第四話 浮き水使い
「というわけで、来週の訓練日はこれをやるからね」
本日一日の哨戒任務を終えて一番隊詰所に帰ってきた夕方。
先に戻って事務所でお茶の用意をしていた龍雅に、後から入ってきたムムがそう言いながら、持ってきた先端にフィンが付いた長い棒をそのまま龍雅に手渡した。
「パドルですか?」
渡された櫂を見て、龍雅が不思議そうに言う。
「ああ、来週の訓練日はボート訓練ですか」
自分は水上保安庁戦車隊に入隊したのだが、水保もその名の通り水際を活動領域とする組織ではある。だから同じ水系組織である海上自衛隊や海上保安庁と同様に、手漕ぎカッターを使ってのボート訓練をするのかと龍雅は思ったのだが。
「それは普通の櫂じゃないよ、調律櫂だよ」
「おーるあこるだとら?」
「まぁ普通は長ったらしいから調律櫂って略して言うけどね」
ムムより手渡されたそれは、艦艇や巡視船に積まれているカッターの装備する簡素な物とは違って、なにやら複雑な意匠が施されていて、魔的な雰囲気が醸し出されていた。
「それでこの禍々しい見た目の調律櫂というのは、何を漕ぐためのものなんですか?」
明らかに普通の舟を漕ぐためではないのは龍雅にも予想できるので念のために訊いた。これも登戸研製であろうか?
「あれよ」
ムムが龍雅に顔を向けたまま、背後の窓を親指で指差す。
窓の外に水が浮いていた。
一辺の長さが20メートルくらいありそうな巨大な立方体の水の塊が浮いている。
「あれって……浮き水ですよね?」
龍雅も山奥出身とはいえ、東京湾圏で生活する者の一人であるので、その存在は知っている。今となっては水の魔物や鉄車怪人と同じくらいの知名度はあるので、この水系の生活圏で暮らす者は誰でも知っているだろう。
主に東京湾上空に現れる浮遊する巨大な水の塊。
それは今から13~14年位前から見られるようになった。ちょうど第参東京海堡の整備工事が終了し水上保安庁が本格的に活動開始となった頃である。
東京湾の水が急激に綺麗になり、そして水の魔物の出現数が大幅に減った最大の理由は、この浮き水の存在がある。
疾風弾重工が東京湾水系各所に建造した浄水工場では、濁った海水の強力なろ過と共に、水の魔物を生み出す要員となる「何か」が抽出され、綺麗な水となって放出されている。
その残った何か。それは見た目は普通の水と変わらないのだが、季候の歪みと呼称されている。それがある一定量溜まると、浄水工場より排出される。それが浮き水である。
なぜ浮いているのかと言う問題については、季候の歪みの抽出の際に特殊な浮遊素子(飛行素子)が必要とされ、その影響を受けて浮いてしまうらしい。
これは星の重力から一旦切り離すことによって、東京湾の海水に取り付いた季候の歪みを中和する為でもあるとも言われているが、この辺りは疾風弾重工の極秘技術が使われているので殆どは非公開である。
しかし非公開技術とはいっても隠し切れない部分はある。
その浮き水の上を良く見れば、舟が一艇浮かんでいて、後部甲板では人がなにやら櫂を使って艇を進ませていた。そのままでは浮き水から艇が滑り落ちてしまうと思われるが、艇が進むのに追従するように浮き水も進んでいる。
「……あの、もしかしてこの調律櫂を持って、あの浮き水を動かせとか、言わないですよ、ね……?」
なんだか嫌な予感がしてきた龍雅が恐る恐る訊く。
「あれ? 言ってなかったっけ?」
ムムも改めて後ろに振り向いて、窓から自分も移動中の浮き水を見ながら言う。
「水保の隊員ってば一応全員が浮き水使いとしての適正があるかどうか試験を受けるのよ」
抽出された季候の歪みが溜まって生成される浮き水。これは結局は最後にはどうなるのか?
そのまま放っておくと、台風や竜巻を呼び寄せる温床となる。季候の歪みが詰ったものなのだからそれは当たり前なのだろう。そして、浄水工場が完成して間がない頃、まだ処理技術も未成熟であった時代に一度この浮き水が発生源となって、東京湾を記録的な台風が襲ったことがある。
ではどうするかと言うと、浄水工場施設と平行して開発された小早と呼ばれる特殊艇を浮き水の上に乗せ、同時開発の調律櫂を操ってそれを動かし、予め定められた消失点と呼ばれるポイントまで移送し、そこで消滅させるのである。
その仕事を任されるのが浮き水使いと呼ばれる者たちなのだが、浮き水使いの適正試験は一応誰でも受けられるようにはなっているが、そもそも「適正」というものがあるので誰でもなれるというものでもない。その特殊性故に、常に万年人手不足である。そのような理由なので、水保の隊員には全員が浮き水使い適正試験を受けるのが義務付けられている。その辺りは出資元の意向であるので仕方ない。
「あれ、リュウガってば高所恐怖症だったっけ?」
「そういうわけでもないのですが」
高所恐怖症であっても水保隊員であれば必ず受けなければならないのだが、龍雅に関してはそれは大丈夫な様子。
「というか水保の早期入隊枠ってさ、元々がその浮き水使いになれる特性を持った若い子のために用意されてたもんだったんだけど、リュウガの場合はホントに腕力だけで入ってきたんだね」
ムムが言うように、浮き水使いも水保の隊員の一種になる。適正試験自体は義務教育期間中でも受けられるので、その歳で試験をクリアできた者を、優先的に入れるのが本来の高校未就学隊員特別枠だったのだが、龍雅は違う方面から入ってきたということになる。
「……めんぼくないです」
ムムの言う腕力というのは、もちろん龍雅の電磁誘導やら重力制御などの持って生まれた特殊技能のことを言っているのだろうが、本当に鉄板をぶち抜けそうな腕力推薦だけで入って来てしまった気がしてきて、龍雅の方も申し訳なくなってくる。戦車操縦の腕も「何故か」低いものであったのだし。
「まぁ、来週はとにかく適正試験だから」
「はぁ」
翌週となり、訓練日のシフトを迎えた戦車小隊一番隊は総出で(といっても二名だけだが)第参東京海堡に設置されている浄水工場に来ていた。
「……あらためて見ると大きいですね」
普段はあまり見上げるということをしない背の大きな龍雅が、首を傾けるほどに上を見上げている。入隊初日の第参東京海堡一周ツアーの時も目にしてはいるのだが、やはり陸側から改めて見ると本当に大きい。
「工場っていうよりも移動要塞って言った方が良いような気がするんだよね、これ見てると」
いつも部下(龍雅)を見上げて首を痛くしているムムが、更に痛くするような勢いで見上げる。
この浄水工場は工場といっても箱型の建物に煙突といった一般的に想像されるようなものではなく、様々な機械を組み合わせて作った中心部を六本の脚部が支えるような形状をしており、ムムが語った移動要塞という印象はまんざら外れてもいない。
この浄水工場は、ドラグライン型掘削用重機の中に浄水施設を設けた移動式工場とは言われている。
海水をろ過して、尚且つ季候の歪みを抽出して浮き水を精製するという特殊仕様のため、ある一定の場所の固定施設では効果を発揮しないという懸念もあったので(季候と水が相手であるので風水学も関係してくるらしい)、超巨大歩行型重機車両であるドラグライン(ウォーキングドラグライン)を参考にしてこれは作られたとされている。
しかしこれが動いている所は誰も見たことが無いので、結局はその六本の脚もただの固定脚で、移動する場合は一旦分解して動かすのではないかとも言われている。
本体には何本もの野太いパイプが接続されていて、その先端は全て海の中に続いている。ここから海水を取り込み、同時に放出している。
中心部の陸側の方には、中空に浮くように固定された枠組みだけの立方体があり、そのフレームの中は水で満たされていた。もちろんそれは宙に作られた水槽なのではなく、硝子などは存在しない。つまりあれが生成中の浮き水だ。
「うちの隊にもあるシュラヘイを全部合体させたらこれになっちゃいそうな気もするんですが」
工場本体を支える脚を見ながら龍雅が言う。戦車小隊十二隊全部に配備されているシュラヘイを組み合わせたらこの工場と同じ物が出来るような気がしてきた。
「私もそんな風に考えたことがあるんだけど、でもそれだと中心の部分がないのよねぇ」
「あー、そういえば」
確かに固定脚の辺りは六番隊や十二番隊あたりが装備するシュラヘイと同じような形状も見受けられるのだが、浮き水の精製装置があるであろう中心部を構成する物と同じ物が、確かに各隊のシュラヘイには無い。
「でも実は疾風弾重工の地下秘密工場には胴体になるものがあって、いつの日かそれが出て来てシュラヘイ全機と『無敵合体!』とか」
「こういう工場を平気で作っちゃう疾風弾財団だったら、そんなものも作っちゃうんじゃないんですかね、本当に」
「……」
「……」
「……怖い考えになってきちゃったから、もう考えるの止めよう」
「……了解です」
二人はもうこれ以上は深く考えないことにして浄水工場の中に入った。
といっても内部というものが殆ど無く(あるにはあるのだろうが浮き水のある目的地に行くには中に入る必要が無い)非常階段やキャットウォーク(しかも明らかに後付けのような作り)を登って抜けて、最上階のような場所に出た。
そこは屋上と言うよりは、ヘリ搭載護衛艦の小型飛行甲板のような雰囲気である。その先端から更に先に浮き水の入ったフレームがある。小型甲板の端にはデリッククレーンが設けられていた。向こうには台車に載せられた小早が用意されている。
「ではさっそく行きましょか。準備おねがーい!」
ムムがそう指示を出すと同時に、奥から台車に載せられて小早がやって来た。それと同時にデリックが動き始めフックを降ろす。それと同時に甲板の先でガコン! と言う固定された金属が離れる音がすると同時に、立方体のフレームが展開した。拘束を解かれた浮き水が少しだけ浮く。
「さて、早くしないとどっか行っちゃうからね」
ムムはそう言うと「ほら乗って乗って」と龍雅を急かした。龍雅が小早に乗り込むのと同時に、作業員の手によってフックから降ろされたワイヤーに小早が固定される。船体中央には調律櫂が二本用意されていた。
「あの……もし動かなかった場合のことを考えて、ちゃんと浮き水使いの資格を持ってる人が一緒に乗るんですよね?」
浮き水に乗るのも初めてなら、櫂を使って舟を漕ぐのも始めてな龍雅がさすがに心配して尋ねる。龍雅が浮き水を操れるとはまだ分からないので、その適性が無ければ何も出来ない人間が浮き水の上に取り残される結果となる。周りを見回しても小早を浮き水に載せる作業員の他には、それらしい人物が見当たらない。
「うん、そうだよ」
ムムはそう言いながら飛び乗るような勢いで台車の上に上がり、そのまま小早の中に乗り込んできた。
「私」
そう、適正試験を受ける龍雅と共に乗るのは、プロキシムム・カトルデキム隊長その人なのであった。彼女は戦車小隊の隊長を務めるばかりではなく、浮き水使いの資格も持っていると言う、意外にも才女なのであった。
「え? ムムさんって浮き水動かせるんですか?」
「そうよ、言ってなかったっけ?」
「初耳ですよ」
といいつつも「黙っておいたほうが面白そう」とムムは考えていたのだろうと、最近先輩隊員の人となりが分かってきた龍雅は特に驚いた顔は見せなかった。普通に黙っていればムム先輩はデキる女なのだが「意外」などと言われてしまうのはこういう部分である。
龍雅とムムが中央甲板にしゃがんで縁を掴んで体を固定させると、二人を乗せた小早がデリックによって吊り上げられ、浮き水の上に載せられた。
「巻いてー」
龍雅とムムが今度は自分たちでワイヤーを外すと、ムムの指示で巻き上げられる。二人を乗せた小早が浮き水の上で自由になる。
この浮き水には様々な制約があり、その一つに「小早を載せるには空輸してはならない」というものがある。
飛行物によって接近したり飛行機械によって水面に小早を載せると、浮き水はすぐさま暴走してしまうという厄介な特性を持っている。
空を飛ぶ物によって浮き水を制御できる小早を運ぶと暴走してしまう理由。
それは浮き水と言うものを作った人間という生き物が、元々空を飛べない生き物だから――との説が一番有力とされている。
しっかりと大地から足を踏ん張って、限界まで背伸びをして空に浮かぶ水の上に、それを操れる舟を載せる。
元々人とは陸に生きる生き物。だからこそ、その人間が浮き水を処理したいと願うならば、陸に生きる生き物の延長として浮き水を動かさなければならない。
もし人間に羽が生えていたらこんな手間は要らなかったのだが、人間に羽が生えていたら最初から浮き水を作れなかったかも知れない。羽があるのなら水の魔物の脅威からは飛んで逃げれば良いのであるから。
そして小早は小船とは言っても結構な大きさの物である。それだけの重量物を乗せるとなると大型硬式飛行船やツインローターの重輸送ヘリが必要になるが、そんな巨大な物が空から近づいたら空気の流れ・季候の流れを乱してしまう。ヘリに至ってはローターで常に周りの空気をかき乱しているのだから激切である。
まだ浮き水の処理が未成熟であった時代に、空輸での小早の搭載方法を試していた末に暴走させてしまったことがある。初期の頃に浮き水が記録的台風となってしまったのは以上の理由からによる。
というわけで生成の終了した浮き水は、まずは備え付けのデリッククレーンによって小早を乗せるところから始まる。それと同時に適正試験も行われるわけだ。試験を受ける者はいきなり実戦に投げ込まれるに等しいのだが、他に適正を調べる方法も無いので仕方ない。
「では村雨隊員、いってみよっか!」