海に行きたい
毎日暑いですね、ということで。
「人間界の夏って、暑いね…」
転移陣を使って櫻子の部屋に遊びに来ていたミエルは、扇風機の前に陣取って横になり、足をばたつかせて、うんざりしたようにそう言った。その額には汗が光っている。
そろそろエアコンをつけるべきだな、と思いながら、櫻子は冷凍庫から市販のアイスキャンデーを取出し、暑さにへばるミエルに差し出した。
とたん、ぐったりとした様子から一転、勢い起き上がると、ミエルは嬉しそうにそれを受け取り、
「ありがと、サクラ! 人間界の夏は、アイスが美味しいから好き!」
テーブルに着いた櫻子の向かい側の椅子に腰かけて、いそいそと袋を開けた。シャリシャリとした触感が気に入ったらしい。「ん~!」と手足をばたつかせ、声にならない喜びを全身で表現している。
「冷た~い! おいし~い!」
この表情見たさに、ついつい買いこんでしまって、冷凍庫は現在、ほとんどアイスで埋まってしまっている。最近はビールの味を覚え、つまみにオニオンフライを強請る恋人には、しばし我慢を強いることになりそうだ。櫻子ご用達の冷凍大袋オニオンフライは、どう頑張っても入りそうにない。
「ねぇサクラ。人間界は、毎日こんなに暑いのか?」
八月も終わりに近づいたここ数日は猛暑が続き、しきりに熱中症予防が喚起されていたためエアコンを常時使用していたが、今日は比較的穏やかな気温と言えるだろう。
とはいっても、ミエルには微々たる違いにしか感じられないようだ。魔界は夏になってもほとんど温度に変化はない。厳しい冬があるだけだ。
「うーん、明日はもっと熱いんじゃないかな」
朝に見たニュースで、確かそんなことを報じていた気がする。そう思いだし、確認のためテレビをつけ、チャンネルを回して天気予報を探し始める。
「わっ、すごい。お腹丸見えだね。イル様が見たら、お腹冷えちゃうって叱られそう」
同じくテレビを見つめていたミエルがふとそんな声を上げた。
画面に映っているのは、海水浴場でのインタビューの様子だ。記者が小学生らしき女の子に、夏休みの宿題は終わりましたか、と尋ねている。彼女が着ている水着は、大量のフリルをあしらったセパレートタイプだ。
「お腹丸見え…。ミエル、水着来たことないの?」
「みずぎ?」
「あれはね、水に濡れてもいい服なの。あれを着て水の中で泳ぐんだよ。海、行ったことない?」
櫻子の問いに、ミエルはとても複雑そうな顔をした。
「海は、遠くからなら見たことがあるけど…、サクラ、泳ぐの?」
「あはは、こう見えてもわたし、泳ぐのは結構得意だよ」
「ええっ、サクラ凄いね。私はちょっと怖いなあ。でもあの人たち、楽しそうだね」
魔界ではあまり泳ぐ習慣がないのだろう。ましてミエルは猫耳だし…と櫻子はやや見当はずれの思考を巡らす。
怖々としながらも、ミエルは楽しげな雰囲気の家族連れに視線を釘づけにしていた。
「今度みんなで一緒に行ってみる? 冷たくて気持ちいいよ」
「みんなで…。イル様と、サクラがいるならあの人も来るだろうし、平気かな。うん、行ってみたい」
「じゃああとで水着買いに行こっか。わたしも、新しいの買おうかな」
「私、お腹が出てないのがいいな。でも、ひらひらしたのは可愛いって思う」
ちら、と上目遣いにおねだりをするミエルの表情は小悪魔的で、櫻子は思わず、にへらと頬を緩ませた。
アジュールが本日の仕事を終えて帰ってきたのは、無事水着を購入し、ミエルが意気揚々と魔界へ帰って行った一時間後――夕刻のことだった。
「こちらはまだ暑いですね」とシャツの襟元をくつろがせ、リビングのソファに腰掛ける。ある一点に目を止め、何か合点がいったのか、麦茶を運んできた櫻子に思わせぶりな視線を送った。
「櫻子さんは、本当に私を困らせる天才ですね」
困っている様子は全くない。ただただ、ぞっとするほど甘い声でアジュールはそうのたまった。
「え、何が?」
何やら身の危険を感じた櫻子は、押し付けるように麦茶を渡してすぐ、キッチンへと踵を返したが、カツンとグラスとテーブルが硬質な音を立てた次の瞬間、ぐいと腰元を抱き寄せられ、逃亡は失敗に終わった。両手で羽交い絞めにされ、動くこともままならず、ずりずりとそのままソファへと運ばれてしまう。
アジュールはその華奢な肩に顎を乗せ、すでに真っ赤に染まった耳たぶを柔く食んだ。
「ぎゃっ! ちょ、アル、何して、何してるの!」
「何って、誘ったのは櫻子さんのほうでしょう?」
蜂蜜のように甘い声に、櫻子はくらくらと眩暈がした。
「さ、誘ってなんてないし! 断じて!」
「今さら照れなくてもいいでしょう? 知らない仲じゃないんです」
おたおたと慌てる櫻子の耳にそう囁くと、顎を取って振り向かせ、やや強引に口づける。その目はどこか怪しい色を灯し、思わず目をつむった櫻子の顔をじっと見つめてやまない。
「ん、や、アル…ちょ、ま……」
なんなんだ、いつスイッチが入った!
櫻子は激しいキスの嵐に息も絶え絶え、アジュールの背中を強かに叩いた。その意をくんだのか、アジュールは櫻子をほんの少し解放した。
「ああ、少し苦しかったですか? でも、櫻子さんが悪いんですよ。煽るようなことをして」
「し、してない!」
断固とした否定に、さすがのアジュールも利く耳を持ったらしい。
「ではあれは?」
と指したのは、テレビの横に置かれた紙袋。寝かされたその上には、今日購入したばかりの水着や、ミエルにせがまれてタンスの中から取り出した歴代の水着が無造作に重なっている。一番上は、ちょっと大胆なビキニタイプだった。
夕食の準備に取り掛かって、片付けるのを忘れていたらしい。あ、という顔をした櫻子に、アジュールは呆れたような顔をする。
「大胆にもあんなところに下着を置いて、私はすっかり誘われているものだと。いつにない積極性あふれる櫻子さんに応えないわけにはいきませんからね。今更恥ずかしがっても駄目ですよ。今日はもうその気です」
にっこりと笑ったアジュールの目は本気だった。
「え、いや、違うの! そうじゃないの! ちょ、アル! 話聞いて!」
やんややんやと叫んでみたが、どれも抑止力にはなりえない。結果どうなったかは、夕食がすべて翌日のお弁当の材料になったことに鑑みれば、察するのは容易いことだ。
「――は? 水着?」
後日、櫻子は水着の何たるかを説明した。魔界では泳ぐと言う行為はあまり一般的ではないらしい。しきりに怪訝そうな顔をしていたが、“人間は夏泳ぐものである”と新たな常識を辛うじて受け入れたようだった。
水着を見つめて、なにやらじっと考えるようなしぐさをするアジュールに、櫻子は先日のミエルとの会話を話して聞かせる。
「それでね、今度みんなで海に行きたいなあって思って」
「は? 海? 眺めるのではなく?」
「え、そうだけど? 眺めるって、入らなかったら暑いでしょ?」
きょとんと小首をかしげた櫻子に、アジュールは血相を変えた。櫻子の両方に手を置いて、諭すように言う。
「死にたくなければ、海は駄目です」
「はい?」
「恐ろしいことを聞きました。よくもまああのような危険地帯に、無防備と同等の格好で臨めましたね。さすが私の櫻子さんは運がいいのか。まあ、今まで命が無事だったことを感謝しましょう」
「え、あの、アル? 言っていることがよく分からないんだけど」
「とにかく、海は駄目です。水着が着たいのなら、湯船に水を張りなさい。それなら私も安心して楽しめます」
「いや、あの、お風呂じゃ意味がなくてね。狭いし。ミエルと二人でいっぱいになるよ」
「あの小娘が来たら、おのずとイヴォワールも現れるでしょう! 櫻子さんの下着姿をあの男にも披露しろと? 生憎ですが、私はそこまで寛大な男ではありませんよ!」
「下着じゃなくて、水着だってば…」
海に行くことは無理そうだ。ならばプールはどうだと代替案が浮かぶが、不特定多数の人間がいる場所で、下着同等の姿をすることを狭量な恋人が許してくれることはないだろう。ミエルになんて言って謝ろうか、途方に暮れる櫻子であった。
ミエル「イル様、見てみて! サクラと一緒に選んだ!」
イヴォワール「下着にしては飾りが多いな。眠るときに嵩張りはしないか?」
ミエル「これ水着って言うんだよ。これを着て海に行くんだ」
イヴォワール「海? 眺めるのか?」
ミエル「サクラがね、泳ぐんだって」
イヴォワール「は? 泳ぐ? 何を考えているんだ。そんなことをすれば魔物の格好の餌だ」
ミエル「でもね、サクラはもう何度も泳いだことがあるんだって。凄いよね」
イヴォワール「……………サクラは、人間だな? どうして今まで無事だった」
ミエル「わかんない。泳ぎが得意だって言ってたよ。この下着は水に濡れてもいいから、水着なんだって」
イヴォワール「まあ、とにかく海は駄目だ。遊ぶなら浴槽に水を張って遊べ」
ミエル「はぁい!」




