仕立札から名を消された縫製師、四十八着を救い染織伯のただ一人に選ばれる
「この札、邪魔ね」
夫人の鋏が、私の名を一息で切り落とした。
六着の披露礼装を吊るした衣装室である。裂けた薄絹には裏から同色布を当て、色褪せた裾には染め直した糸で花枝を足した。どの補修も表からは見えない。見えない仕事ほど上等だ。だから、内側の修復札には私の名が必要だった。
必要だったはずなのだが、細長い札は床に落ちた。
切り口が斜めだ。私の鋏なら、もっと真っ直ぐ切れる。
「お約束の報酬を」
「六着とも古布でしょう。新しく仕立てたわけではないのだから、半額で十分よ」
「古布だから直したのですが」
「祝いの日に細かいことを言わないで。お客様に顔を見られる前に、裏口から帰ってちょうだい」
夫人は私の袖口を見た。
実家で使っていた紫の家色は、長い袖の折り返しに隠してある。その下にあるものまで見透かされた気がして、私は腕を背へ回した。
「あなたみたいな女は、祝いの席に似合わないもの」
抗議すれば残り半額まで消える。私は床の札を拾い、報酬袋と一緒に鞄へ入れた。
せめて鋏を貸してくれればよかったのに。職人の名を切るには、あまりに不出来な一刀だった。
* * *
二家目では十八着を直した。
婚礼随員服の袖丈を揃え、虫食いを刺繍へ化けさせ、三日遅れで届いた金糸を半日で縫いつけた。仮の作業票には、専属仕立師と私の名が並んでいた。
正式請求書には、一つしかなかった。
「確認ですが、私の名がありません」
提出した家務監督は、目上の専属仕立師には微笑み、私には紙を指で叩いた。
「外部の者の名まで載せれば、家の体面が損なわれる。あなたは手を貸しただけだ」
「十八着のうち十四着を担当しても?」
「口答えするな。通行札を返せ」
真鍮札を机へ置くと、彼は布で拭ってから引き出しへしまった。私が触れた跡は、正式請求書より念入りに消された。
「次の紹介状には、扱いづらい性格だと書いておく。祝いの席に似合わない女だともね」
「お世話になりました」
扉までの六歩で、背後から請求書を束ねる音がした。十八着分の紙は厚く、鞄の報酬袋は軽い。通行札のない私は、針一本を忘れても戻れない。振り返ったところで、私の名だけは一つにも増えない。
一家目では腹が立った。二家目では、空腹のほうが勝った。
名は食べられない。仕事があれば生きられる。
そう思うことにした。思うだけなら無料である。私の暮らしで、無料はたいへん尊い。
* * *
「三十六時間で、四十八着全部を着られる状態にします」
言った。
言ってしまった。
雨漏りした染織伯家の衣装庫には、床まで垂れる礼装が四十八着。濡れた絹、濡れた毛織、濡れた金属糸。窓の外では雨樋がまだ盛大に負けている。
王族を迎える祝宴まで三十六時間。
私の口は、どうして財布より大きな約束をするのだろう。
「全部?」
跡取り様が聞いた。灰色の目は礼装ではなく、私の顔を測っている。
「四十八着です」
「聞き違いではなかった」
「聞き直しても減りません」
「人手は?」
「役割を守る方が十二人。命令を守る跡取り様が一人」
「俺を最後に数えるな」
「では最初に働いてください」
引退した先代女主人ペルネル様が、杖の石突きを床へ打った。
「人員と工房は私が出す。手順を言いなさい」
「五段です。順序を変えたら、全部失敗します」
私は濡れた裾を持ち上げた。雨水が緑の染料を吸い、隣の白絹へ伸びかけている。
「第一段、雨損封鎖。濡れたまま重ねれば、隣の色を食べます。サンドラン様、運搬人三人と、濃色、淡色、金属糸入りの三群へ。麻の番号布四十八枚、杉の張り枠六基、床布十二枚。初日九時まで」
衣装庫主任サンドランは床へ膝をつき、番号布を六基の枠へ結び始めた。
「四十八枚、六基、十二枚。三群。九時まで」
「一着につき番号布は一枚。運搬中は襟、張り枠へ置いたら枠へ結び替えます。外れたら動かさない。戻り先はこの床です」
「襟と枠。外れたら床へ戻す」
数字を返されると、頭の中の散らかった針が整列する。いい人だ。ぜひ全員こうなってほしい。
運搬人が濃紺の礼装を持ち上げる。
「待って。裾を引かない! 水を吸った絹は、見た目より自尊心が脆いんです」
「布に自尊心が?」
跡取り様が聞く。
「あります。職人より尊重されます」
「それは家の運用に問題がある」
さらりと真顔で言われ、私は返す言葉を一針ぶん失った。
九時前、三群は床布の上へ分かれた。緑が白へ移りかけた一着には、以前の仕立師が残した継ぎ布が内側に縫い込まれていた。色も織りも同じ。私はそれを外し、染みの広がった箇所へ仮留めする。
「端切れで間に合わせるのか」
「端切れではありません。前の仕立師が未来のために残した、寸法の違う高級素材です」
「一般には端切れという」
「これは節約ではなく、素材への敬意です」
言い切った。見栄は迷ったら負ける。
「了解した。素材への敬意を四十八着ぶん保管する棚が要るな」
跡取り様は笑わず、空いた棚を二つ運ばせた。
そこは笑ってもよかったのに。
「第二段、色留め洗浄です。雨の鉱物染みを浮かせます。アンヌマリー様、洗濯女四人。銅盥四つ、白酢六瓶、明礬十二杯、網袋四十八枚。十五時まで。擦らず、押す。縮みが止まるまで風通し廊下の枠で乾燥。寸法が安定しなければ、次へ進めません」
アンヌマリーは四十八着を見渡して青ざめた。私も内側では同じ色である。顔に出さないのは、職能ではなく見栄だ。
「濃色二名、淡色二名、私は金属糸入りを担当します! 酢は一本ずつ開栓、明礬は三杯ずつ、網袋は番号順! 濯ぎ水に色が出たらヴァランティーヌ様を呼んでください!」
洗濯女たちが四方へ散った。
銅盥へ礼装を沈め、掌で水を押し出す。白酢の酸味が鼻を刺した。空腹時に嗅ぐものではない。酢漬けの野菜を想像した私の胃が、祝宴より先に騒ぎ始める。
「食べろ」
跡取り様が固焼きパンを差し出した。
「手が濡れています」
彼は私の指へ押しつけず、布を敷いた採寸台に置いた。
「一口なら工程に影響しない」
「二口だと?」
「噛む回数による」
「面倒な方ですね」
「三十六時間を宣言した人間に言われたくない」
正論は腹にたまらない。私はパンを三口で食べた。
洗浄は一度では終わらなかった。濃色は酢を増やし、淡色は明礬を減らす。金属糸入りは網袋の上から支え、糸の重みで布が伸びないよう二人で持つ。十二時に二着を洗い直し、十四時には四十八着すべてを廊下へ移した。
私が最上段の枠へ手を伸ばしたとき、袖が肘まで滑った。
斑に引きつれた皮膚へ、灰色の目が止まる。
私はすぐ袖を戻した。跡取り様は何も言わず、採寸台の脚留めを外した。
「二寸下げる」
「なぜです」
「肩が上がっている。精度が落ちる」
四人がかりで、台が二寸低くなった。
同情なら断れた。精度と言われてしまえば、職人は逆らえない。ずるい。
十五時、最後の胴回りを測る。縮みは止まった。
「次へ進めます」
私が告げると、廊下にいた全員が息を吐いた。
マッテオ様だけは、祝宴の席次表へ印をつけていた。
「席が一つ空いていますよ」
「空けてある」
「王族の随員が増えたら足りません」
「その一席は使わせない」
「誰のためです?」
「仕事を終えた人間のためだ」
何人も終えます、と返す前に、ペルネル様が杖で次の扉を示した。
「十九時まででしょう。口より手を動かしなさい」
* * *
第三段、名寸照合。
採寸台に、襟裏から外した名札四十八枚と、保管採寸票四十八枚を並べる。ペルネル様が名札を押さえ、文書係のドミンゴが着用者名を読み、私は真鍮尺で肩幅、袖丈、胴回りを測った。
「名と寸法、両方が一致して初めて糸精が縫います。名だけ合っても駄目。寸法だけでも駄目です」
「一着でも違えば?」
跡取り様が問う。
「その一着は呼んだ糸精の前で置物になります。最初から戻します」
二十七着目で、名札と肩幅が一寸違った。
「洗浄で縮んだ?」
「胴回りは採寸票どおりです。袖丈も。これは別人の礼装です」
サンドランが番号台帳を開き、顔色を失った。
「二十七番の番号布だけ、乾燥廊下で別人の礼装へ結び替えています」
「洗浄済みです。このまま進めてもよろしいのでは」
イグナシオが初めて作業台へ近づいた。家務監督らしい整った上着、濡れていない靴。実に働いていない人の装いである。
「よくありません。二十七番を番号付けからやり直します」
「祝宴に間に合わなくなる。外部職人は家の都合を優先しなさい」
「糸精は家の都合を読みません」
「一着くらい——」
「やり直しなさい」
ペルネル様の一言で、イグナシオの語尾が消えた。私へ向けていた顎も半寸下がる。格上が入ると縮む素材らしい。明礬は不要だ。
サンドランは二十七番を濡れた衣装庫まで戻し、新しい番号布を結んだ。洗浄、乾燥、再採寸。十八時四十分、名と寸法が一致する。
四十八着すべてが、持ち主の名へ戻った。
「第四段、糸量割付。二十三時までです。傷んだ縫い目を尋数へ換算し、八体へ分けます。一体の上限は二百尋。越えれば糸精は途中で消え、解けた礼装が残ります」
「必要量は」
跡取り様が象牙尺を取る。
「上限は八体で千六百尋。実際は傷み方次第。照合前に裁っていれば、やり直した一着の縮みを拾えませんでした」
「だから順序を変えるな、と」
「はい。裁断師三人、紙型四十八枚、八色の配分盆を。縫い代を開いて、切れた経糸と緯糸を別々に数えます」
跡取り様は私の計算を再確認しなかった。
私が一着ごとの必要量を読み、彼が復唱し、裁断師が紙型へ記す。象牙尺が布の上を滑り、傷んだ縫い目が数字へ変わっていく。
百九十六。
百九十八。
百九十九。
百九十四。
百九十七。
二百。
百九十五。
百九十七。
「合計、千五百七十六尋」
跡取り様が八色の盆を順に押し出した。
「各群六着。一体二百尋以下。余裕は合計二十四尋」
「二百の盆には余裕がありません」
「お前の割付なら足りる」
短く言って、彼は次の盆を持った。
私の仕事を褒める人はいた。安く使う前には、皆よく褒めた。
けれど、計算を確かめずに採用されたのは初めてだった。
胸の奥で何かが動いた。今は邪魔だ。私は針山の隣へ押し込むつもりで、第五段の道具を並べた。
「八指貫契約に入ります。銀指貫八個、漂白していない絹の契約帯八本、名札四十八枚、配分済みの絹糸千五百七十六尋」
イグナシオが帯を摘まんだ。
「祝宴の契約に、こんな生成りの布を?」
「漂白した帯は糸精が嫌います。古い在庫を裁ちましたが——これは節約ではなく、素材への敬意です」
二度目も言い切った。見栄は二度重ねると信念らしくなる。見栄も無料だ。
「条項は順番を違えないでください。召喚者名。担当する六着の名。糸量。期限は夜明けまで。最後に、黒ずんだ指貫を召喚者が一個銀貨三枚で買い戻すこと」
「八個で銀貨二十四枚」
跡取り様が復唱した。
「私の報酬から払います」
「家の仕事だ」
「召喚者が買い戻す条項です。代価を他人へ回せば契約違反になります」
「報酬額を上げる」
「今ここで変えると、私が代価を知らず呼んだことになるでしょう。契約が濁ります」
跡取り様の眉間に皺が寄った。私の無茶を法と数量で止める人が、法と数量で止め返されている。少しだけ気分がいい。
「共同作業者としては?」
「盆を一つずつ渡してください。順番を間違えたら、跡取り様の靴紐を縫わせます」
「礼装より先に?」
「威嚇です」
「実行可能な威嚇をしろ」
私は契約帯へ記した。自分の名。六人の名。糸量。夜明け。買い戻し。
八本すべてを書き終え、銀指貫を右から一つずつ伏せる。
一つ目。
指貫の穴から白い指が伸び、小さな糸精が卓上へ這い出した。髪は絹糸、目は針穴ほど。契約帯を両手で引き寄せ、六人の名を順に撫でる。
二つ目は帯を肩へ担いだ。
三つ目は紙型の端を噛んで確かめた。
四つ目は金属糸へ頬を寄せた。
五つ目は私の字を見て、不満げに一画を指した。読めるでしょう。急いだのです。
六つ目は銀指貫を帽子のようにかぶり、すぐ脱いだ。
七つ目は六枚の名札を寸法順へ並べ替えた。
八つ目は卓を叩き、盆を要求した。
「跡取り様、一番盆」
「百九十六尋、六着」
盆が渡る。糸精は名札と紙型を重ね、ようやく一針目を刺した。
二番盆、百九十八尋。
三番盆、百九十九尋。
四番盆、百九十四尋。
五番盆、百九十七尋。
六番盆、二百尋。
七番盆、百九十五尋。
八番盆、百九十七尋。
八体が六着ずつ引き受ける。針が走った。裂け目を寄せ、継ぎ布を潜らせ、雨でほどけた金糸を元の模様へ戻していく。
私たちも休まない。糸精が縫った箇所を私が指で確かめ、マッテオ様が染料を一滴ずつ調合する。色の薄い糸を替え、縮んだ裏地を蒸気で伸ばし、紙型と寸法を照合する。
夜半、私の右手から針が落ちた。
「十六分休め」
「十五分で」
「十六分だ。階段を往復する時間を含む」
「休憩に移動時間を入れるなんて、良心的すぎて怪しいです」
「寝台も運ばせるか」
「十五分で結構です」
「十六分」
私が採寸台へ突っ伏すと、肩へ毛布がかかった。
目を閉じる直前、空けられた祝宴席の札が作業台の端に見えた。まだ名は書かれていない。
誰の席なのか、聞かなかった。
* * *
夜明け、一体目の糸精が最後の糸を噛み切った。
続いて二体目、三体目。八体目が礼装の襟を叩き、六着の名札を私へ返す。
四十八着。
すべて、着られる。
糸精たちは指貫へ戻った。銀色だった八個は煤を塗ったように黒ずみ、指先へ載せると、ひどく重い。
私は報酬袋から銀貨を出した。
一個につき三枚。
三、六、九、十二。
十五、十八、二十一、二十四。
八個目を買い戻すと、契約帯の文字が淡く消えた。都合のよい奇跡は、請求だけは実に正確である。
「修復札を付けます」
私は四十八枚の札に、作業者を記した。
洗浄、アンヌマリーと洗濯女四人。
分離、サンドランと運搬人三人。
照合、ペルネル、ドミンゴ。
糸量割付、マッテオと裁断師三人。
再生、ヴァランティーヌ。
祝宴前の衣装室へ礼装が運ばれ、持ち主たちが袖を通す。肩が合う。襟が立つ。金糸が朝日を返す。
私は壁際で、黒ずんだ指貫を箱へ収めていた。
ぱちん、と小さな音がした。
顔を上げると、イグナシオが修復札の糸を切っていた。四十八枚からではない。一番上へ掲げる正式な修復札から、私の名がある行だけを外している。
そして真鍮の札を私へ差し出した。
「外部職人は裏口を使え。祝宴の客に姿を見せるな」
三度目だ。
驚かなかった。驚けない自分のほうが、少し困る。
「その正式札を戻してください」
「功績は家名へ集約する。お前は報酬を受け取れば十分だ」
「銀貨二十四枚を差し引いた残りを?」
「契約費まで家に負担させるつもりか」
彼は私にだけ声を張った。すぐ後ろにペルネル様が立っているとも知らずに。
「イグナシオ」
肩が跳ね、命令口調がきれいに萎んだ。
「これは、家の体面を考えてのことでして」
「衣装庫の鍵を出しなさい」
「しかし——」
「名簿の署名権、外部職人の通行管理権、衣装庫の監督権。今、この場で外します。鍵を」
イグナシオは腰の鍵束を握りしめた。ペルネル様が杖を一度鳴らす。
金属が掌から離れた。
鍵束はサンドランの両手へ落ちた。イグナシオの名が権限台帳から横線で消され、ドミンゴが時刻を記す。
「礼装に似合わないのは修復者ではなく、功績泥棒です」
ペルネル様の声は低く、よく通った。
イグナシオは何も持たずに衣装室を出た。その後の処分を、私は尋ねなかった。直すべきものと、切り離すべきものは違う。
ペルネル様は切られた私の名を拾い、正式札へ戻そうとした。
「お待ちください」
礼装の持ち主の一人が、直った袖を光へ透かした。
「この袖を直した方は?」
アンヌマリーが私を指す。
「ヴァランティーヌ様です」
その人が、こちらへ向き直った。
「ヴァランティーヌ。間に合わせてくださって、ありがとう」
隣では襟を確かめた人が顔を上げる。
「この金糸も、ヴァランティーヌが?」
「はい」
「ありがとう、ヴァランティーヌ」
裂けていた裾を踏み出した人が、私の前で止まった。
「歩けます。あなたのおかげです、ヴァランティーヌ」
名が続いた。
四十八人全員が同時に言ったわけではない。一人ずつだった。袖を確かめ、襟を撫で、裾を持ち上げ、そのあとで礼装ではなく私を見た。
ヴァランティーヌ。
ヴァランティーヌ。
私の名は布札より重く、衣装室を渡ってきた。
切り取られた行を、ペルネル様が正式札の中央へ縫い戻す。今度は端ではない。
胸の中で拳を握った。三度目まで黙って消されるほど、私は安くない。ようやく、私自身がそれを聞いた。
「正面玄関へ行きなさい」
ペルネル様が命じた。
「私は裏口の札を渡されました」
「それは無効です」
サンドランが真鍮札を受け取り、半分に折った。
「確認します。裏口札、一枚。無効」
数字にしてもらうと、妙に安心する。
* * *
正面玄関には、マッテオ様がいた。
祝宴の扉は開いている。四十八着が光の中を進み、空けられていた一席には、私の名札が置かれていた。
「仕事は終わりました」
私は黒ずんだ指貫の箱を差し出した。
「見ればわかる」
「では、報酬の精算を」
「あとだ」
「私は祝宴へ出る服を持っていません」
「今着ている」
「これは仕事着です」
「お前が三十六時間働けた服だ。四十八着より丈夫だな」
「褒め方が染織伯家の跡取りとは思えません」
「礼装を褒めて帰すつもりはない」
その声で、言葉が止まった。
マッテオ様は私の長い袖を見た。縫い込まれた紫の家色。二つの家で、私はそこを握って耐えた。自分がどこから来たかを隠す布であり、両腕を見せないための布だった。
私は鞄から鋏を出した。
「何をする」
「確かめます」
「何を」
「名と、本人の寸法が一致しているかを」
実家色の袖口へ刃を入れる。
一針だけ切った。
紫の糸がほどけ、袖が手首から肘へ滑り落ちた。薬洗いで焼け、引きつれ、色の違う皮膚。何年も働くたび増えた傷が、朝の光へ出る。
鋏を持つ指が震えた。
「袖なら直せます。でも、醜いと言われ続けた腕を、私はどう直せばよかったのですか」
喉の奥が狭くなった。
「仕事をすれば、使ってもらえると思いました。役に立てば、名前がなくてもいいと。祝いの席に似合わなくても、裏口があればいいと」
息が途中で折れた。
「そう思わなければ、次の家へ行けなかったのです」
マッテオ様は傷から目を逸らさなかった。
同情の言葉もなかった。
両手で、私の腕を受け取った。壊れ物のようには持たない。八つの盆を渡したときと同じ、重さを知っている手だった。
「直す必要はない」
「ですが」
「俺が見ているのは、その腕で四十八着を救った人間だ」
彼の親指が、引きつれた皮膚の手前で止まる。
「苛立てば口が悪くなる。金がなければ古布を高級素材と言い張る。無茶を宣言して、失敗条件を全部数え、他人の間違いは一着でも最初へ戻す。自分の報酬だけは、二十四枚も平気で削る」
「平気ではありませんでした」
「知っている」
声が落ちた。
「だから、完成した礼装だけを欲しいとは言わない。仕事ができるときのお前だけでもない。傷を隠すお前も、怒るお前も、腹を空かせて見栄を張るお前も、全部だ」
彼は私の名を呼んだ。
「ヴァランティーヌ。俺は、生涯ただ一人として、お前を選ぶ」
頬を何かが伝った。拭おうとして、両腕とも彼に預けたままだと気づく。
「共同工房を作る。看板には最初からお前の名を掲げる。俺の名の下でも、家の名の陰でもない。並べる」
マッテオ様の手にも、染料の跡が残っていた。私が配分した八色だ。
「その工房で、俺と働いてほしい。それから——」
一度、彼の呼吸が止まった。
「仕事がない日も、俺の隣にいてほしい。俺と婚約してくれ」
胸へ押し込めていたものが、全部ほどけた。
一家目で拾った細い札。
二家目で返した真鍮札。
三家目で切られた一行。
なくしたと思っていた私の名が、彼の声の中にあった。
「私で、よろしいのですか」
「本人の名と寸法が一致している」
「傷があります」
「見た」
「怒ります」
「知っている」
「貧乏くさい工夫もします」
「共同工房の経費が助かる」
私の口から、うまく息が出なかった。
それでも言わなければならない。名札は、本人が受け取って初めて役目を果たす。
「お受けします」
声が震えて、もう一度言った。
「マッテオ様。私を、あなたのただ一人にしてください」
腕を引かれた。
傷を避けて遠慮する抱き方ではなかった。背と腰へ腕が回り、私の身体が彼の胸へきちんと収まる。強い。苦しいほどではない。逃がす気がないだけだ。
私は彼の上着を掴んだ。
二度、堪えた。
三度目も、仕事の邪魔になるからと飲み込んだ。
喉が鳴り、肩が揺れ、彼の胸元が次々と濡れた。マッテオ様は何も急かさず、何も説明せず、ただ私の名を呼んだ。何度もではない。必要なときに、一度ずつ。
ヴァランティーヌ。
そのたび、切られた場所へ糸が通る。
祝宴の扉の向こうで、四十八着が動いていた。袖が上がり、襟が振り向き、裾が床を滑る。私が成立させた祝いの席。その正面に、私のための一席がある。
けれど今は、入れなかった。
マッテオ様が離してくれない。
ようやく呼吸が整い、濡れた頬を彼の上着から上げた。
「もう大丈夫です」
「そうか」
「祝宴が始まります」
「始まっている」
「私の席が」
「逃げない」
「マッテオ様」
腕の力は少しも緩まなかった。
どうやらこの方、終了時刻を決め忘れたらしい。




