騎士ハーヴィスの計略
「わたくしたちからお誘いして、正妃がおいでくださるのか、とても不安でしたの」
快く招待を受けてくださり、嬉しいわ。
そのようにおっしゃって、私と共に円卓を囲む皆様は、軽やかな笑い声を立てました。
ラスパルに落ち着いて四か月目。暖かい陽気の昼下がり、私は茶会に招かれておりました。主催は同時期にアンディス様へと輿入れした方々です。
彼女たちの出身は様々ですが、近隣諸国の王族の方々が多数を占めています。他国からの妃の数はつまり、ラスパルがもつ友好国の数。すなわち同盟の数を意味します。私が正妃として据えられた理由は、遠方の出ゆえにそういった利害関係から切り離された、特異な人間だったからということなのでしょう。妃はアンディス様より二つか三つ、年上の方がほとんどです。私は最年長として妃たちの纏め役を期待されたのかもしれません。
で、す、が。
私は基本、山に夢中……というか、うつつを抜かしていた……というか、えぇ。望まれた責務をちょっぴり放り投げていたかもしれません。
本当でしたら、ヘルミ様がお茶会を開いて、他の方々を招待すべきなんです! とリリーから説教されたばかりです。反省しております。
そんな私を招いてくださって、とても恐縮ですわ。
「あら?」
「ご機嫌うるわしゅう、ヘルミ正妃」
妃の皆様とひとしきり歓談し、また集まることを約束して散会した後、〈北の宮〉へ戻ろうとした私の前にハーヴィスが現れました。
挨拶に腰を折る彼に、私は首を傾げます。
「ハーヴィス、どうしましたか?」
「〈北の宮〉へ正妃をお送りしようとお待ちしておりました」
「まぁ、わざわざ?」
彼はにっこりと笑って私を促します。
「参りましょう、ヘルミ様」
アンディス様を抜きにして、ハーヴィスと会うことは初めてです。私は彼の観察をこっそりと試みました。
私よりも年上であることは確かです。臙脂と白を基調に国章を染め抜いたマントを身に着け、帯剣したそのすらりとした姿に、故郷の幼馴染み(彼も騎士でした)の姿を思いだし、懐かしさからこみ上げる笑いをこらえました。
あぁ、皆は元気かしら。
「お茶会は楽しまれましたか?」
私は満面の笑みでハーヴィスの問いに答えました。
「はい! とても!」
私を含めて総勢十数人の妃同士は、地位にあった広さの屋敷なり部屋なりを与えられ、そちらで一日の大半を過ごしています。したがって私たちは日頃、あまり顔を合わせることがありません。初めて他の妃の方々ときちんと話ができて、私はとても上機嫌でした。
実は後宮の庭園の散策も、今回初めてのことでした。〈北の宮〉の庭と違って、なかなか趣向の凝らされた庭でした。
いきなり蛇が落ちてきたり。大きな穴が掘られていたり。透明な細い紐が足元に渡されていたり。
「えっと……それ、大丈夫だったんですか?」
「楽しかったです!」
蛇は草陰に逃がしましたし、穴は危なく思えたので埋めるよう手配いたしました。細い紐は……他の妃の方が足を引っ掛けてしまわれて、大変だったのですけれど。
どきどきいたしましたわ!
私が弾んだ声で説明しますと、ハーヴィスは口元に手を当てて喉を鳴らしました。笑っているようです。
「リリーの心配も杞憂に終わりましたね。これは」
「……リリーがどうかしましたの?」
「ヘルミ様のことを心配していたみたいですから。えぇっと……ほら、他のお妃様と仲良くできるかどうかって」
「まぁ、リリーったら!」
あの子は本当に心配症ですね。私としては彼女のほうが気にかかっているのですけれど。なにせ、人見知り激しい子ですから。
私はじっとハーヴィスを見つめました。彼は怪訝そうに首を傾げます。
「ハーヴィスはリリーと仲良くしてくれているのですね。ありがとう」
「いや……仲良くっていうほどでは。世間話をするぐらいです」
「あの子にとって、普通にお話できる人は、仲良しさんなのですよ」
「そうなんですか?」
ハーヴィスは少し照れたように笑いました。
リリーも少しずつ人と関わらなければなりません。ハーヴィスが仲良くしてくれるのなら、リリーも早くこの国に馴染んでいくでしょう。
もちろん、私も彼女の心配ばかりしてはいられません。
「ねぇハーヴィス。陛下はお忙しくていらっしゃるかしら?」
「時間でしたらとれるかと思いますよ。珍しいですね、ヘルミ様が陛下の予定を尋ねられるなんて」
「えぇ。他の皆様のところにも、お顔をお出しになっていただきたいと思いまして」
ハーヴィスが驚いた顔をして立ち止まりました。
「他の皆様って……お妃様たち?」
「はい」
「本気ですか?」
「え? えぇ。だって皆様、寂しそうでしたわ」
私は妃の一人に、どのような方法を用いればアンディス様を独占できるのか、と尋ねられました。とても強いと評判のリリーに、忙しい陛下を呼びに行かせているのか、とも。
『さすが正妃でいらっしゃる』
「と、褒められましたのよ?」
「……いや、それ褒められていな……いえ、あぁ、はい」
「なぜそこにリリーの話が出たのかはわからないのですが……」
一介の侍女が陛下をお迎えに上がるなんて、出来るはずがありません。
「私、アンディス様を独占しているつもりなんて全くなかったのですけれど。もしアンディス様が私の正妃という立場に気兼ねされて、私を優先してくださっていらっしゃるのなら、他の方々もお訪ねになってくださいと、伝えてくれるかしら?」
もちろん、私も直にアンディス様にお願いするつもりです! ひと肌脱ぎますと、皆様と約束いたしましたし!
ハーヴィスは私のお願いに小さく頷きました。
「えぇ……かしこまりました」
〈北の宮〉までヘルミを送り、ハーヴィスは王の執務室へ引き返した。
「どうするかなぁ」
ハーヴィスはただ苦笑するしかなかった。
妾妃たちに会いに行け。それを王に伝言しろなどという、ヘルミの突拍子もない依頼に。
しかも彼女は本心から言っているだけ性質が悪い。その妾妃たちから嫌がらせを受けていたことに、ヘルミは本当に気付いていないのだろうか。
――……気が付いていないのだろうな、とハーヴィスは結論付けた。
執務室ではアンディスが有能な文官たちに助けられながら政務に勤しんでいた。
ハーヴィスは部屋の隅に控えた。アンディスの仕事ぶりを眺めながら、彼から声が掛かるまで待つ。
アンディスは文官たちと討議しながら、文書に判を押し、署名をしている。まだまだ勉強中であるものの、最近は集中するためか、書類を裁く速さもずいぶんと増していた。
決して以前のアンディスが不真面目だったわけではない。
ただ、いっそう努力するようになった。
ヘルミとの時間を、捻出するために。
(報われんなぁ)
ヘルミの発言は、主君の努力を軽んじるものだ。
アンディスの真剣な顔を眺めながら、ヘルミの無邪気な顔を思い出し、ハーヴィスは溜息を吐いた。
「ヘルミの様子はどうだった?」
アンディスが手を止めて尋ねてくる。どうやら仕事が一区切りついたようだ。
「ご機嫌うるわしくあらせられました。……茶会は楽しかったみたいですよ。リリーの心配は杞憂に終わりましたね」
ハーヴィスにヘルミの送迎を依頼したのはリリーである。彼女は主人の身を心から案じていた。茶会はヘルミに恥をかかせるためだけに催されたものだとわかっていたからだ。
心配し――そしてリリーは自分を責めてもいた。気軽にハーヴィスと手合わせをするべきではなかったのだ、と。
十日ほど前に行った模擬試合は、もちろんハーヴィスの勝ちで終わったものの、彼女の強さを周囲に知らしめた。噂は矢のように城内を駆け巡り――結果、嫉妬による妾妃たちの嫌がらせは報復を恐れたのかリリーを素通りして、鈍いところのあるヘルミに直接向かうようになったのだ。茶会がその『嫌がらせ』の一種であることは明白だった。
聞いた話から察するに、茶会の席での話はヘルミへの嫌味に終始していたようだ。会場となった庭には蛇が放たれ、落とし穴が掘られ、木々の間には足がとられる位置に細い縄が渡されていたらしい。もっともヘルミは当て擦りを褒め言葉として曲解し、蛇を素手で捕まえて籠に入れ、穴も縄も軽やかに避けてしまった――他の参加者が罠に掛かってしまった――ようだが。
「そうか……」
ヘルミらしいな、とアンディスは笑いに肩を揺らした。
彼がヘルミを大切に想う気持ちは本物だった――それがたとえ、生まれたばかりの幼いものにしてもだ。その彼にヘルミからの伝言を届けることに気が進まない。だが言わぬわけにもいくまい。
「陛下」
呼びかけには苦さが滲む。
「なんだ?」
ハーヴィスの声色に感化されたのか、アンディスの応じる声も固かった。
「実はヘルミ様がさ、他のお妃様たちにも、会ってやれって、陛下に言っているんだけど」
「……会って、余にどうしろと?」
「んーそれはわからないですよ。妾妃様たちが、ヘルミ様に王を独占してずるいとかなんとか訴えたらしいですね。……陛下は正妃である自分を気遣って優先してくれているようだけれど、きちんと他の妃たちにも顔を見せてあげて欲しい、っていうことみたいです」
「……気遣い……」
主君は絶句して俯いてしまった。片思いであるということを再認識したのだ。
「ヘルミにとって……余は子供なのだろうな」
アンディスが悔しそうに呟いた。
アンディスが正妃に惹かれたきっかけは、彼女が彼をきちんと「子供扱い」したことだ。もう立派な大人ですと世辞を口にしなかった。ヘルミにはアンディスの未熟さや瑕疵をそのまま受け止める度量があった。
しかしヘルミにとってアンディスが子供であるということは、つまりまだ恋愛対象にはならないということだ。夫というより弟という感覚なのだろう。
「身体が大きくなれば変わるのだろうか」
憂鬱そうにアンディスは呻く。
「……何年後の話なのだろうな」
彼はまだ十三歳である。成長期に入るには、あと数年を要する。気の長い話だ、とハーヴィスは嘆息した。
「ヘルミ様に脈がありそうかどうか、試す方法はありますよ、陛下」
「脈?」
「えぇ。ヘルミ様が本当にアンディス様のことを何とも思っていらっしゃらないのか、少しでも異性として好意をお持ちなのか……確かめる方法です」
それがわかれば、アンディスも気が少しは楽だろう。
「ただそれをすると今以上に陛下がきついとは思うんですけれどね」
ぎちぎちの予定をさらに詰めることになる。
「あと、もしかしたらヘルミ様が怒り出すかもしれない」
ハーヴィスは念のために前置いた。そしてアンディスに問いかける。
「それでも、挑戦なさいますか? 陛下」
*
ばたばたばた。慌ただしい足音が近づいてきます。私はリリーと顔を見合わせました。そろそろおいでになる頃ね、と口にしたばかりだったのです。
「遅くなった! ヘルミ!」
ハーヴィスに付き添われ、アンディス様がお顔をお出しになりました。あらあら、そんなに慌てられなくても。
「失礼いたします。アンディス様、じっとなさってくださいね」
私は歩み寄って来られたアンディス様の前で屈み、かの方の額に浮かぶ汗をレースのハンカチで拭いました。
「う……うむ」
アンディス様がぴんと背を伸ばされます。まるで頭のてっぺんからつま先まで、針金が入ったかのように真っ直ぐです。アンディス様は人から触れられるとき、決まってこのように緊張なさいます。ぎくしゃくとされるアンディス様がおかしくて、私がつい笑ってしまうと、かの方は拗ねたお顔でお口を引き結ばれました。
リリーが一礼して私に告げます。
「お茶の支度が整いました」
部屋の中心に据えた円卓は、白の糸で花を刺繍した同色の薄布で覆われています。布越しに透けて見える天板には、赤と黄の琺瑯を用いて、ラスパルの国章が刻まれています。その紋を囲むようにして並べ置かれた、果物の砂糖漬け、胡桃を水飴と蜂蜜で固めたもの、他、焼き立ての香り芳しいお菓子が、瀟洒な陶製のお皿の上に鎮座して、私たちを待っていました。
私はアンディス様に微笑みかけました。
「今日もおいでくださり、とても嬉しいですわ、アンディス様」
他の妃の方々とのお茶会の日からしばらくして、アンディス様は私が住まいとする〈北の宮〉に、毎日いらっしゃるようになりました。
アンディス様は私と朝食と夕食を共にされます。時間の許す限り、お茶の時間も。ご一緒なさらない日は、おはようとおやすみのお手紙が私の下に届けられます。予定に数時間の空きがおありのときは、自らラスパルを案内してくださいます。
「夏が来るな、ヘルミ!」
緑萌ゆる丘陵に渡る風をお受けになって、アンディス様が嬉しそうに笑われます。
高原に生え揃う低木をしならせる清風は、土と緑と花の香り馥郁として、アンディス様の髪を揺らします。山の日差しは故郷のそれと、また違った意味で眩しくて、私は目を細めました。
「もうすぐしたら、この一帯に全部、花が咲くぞ」
「まぁ、そうなのですか?」
「うむ。あぁ、前も言ったな。あちらの湖と……あそこに……見えるか? 〈守りの宮〉だ」
「はい」
湖から少し右に逸れた山の中腹に、白い建物が木々の間から垣間見えています。
「この国の守りの要だ。結界の陣があそこに敷かれている。あの神殿を中心に藍色の花が、湖の傍には赤紫の花が咲くんだ」
「それはとてもきれいでしょうね」
アンディス様の語られる、そこかしこに色彩入り乱れた、ラスパルの夏に思いを馳せ、私はうっとりと呟きました。
「見てみたいですわ……」
「余が連れていってやろう」
アンディス様が請け合われます。
「もう蕾も付いている。……すぐだぞ、ヘルミ」
アンディス様と日々お会いする中、私は心配せずにはいられませんでした。
――……ハーヴィスは私の言付けを、陛下に伝えてくれたのかしら。
私以外の方々とお会いされているご様子は見られません。私自身、諫言差し上げようと幾度、思ったかしれません。そのようにいたしますと、他の妃の皆様と約束してもおりましたから。
けれど私といらっしゃる間、アンディス様があまりに嬉しそうにお笑いになるので。
「えぇ、すぐですね」
私は楽しみにしておりました。
花咲く山を共に見る夏も。
その前に積み重ねていく、何気ない日々も。
しかしながらその日を最後に、アンディス様はぱたりとお見えにならなくなりました。
「どうなさったんですかねぇ、陛下」
私の髪をゆっくり梳りながら、リリーがぎゅっと眉根を寄せます。私はその姿を鏡越しに確認して言いました。
「きっとお忙しくていらっしゃるのよ」
「忙しさってそんなに大きく変わるものですか? それに前はいらっしゃることがお出来にならなくても、お手紙をくださっていたじゃないですか」
「そうね……」
「騎士の人たちが言っていました。神殿周りの花も、ぽつぽつ咲き始めたそうですよ。陛下を置いて、先に見に行っちゃいますか?」
「リリー」
「はい、ヘルミ様」
私は椅子の背に身体を深く預けて、ゆっくり目を閉じました。
「ごめんなさい。髪は編まなくていいわ。少し横になりたいの」
「えっ……!」
目を大きく見開いて、リリーは私の前に回り込み、床に膝を突きました。私の様子を覗うその顔はとても曇っています。添えられたリリーの指をやんわりと握り返して、私は彼女に笑いかけました。
「どうしたの、リリー。ちょっとけだるいだけですよ」
リリーはひどく青褪めた顔をしています。まるで私が大病を得たと言わんばかりです。
「……きっとお疲れでいらっしゃるんですよ、ヘルミ様。ラスパルにきて、もうすぐ半年ですから」
生まれて初めて祖国を離れ、それだけの月日が経ったのです。私は改めて時の速さを実感しました。
勢いよく立ち上がったリリーが、握りこぶしを作って笑います。
「今日は一日、ゆっくりとなさってくださいね! 高山植物の画集を新しく仕入れたんです。お持ちいたしますね!」
揺り椅子やひざ掛け、茶道具といった、私がくつろぐための様々なものを、リリーは意気込んで整えます。その姿をしばらく目で追った後、私は瞼をゆっくり落としたのでした。
アンディス様が毎日かなりのご無理をなさって、時間を作ってくださっていたことは、さすがの私でもわかります。そしてそれが他でもない私のためであることも。ですから政務に集中されるのであれ、他の妃の方々を訪ねられるのであれ、これが正しい形なのだと思う心もあります。
なのにどうしてでしょう。何故かひどく裏切られたような気分なのです。とてもとても寂しいのです。私の手を引いて笑いかけてくださっていたアンディス様のお姿が見えないと、美しいラスパルの風景も急に霞んでいくようでした。
リリー・セイルが呼んでいる。
部下が報告を寄越したとき、ハーヴィスは来たか、と思った。そろそろ反応があると思っていたのだ。それがなければ賭けに負けたということだった。
呼び出された場所は練兵場の裏手。昼間でも薄暗い上に人通りは滅多になく、密談にはおあつらえ向きだ。夜には騎士たちと侍女たちの逢瀬の場所ともなっている。自分がこのような形で利用するとは、かつて想像してもいなかったが。
待っていたリリーは腕を組み、苛立たしげに足を踏み鳴らしていた。
「一体なんで、陛下はヘルミ様のところにお顔をお出しにならなくなったの?」
ハーヴィスの姿を認めるなり、リリーがぐいと詰め寄った。
「あんたが何かしたんでしょ? この間、そろそろか、って言ってたじゃない!」
「あぁ、聞かれちゃってたかぁ」
「聞かれちゃってた、じゃないのよ!」
「ヘルミ様の様子はどんな感じなんだ?」
「お部屋で毎日ぼんやりしていらっしゃるわよ。あのね、ヘルミ様がそんな風になられるなんて、今までなかったことなんだから!」
「ふうん?」
「なに嬉しそうなのよ!」
「えぇ、だってそれって、陛下に脈があるってことだろ?」
ヘルミは何とも思っていない相手が姿を見せぬことに、幾日も気落ちするような人間ではないはずだ。もしアンディスをただ弟のように思っているのなら、仕方ないで終わらせるだろう。あるいはアンディスの仕事を応援して、平然と日々を過ごすに違いない。
紫の瞳を大きく広げ、リリーが唇を戦慄かせる。
「……ヘルミ様を、試したの?」
ハーヴィスは口角をゆっくり吊り上げた。
「脈のない人のところに通わせて、陛下が傷ついていくのは見たくないからさ」
「……ヘルミ様を試すような真似はしてもいいわけ? ヘルミ様を一体なんだと思っているのよ」
「正妃」
ハーヴィスはにべもなく即答した。
「普通の片思いならのんびりと見守っていくのもアリだけどさ。アンディス様は子供でも王で、ヘルミ様はその隣にいてもらいたい正妃だ。ただの仲良しこよしの姉弟になってしまうっていうのは困る。国の利害関係からいってもさ、俺はヘルミ様に正妃であり続けてもらいたいんだ」
他の妃たちを牽制するためにも、ヘルミには早くアンディスを意識してもらいたい。まだまだ学ぶことの多い彼に、不毛な色恋ごとで疲弊してほしくないのだ。
「あんたの考えだって、そりゃぁわかるわ。……意識してもらうのは、一日でも早いほうが、いいんでしょうね。でもあんなふうにされたら傷つくわ。笑ってくれてた人が急にそっけなくなったら、誰だって落ち込むわよ。誰だって、悲しいわよ。考えるわよ」
肩を震わせて、リリーは言った。
「よくわかったわ」
「何が?」
「自分がよければ他人の感情を踏みにじっても平気なんだってことが。ここがそういう国なんだっていうことが」
「……主人の幸せのためには、他人を切り捨てることだってある」
騎士である自分はなおさら。命を奪うこともあるのだ。
「というか、たかがこれぐらいで国全体について判断するな」
「たかが? ……陛下だって納得済みのことなんでしょ? 国のてっぺんの人が、そういう風にしても、平気なわけでしょ? 周りが皆そうだから、変に思わないんでしょ?」
リリーは、失望したわ、と吐き捨てた。
「そりゃぁみんな、いい人だとは思ってなかったけど」
ハーヴィスを睨みつける紫の瞳から、水晶のような煌めきがぽろりと転がり落ちる。
「陛下と――……あんたは違うと思ってた、ハーヴィス」
ぐい、と手の甲で滴を拭って、リリーはハーヴィスに背を向けた。逃げるわけではない。ただ話が終わったのだと言わんばかりに、彼女は堂々とした足取りで遠ざかっていく。
ハーヴィスは顔をしかめた。
正しいことをしていたはずだ。主君のために。
だがリリーの言葉がやけに重く耳に残る。
ハーヴィスは不快感に脱力した。その背が突き当たった壁は、氷のようにひやりとしていた。
*
「お待ちしておりました、ヘルミ様」
「久しぶりね、ハーヴィス」
私が面会用の応接室に到着すると、ハーヴィスが出迎えてくれました。アンディス様をお見かけすることがなくなり、ハーヴィスともとんとご無沙汰です。
「無理なお願いを聞いてくださり、ありがとうございます」
「いいえ。どうぞ。座ってくださいな」
私は彼に椅子を勧めて、侍女にお茶を頼みました。彼女は部屋付きの一人で、リリーに代わって付き添ってくれています。
ハーヴィスが彼女を注視します。リリーと違う子を私が連れてきたことが――珍しいのでしょうか。
「リリーは今日、街へ下りているのよ」
「えぇ、存じています。……彼女がいない日を選んだので」
「あら、そうなの? 喧嘩でも?」
そんなところですと、ハーヴィスは苦く笑いました。
彼の対面の席に着いた私は、お茶の支度が整うまで待って、侍女に退出を促しました。
二人きりになったことを確認し、私は話を切り出します。
「この間、リリーが私に、帰りましょうって言ったの」
『ヘルミ様、帰りましょう』
リュトレイアに帰りましょう。青と白で形作られる、海に囲まれたうつくしい国へ。愛しき祖国へ。
ここにいても、貴女が幸せになれるとは思えません。
「気丈にしていたけれど、少し泣いた跡があったの。何か関係あるのかしら?」
「えぇ。申し訳ありません」
「謝る相手が違うのではないかしら」
自分でも少し辛辣かしらと思いました。けれどリリーが泣くとはよほどのことです。あの子に辛い思いをさせたというのなら、いくらハーヴィスといえども許し難く思います。
すみません、と謝罪を繰り返し、ハーヴィスが打ち明けます。
「私は貴女にも謝らなくてはなりません、ヘルミ正妃。私は貴女を試しました」
「試す?」
「はい」
深く頷いたハーヴィスは、経緯を追って説明を始めました。発端は他の妃の方々とお会いになるようにと、アンディス様への言付けを私がハーヴィスに頼んだこと。私のために時間を捻出するアンディス様に対して、私があまりに無関心に思えたこと。私がアンディス様をどう思っているのか気になったこと。
「では、陛下がこちらへ朝夕とおいでくださるようになったのも」
「私のはかりごとです。陛下にはご自身を印象づけるために、少し予定を詰めて、こちらへ足を運んでいただきました」
「……そう」
「正妃」
ハーヴィスが鋭く私を呼びました。
「陛下は心から貴女と時間を過ごしたいと思われて、こちらへ足を運ばれておいででした。その点だけは勘違いしないでいただきたいのです」
「本当に?」
「もちろんです。明日からまたおいでになると思います」
正妃を恋しく思われていらっしゃいました、と付け加え、ハーヴィスは視線を茶器に落としました。
「……リリーに叱られました。そのような形で人を試すべきではない。頻繁に会いに来る者に対して、無関心でいられる者はいない。そして理由もなく急に扱いを変えられては、誰だって相手の存在が気にかかり――傷つくものだと」
あぁ、と私は息を吐きました。リリーの泣いた理由がわかりました。私を思ってのことだったのです。
私はハーヴィスを見つめ返しました。彼はひどく気落ちしているようでした。私に謝るかどうかも、かなり迷ったに違いありません。口を閉ざせば、彼が何をしたのかなど、誰にもわからぬのですから。
私はハーヴィスに微笑みかけました。
「それは謝るところではありませんよ、ハーヴィス。……貴方の目論見は成功しました。私はアンディス様について考えさせられたのですから」
アンディス様がどのように思われて、私を手厚く扱ってくださっていたか、真剣に考えていなかった。ハーヴィスが憤ったのも詮無いことです。
「貴方が懸念していた通り、私は少し、能天気すぎたのです。ハーヴィス、貴方はそれを陛下のためにしたのでしょう? だったらそれでよいではありませんか」
「ですが」
「謝ればきっと貴方の気は楽になるでしょう。けれど貴方のしたことの価値は、下がってしまうのですよ」
ハーヴィスは瞬いて、私の顔を見返しました。
「ハーヴィスは騎士ですね。陛下の身に危険を及ぼす者の人生を、その腰に提げる剣で奪うこともあるでしょう。それを悔いますか? 陛下を守ったことを、斬り伏せた相手に謝るのですか?」
「……いいえ」
「そうですね。陛下を傷つけようとしたほうが悪いのです。私も同じです。王を軽んじたからこそ、貴方は私を試したのでしょう? 貴方は自分の責務を全うしただけですよ、ハーヴィス」
やり方の是非はともかくとして、そこは謝罪すべきではないのです。
神妙に頷くハーヴィスに、私は微笑みかけました。
「リリーと貴方がどのような話をしたのかわかりません。ただリリーの主張もきっと正しい。私を守るために動いてくれただけなのです。もし貴方が私に何かしらの罪悪感を覚えているというのなら、リリーの言葉を覚えていてくださると嬉しく思います。そして……リリーと仲直りしてくれると、もっと嬉しいわ」
「えぇ……そうします」
ハーヴィスはようやっと強張っていた口元を緩めました。
「失うには惜しい友人ですから。彼女との会話も……手合わせも楽しい」
「リリーは強いでしょう」
「えぇ。手加減するのも難しいです。打ち合ったのが私でよかった。面白半分でリリーに試合を申し込んだりするなと、部下には厳命していますよ」
二人の模擬試合はとても面白いものでした。侍女風情がと、リリーを嗤っていた方々も、女の子をいじめるなよ、とハーヴィスをからかいに来た方々も、最後は固唾を呑んで成り行きを見守るほど、白熱した試合。
ハーヴィスは笑みに目を細めました。
「また彼女には、付き合ってもらいたいものです」
それはリリーも喜ぶでしょう。
私たちはもう、ラスパルの人間となったのですから。友人は一人でも多いほうがいいのです。
それから私はアンディス様のご様子をハーヴィスに少し尋ねて、席を立ちました。
「今日はありがとうございました、ヘルミ様」
「いいえ。とても有意義な時間でした」
私は扉口まで送ってくれたハーヴィスを見つめました。私の視線を受けて、彼は訝りに瞬きます。
「何か?」
「いいえ」
彼の顔に何かがついているというわけではありません。
「……ただ、貴方が私を呼び出すだなんて、今日はとても驚いたのよ」
「謝るな、とヘルミ様はおっしゃられましたが……謝罪しなければ、と思うぐらい、ひどいことをしたという自覚はあるんです」
「そこですよ、ハーヴィス」
「そこ?」
ハーヴィスが鸚鵡返しに問います。私はきゅっと唇を引き結び、真剣な顔を作りました。
「謝らなければと思っているのでしたら、もっと早くに来るでしょう」
「……それは」
「ねぇハーヴィス。私に対して、本当に酷いと思っていたの? それともリリーに嫌われるのが怖くて、謝りに来たの?」
目を剥くハーヴィスを置いて、私は部屋を立ち去りました。彼にも色々と考えていただきましょう。
久々に足取り軽く、廊下を歩きます。私はリリーの帰りを待ち遠しく思いました。
ハーヴィスと共に私たちを悩ませてくださった、アンディス様への意趣返しを、二人で考えなくてはなりませんから。