表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

国王アンディスの焦燥

 いよいよ夏を迎えました。ラスパルはリュトレイアと異なり、夏がとても短いそうです。

 大人たちは家畜を連れて丘へ行き、子どもたちは水ぬるまった川を大いに楽しみ――誰もがこの短い季節を惜しんで、積極的に光の下を歩いています。

 妃同士の交流を目的とした今日の茶会も、この時期にのみ見られる、花々の鑑賞会を兼ねていました。

 祖国では見ない類の低木が、美しく配置された後宮内の庭園。青々と茂る葉は陽に透けて、緑柱石の如く煌めいています。花々も満開の装いで、色彩に溢れておりました。

 ここのところ公務や勉強で忙しく、山もずいぶんとご無沙汰です。皆の話に耳を傾けながら、私は城外に想いを馳せておりました。今頃どこもかしこもこの庭のように、艶やかになっているに違いありません!

「……か? ヘルミ正妃」

「……はい?」

 対面に腰掛ける方からの問いに、私はぱちくりと瞬きました。

「申し訳ありません。もう一度おっしゃっていただけますか?」

 ついつい妄想に耽って、耳がお留守だったようです。

 その方はにこやかに微笑みました。

「今度、私たちと一緒に、お出掛けされませんか?」

 神殿近くの、湖のほとりへ。




 アンディス様とひと月ほど前に交わした、共に出かけましょうという約束は、未だに果たされないままでした。アンディス様がお見えにならないのではありません。政務でご多忙にもかかわらず、〈北の宮〉へはよくお顔をお出しになってくださいます。私も正妃の務めに積極的に励んでおりました。互いに時間が噛みあわず、遠出するに至らなかっただけなのです。

 妃の方々ともずいぶん親しく言葉を交わすようになりました。今回のお出かけはさらに仲良くなるための良い機会です。ただアンディス様とのお約束が先ですから、かの方に確認を取らねばなりません。




「よいのではないか?」

「あら、さようでございますか?」

「うむ」

 アンディス様はお口元をきりりと引き結ばれて頷かれました。

「ヘルミも見に行きたかったのだろう?」

「はい」

「ならよいではないか」

 肩透かし、と言えばよいのでしょうか、私は妙な気分を味わってアンディス様を見返しました。アンディス様は漂う沈黙を訝られて首を傾げられています。私は気を引き締めました。いけませんよ、ヘルミ。アンディス様が不思議がっていらっしゃるではありませんか。

 私はにっこり微笑んで、アンディス様にお礼を申し上げました。

「ありがとうございます。楽しんで参りますわね」




 それにしてもどうしてこんなに気分が沈むのでしょう。

「どうなさったんですか? ヘルミ様……」

 アンディス様がお帰りになられた後、うんうん唸る私の顔をリリーが覗き込みました。

「なんでもありませんよ」

「なんでもないことありますか! お薬を貰って参りましょうか? クララがとてもよく効くと評判のお薬を持っているんです」

「何によく効くお薬なの?」

「便秘です」

「……結構よ、リリー。そういうことではないの」

 私はお通じの悪さに悩んでいるわけではないのです。あと言葉はもう少し婉曲的なものを使ってくださいね、リリー。女の子なのですから。

 リリーが怪訝そうに眉をひそめます。

「では一体、何に悩んでいらっしゃるのですか?」

「悩む、というほどではないのだけれど……」

 なんといえばいいのかしら、と私は口を噤んで考えました。

「ほら……以前、アンディス様はお約束くださっていたでしょう? 湖と〈守りの宮〉へ連れて行ってくださると」

「はい。お約束くださっておりましたね」

「ですから、アンディス様にお伺いをたてたのです。他の妃の方々からお誘いを受けたのですが、皆様とご一緒してもよろしいでしょうか、と。それにアンディス様はすぐ、他の妃の方々と行ってきてもいいと許可をお出しになられて……」

「それだけお仕事立て込んでいらっしゃるってことなんですねぇ」

 リリーがしみじみと呟き、私はきょとんと目を丸めました。

「だって他の方に、ヘルミ様とのお散歩を譲られるなんて。本当に陛下、お仕事がお忙しいんですね」

 リリーは満面の笑みで――表情と言葉がちぐはぐな気がいたしましたが――お気の毒ですね、と、アンディス様を労わる言葉を述べました。

「そう……そうね! そうなのよね! リリー」

「はい?」

 胸の内に立ち込めていた霧が、急速に晴れていくようです! 私はリリーにがばっと抱きつきました。目を白黒させている彼女の髪に頬擦りします。

「アンディス様がお(いたわ)しくてならないのだわ!」

 陛下はまだ十三歳。遊びたい盛りでございましょうに、このせっかくの美しい夏を書類に向き合われ、過ごされなくてはならないなんて! そんなアンディス様を気の毒に思ってのもやもやだったのです!

 私はリリーを抱く腕に力を込めて叫びました。

「すっきりしたわ!」

「はぁ。……それはよかったですね」

「そうとわかれば私も私の役目を果たさなければ!」

「お役目、ですか?」

「そうよリリー!」

 リリーを解放した私は胸の前で手を合わせて宣言いたしました。

「私は他の妃の皆様ともっと仲良くなって、陛下にとってさらに居心地よろしい後宮作りを目指したいと思います!」

「……よくわかりませんが、私はそのヘルミ様の前向きさがとても好きですよ」

 ありがとう。私も貴女が大好きよ。

 でもどうしてそんなちょっと生ぬるい目をしているのかしら。そしてどうして私から距離をとるの? ねぇ、リリー。







 きんっ……ぎ、きんっ……

 雲一つない青空の下で、澄んだ剣戟が断続的に響く。

 その合間に混じる、自分の荒い呼吸音。ごうごうという血の巡り。額から顎まで滑り落ちる滴のぬるい感触。

 ざり、と砂利を踏む足に重心を置き、アンディスは体勢を整えた。自身の構える長剣の向こうには、短剣を提げたハーヴィスの姿がある。自然体をとる彼は余裕綽々の面持ちで、呼吸ひとつ乱していない。訓練を始めて小一時間。実力差はわかっているが、こう翻弄されてばかりだと腹が立つ。

 眉間に皺を寄せるアンディスを、ハーヴィスはおかしそうに笑った。

「陛下、(りき)むと次の動きがばればれですよ。もうちょっと肩の力を抜きなって」

「ハーヴィスっ! おまえっ……一回ぐらい、負けてやろうとかっ……思わないのかっ……!」

「思いませんね。俺負けるの嫌いだもん」

 ふざけるな、とアンディスはその場を踏み切った。本気で剣を振りかぶる。

「……あーあー、そんなに殺気みなぎらせちゃダメですって」

 向かい来る刃を短剣で軽々往なし、騎士はアンディスに足払いを掛ける。身体の均衡が唐突に崩れ、アンディスは目を見開いた。浮遊感に身体が包まれた刹那、強打した背と腰に衝撃が走る。手放した長剣が遠くに落下し、かたかたと震えて制止した。

「だから力を抜けって言ったのにさぁ……」

 ハーヴィスが短剣をぷらぷらさせて、投げ出された長剣を拾いに向かう。アンディスは胸元を握りしめ、荒い呼吸を整えながら、騎士の動きを目で追った。

「陛下に真剣はまだ早いな」

 二本の剣を鞘に収めながらハーヴィスは言った。鞘の縁が鍔に当たり、ぱちん、ぱちん、と音を立てる。

「刃は潰してあるけど、危なっかしくて仕方がない。……アンディス様、大丈夫です? そろそろ起きないと置いて行きますよ」

「おまっ、え、なぁ! 護衛が主人を置いて行こうとするな!」

「あはは! それだけ元気なら大丈夫ですね!」

 歩み寄ったハーヴィスの差し出した手を払いのけて、アンディスは自力で立ち上がった。

「そんなにしょぼくれないでくださいよ、アンディス様。真剣は早いなって思ったけど、腕はちゃんと上がっていますって」

「当たり前だ。これだけして進歩ないはずないだろう」

 以前は三日に一度だった剣術訓練の時間を、毎日持つようになってひと月が経つ。自分でも筋は悪くないと思うのだ。それでもハーヴィスに手も足も出ない。もっとも彼は筆頭騎士なのだから、敵わなくて当然であるのだが。

 剣術だけではなく勉学にも、アンディスは睡眠を削って励んだ。政務にも今までになく集中しているが、たかがひと月で処理能力が飛躍的に上がるはずもなく。自分の無力さを痛感して寝所に戻る日々だった。

「そんなかりかりしない。焦ったっていい結果は出ないですよ」

「わかってる」

 出口に向かって歩き始める。厚手のタオルや水の載った盆を提げ持った侍女たちが、開け放たれた扉の前でアンディスを待ち構えていた。

「気が遠くなるな、ハーヴィス」

 アンディスは水に口を付けながら、横に並ぶハーヴィスに呻いた。

「大人になるまで、あと何年もかかるかと思うと」

 以前とは違う形で切望している。

 誰にも子供と思わせたくない。

 はやく、はやく。

 どうしたら成長できるのだろう。

「大人になるために努力するのはいいですけど、ヘルミ様を放っておいていいんですか?」

「余はヘルミを放ったことなどないぞ」

 先月、ハーヴィスの指示に従って以来、二度と。

 毎日というわけにはいかないが、彼女の下にはきちんと顔を出している。

「そうじゃありませんって」

 ハーヴィスは腰に手を当てて溜息を落とした。

「〈守りの宮〉と湖に連れて行くって約束していたのに、他のお妃様たちと行ってこいって命じたんですって?」

「そんなことは命じていない! 妃から一緒に行こうと誘われたとヘルミが言うから、行ってよいと許可を出しただけだ!」

 近頃ヘルミは他の妃たちと親しい関係を築こうと積極的に行動している。かねてから〈守りの宮〉と湖を訪ねたがっていたことを考慮し、アンディスの都合に合わせて待たせるより、許可を出したほうがヘルミも喜ぶだろうと判断したのだ。夏は短い。彼女がもっとも楽しみにしていた花の盛りもすぐに過ぎてしまう。

「だからそこがまずいんですよ。ヘルミ様はアンディス様に〈守りの宮〉とあの湖の周辺を案内してもらうのを楽しみにされていたでしょうからね」

「そうなのか? 楽しみにしていたのなら何故、妾妃たちに誘われたなどと余に言ったのだ? だいたい、妾妃たちにはもう余と約束しているとその場で主張して、誘いを断ればよかったであろう」

「ヘルミ様としては陛下の意向をもう一回確認したかったんだと思いますよ」

「それなら直接、約束していたよな? と訊けばいいではないか」

「そんな直接的な訊き方をしたら、期待しているって丸わかりじゃないですか! 女性は時に婉曲的に物を言うものです。男性社会と違ってあんまりはっきりした言い方すると、角が立つこともたくさんありますしね。そういうことがわからないんだったら、もうちょっと後宮ふらふらしたほうがいいですって」

 あそこだって勉強のための場なんですから。

 ハーヴィスはアンディスにタオルを手渡しながら進言する。

「勉強や訓練は熱心になるに越したことはないですけど、いつだってできますし。口約束だっていっても、人との約束を軽く扱っちゃだめですよ。それが好きな女のものならなおさらね」

 知った口を、とアンディスは忌々しくハーヴィスを見上げ、汗を拭い終わったタオルを押し付けた。




 更衣の間で身体を清め、着替えを済ませる。向かう先は後宮の〈北の宮〉、つまりヘルミの居館である。政務はよろしいのですか、というハーヴィスの問いは、そのにやにや笑いが心底腹立たしかったので無視した。

 代々の正妃に与えられる館は広い庭を有している点が特徴だ。ヘルミを主人としてから、庭には花の種類がうんと増えた。逆に人の数はかなり少ない。ヘルミの場所を尋ねる相手を探すうちに、彼女がいつも使う居室に辿り着いてしまう。

「陛下?」

 アンディスを出迎えた人間はヘルミの侍女、リリー・セイルの一人だけだった。

「ヘルミはどうした?」

「妾妃の皆様とお出かけされていらっしゃいますが?」

 件の湖と〈守りの宮〉を見て回る予定です、とリリーは補足する。その口調はどことなく冷ややかだ。おそらく気のせいではないだろう。アンディスがハーヴィスと共謀し、ヘルミの胸中を試したことを、リリーは未だに根に持っている。

 アンディスは胸中で舌打ちし、ハーヴィスを振り仰いだ。

「ハーヴィス、お前、知っていただろう?」

 ヘルミの今日の予定を。

「んー? なんのことですかね?」

 そらっとぼけるハーヴィスの足を踏みつけにかかる。しかし彼の身のこなしは素早かった。

「避けるな!」

「避けますよ。踏まれたら痛いじゃないですか。あのですねぇアンディス様。何をそんなにカリカリしていらっしゃるんですか?」

「こっちに来たところで無駄足だとお前が早く言わないからだ!」

「俺の話、無視したのは陛下じゃないですか」

「うるさい! そもそもお前がもっと早く指摘すればよかったのだ!」

「ヘルミ様との約束の件を? むちゃくちゃ言うなぁ」

「ヘルミ様との約束? 一体何の話をしているんですか?」

 傍観を決め込んでいたリリーが、話に上った主人の名前に食いついた。ヘルミを傷つけでもしたら、ただではおかない。アンディスへの敵意が冷気となって、部屋の温度を急降下させる。

「ほら。〈守りの宮〉と湖へは、陛下が連れて行くって最初に約束してただろ?」

「さぁ、存じ上げません」

 愛想笑いを浮かべて機嫌を取るハーヴィスへの、リリーの態度はつれないものだった。

「お約束していらっしゃるのなら、他の妃の方々とご一緒されるよう、ご命令されるはずないでしょうし?」

「余は命令などしていない!」

「お畏れながら、陛下はご自身が口に出されるお言葉には、強制力があるということを、そろそろ自覚されてはいかがでしょうか?」

 アンディスは反駁(はんばく)を呑み込んだ。リリーの指摘は正しい。他の妃と共に行けばいいと、アンディスが口に出した時点で、それは命令に等しい響きを持つ。

 けれどヘルミには己の意見を自由に主張できる存在であってほしかった。アンディスと出かけることを楽しみにしていたというのなら、彼女からそれを口にしてほしかったのだ。

「……ヘルミ様の最近のご様子は?」

 ハーヴィスが尋ねると、リリーは億劫そうに応じた。

「他の皆様とさらに仲良くなるための計画をお立てになって、楽しそうにしていらっしゃいました」

 アンディスとの約束が反故(ほご)になっても、しょげたりしないところがヘルミだ。ハーヴィスの言う裏などなく、ヘルミは元よりアンディスとの約束など、気に掛けてはいなかったのかもしれない。それはそれでぐっさりとアンディスの胸に突き刺さる。

 アンディスに掛ける言葉を探しあぐねてか、ハーヴィスが百面相をしている。

 もういい。考えることも面倒だ。大人しく仕事に戻ろう。

「……ヘルミ様はヘルミ様なりに、陛下とお出かけされることを楽しみしていらっしゃいましたよ」

 踵を返したアンディスの背に、リリーから声が掛かった。

「ヘルミ様は率直な言葉以外は、いい意味で曲解される方です。ヘルミ様にしてほしいことがおありなのでしたら、誤解できないほどわかりやすく、はっきりと、おっしゃるべきです。……今すぐにでも」

 リリーが不機嫌極まりない声でアンディスに唸る。

「だいたい、陛下のせいでヘルミ様が、ヘルミ様をいじめたくてたまらない妾妃様たちと、ご一緒しなければならなくなったっていうこと、おわかりになっていらっしゃいます?」





 ラスパルに吹き渡る風はからりと乾いて涼しく、上等な発泡酒のような爽快感があります。草木の香りを吸い込んで、私は湖に目を輝かせました。それは想像と違ってうんと静かで、晴れ渡った空、雲、そして山々の姿を、くっきりと映し出しています。そのほとりを縁取る青紫の花々がとても可憐です。

 私を誘ってくださった妃の皆様は、近隣諸国の出でいらっしゃるため、このような風景は見慣れておいでのようです。傘を立てて(しつら)えた日陰の下で、和やかに会話に興じていらっしゃいます。

「何故あれほどお元気なのかしら正妃は……」

「信じられません。湖畔をひとまわりだなんて……もう足が棒のようですわ」

「あなたたちはまだ元気ね……私はもう話すことも辛い」

 私ひとり年甲斐もなく騒いで申し訳ありませんわ!

 ですが後悔はありません。感動は全身全霊をもって味わい尽くす。それが私流です。

 次の目的地との距離はそうないのですが、大人数ですので移動には馬車を用いました。時間も限られておりますしね。次はもう少しゆっくりと散策したいものです。

 以前アンディス様がご説明くださいましたように、〈守りの宮〉は国境結界の陣を守る神殿です。要の部分は奥に秘され、王族とその信任を得た魔法使いのみに、立ち入りの許可が下ります。

 一般の人々にも参拝の許される表の宮は、白い巨石を組んで作られています。石柱に絡みつく蔦に見られる多くのつぼみは、花開いて芳香漂わせる日を待っておりました。

「ヘルミ正妃、この奥には特別な白い花の群生しているお庭があるってご存知?」

 妃のお一人が私に問いかけました。彼女は後宮で第二位にあたる、宝石のような紫の目が印象的な妃です。

「いいえ。存じませんでしたわ。特別なお花?」

「えぇ。魔法の影響を受けて年中咲いている、真っ白な花があるのですって。そちらは丁度見頃で。神殿の神官たちの通路から望むことができるそうなのです」

 神官とはこの〈守りの宮〉の管理を担う者たちです。要のある深部を除いた神殿の隅々に立ち入り、異常がないよう気を配っています。

「今日はそちらをヘルミ正妃にもご覧いただきたく思いまして、神官にも話を通してありますの」

 長い睫に縁取られたぱっちりした目を瞬かせて、第二王妃が私に微笑みかけました。

「さぁヘルミ正妃、是非」

 私がラスパルの様々な植物に興味津々だということをご存知だったのでしょう。今回わざわざ私のために神官に話をつけてくださったに違いありません。

 妃の方々に促されて、私はわくわくしながら、通用口に続く扉に手を掛けました。

「ヘルミ!」

「あら?」

 私は背にかかる呼び声に振り返りました。アンディス様が息を切らされながら、こちらに駆けて来られます。

 まぁ、陛下。一体どうなさいましたの?

「ヘルミ、それをっ……開けるな!」

「え?」

 あぁ、申し訳ございません。

 私、もう、開けてしまいました。

 突風にあおられるかのように扉板が勢いよく跳ね開きます。その向こうは通路などではなく、ただ暗い闇があるばかりです。訝しんでいると、頬に風を感じました。

「ヘルミ様!」

 リリーの悲鳴じみた声が拝殿内に反響します。

 私は彼女に返事する間もなく、扉の形をした口に吸引されて、いずこかへ落下しておりました。







『あのなぁ』

 と、彼は言った。彼は立てた膝に片手で頬杖を突いていて、空いた手は開かれた書物に添えられていた。

 王都を一望できる高台の家。潮の香り吹き込む風通しよい窓からは、くもりない紺碧の海を一枚絵のように望むことができる。壁に貼られたたくさんの落書き。花瓶に無造作に生けられた干した香草。外でゆっくりまわる、風車の音。かこん、かこん、かこん……。

 日差しの中で躍る(ちり)が、まるで星屑のようだった。

『世の中キレイなものばっかで出来てたら退屈だ。だいたいそのキレイっつうのもお前じゃない誰かが決めたことだろ。気にすんな』

 だって、と子どもが顔をこする。しろくて、そばかすだらけの、ちいさなおもてをぐしゃぐしゃにする。そのいつまでも乾かない鼻先を、彼は皺だらけの指で拭った。

『まぁ俺様が言っても、説得力ねぇだろうけどな。……うーんと、そうだなぁ、お前に面白いものを見せてやろう』

『おもしろいもの?』

 彼は頷いた。榛色の瞳を柔く細めて、彼は子どもの手を、すい、と引く。

『そうだ。面白いものだ。世界はもっと広いんだ。その一端を、お前に見せてやろう。なぁ、ヘルミ』







「……ルミ……ヘルミ!」

「はいっ!」

 繰り返される呼びかけに、私は元気よく返事いたしました。間近に迫っていた緑の瞳が見開かれます。まるでお皿のようにまんまるです。

「あら、アンディス様。どうなされましたの?」

「……どうなされたって……おまえ……」

 アンディス様は眉根をぎゅぎゅっと寄せられて、その間に縦皺二本をくっきりと刻まれました。

 ……ぐりぐりぐり。

「ヘルミ! 余の眉間を揉むのはやめろ! 一体どうした!?」

「いえ、そのお年で眉間にそのように立派な皺を作られなくとも、と思いまして」

 つい揉んでしまいました。

 アンディス様はどことなく呆れた眼差しを私に向けられて溜息を零されました。

「その様子だと元気そうだが……痛むところとかはないか?」

「痛むところですか? ……いいえ。まった……くっ!?」

 快適無敵です、と申し上げたいところなのですが、何故か足が痛みますわね……。立てませんでした。

 がくりと項垂れられるアンディス様のお身体ごしに周りを確認し、私は見知らぬ場所にいることに気が付きました。白い石積みの壁に四方を囲まれた部屋。天井は高く、その近くに茶色の扉が張り付いています。ただしそちらへ続く梯子や階段の(たぐい)は全く見当たりません。

「どうしてあのようなところに扉の飾りが……?」

「飾りじゃない! 余たちがくぐってきた扉があれだ!」

 うんと高みにある扉をびしりと指差され、アンディス様は叫ばれました。

 アンディス様がおっしゃるには、この神殿の通路という通路には、魔法が掛けられているとのこと。許可なく扉を開けてしまった者を吸い込んで、扉の真下に造られた小部屋に閉じ込めてしまうそうです。

 つまるところ、私もまさにその状況に置かれているということですね……。

「登れば脱出できるのでしょうか?」

「そんな足で登ろうとするな! なぜ大人しく助けを待つ選択肢が出て来ないのだ!? だいたい、どうして扉を開けた!?」

「それは……申し訳ありません。もう勢いがついていて、止められなかったのです」

「許可のない者は立ち入りできないとわかっているだろう!?」

「……そうですね」

 私は反省に頷きます。

 深部のみならず内部は全て陛下の許可が必要だったのですね。

「申し訳ございません。私が軽率でした」

 私の不思慮により陛下まで巻き込みましたこと、伏してお詫び申し上げます。

 アンディス様はとても悲しそうなお顔をなさいました。

「陛下、何故ご自分が叱られたようなお顔をなさるのですか?」

「……ヘルミ」

 アンディス様が唸られます。

「お前は実に能天気だ」

「はい」

 私が肯定いたしますと、アンディス様はますます――あぁそのような、泣きそうなお顔をなさらないでくださいな。

 私が差し出したハンカチを、アンディス様は鋭く睨まれます。

「必要ない。……ヘルミ、他の妃たちがお前をだまして、扉を開けさせたことはもうわかっているのだ」

「陛下。皆さまは私をだましてなどいらっしゃいませんよ」

「妃たちと通じた神官とは話をした。お前を陥れるためにあの扉の鍵を外したと」

 すわりこんだままの私の手を、アンディス様が強く握られました。思いがけず力強い手を、私は黙って見下ろします。ちいさな手。ですがきちんと男の方の手なのですね。

「余はな。お前を守りたいのだ。お前を陥れようとする者は許したくない」

 私は陥れられたとは思っておりませんでした。ですがアンディス様が本当に真摯に私のことを案じてくださっていることはよくわかりました。

「……ありがとうございます」

 私は微笑んでアンディス様の手を握り返しました。

「早く大人になりたい」

 アンディス様が下唇を噛みしめて、悔しそうに目を細められます。

「お前が傷つけられるのは嫌だ。早く大人になったら……強くなったら、お前を守ることができるだろうか。他の妃たちを追い出して」

「……後宮を廃される、ということですか?」

「そうだ」

「それはなりません」

 私は顔を険しく引き締めて、ぴしゃりと申し上げました。聞き流してはならないと思ったからです。

「後宮をなくすなどという考えをお持ちになってはなりません」

「何故だ!? あれらのせいで、お前は足を傷めたんだろうが!」

「いいえ。私の軽率が招いたことです」

 私は首を横にゆっくり振って、よろしいですか、とアンディス様を諭しにかかりました。

「後宮の皆さまはラスパルにとって大切な方々です。後宮を閉めるということは、そこに住まう方々たちの祖国、つまりラスパルの周りの国々を、場合によってはこの国に生きる人々までも、敵に回すということなのです。陛下もご存知でいらっしゃいますでしょう?」

 後宮は王の御心をお慰めし、次代の王となる御子を生み出す場所です。けれどそれだけではないと私は学びました。そこに住まう方々は、時に人質であり、時に外交官であるのだと。彼女たちの日々を安らかなものにすることで隣国との関係を良好に保ち、国の平和を守るためのラスパル独特の機関なのです。

「後宮を廃すなどと、どうかおっしゃらないでくださいませ」

 アンディス様のご厚意は嬉しく思いますが、王の責務に背く真似をさせるわけには参りません。

 黙りこくって考え込まれるアンディス様の手を、私は微笑みながら揺さぶりました。

「妃の皆様は陛下にお会いしたいだけなのです。お寂しいだけなのですよ」

 後宮の中で、私が一番年長です。私を除く全ての妃が、まだ親が恋しくてもおかしくない、うら若き方々なのです。子どもと呼んで差し支えない方もいます。

 彼女たちは王に愛されるべく祖国を離れて輿入れしております。なのに肝心のアンディス様は政務に追われてばかり。正妃であるからこそ私の下に、アンディス様は顔を出してくださいますけれど、それは他の方々にとって決して面白い話ではないでしょう。

「アンディス様、今日は皆様と湖畔を巡って、とても楽しかったのですよ。交友を深めるためだけならば、中庭でお茶をするだけで済んでしまうのです。そこをわざわざ山道を散歩する手はずを整えてくださったのです。そして最後はこちらに珍しいお花があると、私に教えてくださった。私はもう許可があるものと早とちりをして扉を開けてしまった。それでよいではありませんか」

 もちろんうっかり(・・・・)鍵を開けたままにしていた神官は、職務怠慢として咎められるべきでしょうけれど。

「私がリリーのみをお付として祖国から連れてきているように、他の皆様も指折り数えられるほどしか祖国から従者を伴っておりません。皆がお友だちなったほうがよいに決まっております」

 いたずらしたり、からかったり、気兼ねなくできるような間柄に。

 お互いが寂しい思いをしないように。より賑やかに日々を過ごせるように。

「……無理はしてないか? 我慢してないか?」

「いいえ、何も」

 私はかねてより暮らしてみたかった山麓で、私を大切に思ってくださる方々に囲まれて暮らしています。

 それで何を無理することがあるのでしょう。我慢することがあるのでしょう。

 そう申し上げた私をご覧になるアンディス様の目はどこか眩しそうでした。

「お前には、かなわん――……」

 アンディス様のお言葉は先細っていかれて、上手く聞き取ることができません。

 けれど尋ねる機会を逸しました。

 はるか頭上で開いた扉からハーヴィスとリリーが、心配に曇る顔を揃って突き出したからでした。





「もう他の妃の方々に一切関わり合いにならないでくださいっ!」

 神殿の医務室で足の手当を受ける私に、リリーが怒りを爆発させました。我を失った猪のように、今にも妃の方々に突進しかねない勢いです。

「えぇっと、リリーはどうしてここにいるのかしら?」

 供をしたいと言って聞かないのをどうにか説得し、後宮で留守番をさせていたはずなのですが。

「陛下が許可をくださりましたので」

 付いてきたんです、と彼女は鼻息荒く答えました。私が一緒にいれば、こんな怪我はさせなかったのに! 拳を振り回すリリーは、置き去りにされたことも含めて、相当腹に据えかねている様子です。

「ねね、リリー」

 あんまりリリーを怒らせすぎると怖いので、私は彼女を宥めすかしにかかりました。

「神殿にしか咲かない、白いお花があるのですって。せっかくこうやって中に入れたのですもの。一緒に見に行きましょうよ」

「まだ! 見に行かれる! おつもりなんですか!?」

 あ、あら? 何故そこでもっと怒ってしまうの? 

 キシャー! と奇声を上げるリリーを背後から抑え込み、ハーヴィスが苦笑いを浮かべます。

「別に今じゃなくてもいいんじゃないですか? 正妃。自由に歩き回れるようになってからで。足がもっと悪くなってしまったらどうなさるおつもりです?」

「あぁ……それもそうですわね」

 ハーヴィスの指摘の通りです。何より陛下の許可が必要です。

 私はしょんぼりと肩を落としました。

 片脚しか傷めておりませんので、歩くことはできますが、怪我が万が一もっとひどくなってしまえば、大勢に迷惑をかけることになります。出入りする者の限られる神殿内で輿を使うわけにもいかないでしょう。

「かまわん。今、見に行けばよかろう」

『……え?』

 アンディス様のお言葉に、私たち三人は瞬きました。

「ハーヴィスにお前を運ばせることを了承すればだが」

 自分で歩かないのなら構わない、とアンディス様はおっしゃいました。

「アンディス様……!」

 私は感極まって身を乗り出し、アンディス様を抱きしめます。

「大好きです!」

「ば、ばかっ! ははははは、はなせ! むぐっ」

 腕にぎゅうと力を込める私に、リリーが淡々と指摘します。

「ヘルミ様、陛下がふくよかな胸に埋もれて窒息しておいでです」

「窒息!? まぁ陛下、お顔が真っ赤です! そんなに息苦しかったでしょうか!?」

「いや、問題はそこじゃないと思うんだけどな……」

 ではどこが問題なのですか、ハーヴィス。

 アンディス様はひどくぐったりと伏してしまわれました。力加減というものを存じず、申し訳ありません。

「よろしくお願いいたしますね、ハーヴィス!」

「え、本当にいいんですか?」

 ハーヴィスは一歩退(しりぞ)いて私に訊き返します。私は全力で頷きました。

「もちろんですわ!」

「……ハーヴィス」

 彼の隣に並ぶリリーが、にこやかに微笑みます。

「ヘルミ様の変なところに触ったりしたら……殺すわよ?」

「リリーサン? すっごく目が本気だなぁ……ってか足。足痛い」

 訝りに視線をハーヴィスの足に落としても、変わったところは見られません。ハーヴィスは、なんでもありませんよ、と笑って(ひざまず)き、首を捻る私に手を差し出しました。

 ハーヴィスに横抱きされて移動しながら、私は小鳥よろしくしきりに首を動かし、観察の目をあちこちへと向けました。

 医務室の外は中庭に面した通路です。円柱並ぶ回廊にはむせ返るような緑の匂い。通路は暗く、鬱蒼としていて、時折漏れ入る光が床石の上に(まだら)模様を描いています。道の端々は既に蔦の侵食を受けて、今にも呑み込まれてしまいそうです。

「なんてすてき……」

 私はうっとりと呟きました。ハーヴィスがおかしそうに笑います。

「たいしたもんですね、正妃。歴代の正妃の方々は皆、気味悪いっておっしゃったらしいですよ」

「そうなのですか? 私は見たことのないものばかりでとても楽しいのですけれど……」

 幹や枝が歪曲した古木や、絡み合って幕を作る草花や、色鮮やかな羽虫や。

「ヘルミはいつも山と騒いでいるが、山より植物が好きなのか?」

 横を歩くアンディス様のご質問に、私は丸いつむじを見つめて答えました。

「たくさんの樹やお花の覆い茂るお山が好きです!」

「そういえばヘルミ様ってどうしてそんなに山がお好きなんですか?」

「あら? リリーに話したことなかったかしら?」

 集めた山の画集を披露する相手は昔から常にリリーでした。ですから私が山好きになったきっかけを、知っているとばかり思っておりました。

「理由があるなら余にも教えろ」

 アンディス様がおっしゃいました。

「お前がどうしてそんなに山が好きなのか、前々から気になっていた」

 ハーヴィスが無言で頷いて、同意を示します。あら、そんなに気になっていらっしゃったのでしたら、皆さまもっと早く訊いてくださればよろしいのに。

「リリー、貴女は知っているわね。私の血筋は皆、美しい者ばかりなのです」

 叡智と容姿に恵まれた紳士淑女を多く輩出する血筋として知られるリュトレイア王家。私の両親も例外ではありませんし、肖像の間には代々の美姫と美丈夫の絵がずらりと並んでおります。

「ですが私はこの通り平凡な容姿です。王家らしいこの髪と瞳がなければ、出自を疑われていたかもしれません」

 金の髪と青の瞳は、お父さま譲り。王家の者によくみられる特徴です。

 私は紛れもない父王とその正妃の第一子ですが、それでも根拠ないことを影で口にする者はいたのです。

「小さいころは皆の言う、キレイ、でないことが嫌で嫌で、泣いていたこともあったのですよ。そんなときにサリード様が……」

「サリード?」

「リリーの曾お爺さまです」

 名家セイル家始祖サリード様は、高台の風車小屋にお住まいになっていて、大往生を遂げられるまで、私によくしてくださいました。

「その方が山の画集や図鑑を広げて見せて、私を励ましてくださいました」

 画集には神が絵筆を執ったとしか思えぬほどに壮麗な景色が描かれておりました。特徴はその色彩です。空の紺碧、木々の緑、そこに散らばる花々の赤、青、黄、白。

 山の景色を形作るものたちは、決して均一の美しいものばかりではありません。枯れかけた古木はその洞から闇の触手を伸ばして、人を捕食しそうなほどに気味悪いものですし、群生する花々の色は時として毒々しく目に映ります。高山地帯によく見られる低木は、その一本だけなら何の味気もない植物に過ぎません。

 ですが人の目に醜く映る穴ぼこだらけの老木のほうが、小さな動物たちが雨風を凌ぐための家として役立ちます。触れることも躊躇うような色の植物が、妙薬の材料として珍重されることもあります。そしてとりたてて褒めるところのない貧相な木々も、寄り集まって土に水を蓄える手伝いをしています。

 そのひとつひとつが、生命という輝きを帯びています。

『いいか? ヘルミ。キレイなもんばっかで作った世界なんてつまらねぇよ。白いキャンバスをおんなじ色で塗りつぶしちまうようなもんだ。いろんな形のものが、共存しているから、驚きに満ちて楽しいんだ。キレイなお顔並べているだけでいいなら人形で十分だ。……お前はお前の長所に胸を張っていけ』

「そうやって励まされたことがとても嬉しくて、色々それからも話を聞いておりましたら、山がとても好きになっていましたの」

 懐かしい日々ですわ。

 しんと静まりかえり、私は首を傾げました。

「あら? 私、何か変なことを申しました?」

「わた……わたし」

 ハーヴィスの斜め後ろを歩いていたリリーが、頭をぷるぷると戦慄かせ始めます。

 そして唐突に拳を天に振り上げ絶叫しました。

「帰省したらっ! ヘルミさまをっ! 悲しませた不敬な輩を必ず見つけ出して抹殺するとここに誓います!」

 ゆるさない! とリリーは怒りの炎を目に灯しました。いえ、あのね、もう十数年も前のことなのですよ……。

 彼女は私の言葉に聞く耳持ちません。……この分ですと当分彼女を連れて帰郷できそうにありません。人死にを出しては大変申し訳ないですから。

「おーい、山好きの理由を訊いたらうっかり昔の男の話がでてきて打ちひしがれている陛下、大丈夫っすかー?」

「ハーヴィス! 余計なことをいうな!」

 ハーヴィスを振り返られて叫ばれたアンディス様は、立ち止まられるまで貝になってしまわれました。

 回廊の終わりを告げる扉は何の変哲もない木製で、丁寧に蝋の塗られた表面は焦げた飴色をしておりました。蝶番と鍵、取っ手は錆びて、開きそうにありません。

 アンディス様はその前で、背伸びを始められました。

「……アンディス様、何をしていらっしゃるのですか?」

 ぴこぴこ踵上げが十回を超えた頃、私はつい気になって伺いました。

 アンディス様がびくっと震えられ、動きを止められます。

 しばしの沈黙。

 かの方の背後にリリーが素早く回りました。

「陛下、失礼いたします」

 彼女はアンディス様の脇に手を差し入れて、そのお体をひょいと持ち上げます。

「おまえっ!」

「取っ手の鍵は見せかけで、本当はそっちの国章なんですよね? 施錠の魔法の気配がします」

 覗き込みたかったのでは? と問いかけるリリーに、アンディス様はお顔をげっそり曇らせられました。

「……死にたい」

「元気出してください、陛下。仕方ないじゃないですか、背が低いんだから」

「陛下、早く扉をお開けください。ちいさくていらっしゃるのに、結構重たいです」

「……お前ら覚えていろ……」

 低く唸ったアンディス様は、国章の中心に嵌めこまれた緑の宝玉と、目の高さを合わせられました。そして私には理解できぬ言葉で何事かを呟かれます。

 気が付けば扉は跡形もなく消え去っておりました。

 さらさらと流れる、水の音が聞こえます。

 高く取られた円天井は骨組みを除いて玻璃製で、張り付いた蔦の隙間から光が降り注いでおりました。照らし出されている広間もまた円形。床に幾何学模様が走る部屋の中央では、こんもりと丘を作る薄紅の花と水晶の柱。そして壁際からそちらに向かってみっしりと、眩いばかりの純白の花が。

「……ヘルミ様」

 入口に膝を突いたリリーが、花弁を眺めました。

「この白い花、ラトリアですよ」

「ラトリア?」

 アンディス様が怪訝そうに眉をひそめられます。

「海岸沿いによく咲く花なのです」

 私はかの方にお答えいたしました。

「高山には咲かないはずなのですが……」

 ちなみに色は青と白がありまして、リュトレイアの国花でもあります。過去に結界に関わった魔法使いが、海に面した国の者だったのかもしれません。種をまいたのでしょうか。

 こんなところで見ることができるとは思いませんでした。

 故郷の花を。

 アンディス様は一人部屋の中へと進まれて、水晶の下に咲き乱れる花をお摘みになって、また急ぎ足に戻ってこられました。

「ハーヴィス」

 アンディス様から目配せを受けたハーヴィスが私を降ろします。片脚で均衡をとりながら立つ私を、脇からリリーが支えてくれました。

「部屋の中にはさすがに入れられんからな。……まだ見たことなかっただろう。ラスパルの国花だ」

 アンディス様が私に花を差し出されます。それは星型の小さな花弁が特徴の、あまやかな薄紅色をした花でした。

 不意にその一輪を摘まむ手が、私の顔の前に伸ばされました。驚き瞬いている私に、アンディス様は唸られます。

「顔を前に倒せ」

 命じられた通りにいたしますと、アンディス様は私の髪の結口に、その花を挿し入れられました。

 アンディス様が苦い表情で呟かれます。

「……やはり……早く大人になりたいものだな」

「そんなに急がれずともよろしいのですよ」

 子どもでいられる時間は、うんと短いのです。存分に味わなければ損というものです。

「そんなにご自分の若さを厭わないでくださいな」

 苦い顔をなさるアンディス様に、私は微笑みかけました。

「子ども時代というのも、とっても大切なのですよ、アンディス様」

「大切なのはわかっている。だがな、余はお前に頼られるようになりたいのだ」

「頼られるように、ですか?」

 思いもよらぬお言葉を頂戴して、私はアンディス様を見返しました。

「お前に言われて、余は考えた。お前が怪我をしたのはお前の短慮などではない。これは余の幼さと浅はかさの結果である。……リリーに聞いたぞ。余のためにもっと妃たちと仲良くなろうと思ったそうだな。だがそんな心遣いは無用だったのだ。もっと余に頼ってほしかった」

 こんな怪我までして、とアンディス様は苦々しくおっしゃいました。その視線の先には衣装の裾から覗く私の足首。布の上からでもわかるほどに、ずいぶんぷっくり膨らんでいます。

 アンディス様は私の指先を、その両の手で包まれました。

「誓うぞ、ヘルミ。余は、お前を幸せにしてみせる。この国に来てよかったと、余の正妃であってよかったと、そう思えるよう、お前を守り抜く」

 アンディス様は私の手の甲に口づけられました。慣れていらっしゃらないのでしょう。どこか(つたな)くあるその行いは、神聖で、厳粛なものでした。私の手を握ったまま、ぎこちない動作で面を上げられ、唇を引き結ばれるアンディス様のお顔は、熟れた柘榴もかくやというほどに真っ赤です。ただそのお顔はことのほか凛々しく、急がれなくてもすぐに立派に成長なさると、目にした誰もが太鼓判を押すでしょう。

 アンディス様はおっしゃいました。

「任せろ、ヘルミ」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ