君の笑うこの国で
さてさて。
怪我は捻挫に過ぎなかったもののそれが元で熱を出した私は、しばらく寝台の上で過ごさざるを得ませんでした。何せ厳しい監視役(もちろんリリーです!)が、目尻をこの上なく吊り上げて張り付いておりましたし。
アンディス様の急な訪いがありましたのは、私が暇を持て余していた昼のことでした。
「ヘルミ、起きていたのか?」
「あら? アンディス様?」
リリーが大慌てで私の肩にガウンを着せ掛けます。アンディス様のために椅子を引き、彼女は忙しなく室外へと向かいました。お茶の支度をするためでしょう。
「事前に連絡ぐらい寄越しなさいよ!」
「悪い」
部屋の外で控えるハーヴィスとのやりとりを、アンディス様が聞き咎められます。
「ハーヴィスに当たるな。余が急に思い立って決めたことだ」
一礼して去るリリーを見送り、私は苦笑いたしました。
「申し訳ございません」
「かまわん。具合はどうだ?」
「まったくもって問題ございません」
リリーがちょっぴり過保護すぎるのです。
アンディス様はほっとされたご様子で笑われました。
「そうか。ならよい。……ところでヘルミ、今日は少し話したいことがあってきたのだ」
アンディス様がこのように私にあらたまってお話しされることは初めてです。私は居住まいを正しました。
「はい。どのようなご用件でしょうか?」
「うむ。……妾妃たちの沙汰についてだ」
アンディス様は私の足元を一瞥されました。敷布からはみ出した足は包帯できっちりと固定されています。
「お前は妾妃たちを罰するなと言ったが、そうはいかないからな。お前が何と言おうと、〈守りの宮〉の奥へ続く扉を開けるよう、お前を唆したのは妾妃たちだからだ。そこまではよいか?」
「陛下がお決めになられたことに、異論などございません」
私は微笑んで申し上げました。アンディス様が満足そうなお顔をなさいます。
「お前もまた軽率であったし、余も妾妃たちを軽んじすぎた。よってそれぞれに厳重注意としようと思う」
つまり特別な処罰はないということです。私は胸を撫で下ろしました。
「アンディス様……感謝いたします」
「余とて後宮を和やかなものにしたいのだ。それでヘルミ……少し協力してもらいたい」
力を貸してくれるか、と、アンディス様は緊張したお顔でおっしゃいました。
*
アンディス様は私の足が癒えるまでお待ちになって、私を含む妃の皆を中庭に呼び集められました。かの方の号令で行われる初めての昼食会として。
大きな大きな円卓を芝生の上に一台設えて、その天板の上に白い布を皺なく広げ、中心には綺麗に飾り付けられた薄紅色の花。盛りつけられた心づくしの料理。黄金色の発泡酒が上品に泡を立てています。
最奥の席にお着きになったアンディス様はおもむろに立ち上がられ、集まった妃たちに会の始まりを知らしめられました。
「き、今日、集まってもらったのは、妃たちに、か、かん、感謝を、伝えたいからだ」
アンディス様が少しばかり裏返ったお声を張り上げられます。
「もっと早くに、こ、のような場所を、設ければよかったと、反省している。これからは皆とも十分に時間を共に過ごせればと思っている」
――アンディス様は私におっしゃいました。
妾妃たちと均等に仲良くすることはできない、と。
それぞれの出身国とラスパルの関係に左右され、後宮の妃たちはある程度の優劣をつけられます。アンディス様はそれをないがしろになさるわけにはいかないのです。
では皆と仲良くするためにはどうすればよいのか。
アンディス様は私を使うとおっしゃいました。
「皆と仲良くしていきたいと思うのだが、余の身体は残念ながらひとつだけだ。一人ひとりと会って話すには時間が足りない。そこで余は考えた。余はどの妃と次の余暇を過ごすか、ヘルミと相談して決めることにする」
アンディス様からの目配せを受けて、私は立ち上がりました。
「何か問題があればヘルミに相談せよ。ヘルミを余の名代と思って丁重に扱え」
妃の方々が息を呑みます。張りつめたかに思えた空気は、しかしながら一瞬だけのことでした。
アンディス様はおっしゃいました。
「ヘルミは余たち(・・)の(・)姉と心得よ」
私はぱちくりと瞬いて声を上げました。
「あらまぁそうなのですか?」
アンディス様が驚かれたご様子で御身をお引きになります。あら、申し訳ございません。何があっても黙って微笑み続けているようにと言いつかっておりましたのに。
「そ、そうだ」
こほん、と咳払いなさるアンディス様を、私は見下ろしました。何故だかお腹の奥に鉛を詰めたような不思議な気分がいたします。しかしこのヘルミ。期待された役割はしっかり果たすつもりです。私はきりりと表情を引き締めて意気込みました。
「まぁ、では私、アンディス様の立派な姉上になれるように頑張りますね!」
任せてください。実の弟もアンディス様と同じ年。姉上業には自信がありますの。
アンディス様の隣でハーヴィスが苦笑し、端で控えるリリーも顔色を変えます。あら? 二人とも、その反応は一体何なのかしら……。
他の妃の方々のそこここからも、忍び笑いが漏れ始め、私は首を傾げました。
「そういうことでしたら陛下、私どもも、ヘルミ正妃を姉と慕わせていただければと思います」
ここでは頼れる者が少なく、心細く思っていたのです。
第二王妃の方が大人びた口調で言いました。ですね、ですわね、と、他の皆様も口々に同意されます。
「そういうことだ」
アンディス様が改めて場を纏められます。
「余は、ラスパルを皆の笑う国にしていきたい。そのためには妃たちの助けが、余には必要なのだ」
そうしてかの方はグラスを手に取り、掲げられました。
「乾杯するぞ。余たちのこれからを祝福して」
そうして昼食会は和やかなうちに終了いたしました。
和やかでなかったのは、その後です。
「ヘルミ、お願いだから勘違いするな。するなよ。お前は決して余の姉ではないのだからな?」
「私は確かにアンディス様の姉上として生まれておりませんが……」
「そういう意味じゃない! 余は、ヘルミに、姉としての役割を求めてなどおらんということだ!」
〈北の宮〉でくつろいでいた私の下にお越しになったアンディス様は私の手を握られてぐったりと脱力されました。
「陛下が正妃を姉として見ていると認識すれば、妾妃の方たちは正妃を競争相手として見做しませんから」
ハーヴィスがアンディス様に代わって説明します。
「先日の〈守りの宮〉での件のような、悪戯はなくなります」
「ハーヴィス。私は」
「ヘルミ正妃」
ハーヴィスは珍しく笑みを消し、私の言葉を制止しました。
「気づかないふりはなさらなくともよろしいのです」
私はただ黙って、微笑みました。
ハーヴィスも微笑み返します。
「正妃が妃同士の競争に巻き込まれなければ、リリーも後宮の侍女たちと友人になれますよ」
「私を勝手に引き合いに出さないで頂戴、ハーヴィス」
リリーの鋭いひと睨みに、ハーヴィスが肩をすくめます。
「余の正妃は、ヘルミ、ただ一人だ」
そうおっしゃるアンディス様のお顔は真っ赤です。
「言ったであろう。余は、ヘルミを、幸せにしたいのだ」
そのお言葉に私は胸のうちが温かいもので満たされていく様を感じました。
私はリュトレイア王家の長女として生まれました。けれど容姿はごく平凡です。今更そのことを卑下することはありません。私にはたくさんの長所があるからです。父も母も幼馴染みも友人たちも、そしてリリーも、誰もが皆、私のことを愛してくれています。それを知っています。
それでもいつかあの温かな揺りかごから巣立ち、誰かに嫁いで生きなければならないとも、私は知っておりました。
夫となる方は美しくもなんともない私を、好いてくださるかどうかわかりません。
権力と地位を持てば持つほど、花嫁の美醜に煩いといいます。ですから父は私を幸せにできるなら、市井の方相手でも構わないと思っていたようでした。リュトレイア王家はその点、非常に寛容なのです。けれど私はこの身を国に役立てることのできる嫁ぎ先があればと思っておりました。
アンディス様との婚礼は、非常に好条件だったのです。
婚儀をあげるだけで、国同士の結びつきは強まります。私以外にも妃がいらっしゃるということで、後継ぎが得られないということもないでしょう。それにかねがね住んでみたいと望んでいた土地に暮らしたほうが慰められます。
たとえ、愛されなくとも。
私は幸せになれるでしょう。
そう思ってラスパルへの輿入れを承諾いたしました。
それがどうでしょう。
蓋を開けてみれば、私はこんなにも、アンディス様に望まれております。
「アンディス様」
私の呼びかけに、アンディス様が面を上げられます。
「私はこの国にきてから、ずっとずっと、幸せですのよ」
私は目元を緩めて、アンディス様の手を握りました。
「以前から暮らしてみたいと思った場所に住み、そこではこんなにも大事に想っていただけて」
私は世界一の幸せ者ですわ。
ねぇ、アンディス様。
*
昼食会の翌日は国民に顔を見せる予定となっておりました。
「陛下もどういう発言をされるのか、事前に教えてくださったらよかったんですよ」
身支度を終えて急ぎ足で露台へ向かう私に、リリーが付き添いながら口先を尖らせました。彼女は昨日の件についてまだ少し怒っているようです。
「いいじゃないのリリー。びっくりはしましたけれどね」
「確かにヘルミ様が素の反応をされたから、妾妃の方々は余計に信じたみたいですけど」
リリーは露台の控えの間に到着した後も、私の衣装の裾を整えながら、ぶつぶつ独りごちておりました。
「さぁお役目に集中しましょう、リリー。もうすぐ陛下もいらっしゃいますよ」
「国王陛下のご到着でございます」
噂をすれば、です。
アンディス様の訪いを衛兵が告げました。
山を映した澄んだ湖水を思わせる、翠玉を金の土台に飾りいれた王冠。黄金色に磨かれた樫の王笏。金糸銀糸の刺繍で端々を埋めた豪奢なマント。それらを身に付けられておいでになったアンディス様を拝見し、私はふと懐かしさに駆られました。ラスパルに到着したばかりの私を、檀上の玉座から見下ろされていた、出逢ったばかりの頃のかの方の姿が、脳裏によみがえったからです。
あの時アンディス様は今日と同じ衣装をまとっていらっしゃいました。けれどもお仕着せをいやいや着せられていたかのような違和感は薄れ、あどけないばかりだったお顔は凛々しさを増していらっしゃいます。
「何がおかしい、ヘルミ?」
つい笑ってしまっていた私を、アンディス様が咎められました。私は前と同じように首を横に振って、なんでもございません、と笑みを取り繕いました。
警備を担う兵たちに指示を出し終え、ハーヴィスがリリーの下へ駆けてくる。
「何か御用でしょうか?」
「今度休みいつ?」
仕事の話をするかのように至極真面目な顔をして、いけしゃあしゃあと人の休暇日程を問う男に、リリーは呆れを通りこして関わりたくない意思を視線にのせた。
「今、そんな話している暇あるの? 筆頭騎士サマ」
「俺が訪ねていってもそっちが逃げ回るから、隙を見て話さなきゃいけなくなっているんだろ。おかげで俺は部下たちのいい笑いものだよ」
「じゃぁやめればいいじゃない」
「俺は仲直りしたいんだよ、リリー」
ぬかりなく目は周囲に配られている。しかしその声音は切実なほど真っ直ぐに、リリーへと向けられていた。
リリーを一瞥したハーヴィスは、不敵ににやりと口角を曲げる。
「俺と繋がりを持っておくのは悪くないよ。ヘルミ王妃を守るためにもね。君だっていつまでも孤軍奮闘するわけにもいかないだろ? 味方は大勢作っておくのが吉だ。俺はその助けができるよ」
俺の人脈は広いよ、とハーヴィスは言った。リリーはそっと溜息を吐く。
「仲直りっていう割には、自分を売り込むみたいよね」
「申し訳ありません。先日は俺が全部悪かったです。街で甘いものでも奢らせていただきたいのですが、ご都合よろしい日を教えてはいただけませんか?」
リリーはハーヴィスを見上げた。彼はそろそろアンディスの傍に控えなければならぬはずだ。返答を寄越さぬリリーに焦れているだろう。しかし彼はどこか悠然としていて、リリーを急かす真似はしなかった。
リリーは露台に続く扉の手前で談笑する、ヘルミとアンディスの二人に向き直った。
「四日後が休み」
「また連絡する」
ハーヴィスは籠手に包まれた手を、リリーの頭に一瞬だけ載せて、主人たちの下へ歩き始める。
彼の気安い仕草を周囲に見咎められやしなかったかと、リリーは反射的に頭を押さえながらひやひやした。
屋外で配置についた楽団が、若き国王夫妻登場の合図にと、金管を派手に吹き鳴らす。
扉が開け放たれ、部屋の光量が増す。主人たちの背中とその傍に侍る騎士の姿を、リリーは眩しさに目を細めながら見送った。
別に甘味につられたから休暇の日程を教えたのではない。恥ずかしいほど真っ直ぐ向けられた声に、ほだされたからというわけでもない。いつまでも拒む自分を大人げないとも思ったし、あの男の言う通りこれからヘルミを守る上で、その人脈を利用しない手はないと判じたからだ。
それになによりも。
(いつまでも一人でお休みを過ごすって、なんだかつまらないじゃない?)
リリーもきちんとこの土地に、根を下ろさねばならぬのだから。
露台の下の広場には大勢の国民が、アンディス様のお顔を一目見ようと、押し合いへし合いしております。最初は笑って手を振っておりましたのに、彼らは徐々に顔を強張らせていきました。その目線は一様にアンディス様へと向けられています。
怪訝に思って一瞥したアンディス様は、お口を山の形にむっつり曲げられて、人々を見下ろしておいでです。私はかの方の背後にすすすと回り、お口が笑みの形になるように、そのまあるい頬をえいやと力いっぱい引っ張りました。
ついでに押しつぶしても、みました。唇が鳥の嘴のように突き出されます。
しん、と沈黙が場を満たす中ただ一人、ハーヴィスが口元を抑えて吹き出しました。
ひよこ口になられたままで、アンディス様が叫ばれました。
「わらふは!」
「い、いや、すみませ……!」
ハーヴィスはきりりと背筋を正したのですが、既にその笑いは波及していたようですね。控えていた他の騎士たち、様子を覗いた侍女たち――リリーは天を仰いでおりました――そして次第に、露台の下の人々の間に。
大音声の爆笑に包まれる空間で、アンディス様が私の手を振り払いました。
「ヘルミ! いきなりなんだ!?」
「申し訳ございません」
無礼なことは承知です。私は平に謝りました。
「ですがあまりにも怖いお顔をしていらっしゃいましたので」
臣民がせっかくお顔を一目見ようと、わくわくした気持ちで集まっているのです。あのような怖いお顔をなさっては、皆の心が離れてしまいます。それはよくありません。
「私はアンディス様に、皆に好かれ慕われる、王でいていただきたいのです」
「だがな、ヘルミ」
「私を幸せにしてくださるとおっしゃったではありませんか」
目を見開かれたアンディス様は、言葉に詰まられたご様子です。そのお顔をみるみるうちに赤く染められて、餌を求める魚のように、ぱくぱくお口を動かされました。
「アンディス様。お笑い下さい。アンディス様が笑ってくださいますと、私はとても幸せになれますの」
そう申し上げましたのに、どうして渋面になられますの? アンディス様。
ハーヴィスが口元を抑えたまま、こらえきれない、と喉をくつくつ鳴らしました。
「陛下、前も申し上げましたでしょう? この方は、たいした王妃様だって」
ねぇ、ハーヴィス。どうして私を見て、そのように笑うのかしら。
疑問符を浮かべる私を眺めた後、アンディス様は目を広場に向けられました。民の皆は一様に、はっとなって、笑った顔のまま静止します。アンディス様は彼らの姿を、絵画を鑑賞なさるように、しげしげ眺められ――……。
くしゃりと、笑いにお顔を歪められました。
あぁ、とても、かわいらしいお顔です。
「どれもこれも、おかしな顔だ」
アンディス様はおっしゃいました。
「だが、お前が一番おかしな奴だな、ヘルミ」
私は微笑んで頷きます。
「はい、よくそう言われますわ、アンディス様」
そうして広場は再び笑いと歓声に包まれ、アンディス様の御名を呼ぶ声が、いつまでも木霊いたしました。
……つい長々と語ってしまいました。退屈はなさいませんでしたか?
アンディス様はその後に、小国をよく導いた王として、歴史に名を刻まれました。ハーヴィスは側近として、友人として、あるいは兄のように接して、かの方をよく支えました。
リリー? 元気ですよ。最初こそ人付き合いに苦労していましたけれど、ハーヴィスの紹介あって、たくさんの友人に恵まれて過ごしました。大勢の求婚者が押し掛けて、決闘の試合をしたほどです。誰と誰が戦ったのかは、内緒にしておきましょう。
他の妃の方々なら、私のよきお友達です。後に何人か降嫁することになったのですが、私との別れを、泣いて惜しんでくれたほどなのですよ。今も残った皆で、アンディス様を支えております。
どの思い出を切り取っても、楽しい笑いに満ちています。
あら。まだ私たちの話を、聞きたいとおっしゃってくださいますの?
そうですね、ではまたいつか。
機会があれば、お話しいたしましょう。