がるこの風景の中で、永遠にオールを漕いでいたい。永遠にこの浮いた水だけの世界を櫂で調律していたい。そう思ってしまうそうだ。
そして目的地にたどり着いた時、永遠に続くと思われた幸せが突然終わってしまって、がっかりとしながら地上に降り立つと言う。
そして龍雅も、その片鱗は感じていた。
このまま永遠にこの時が続けば良いのに。蒼い風を受けながら、敬愛する先輩をたった一人お客に乗せ、この水の上を永遠に旅したい……
「龍雅は戦車乗りよりも浮き水使いの方になりたいかな?」
海の一点を見つめたままの龍雅に、今の心象を知ってか知らずかムムがそんなことを訊いた。
彼女が高校未就学早期入隊枠で入ってきた経緯を考えると、その前に白兵部隊の所属になるのではと思うのだが、まずはそれを訊いた。
彼女は貴重な浮き水使いの一人となってしまったのだ。彼女が希望すれば、いつでも専門の浮き水使い隊の配属となれる。
「でもムムさんも浮き水使いの資格を持ってるのに戦車乗りですよね?」
しかし龍雅は特に逡巡することも無く、そう答えた。
「あっはっはっはっは、そうだね」
こいつは一本取られたという表情でムムが笑う。ムム自身も浮き水使いの資格があるのに戦車隊にいるのである。それは各個人が持っている想いでその場所にいるのだから。龍雅にもムムにも、一人一人の想いがあってここにいる。
「わたしはムムさんが浮き水使いへの転職を考えた時に一緒に着いていくことにします」
「あははは、そうかそうか。でもそんなの一生ないかも知れないよ?」
「それでもいいです」
二人はそう言って顔を見合わせ微笑んだ。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか」
「はい」
その後二人は、平静な浮き水の上とは全然違う、波に揺れる東京湾をひぃひぃ言いながら帰ってきて、そんなびしょ濡れになってまで小早を持って帰る事後処理があるのに気付き「やっぱり自分たちには浮き水使いは無理かも」と思うのだが、それはまた別の物語である。