第59話: 消えた影と、冬の砦に残るもの
医務室の前にガイアスの怒号が響いた直後、砦の廊下は一瞬にして騒然となった。
「団長! 影はどこへ?」
「見失いました! 足跡も……!」
「隠蔽魔法ですわ。追跡は困難ですの」
ミレイユの声は冷静だが、緊張が滲んでいる。
ガイアスは医務室の扉を閉め、リゼットの前に立った。
「リゼット。今夜は絶対に一人で動くな」
「……はい。でも、料理は作りますよ。倒れてる人を放っておく方が怖いですから!」
ガイアスは一瞬驚き、そしてわずかに笑った。
「……お前は本当に強いな」
「強くないですよ。ただ、やることがあるだけです!」
「だからこそ、守らなければならない」
その言葉は、静かだが確かな誓いだった。
- 翌朝、厨房で-
夜の騒ぎが収まったとはいえ、砦の空気は張りつめたままだった。
リゼットは騎士二人に付き添われながら、厨房へ向かう。
「団長さん、そんなに警戒しなくても……」
「当然だ。昨夜、医務室の前まで影が来たんだぞ」
「……まあ、何が起きてるのかが分からないのは怖かったですけど。
でも、料理は作らないと!」
リゼットは胸を張り、鍋を抱えて厨房へ入った。
その瞬間――
「……あれ?」
厨房の窓が、わずかに開いていた。
昨夜、ガイアスが封鎖したはずの窓だ。
「団長さん、これ……」
ガイアスが駆け寄り、窓枠を調べる。
「……細工されている。内側から開けた形跡じゃない」
すかさずミレイユが指先をかざすと、淡い光が窓辺に広がった。
「魔力の残滓……やはり侵入されていますわ。
しかも、昨夜の影と同じ“隠蔽系”の魔法ね」
「つまり、影はまだ砦の中にいるということか」
ガイアスの声は低く、怒りを押し殺していた。
「団長さん……影は、何を探してるんでしょう?」
リゼットの問いに、ガイアスは迷いなく答えた。
「お前だ」
「えっ、私!?」
「お前の料理が“病を癒す”と知れば、
どこの国でも、お前を欲しがる。
隣国でも、王都でも、同じだ」
ミレイユも頷く。
「病の原因が“食”にあると気づいている者なら、
あなたの料理を狙うでしょうね。
……あるいは、あなた自身を」
「……うわぁ……面倒くさいですね」
リゼットは頭を抱えた。
「でも、料理は作りますよ!
倒れてる人を放っておけませんから!」
ガイアスは苦笑し、しかし目は真剣だった。
「だからこそ、守る。
お前は砦の、いや国の希望だ。」
その夜。
砦の廊下を、音もなく滑る影がひとつ。
影は厨房の前で立ち止まり、
扉の隙間から漏れる灯りをじっと見つめた。
そして、静かに呟く。
「……あれが“鍵”か。
ならば――手に入れる」
影は闇に溶けるように姿を消した。
影が医務室の前に現れた夜から、砦は一晩中ざわついていた。
見張りは倍に増え、廊下には松明が灯され、騎士たちは交代で巡回を続けた。
だが、影は二度と姿を見せなかった。
足跡も、気配も、魔力の揺らぎすら残さず、
まるで最初から存在しなかったかのように。
翌朝。
リゼットが医務室に入ると、隣国の民たちは昨日より明らかに顔色が良かった。
「……本当に、助かった……」
「こんなに体が温かいのは、何年ぶりだろう……」
リゼットは微笑みながら、鍋をかき混ぜる。
「まだまだ良くなりますよ。今日は胃に優しい粥を作りますからね」
ミレイユが魔力を確かめるように民たちを見回し、静かに頷いた。
「魔力の流れが戻っていますわ。
やはり、お姉さまの料理には……“力”があります」
「ふふふ、料理は愛情ですから!」
「……そういう問題ではありませんわ」
ミレイユは呆れたようにため息をついたが、その表情はどこか安心していた。
砦の会議室では、ガイアスが地図を広げていた。
騎士たちが集まり、昨夜の影について報告を交わす。
「影は完全に姿を消しました。
外壁にも、雪原にも痕跡はありません」
「魔力の残滓も、今朝には消えていましたわ」
ミレイユの言葉に、ガイアスは腕を組んだ。
「……影の正体は分からない。
だが、砦を狙ったのは確かだ」
「団長さん……私の料理が原因ですか?」
リゼットが不安そうに尋ねると、ガイアスは首を振った。
「お前の料理は“救い”だ。
だが、それを利用しようとする者がいるのも事実だ」
「……面倒くさいですね」
「面倒だが、向き合うしかない」
ガイアスは地図の上に手を置き、静かに言った。
「王都へ報告を上げる。
この病は、砦だけの問題ではない。
国全体が動く必要がある」
その声には、決意が宿っていた。
その日の夕方。
ミレイユは一人、厨房の裏口に立っていた。
雪の上に、かすかに残る“魔力の揺らぎ”。
普通の者には見えない、淡い光の粒。
「……これは、隠蔽魔法の“残り香”ですわね。
でも……何かが違う」
ミレイユは眉をひそめた。
「私の知る魔術とは……系統が違う。
もっと……古い。
もっと……深い」
その言葉は、誰にも聞こえないほど小さかった。
夜。
砦の灯が揺れる中、リゼットは厨房で明日の仕込みをしていた。
「団長さん、明日はもっと元気になるように、特製スープを作りますね!」
「……ああ。頼りにしている」
ガイアスはリゼットの頭を軽く撫で、外へ出ていった。
その背中を見送りながら、リゼットはふと窓の外に目を向けた。
雪が静かに降っている。
ただの冬の夜のはずなのに、どこか胸がざわつく。
「……なんだろう。
まだ、誰かに見られてる気がする……」
リゼットは首を振り、気のせいだと自分に言い聞かせた。
だが、砦の外壁の上。
誰もいないはずの場所に、
ほんの一瞬だけ“影”が揺れた。
風か、雪か、あるいは──。
影はすぐに消えた。
しかし、確かにそこに“何か”がいた。
砦の冬は終わりに向かっている。
だが、静かに忍び寄る影は、まだ消えてはいなかった。




