第54話:黄金の馬車と、白き病の予兆
ポトフ侯爵が乗った黄金の馬車が、深い雪に轍を刻みながらゆっくりと北の砦を離れていく。
見送りに立ったリゼットは、冷たい空気に鼻を少し赤くしながらも、晴れやかな笑顔で大きく手を振っていた。
窓が静かに開き、侯爵が白い手袋をはめた手でリゼットを手招きした。
「……リゼット殿。少し、耳を貸してほしい」
訪れた時の尊大さは影を潜め、その瞳には“王の食卓を預かる者”としての真剣な色が宿っていた。リゼットが駆け寄ると、侯爵は声を潜めて告げる。
「今、王都の一部で奇妙な病が流行っている。熱も咳もない。ただ――食が細り、気力を失い、まるで冬の灯火のように静かに衰えていくのだ」
「そんな……。原因は分かっているんですか?」
「分からん。宮廷料理師たちは滋養のある料理を作り、聖教会は祈祷を捧げているが……どれも決め手に欠ける」
侯爵は一度言葉を切り、昨夜の食堂での出来事を思い返すように目を細めた。
「……だが、昨日、君の料理を食べた時だ。あの“温かさ”が、わたしの冷え切った胃袋と心を確かに揺さぶった。王都の食卓は華やかだが“力”がない。魔導加工された食材、精製しすぎた穀物、香りばかり強くて、肝心の“命の味”が抜け落ちている。……わたし自身、どこかで気づいていたのだろう」
自嘲気味に、ほんの少しだけ寂しげに笑う。
「近いうちに、王都から使いが来るかもしれん。その時は――どうか、力を貸してやってくれ。君の料理なら、あの病に立ち向かえるかもしれん」
「ええ、誰かが苦しんでいるなら、私にできることを精一杯します」
リゼットが胸に手を当てて真剣に頷くと、侯爵は満足げに目を細め、再び窓を閉じた。
黄金の馬車は雪煙を上げながら、静かに、だが確かな重みを持って砦を後にした。
リゼットがぽつりと呟いたその時、背後から硬質な金属音が響いた。
振り向くより早く、がっしりとした大きな手がリゼットの肩を引き寄せ、そのまま胸元へと囲い込む。
「……何を話していた、あの食通は」
低く、どこか苛立ちを含んだ声。ガイアスだ。
侯爵がリゼットの耳元で囁いていた――彼にはそう見えた――距離感に、内心穏やかではなかった。
「あ、団長さん! あの、王都で流行っている病のことなんですけど……」
リゼットが深刻な顔で説明しようとする。しかし、ガイアスの腕の力は緩まない。
彼はリゼットを保護するように抱き寄せたまま、侯爵の馬車が消えていった道ではなく、その正反対――国境の向こう側を鋭く見据えた。
「王都の病か。……嫌な予感がするな。リゼット、お前は私のそばを離れるな。誰が迎えに来ようと、お前を連れ去ることは許さん」
「団長さん……?」
ガイアスの瞳には、大切なものを奪われまいとする獣のような鋭い光が宿っていた。
彼は知っている。王都の権力者たちが、自分たちの失策を埋めるために、リゼットの「力」を都合よく利用しようとするであろうことを。そして、その影がすでに、この北の砦にまで忍び寄っていることを。
リゼットはそんなガイアスの胸元にそっと手を添え、柔らかく微笑んだ。
「……大丈夫ですよ、団長さん。私はここにいます。砦のみんなと一緒に」
その笑顔は、冬の冷気を溶かすように温かかった。




