第四話 02
ムムはそう言いながら甲板に置かれた調律櫂の一本を龍雅に渡した。
「は、はい」
龍雅は立ち上がりながらそれを受け取ると、操舵位置である後部甲板に上がった。後部甲板には足下を踏ん張って体を固定するための操船台があるので、そこに足を乗せる。
「おっとと」
殆ど始めての舟の上、しかも揺れる水の上なので、さすがに龍雅もすぐにはバランスが取れない。浮き水は一辺が20メートルあり、その中心に小早は浮かんでいるので甲板から転げ落ちてもいきなり地面落下はないが、それでも落ちたらずぶ濡れは避けられない。
「櫂受けに調律櫂を引っ掛けて」
「はい!」
龍雅はその指示を訊いて、右舷側にある金属製の櫂受けに調律櫂を引っ掛けた。調律櫂と両脚の三点支持で体の挙動もようやく収まる。
そうしている間に浮き水はどんどん上昇して行った。大体地上100メートルほどの高さで浮き水は留まる性質があるので、そこまでゆっくりと浮かんでいく。
「じゃあまずは前進してみよっか」
浄水工場上部の突起なども全て越え、安全域まで浮いたと確認したムムが次の指示を出した。
「はい。では、いきます」
龍雅が調律櫂を動かし始める。浮き水に沈めたフィン部分が水をかき小早が少しだけ進む。そしてそれに呼応するように下の浮き水も水面が一周するようにぐるぐると動き始める動き。戦車の履帯のような動きといえば良いだろうか。
小早が動いてもそれに追従するように浮き水も動くので、艇体が落ちることなく進み始める。いつも使っている水陸両用戦車の背部に立って、渡された調律櫂を使って少しは練習をしていたのでまぁまぁの動きである。
「まぁ前進くらいなら誰でもできるか」
浮き水がゆっくり進み始めて、後ろに流れていくデリッククレーンを見ながらムムがそう評する。
「よし、じゃあ旋回はできる?」
デリックなどの障害物から離れたことを確認すると、ムムは次の指示を出した。
「やってみます」
龍雅は櫂受けから一旦調律櫂を外すと、大きく右舷の水をかいて艇体を左へ旋回させた。この種の小艇を一本の櫂で、しかも右舷に櫂受けが位置固定された状態で動かす場合、それなりの操舵術があるのだが、龍雅はまだそんなことはできないので、櫂受けに調律櫂を乗せたままでは前進が精一杯である。
「おお、回ってる回ってる」
小早の回頭に合わせて20立方メートルの浮き水も回転していく。
「前進と旋回だけなら水の上で漕ぐのと同じだからね、とりあえず大丈夫か」
とりあえず龍雅の基本的な操舵術の腕に安心したムムが言う。
「じゃあ今回の消失点は第弐東京海堡だから。そこまで行ってみよう」
ムムは海図を出して広げると、そう指示を出した。
「えーと、今ここだから――村雨隊員、2時方向へ右旋回」
「了解です」
龍雅は沈めていた調律櫂を一旦引き上げると、甲板を少し左へ移動して今度は左舷側に沈めて大きく水をかいた。
そして位置修正された浮き水が本日の目的地へと向かう。
「今日は近場で良かったね」
内甲板に腰掛けて流れる雲を遠くに見ながらムムがのんびりと言う。
「消失点の場所によっては東京湾を越えて山奥まで持ってくとかあるからね」
「そうなんですか?」
後部甲板の操船台で調律櫂を操る龍雅が訊いた。
「そこいらへんは、浮き水を管理してる本庁舎の風水師やらなんやらの指示なんで仕方ないけど」
「でもそれって高い建物の間を通っていくこともあるってことですよね」
この国には機械神の頭頂高よりも高い建物が無数にある。特に首都においてはそのような物が林立している。浮き水は100メートルよりは高空に行かないので(基本的には)、もし消失点がその先にあるのだとしたら、その高層建築物の密集地帯を抜けて行かなければならないことになる。
「もしこの浮き水がそれに当たったりとかしたら」
「そうねえ、折れちゃうんじゃない、ボキっと」
ムムが簡単な口調で物騒なことを言う。
何しろ20立方メートルにも及ぶ水の塊である。排水量を考えたらとんでもない質量だろう。それが衝突した際の圧力は計り知れない。
「それにしても、不思議な光景ですね」
進む浮き水の上から、改めて周りの景色を見た龍雅が言う。
そこには、まばゆい世界が広がっている。
見渡す限りの青空。その下に広がる湾内の海。そして真下に浮かぶ巨大な水の塊。その上を揺蕩う小早。
高い空の上という壮烈な場所にいるというのに、それが全く感じられない。余りにも平静としている心の中。まるで本当に空を飛んでいるような気分。
本物の空の中に投げ出されて、本物の風を感じている。その肌で感じる現実に、体が興奮に打ち震えている。
「ね。こんな光景が見れるんなら、危険な仕事であってもやりたいなって思うもの」
何度もこの浮き水の上には乗っているはずのムムも同じ気持ちなのか、遠くを見たままそんな風に言う。
しかもこれだけの光景を見るためには、特殊な技能が必要なのである。
そしてそれが試される瞬間が龍雅にも近づいて来た。
「……お、見えてきたね第弐東京海堡」
舟舷から顔を出していたムムが本日の目的地を見つけた。千刃県沖にある第参東京海堡から、間にある第一東京海堡を越えて数キロほどの位置にある。
元々がWW2以前に東京湾内に侵攻してくる敵船(敵艦)に対する第二次防衛線として整備されたのが始まりで、15年前に第参東京海堡が造成されたのと同時に、第一、第弐ともども現在の形に再整備されている。
龍雅は弓形の形をしている第弐東京海堡上空へと浮き水を進め、そこで停止させた。
「さて、こっからが本番みたいなもんだからね」
ちゃんと消失点の上空にいるかどうかを両舷から交互に顔を出して確認しながらムムが言う。小早の下は浮き水であり、その浮き水を通してでないとなので見えにくいのだが、それでも確認するに越したことは無い。
「……ですね」
これで終わりで良いのなら、ちょっとした遊覧航行みたいなものである。彼女が言うように本番はこれから。そしてその本番がこなせなければ、龍雅は浮き水使い適正は無しとなる。
「――いきます」
龍雅は櫂受けに置いた調律櫂を一旦引き上げると、改めて水面に沈める。そして先ほどとは明らかに違う漕ぎ方を始めた。
水をすくって上に押し出すような。スコップで土を掘っているような感じと言えば判りやすいだろうか。
海に浮かべた戦車の後部で練習している時、先輩であるムムから「浮き水使いの人たちが良くやっている降ろし方」と教えられた漕ぎ方を龍雅は始めた。今から考えたら多分それはムムも実践していることなのだろう。
浮き水使いになるには、今まで散々語られて分かるとおり、特殊な感覚が必要になる。
浮き水の構造を簡単に説明すると、龍雅たちが普段乗っている戦車を走らせる無限軌道のような構造をしている。自ら進む方向に水を循環させ、回転の流れに乗って移動するのです。
浮き水上に着水した小早は、調律櫂を漕いでも浮き水の上を移動はしない。小早自体は常に浮き水上の中心にいて、調律櫂を漕ぐと浮き水ごと小早が移動する。つまり小早が戦車本体、浮き水がそれを移動させる無限軌道と言った関係になる。
基本構造がわかると、それは一般的な船を漕ぐのと全く変わらないようには思える。だから誰にでも浮き水を操れるような気がしてくるが、浮き水はその名の通り浮いている。
つまり、水面であればそれは平面なので前後軸(Z方向)と左右軸(X方向)の二軸の移動だけで済むが、宙に浮いている浮き水には、それに上下軸(Y方向)が加味されてしまうののだ。
これが浮き水使いを非常に特殊な仕事にしている最大の要因。
普通、櫂でいくらがんばって水をかいても、前後左右にしか移動しない。しかし、浮き水は上下方向にも移動する。そして浮き水は宙に浮いている物体なのだから、その上下方向の移動が一番の要になる。
浮き水にはある一定の法則で水を掻くと、ちゃんと上下に移動できるポイントが存在する。そうなるように浮き水は最初から精製はされている。だからそこを見極め、ちゃんと浮き水を上下にも移動させられる者が、浮き水使いと呼ばれるようになる。
しかし、一体浮き水のどこに上下移動のポイントがあるのか。それは実は浮き水を作った疾風弾重工にも分かっていない。とにかく実際に漕いでみて、個人個人で見つけるしか今のところ方法が無い。
浮き水使いになるにはまずこの適性が求められる。その適性は、生まれながらにして空間把握を敏感に行える力がある――などと言われているが、長年の研究でも明確な答えはまだ出ていない。
結局は、たまたま浮き水使いになりたかった者が、たまたまそんな特殊な感覚を持っていたという、そんな殆どが運に左右されるような決まり方で、この職業に就けることになる。
浮き水使いという仕事は今後の展開も考慮して今以上の人数が必要とされているが、実際に働いている浮き水使いの数自体はそれほど多くない理由がこれである。疾風弾重工が自分の属する財団組織の傘下である水上保安庁の全隊員に、まずは浮き水使いの適正試験を受けさせるのはそのような理由からだ。とりあえず一人でも多くの浮き水使いの特性を持った人間を発掘できるようにと。
浮き水使いになりたい者は多いかも知れないが、実際に浮き水使いになれる者は多くない。
そういう意味では浮き水使いとしての適性を見出された者は、必ず浮き水使いになることが、この世界での義務なのかも知れない。
「……」
龍雅は先ほどからムムから教わった方法で何度も何度も水をかいている。浮き水は一向に下がった気配は無い。
ムムも、うちの新隊員には適性は無かったかと、半ば諦め始める。
この浮き水を上下移動させられるかという能力に関しては、殆どが運の領域。
何十回と浮き水に乗って練習すれば、もしかしたら誰でも動かせるようになるのかも知れないが、まずそんなにも浮き水に乗れる機会が無い。適正試験はこのように生成直後の物を使って行われるのだから、本当に重要な上下移動に関しては練習の方法が無いのだから。
「……」
しかしそれでも龍雅は諦めずに水をかいている。多分先輩であり浮き水使いの先達でもあるムムが中止を言わない限り止めないのだろう。
「……」
そんな後輩のがんばりをムムは何時までも見ていたいとは思っているのだが、この浮き水もあまり長時間放っておくと台風や竜巻を呼び寄せる温床となるのは決まっている。消失点の上空に辿り着いたのなら、早急に降下させて消滅処理を行うのが浮き水使いのそもそもの役目である。
「……」
ムムは断腸の思いで、浮き水使い先任として龍雅に適正無しの判定を下そうとする。対する龍雅も自分には電磁誘導や重力制御の力はあっても、さすがに浮き水使いとしての能力までは無かったかと諦めようとした――その時
「……ぉ」
遠くに見える神無川県の沿岸が、少し上にずれたようにムムには見えた。上にずれたということは、自分の目線が少し下がったということである。
「……下がった?」
ムムが龍雅に訊く。
「そう……かも、しれません」
とにかく無心に調律櫂で水をかく龍雅には実感が無いが、周りの風景を確認すると、自分たちの位置が若干下がっているような気はする。
「とにかくがんばって漕ぎ続けて」
「はい!」
諦めかけていたその時、事態が少しずつ動く。そして小早を乗せた浮き水も少しずつ下に向かって動いている。
「うん、動いてる動いてる」
ほんの少しずつではあるが、確かに位置が下がっている。龍雅が戦車を動かす時と同じような這うような低速だが、そもそも普通に調律櫂を振るうだけでは浮き水は下降しない。
「でもさ、リュウガが使える電磁誘導とか重力制御とかを肩とか頭の上とかから出して、小早ごと浮き水を下に向かって押してるってことはないよね」
「そんなことはありま……せんとは言い切れませんね」
ムムにそう指摘されて、龍雅が肩を少し回したり首を少し捻って動かしたりする。別に電撃やら重力球やらを体から放っているつもりは無いのだが、自然と力が漏れ出ているのかも知れない。
まぁそれはそれで確かに凄い能力なので、その力で動かしていてもムムは良いかとも思ったが、しかし勝手に出てしまうのはかなり軽度なもの(空き缶に加速を与えたりティーカップを動かす程度)である筈なので、浮き水のような大質量物を押し込めるほどの力は出ていないだろうとはムムも思う。
この浮き水を動かした力は、龍雅の中にある浮き水を動かすポイントを見極められた力100パーセントで動かしているのだろうと、ムムは判断した。
「よし、かなり下がってきたね」
かなりの時間をかけて、龍雅の操る浮き水は第弐東京海堡中央の灯台より少し上まで下がってきた。灯台上の見張り員が見上げているのが見える。
「浮き水は、どこに降ろせばいいんでしょうか」
「この灯台の右手前に広場っぽいところがあるでしょ。そこに降ろして」
「了解です」