第52話:霜降り肉と、北の知恵
夕刻、砦の厨房は異様な緊張感に包まれていた。
作業台の上に鎮座しているのは、ポトフ侯爵が王都から魔導冷蔵ボックスで運ばせてきた、見事なサシの入った『王都牛の特上サーロイン』だ。
「さあ、見ろ! この芸術的な脂の輝きを! これこそが文明の味。北の痩せた鹿肉や硬い保存食とは格が違うのだよ。これを至高の技術で焼き上げ、私が持参した『七色のスパイス』で仕上げるのだ」
侯爵は勝ち誇ったように腹を突き出した。
確かにその肉は素晴らしい。だが、リゼットはその肉をじっと見つめ、困ったように眉を下げた。
「……侯爵さん。このお肉、確かにとっても綺麗ね。でも……」
「なんだ? あまりの高級食材に怖気づいたか?」
「いえ。……この冷え切った砦の夜に、この『脂』をそのまま焼いて出すのは、侯爵さんの体にとって、あまり優しくないわ」
「何だと……!?」
侯爵が憤慨する間もなく、リゼットは作業を開始した。
彼女が手に取ったのは、侯爵が差し出した最高級肉だけではなかった。砦の地下貯蔵庫から出してきた、凍りつくほど冷たい『雪中キャベツ』と、昨日仕込んだばかりの『自家製味噌』。そして、騎士たちが狩ってきた『山鳥の骨』で取った澄んだスープだ。
リゼットは、侯爵が「ステーキにしろ」と命じた霜降り肉を、あろうことか薄くスライスし始めた。
「貴様! 私の至宝を切り刻む気か!?」
「侯爵様、よく見ていてくださいね」
リゼットは熱した鉄鍋に、あえて肉ではなく、たっぷりの雪中キャベツと根菜を敷き詰めた。そこに少量の味噌と出汁を加え、蒸気が上がったところで、その上に霜降り肉をそっと「蓋」をするように重ねたのだ。
じゅわあぁっ……。
肉の脂が熱で溶け出し、下の野菜に黄金色の雫となって滴り落ちていく。
王都のスパイスではなく、野菜の甘みと味噌の香りが、肉の脂を包み込むように立ち上った。
「これは……ステーキではない。蒸し煮……か?」
「はい。『霜降り肉の雪中蒸し・砦味噌仕立て』です」
リゼットは出来上がった料理を、侯爵の前に差し出した。
肉は余分な脂が野菜に吸収され、驚くほど艶やかで柔らかそうに仕上がっている。
「王都のような暖かい部屋なら、ステーキも美味しいでしょう。でも、この凍える砦で脂っこい肉をそのまま食べれば、すぐに胃がもたれて、体は逆に冷えてしまいます。こうして野菜と一緒に蒸すことで、お肉の旨味を野菜に移し、味噌の成分で体の中から温まっていただきたいんです」
「……能書きはいい。味がすべてだ」
侯爵は震える手でフォークを取り、肉を口に運んだ。
噛んだ瞬間、暴力的なまでの肉の旨味が溢れ出した。しかし、それは決して重くない。肉の脂を吸い取ったキャベツが、驚くほどの甘みを持って口の中をリセットし、次の一口を誘うのだ。
「っ……!! なんだ、このキャベツは……! 肉より甘いではないか! それにこの泥臭いと思っていた味噌が、高級肉の香りを一段と深く、高貴なものに変えている……!」
「お姉さま。その男の舌には、この繊細な『温度の魔導』は理解できないと思っていましたが……。どうやら本能だけは、まだ死んでいなかったようですね」
ミレイユが横から冷たく言い放つが、侯爵は言い返す余裕もなかった。
彼は夢中で肉を、そしてそれ以上に「肉の旨味を吸った野菜」を口に運び続けていた。
「どうしてだ……。私が持ち込んだ食材なのに、私が知っている味よりも、ずっと……ずっと『温かい』……」
ガイアスは、その光景を静かに見守っていた。
侯爵が持ってきた「王都のプライド」を否定するのではなく、この土地の知恵で「さらに美味しく」昇華させて見せたリゼット。
(彼女は戦っていない。ただ、目の前の人間を『美味しく生かそう』としているだけなのだ)
最後の一切れを飲み込んだ侯爵は、呆然と空になった皿を見つめていた。
そこへ、リゼットがにこりと笑って告げた。
「侯爵さん。明日、よかったらこの砦の『本当の朝ごはん』を食べていきませんか? 王都にはない、とびきりのものを準備しますよ」
美食家貴族の目は、もはや軽蔑に満ちたものではなかった。
彼は小さく、しかしはっきりと頷いた。
「……ああ。見届けさせてもらおう。君が言う、その『とびきり』を」




