第48話:砦の休息と、リゼットの「故郷」への想い
賑やかだったチーズフォンデュの晩餐が終わり、騎士たちが泥のように眠りについた深夜。
砦を包むみぞれはいつの間にか静かな雪へと変わり、雲の切れ間からは王都では決して見ることのできない、手の届きそうなほど鋭く輝く星空が広がっていた。
リゼットは一人、バルコニーで夜風に当たっていた。
昼間の熱気が嘘のように静まり返った石造りの砦。冷え切った空気が肺を洗い流してくれるような感覚に、彼女はそっと瞳を閉じる。
背後から、衣擦れの音と共に、静かだが確かな足音が近づいてきた。
「……こんな時間に、冷えるぞ」
ガイアスだった。彼は自分の分厚い毛皮の外套を、リゼットの華奢な肩を包み込むようにそっと掛けた。そのまま手を離すのが名残惜しいかのように、一瞬だけ彼の指が彼女の肩に留まる。
「あ、団長さん。ありがとうございます。……王都の夜景も綺麗だったけど、やっぱりこの砦の、ちょっと痛いくらいの冷たい空気が、私、好きだなぁと思って」
「そうか。……君は、本当に不思議な人だ」
ガイアスはリゼットの隣に並び、月光に照らされた暗い山脈を見つめた。
「王宮で一生贅沢ができる地位を得ながら、迷わずこの不便な最北の地に帰ってきた。シグルドやカシアンも、君がいなくなって酷く落胆していたと聞くが……。リゼット、君は一体どこでその腕を磨いたんだ? 君の料理には、宮廷料理人たちの傲慢な技術とは違う……何か、根源的な温もりがある。俺は、それに救われている一人だ」
ガイアスの問いは静かだったが、そこにはリゼットという女性の核に触れたいという、一人の男としての真摯な思いがあった。リゼットは少しだけ目を伏せ、月明かりに光る黄金のかんざしにそっと指を触れた。
「……私の故郷は、ここよりもっとずっと南にある、地図にも載らないような小さな村なんです。両親は早くに亡くなって、私は村の古い修道院のキッチンで育てられました」
リゼットが語る過去は、派手な成功物語ではなかった。
「そこは、お金はなかったけれど、いつも誰かがお腹を空かせて駆け込んでくるような場所でした。病気の子、旅の途中で倒れた人、働き詰めの農家さん……。そこで私を育ててくれた方は、よくこう言っていたんです」
『リゼット、料理は魔法じゃない。でも、食べる人が明日も生きたいと思えるように、一口ごとに祈りを込めなさい』
「……祈り、か」
「はい。雪に閉ざされた冬の日に、たった一杯の温かいスープが人の命を繋ぐのを、私は何度も見ました。だから、私の料理は『明日を生きるための味』なんです。高級な食材がなくても、丁寧に灰汁を取り、火を通す。それだけで、人は少しだけ強くなれる……。それを教えてくれた故郷に、いつか恥じない自分でありたくて」
リゼットが照れくさそうに笑い、ガイアスを見上げた。
ガイアスはその瞳で、リゼットの瞳をじっと見つめ返した。彼女の「至高」の正体は、王の舌を満足させる技術ではなく、絶望の中にいる者の背中をそっと押す、その献身的なまでの「祈り」だったのだと、彼は改めて知った。
ガイアスは、思わずリゼットの手を握りしめそうになるのを、騎士としての自制心でかろうじて抑えた。拳を握り込み、震える声を押し殺して告げる。
「……リゼット。君の故郷がどこであれ、今、この砦は君の『家』だ。君が祈りを込めて作るなら、俺も、あの馬鹿な騎士たちも、どこまででも強くなれる。……君がここにいてくれることが、俺にとっては、何よりも……」
言葉の続きが、熱を帯びて喉まで出かかった――その時。
「……お姉さま。あまり、この筋肉騎士と深い話をしないでいただけます?」
闇からミレイユが音もなく姿を現した。彼女はいつも通り無表情だが、その瞳には「抜け駆けは許さない」という猛烈な独占欲が渦巻いている。
「ミレイユちゃん……。起きてたの?」
「お姉さまの過去の解析、完了しましたわ。……慈愛の結晶、ですわね。もしお姉さまが望むなら、いつでも私の魔法でその村ごと、この砦の隣に引っ張ってきて差し上げますのに。この団長を頼る必要などありませんわ」
「あはは、それはちょっと大掛かりすぎるわね。でも、ありがとう、ミレイユちゃん」
三人の穏やかな笑い声が、澄み切った夜の空気の中に溶けていく。
ガイアスは、告げられなかった言葉を胸の奥にそっと仕舞い込んだ。だが、彼を見つめるリゼットの瞳には、確かな信頼と温かな光が宿っている。
王都で手に入れた栄誉よりも、今、自分の料理を必要としてくれるこの人たちと過ごす時間。
それが、リゼットにとっての、もう一つの「至高」の答えだった。
一応これで第三章をしめくくりとしたいと思います。
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