10月31日 -2-
「今は手持ちがありません」
ぐったりとして起き上がった櫻子をちらと見て、アジュールはそうのたまった。
は、と乱れた呼吸が空気に溶け込む。
ターコイズブルーの瞳が熱を孕んだまま、息も絶え絶えの櫻子を見下ろしていた。下から向けられる恨みがましい視線にも臆することはない。むしろ満足げな色を湛え、口元にふと笑みを上らせた。
熱くほてった四肢を後退させ、ぐちゃぐちゃになったシーツを引いて櫻子にかけると、自分は上掛けを下肢に纏い、ベッドの端に腰掛けた。
スッと離れていった馴染みの体温に、櫻子は胸の内がきゅんと縮こまるような気がした。向けられた背中は汗ばみ、項にかかる髪はしんなりとして、視線を下ろすと、綺麗な肩甲骨が呼吸に合わせて微かに揺れるのが見て取れた。
いつにない冷たさと、いつにない激しさ。
酷く扱われたような、けれど、穴に埋まってしまいたいほど、自分が乱れていたことをまざまざと思い出す。かあ、と顔が耳の端まで真っ赤になって、叫びだしたいのを必死にこらえた。
あれからどれくらい経ったのだろう。
振り払うようにそんなことを考える。櫻子は重い瞼を無理やり開けて、ベッド傍の目覚まし時計を見やる。午後4時を少し回ったところだ。
二時間という数字がすぐさまはじき出され、このまま寝てしまいたい衝動に駆られたが、せっかく用意したお菓子のことを考え、ふらつきつつ体を起こした。
そのときだった。「今は手持ちがありません」と妙なことを言われたのは。
「手持ち?」
「ええ」
「お土産のこと?」
悪魔的なお土産を“手持ち”という、みたいな。櫻子の脳裏に間抜けな考えが浮かぶ。アジュールは気分を害したように目を眇めた。
「あまり馴れ馴れしくしないでくださいね」
冷たくそう言って、ぽかんとする櫻子をじっと観察し始めた。
櫻子は言われたことが理解できず、瞠目するばかりだ。なれ、なれ? 馴れ馴れし、く?
アジュールはくすりと笑って、再びベッドに乗り上げると、器用に上掛けを纏わせたまま、櫻子の隣に座った。
「……まあいいでしょう。あなたの肌は存外心地よいですから」
ついと顎を掬い、噛みつくように口づける。シーツの上から肌を撫で、その切れ目から中へと入りこみ、上へと忍ばせていく。あまりに自然な二回戦への突入に、櫻子は慌てて覆いかぶさる男の胸を押した。
「ちょ、ちょ、ちょっと待って! もう夕方になるから、早く食べないと夜にお腹いっぱいになっちゃうよ」
クッキー以外は本日中に食べたほうがよい。少し肌寒い気温だが、食べないならばせめて冷蔵庫に入れなければいけないのだ。ここはなんとしてでも二回戦突入を延期、もしくは中止せねばならない。
激しく拒否を示した櫻子に、アジュールはおどろおどろしい声で言う。
「…上級悪魔たる私に、夜まで待てと命じるのですか。手持ちはないと言ったが、払わないとは言っていない」
普段からあれやこれやと理由をつける方だが、今日は中々手強い。
「いやあの、払うとか払わないとかそういう…」
言いかけて、櫻子はふと閃いた。払う、払わない。つまりこれは食費だ。いつの間にか話題が移ったらしいと流れを無視してそう結論付ける。本日は10月末日。11月の食費について言っているに違いない。
「なるほど」
「何がなるほどですか」
「あ、いや気にしないで。こっちの話」
「私が聞くと譲歩しているのですから、あなたは素直に話せばいいんです」
あれ、なんだかこんな会話前にも…。譲歩ってなんだっけ。
「なんです、間抜けな顔をして」
「ま、まぬけ…」
軽く貶されて、いつのことだったか思い出す気力をくじかれた。
「いや、えっとね、もう十分もらっているし、今月はもういらないよ、ってこと」
「払われて、いる、ですか」
アジュールは呆然とそう繰り返し、ムッと眉根を寄せた。
「え、あ、うん」
なぜだ、なぜ怒る。櫻子は混乱した。
「どこの誰に、いえ、階級は?」
「え、最上級悪魔なんでしょ?」
「さ…」
アジュールは言葉を失くす。なんだか顔色も悪い。
「あの、大丈夫? もしかして、頭打った?」
「どういうことです。誰が、いえ、なぜ私の分を? なんだか混乱してきました。大体、ここはどこの館ですか。店主を呼びなさい」
「かん? てんしゅ…?」
あれ、なんだかかみ合っていないな。櫻子はようやく気が付いた。
互いに何か変だと気が付いていたようで、二人はとりあえず服を着ることにした。無言で服をかき集めだした、と言った方が正しいだろう。随分遅れて余韻がやって来たらしい。櫻子は顔を真っ赤にし、おろおろと服を着始める。
アジュールの目元もほんのりと赤い。おかげで、緩慢な動作で服を着直すその横顔を二度見してしまった。珍しい照れ顔にまじまじと見つめていると、戸惑ったように顔を背けられた。
「な、何を見ているのですか…」
「何というか、その、」
いつもと違う。冷静に観察すると、確かに違うのだ。髪も少し長いような気もする。背は、もう少し高かったような気が、しないでもない。微々たるものだが、何かが違う。
「なんで気付かなかったんだろう…」
思わず独り言ちた声は、幸いアジュールに聞こえなかったようだ。
服を着終え、いつまでもベッドの近くにいると落ち着かないこともあり、そそくさとリビングにやってきた二人は、お互いにしばらくぎくしゃくしていた。かみ合わない社交ダンスのようだ。
「あ、まあ、とりあえず座って」
お菓子だらけのリビングテーブルに座るよう示す。
来たときは気が付かなかったのだろうか。アジュールは目をぱちぱちとさせつつ、お菓子の山に視線を釘づけにしている。普段ならば、美味しそうですね、さすが櫻子さん云々、と甘いセリフで褒めちぎるのだが、目の前のアジュールは少し不安げに櫻子を見返すばかりだ。
「今日は、何かの祝い日ですか」
「祝い日…祝っているかはよく知らないけど、ハロウィンって言ってね、みんなでお菓子を食べる日だよ」
そんな説明あるか、と突っ込みを入れる要員はこの場にはいなかった。
「お菓子…本で読んだことがあります。甘く繊細な食べ物らしいですね」
ぽつりとそう返しながら、椅子を引いて腰掛けるその姿に、櫻子は確信した。
「……好きだよね、チーズケーキ」
チーズケーキを切り分け、差し出してやる。
皿を受け取ったアジュールは、何も言わなかった。
「食べながら話そうか。コーヒー淹れてくるね」




