侍女リリーの嫉妬
「ヘルミ、こっちだ」
アンディス様に手繰り寄せられ、私は道の縁に立ちました。薄い空気に――いいえ、胸の高鳴りに息が弾みます。空いた片手でマントの合わせを握り締め、私は感動にただただ、息を吐くことしかできません。
濃淡様々な緑と煙る銀。流麗な稜線の狭間を葉脈のように這う川は、空の色を映して鮮やかな青に輝いています。
そして高みから全てを俯瞰する、見知らぬ一羽の鳥。祖国で群れなす海鳥たちは優美に尽きますが、天の覇者とばかりに大きな両翼を広げ、空を舞う鳥の姿は雄々しく優雅です。
あぁ。
『青と白に統一されたこの国の景観も好ましいけどな。ヘルミ、山も結構いいもんだぞ』
はい、サリード様。
私はリリーの曾お爺様に頷きました。
本当の本当に、素敵な光景ですわ。
うっとりとする私に、アンディス様が遠方の湖を指差されます。朝の陽ざしを受けた水面が、磨いた銀盆のようにまばゆい、楕円形の大きな湖でした。
「春には少し遅いか。ひと月もすれば、あの辺りは一面に赤紫の花が咲く」
「赤紫の花……名前は何というのでしょう?」
「知らん。気になるなら調べさせる」
「いいえ、自分で調べますわ」
この土地一帯の植物を網羅した図鑑は、既に部屋に届いております。昨日もリリーに止められるまで穴が空くほど眺めておりました。帰った後のお楽しみです。
「本当にありがとうございます、アンディス様」
私は跪くと感謝の意を込めてアンディス様の御手を両手で包みこみました。年若い王様は口を小山の形に曲げられて、気にするな、とぼそぼそ呟かれます。その目元はほんのり赤らんで――照れていらっしゃるのでしょうか?
私はアンディス様傍付きの騎士、ハーヴィスに目配せを送りました。私の視線の意味を、彼はしっかり汲み取った様子です。礼を言われ慣れてないんだよ。あら、そうなのですか。瞬きと唇の動きだけで会話する私たちに、アンディス様のこめかみに青筋がぴくり。
「一体何を二人で話しているんだっ!?」
『何でもございません』
声を綺麗に重ねる私たちに、アンディス様が唇を尖らせられます。
「余を置いて結託するでないっ!」
私は口元を手で覆い、笑いに肩を震わせました。結託だなんて! 私は傍目にわかりにくいアンディス様の言動の意味を、かの方をよく知るハーヴィスに照会していただけですのに。
ひとしきり笑ったところで、私は我に返りました。違和感を覚えたのです。いつもでしたらリリーが私を諌めに来る頃のはずです。
私はリリーを振り返りました。彼女はこの登山に同行する者たちの輪から外れ、私たちをやや遠巻きに眺めています。
「リリー?」
彼女は私の呼びかけにすぐ反応しました。
「はい、ヘルミ様」
素早く傍に寄ったリリーが、いかようですか? と私に問います。用件を待つ彼女をじっと見つめ、私は首を捻りました。
「……な、なんですか? どうなされたんですか?」
「リリーこそ、いつもと何か違わない?」
「え? 何かって、なんです?」
「いつもと違っておしとやかな気が……」
いえ、言葉を間違えました。大人しい気が。
「どうせ疲れたのではないのか?」
腕を組まれたアンディス様がリリーを見上げ、口をお挟みになりました。
「城で留守番してればいいものを」
「正妃のいらっしゃるところ、常に付き従うのが私の役目です」
少しむっとした様子でリリーが言い返します。
「ほほう。そういう割には、少し離れて立っていたのはどうしてだ? 息切れしていたのを見られたくなかったのではないか?」
「息切れなどしておりません……!」
ううん、仲裁に入るべきでしょうか。私は険悪な雰囲気を漂わせるアンディス様とリリーを観察いたしました。二人は近頃、妙にお互いに突っかかります。けれど一体どうしてなのかしら。
「ヘルミ」
ふいに呼びかけられて、私は我に返りました。アンディス様が私の手を強く引いていらっしゃいます。
「もう少し進む。展望台まで上りきれば、国全体が見渡せる。〈守りの宮〉も見えるぞ」
「〈守りの宮〉?」
「護国の神殿だ。行くぞ、ヘルミ」
アンディス様に先導されながら、私はリリーを振り返りました。付いてこようとするリリーは、確かに顔色悪く見えます。祖国では無敵の彼女も慣れぬ山麓暮らしに、知らずと疲労を溜めこんでいるのかもしれません。
「リリーはここで休んでいて」
私は彼女に言いました。
「すぐに戻ってくるわね」
リリーは唇をむっつり引き結び、はい、と素直に頷いて、数人の騎士たちと共に、その場に残ったのでした。
けれど私はその選択を後悔いたしました。
だって案内していただいた展望台からの景色が、本当の本当に素晴らしかったのですもの! 天へ屹立する嶮山の麓、こんもりとした緑から滝が流れ落ちていたのです! 滝ですよ滝! 私、初めて目にいたしました!
「すっごい迫力だったのよ! 空から水がね、どどどどって音を立てて落ちていくの!」
私は髪を結ってくれているリリーに言いました。我ながら興奮していると思います。だって城のてっぺんよりも、うんとうんと高い場所から、水、いいえ、河そのものが落ちてくるのです。その下は大きな湖になっていて、粉塵のような飛沫が、絶えず立ち昇っています。風に棚引くそれは、竜のうねる髭のようでした。
リリーにも、見せてあげたかった。
「ねぇリリー。アンディス様が今度は別の展望台へ連れて行ってくださるそうなの」
滝を別の角度から見ることが出来るそうなのです。今日とは違い、次の登山は滝を右手に見ながらの経路を採るようです。楽しみすぎます。
今度は、一緒に最後まで登りましょうね。
うきうきと声を弾ませる私に、リリーはどこか呆れた視線を向けました。
「ヘルミ様は本当に山がお好きですねぇ。生き生きしていらっしゃる」
「だって本当に素敵なのですもの!」
祖国にはない数々の地形、数々の草花は、目にとても新しく、そして美しく映ります。
それらを眺めるだけで、小さい頃あこがれた冒険家になった気分になれるのです。
「次が楽しみだわ……!」
「陛下と仲がよろしくて何よりです」
リリーは編み込んだ私の髪に、花を挿して言いました。
「ヘルミ様、急で申し訳ないのですが、夕方までお暇をいただいてもよろしいでしょうか?」
「夕方まで? えぇ、もちろんいいですよ」
私は快諾いたしました。リリーは私にずっと付いていてくれています。嬉しいのだけれど、心配なのです。彼女にも休んだり、買い物に出たり、新しい友人を作る時間が必要なはずですから。
リリーは私が気持ちよく午後を過ごせるように部屋をきちんと整え、この〈北の宮〉付きの侍女に私のこまごまとした好みを伝えると、日の入りまでには戻ると言い置いて退室していきました。
*
ヘルミと別れたリリーは大急ぎで図書室へ向かい、目星を付けておいた図鑑を借り受けた。午前の散歩の途中に見かけた、祖国にはない数種類の草花について調べに出るためだ。ヘルミが知りたがっていたのである。付き人たるもの、主人が「何かしらね」と尋ねた際、素早く答えられるようにしておくべし。リリーは努めて主人の望む知識を蓄えておくように心がけている。たとえヘルミは知識欲が旺盛で、ほとんどの疑問を自分で調べてしまうにしても。質問されることなど、滅多になくとも。
自室に戻り、身支度を整える。外出用の軽装に着替え、園芸用具と図鑑、携帯食糧、水といった諸々を詰めた、荷袋を肩から掛ける。少し考え、刃渡り短い小刀も荷物に含めた。
「おい、お前、一体どこへ行く?」
城壁の裏門で外出の手続きをしていると、通りがかった男が横柄な口調で声を掛けてきた。この国にやってきた当日、リリーがヘルミの部屋から箒で追い出した、あの騎士である。
「城外です」
「見ればわかる。城外に何用だ、と訊いている!」
「答える義務はあるのでしょうか?」
「侍女風情が……」
生意気な口を、と気色ばむ騎士にリリーは背を向けた。
「急ぎますので。失礼いたします」
「おい、待て……!」
素早く目的地に向かって歩き出す。侍女より騎士が上位であるという慣習が、この国に存在するとは聞いていない。この男はただ、『箒で追い出された』ことをいつまでも根に持ち、からんでいるだけなのだ。相手をするだけ時間の無駄である。
(やな男)
彼だけではない。他の〈北の宮〉を護衛する騎士たちも。侍女たちも。そして、王も。
アンディス王がヘルミの下に通うようになってから、皆はてのひらを返したように馴れ馴れしくなった。けれどその内心では平凡な容姿でおっとりとした気性のヘルミを侮っている。それだけでリリーは、ヘルミと彼女の荷物を馬車に押し込み、引き返したい気分でいっぱいになる。祖国へ。彼女を愛してやまない人々がいる国へ。
(わたしは、なんだって、がまんできる)
嫉妬に駆られた妾妃たちからの嫌がらせを未然に防ぐことも。騎士たちの揶揄を受け流すことも。見知らぬ国で生きることも。
ヘルミの傍にいる権利を、奪われない限りは。
けれど他でもない国王が、リリーからその唯一をとりあげようとする。
遊歩道を歩きながら、リリーは溜息を吐いた。
リリーは故郷を離れることに躊躇いを覚えたりはしなかった。ヘルミがリリーに付いてくることを望んだからだ。
ヘルミはリリーにとって唯一無二の存在だった。
人見知り激しいリリーを、ヘルミが人の輪に引き入れた。木登り、鬼ごっこ、かくれんぼ、人形を使ったままごとも。子どもらしい遊びを全て、リリーはヘルミから教わった。ヘルミ傍付きの侍女に選ばれたことが嬉しくて、大人に混じって仕事を懸命に覚えた。輿入れのお付に、ヘルミから指名されたことが、本当に誇らしかった。
あんなに素敵なひとの隣。
それを、アンディスが奪っていく。
(王様が旦那様なんだから、ある程度までなら仕方がないのはわかっているわよ……)
アンディスは大人しさとは無縁のリリーを好いていないらしい。何かにつけてヘルミからリリーを遠ざけようとする。
今日、何よりリリーを暗澹とさせた点は、他でもないヘルミがリリーに待つよう命じて、アンディスと共に行ってしまったことだった。
ヘルミのその行為に悪意はない。黙りがちだったリリーを疲れていると勘違いし、慮ってのことだとわかっている。
それでも疎外感を覚えずにはいられなかったのだ。
かなしかった。
初めて目にする様々な景色に子どものようにはしゃいで、アンディスと遊歩を楽しむヘルミの姿を眺め、リリーは自分が忘れ去られてしまったかのように思えた。人の輪に入れず、泣くことを必死に堪える、ちいさなちいさな子どもになってしまった気がした。
ふと、思ったのだ。
今までヘルミがリリーを選び続けたわけは、自分がサリード・セイルのひ孫だからではないかと。
祖国における魔法使いの名家、セイル家の始祖。ヘルミの趣味嗜好に多大な影響を与えた老爺。リリーをヘルミと引き会わせた人物も彼だった。
輿入れの同行者にリリーを選んだ理由が、ただ曽祖父を偲ばせる存在を傍に置きたいだけだとしたら、ヘルミにとって彼に代わる人が現れたとき、自分はお払い箱になってしまうのだろうか。
(ヘルミ様は、そんな方じゃない)
鞄の肩帯を握り締め、リリーは山道に入った。左右を注意深く観察しながら、祖国では見ない類の植物を探していく。
見つけたひとつひとつを図鑑と照らし合わせ、発見したことを紙に書きつける。どうしても正体わからぬものは、申し訳なく思いながら手折って小瓶に詰めた。
作業に没頭する間にいつのまにか日が暮れていた。
リリーは慌てて立ち上がった。懐中時計に手を伸ばしかけ――動きを止める。
自分を追跡するものの気配に、気づいていなかったわけではない。
最初は獣かと思った。あるいは地元の住民か。熱心に木の根元を掻きわけるリリーを不審に思って、後を追う者がいたとしても不思議ではない。だからこそその気配を放置していたのだが。
努めて平静に帰り支度をし、リリーは来た道を引き返した。しばらく歩いてみたが、人影は見当たらない。気配もいつのまにか消えている。
行ったか、と気を緩めかけたその瞬間、伸びてきた男の手がリリーの口を塞ぎ、身体を巨木の幹に勢いよく押し付けた。
*
マントの裾を翻して、ハーヴィスが私たちを先導します。山道を駆け上っていく彼は、胸と胴を覆う鎧や、腰に佩いた長剣の重さを微塵も感じさせません。まさしく、風のようです。
「へ、ヘルミ……!」
私の後に続かれるアンディス様が、ぜぇ、はぁ、と荒い呼吸を繰り返されて、道端の木に寄り掛かられました。アンディス様ってば、運動が得意でいらっしゃらないのでしたら、城でお待ちくださればよろしいのに。そうされなかったのは、ご自分で事態をきちんと確認されたかったのですね。
リリーは市井の方々にも開放されている山道へ向かったようです。滝を見に行きたくなってしまったのね! やはり彼女を展望台へ連れて行ってあげるべきでした。
リリーの戻る刻限近くになって、アンディス様の近衛騎士、付き人でもあるハーヴィスが、私の部屋に飛び込んできました。彼の部下が一人、リリーを追って山道に入ったとのこと。それだけならばよいのですが、件の彼はリリーに対してあまりよろしくない感情を持っているようで。番兵が言うには、リリーが城門を通るときも、一悶着あったらしいのです。またリリーの後を追う騎士の顔を目撃し、彼のあまりに殺気だった様子におびえた地元の方が、城に話を届けてくれてもおりました。
リリーの不在を確認したハーヴィスは、その足で山へ向かうと宣言し、それならば私も、と彼の後に続いたのでした。
「お、おまえ……なんでハーヴィスに付いて走れるんだ!?」
アンディス様のお隣で護衛の者が、こくこく首を縦に振って同意します。お二人とも、とても驚いたお顔です。
「え? どうしてって……服は動きやすいものに着替えておりますし……」
ハーヴィスを待たせないためにも、支度は迅速にすませました!
「言っておくがハーヴィスは、幼馴染みだからという理由だけで、余の護衛をしているわけじゃないんだぞ!」
あぁ、幼馴染みなのですか。道理でハーヴィスはアンディス様に気安いはずです。
「ハーヴィスは、足だって相当速いんだ……!」
「私、追いかけっこは得意ですの」
「普通は女の脚で楽々追いかけられるものではないといっているんだ……!」
まぁアンディス様。誤解していらっしゃいますわ。私だって易々というわけではございません。何しろこの国は私の祖国より空気が薄いので、すぐに息が上がってしまいます。本当でしたらもう少し速く走れそうなのですが。
私は我に返りました。ハーヴィスの姿は、既に見えなくなっています。
「アンディス様はそちらで休憩なさっていてくださいね。……陛下をよろしくお願いいたします」
護衛の者にアンディス様のことをお願いして、私はさっと踵を返しました。
「ヘルミ!」
アンディス様の声が追いかけてきますが、待ってはいられません。
ハーヴィスの靴跡を辿っておりますと、引き返してくる彼に会いました。
「こっちにはいません。どん詰まりまで行きましたが、姿は見えませんでした」
もう一方の道を私たちは一緒に上ります。いえ、徐々にハーヴィスが私を引き離していきました。彼の姿が見えなくなりそう。そう思ったときでした。
「リリー!」
道の湾曲部。そこに生えるかなり大きな樹の幹に、騎士に片手で口を塞がれたリリーが押し付けられています。騎士は小さな刃を握り締めたもう一方の手を、天高く振り上げておりました。
「やめろ!」
ハーヴィスの怒声に騎士が身を震わせます。
「リリー!」
あぁ……だめっ!
けれど騎士の手は勢いづいたまま、リリーにまっすぐ剣を振り下ろしました。
愚か(・・)に(・)も(・)。
――……人の身体が地に叩きつけられる、派手な音が響き渡りました。
驚いた鳥たちがばさばさと、羽音煩く飛び立ちます。
ハーヴィスと騎士、そして追いついたばかりのアンディス様たちが、一様に声を揃えて呻きました。
『…………え?』
リリーが空を裂いて落ちる刃を宙で受け止め、仰臥する騎士の耳元に鋭く突き立てます。
彼の髪が一房切り落とされ、土の上に散らばりました。
「……自分がしたいと思っていたことを自分で味わってみたご感想はいかがかしら?」
騎士の喉元をぐっと掴み、リリーがにっこり笑います。
「髪の毛を切って脅してやろう、ぐらいのつもりだったんでしょ? どうしてわかるのかって? 目線と刃先を見ていれば馬鹿でもわかるわよ。あのね、箒で叩き出されたときにわからなかったの? 貴方より、私のほうが、強いの。自分が修行不足なだけじゃない。それなのに自尊心を傷つけられたかなんだか知らないけれど、ねちねちねちねち。鬱陶しいのよ!」
「リリー!」
「ヘルミ様、今しばらくお待ちください。お騒がせして申し訳ありません」
騎士から視線を離さず、リリーは私に謝りました。そして彼女は言いました。
『セイシサセヨ』
それは二重に振れたように聞こえる、腹の底に響く聲でした。
「う、うごけ、な」
拘束の魔法を受けたからでしょう。騎士が顔色を変えました。
「いかに寛容な私でも、襲われて穏やかに許せるほど、人間できていないのよね。さぁ、体中の薄皮をこれで剥がされてみる?」
リリーは短剣の腹でぺちぺち騎士の方の頬を叩きました。あぁリリー! 完全に悪人の顔ですよ!
「それとも水攻めがいいかしら」
リリーが短く呪文を唱えると、水球が空に浮かび上がりました。子どもの頭ほどの大きさです。それで顔を覆えば呼吸ができなくなるでしょう。とても初歩的ないじめ方です。
「リリー駄目です!」
私は背後からリリーを抱きすくめ、騎士から引き離しました。
「ヘルミ様! 止めないでください! こいつってば、ずっとずっとヘルミ様のことも見下して、いつかは懲らしめてやらなきゃいけないと思っていたんです! 大丈夫です! 薄皮剥いだそばから治療はしますから!」
「駄目ですリリー! リリーの名誉のために、私は主人としてリリーを止めなくてはなりません! 忘れましたか!? カッサヴァの使者の方の毛という毛を、つるつるにしてしまった時のことを!」
「あれはっ……! 愛人になれってしつこいから……っ! 二度とそういう不埒な真似ができないように、色男を台無しにしてあげただけですよっ!」
「でもその後でリリーに求婚する方が激減してしまったではありませんか!」
「私に負ける男なんてこちらからお願い下げですっ!」
その使者の方はカッサヴァでも名の知れた将軍でいらっしゃったのです――剣の腕前と女性を口説く技、両方で。高官の護衛としておいでになったその方は、リリーを一目見て気に入られ、それはしつこくしつこく言い寄って。嫌がったリリーが最後には剣術と魔法で、かの方の自尊心を完膚なきまでに砕いてしまったのでした。
「お願い。私の言うことを聞いて頂戴」
私はリリーを正面向かせ、その肩を揺さぶりました。
「リリーも覚えているでしょう? あの時もオルコット大公がそれは苦心して、事を処理してくれたのですよ。ここでリリーが乱暴者扱いされてしまったら……」
「……わたし」
リリーが拳を握りしめて呟きました。
「国に、帰されますか?」
「かもしれません」
「私、ヘルミ様と離れるのは嫌です」
下唇を噛みしめるリリーを、私は強く抱きしめました。
「私もリリーと離れるのは嫌ですよ。大好きですもの」
「……すか?」
「え?」
私は一度リリーから離れ、彼女の顔を覗き込みました。
「それって……私が、曾お爺様の――サリード様の、ひ孫だからですか?」
私はきょとんと目を丸めました。
「まぁ、当たり前だわ!」
リリーが息を呑んで面を上げます。私は微笑んで彼女のふわふわの髪を撫でました。
「リリーがサリード様のひ孫でなかったなら、私はリリーに出会えていないのですよ!」
「……私が、ひ孫じゃなかったら?」
「あの方のひ孫でないリリーは別の誰かでしょう? そうしたらリリーに出会えていないわ! 大好きになりようがありません!」
リリーとして生まれた彼女が好きなのです。身分違いの恋などで、よく、家柄関係なく好きになる、などと言いますね。それは道理ですが一方で、相手の素性を軽んじてはいないでしょうか。その家があるからこその相手なのです。その生まれ育ちによって形成された人格を、好ましく思っているのです。
私はサリード・セイルのひ孫として生まれ落ち、群を抜いて魔法の才に優れ、だからこそ何物も恐れず行動を起こせる彼女が好きです。そして色々な才能に秀でてはいるけれど、人に上手くなじめない不器用なところをかわいいと思います。私の色んな遊びに付き合ってくれる、根気強くて優しい子。
そういったことを私はリリーに噛んで含めるように語って聞かせました。
「リリーが乱暴者のように扱われるのは嫌だわ。私はたくさんのものをリリーと見たいから、一緒に来てもらったのです。大好きなリリー。国に帰らせたりなんてしません。陛下にお願いしますから。……ね! アンディス様!」
「あ!? あ……あぁ」
地面に寝そべったままの騎士を眺めていらっしゃったアンディス様は、びくっと震えられながら私に頷き返されました。
「ほら、リリー。だから滝も今度一緒に見に出かけましょうね!」
「た、たき……?」
「そうです! 見に行けなかったことが悔しかったのでしょう? 一人で出かけるなんてずるいわ!」
リリーはその大きな瞳をぱちぱち瞬かせた後、何故かべそべそ泣きながら、笑って頷きました。
「はい……はい、ヘルミ様。いつも、ご一緒させてください!」
完全に脇に追いやられている。
いちゃいちゃするヘルミとリリーの主従を、アンディスはしばらく遠巻きに眺めていた。
「とりあえずあの侍女を怒らせないほうがいいみたいだなぁ、陛下」
隣に立っていたハーヴィスが、笑いに腹を抱えている。
下の毛までつるつるになりたくないよなぁ。けらけら声を上げる彼を無視し、アンディスはまだ動けずにいる騎士の下へと歩み寄った。
「……へいか」
騎士は怯えた顔をしている。
「あの侍女は我が正妃に近しいものぞ。なにぞあれば大事になるところだった。余の顔に泥を塗る気か」
「おゆるしを」
「去ね。二度とその面、余の前に見せるな」
「紹介状は書いてやるよ」
ハーヴィスが騎士の傍らに片膝を突いて微笑んだ。
「でもどれぐらいの実力か、見定めないといけないからなぁ。ちょっと練兵場で、お前の穴を埋める候補者五十人ぐらいとまとめて戦ってみようか。……よろしいでしょうか? 陛下」
「好きにしろ」
アンディスは大地に張り付けられたままの男を見下ろした。ここまで長く魔法の効果が持続しているとは。リリーの魔法使いとしての実力は本物らしい。
――……足を速くする魔法はないものか。せめて、ヘルミに負けない程度に。
そう思って視線を上げたアンディスは、まだ主人と抱き合っている侍女に叫んだ。
「リリー・セイル! いい加減ヘルミから離れろ!」
自分もまだ抱きついたことなどないというのに。
*
〈北の宮〉に、アンディス様が休憩にいらっしゃった昼下がり。
「へぇ、箒で叩き出したって、打ち負かしたってことだったの」
リリーから話を聞いたハーヴィスが口笛を軽快に鳴らしました。
私がこのラスパルにやってきた日、リリーが部屋から追い出した騎士。彼が先日、山で彼女に乱暴を働こうとした男性だったのです。
あの時リリーは彼に突然躍りかかったわけではないのですよ。まず箒を彼に手渡し、宣戦布告をした上で、襲いかかったのです。最初は笑っていた彼もすぐに真剣になりましたが――結果はご存知の通りでした。
リリーが肩をすくめます。
「まず剣の構えがなってないわ。足運びもよ! あんたの部下の教育、一体どうなってるの?」
「耳が痛いね。この間のこともふまえて、騎士道精神から再教育しているんで許して。ていうか、強いねぇ、リリーサン」
「セイル家の家訓は、魔法使い、ひ弱であるなかれ、よ」
「どんな家だ……」
紅茶の入った茶器から口を離されて、アンディス様が呟かれました。そのままのおうちですよ、と私はお答えいたします。
「もしよければ今度、俺と軽く打ち合ってよ。他の国の剣の型って興味あるんだよな。君だって運動すれば鬱屈した気分も晴れるだろうしさ」
「うっくつ?」
「ああああぁあなんでもありません! 何でもありませんヘルミ様!」
余計なことを言わないで! あぁ、御免もしかして正妃、他のお妃様たちからの悪戯、知らんの?
ひそひそと何やら話し合うリリーとハーヴィス。いつの間に仲良くなったのかしら。
「陛下、お許しいただいても?」
「普通は先に許可を求めるものだぞ、ハーヴィス」
「俺とアンディス様の仲じゃーん」
ハーヴィスがぐりぐりとアンディス様の髪をかき混ぜます。こちらも仲がよろしくて何よりですわ。
「怪我をさせるなよ」
「させませんよ」
「舐められたものね! 手加減いらないわよ! ……と、いうことでよろしいでしょうか!? ヘルミ様!」
「……あまり無茶はしないでね、リリー」
もちろんです、とリリーは鼻息荒く腕まくりします。
あぁ、申し訳ありません。
私はリリーのご両親に謝りました。
どうやらこの国でもリリーに求婚する殿方の数は激減しそうです。
アンディス様の深い溜息が聞こえ、私は苦笑いたしました。
「アンディス様、どちらが勝つか、お賭けになりませんか?」
私の提案にアンディス様が目を瞠られます。
「ハーヴィスが勝つに決まっている」
「あら、そうでしょうか?」
私が軽く焚き付けますと、アンディス様は面白そうに笑われました。
「……わかった。なら何を賭ける?」
「リリーが勝ったら新しい高山植物図鑑全二十五巻を図書館に揃えてくださいな!」
それが届いたらリリーと一緒に山を散策しに出かけます!
アンディス様? どうしてそんな呆れられた目で私をご覧になりますの?
「……よし、余が勝ったら、余とお前、二人だけで散歩をしよう」
「あら、そのようなことでよろしいのですか? 他に何かございませんか?」
「他には何もな――……」
「ございませんか?」
「抱……」
「だ?」
「……うむ。また勝ったら言う」
アンディス様のお顔が、何故か真っ赤です。この部屋、暑いのかしら。
私は冷たい飲物の手配をリリーに頼みました。こちらに向き直ったハーヴィスが、にやにやと笑っています。
「アレー、何をお話なさっていたんですか、陛下。顔真っ赤ですよ」
「うるさい!」
軽口の応酬を楽しむ年の離れた主従を、私は微笑ましく思いながら紅茶に口を付けました。
ハーヴィスとリリーのお遊びの試合? 気になりますか?
そうですね。ではまた機会がありましたら、お話いたしましょう。