第46話:地獄の訓練とホットチョコレート
朝の味噌仕込みが一段落した頃、空からみぞれ混じりの雪が舞い始めた。
地面がうっすら白く染まり、砦に冬の入り口が訪れた。
北国特有の、湿り気を帯びた大きな雪の結晶だ。それはいずれ訓練場の茶褐色の地面を覆い尽くし、砦全体を静寂の白へと塗り替えていくだろう。
「……動きが鈍いですわ。雪の抵抗を計算に入れなさい。筋肉の熱量だけで寒さを誤魔化そうとするのは、魔導学的に見て下策の極みですわ」
ミレイユの冷徹な声が、寒空の中突き抜けて響く。
彼女は雪の中でも濡れることのないよう、不可視の魔力障壁を頭上に展開し、片手にはいつもの魔導書。対する騎士たちは、必死の形相で木剣を振るっていた。
「ミレイユ殿……! さすがにこの寒さの中での『重力付与』は、死ぬ……本気で凍死する……!」
「あら、心臓が止まるまでは生きておりますわ。お姉さまが戻られたというのに、その程度の心肺機能では、冬の魔物に怯えてお姉さまの安眠を妨げるだけですわ。……ほら、次のセットですわよ」
容赦ないミレイユのしごき。だが、騎士たちの瞳に宿る火は消えていない。
今の彼らには、この試練を乗り越えた先に待っている「救済」が、確信として存在していたからだ。
「はーい、みんな! そこまでにして、一旦休憩よ!」
砦の入り口から、明るい声が響く。
リゼットだ。彼女は厚手のポンチョに身を包み、大きな銀のポットを幾つも浮遊させたトレイを持って現れた。その光景は、地獄の訓練場に舞い降りた女神そのものだった。
「お姉さま! 丁度、この不純物(騎士)たちの廃棄処理を検討していたところですわ」
「もう、ミレイユちゃん。あまりいじめちゃダメよ? はい、みんな。今日は特別に、体を芯から熱くする『秘密の飲み物』を作ってきたわ!」
リゼットがポットの栓を抜くと、そこから立ち昇ったのは、暴力的なまでに甘く、そして官能的なまでに芳醇なカカオの香りだった。
「こ、これは……王都でしか見たことがない、カカオの……?」
「ええ。王都を出る時、宰相さんが『北の冬は厳しいから』って、最高級のカカオ豆を持たせてくれたの。それに、私の故郷に伝わる数種類のスパイスと、ほんの少しの蒸留酒を隠し味に加えてあるわ」
リゼットは一人一人のコップに、琥珀色に輝く濃厚な液体を注いでいく。
騎士たちが、震える手でそれを口に運ぶ。
「……っ!! なんだこれ、熱い! 喉を通った瞬間、火が灯ったみたいだ!」
「甘いだけじゃない……奥からピリッとした刺激が来て、手足の先まで血が巡るのが分かるぞ。生き返る……! 俺は今、北の雪原で最強の戦士になった気分だ!」
ホットチョコレート――その甘美な誘惑に、屈強な騎士たちが相好を崩す。
リゼットは、少し離れた場所で舞い散る雪を眺めていたガイアスの元へ歩み寄った。
「団長さん。はい、これ。一番スパイスを効かせておいたわ」
「……リゼット。訓練中にこれほど贅沢なものを与えては、士気が緩むと言ったはずだが」
そう言いながらも、ガイアスは素直にカップを受け取った。
リゼットの指先がカップ越しに触れ、そこから伝わる確かな温もりに、彼の胸の奥がわずかに疼く。
一口。濃厚なカカオの苦味と甘みが、シナモンやクローブの香りと共に、彼の冷え切った神経を優しく解きほぐしていく。
「…………旨いな。シグルドが寄越したものというのが癪だが……君が淹れたこれは、どんな魔法よりも身体を強くする」
「ふふ、良かった。宰相さんも、団長さんたちの力になればって仰ってたわよ。……あ、団長さん、口元にクリームが……」
リゼットが自然な動作で、指先を伸ばそうとした――その瞬間。
「お姉さま!! 公爵様の顔面ケアは、私の魔力洗浄で事足りますわ!」
ミレイユが割って入り、ガイアスの顔面に小さな突風を浴びせる。
「……貴様、ミレイユ……。わざとやったな」
「あら、私はお姉さまの手を汚さないよう配慮したまでですわ。公爵様こそ、お姉さまの慈悲を独占しすぎではありませんこと?」
火花を散らす二人を余所に、リゼットは楽しそうに笑っていた。
「リゼットさん! このチョコを飲んだら、指先まで熱くなってきました! なんだか……俺、今なら岩でも砕けそうな気がします!」
「あら、それは元気ね! でも、あんまり無理しちゃダメよ?」
「いいえ、見ててください! お礼に、次の演習で一番の成績を収めてみせますから!」
リゼットの応援を受け、若手騎士は「うおおお!」と雄叫びを上げて、訓練場へと駆け出していった。それに触発された他の騎士たちも、コップを置いて次々と木剣を手に取る。
「おい、一番乗りは俺だ! (リゼットさんに)良いところを見せるんだよ!」
「ふん、その動きじゃホットチョコレートの熱を無駄にするだけだぜ。俺の斬撃を見てろ!」
みぞれ混じりの雪の中を、彼らの体から立ち昇る熱気が蒸発させていく。本来なら憂鬱になるはずの悪天候の中、訓練場はまるでお祭りのような熱気に包まれた。
リゼットが瞳を輝かせ、身を乗り出して彼らを応援しようとした、その時だった。
背後の訓練場の温度が、物理的に数度下がった。ミレイユの眼光が、調子に乗ってリゼットに「格好いいところ」を見せようとしている不純物(騎士)たちを射抜いたのだ。
「……お姉さま。あのような、筋肉を無駄に躍動させるだけの野蛮な踊り(演習)を見る必要はありませんわ。今の彼らは、ホットチョコレートの成分を正しく脳に回せていない、ただの暴走機関ですもの」
「ミレイユちゃん……。でも、みんな一生懸命よ?」
「……公爵様もそう思いませんか」
「……言われなくとも、指導が必要なようだな」
ガイアスが静かに腰の剣――の代わりに、近くにあった重い訓練用の木剣を手に取る。その背中からは、部下たちの成長を喜ぶ指揮官のそれではなく、明らかに「リゼットの前で目立とうとする不届き者」への制裁の気が溢れていた。
「いいか、貴様ら。……そんなに元気が有り余ってるなら、俺の剣を避けてみせろ」
「だ、団長!? 今のは目が本気だ! 逃げろ……いや、構えろ!!」
冷たいみぞれを吹き飛ばすほどの、激しい木剣のぶつかり合い。
リゼットは、少し心配そうに、でも楽しそうにその光景を見守っていた。
「みんな、怪我だけはしないでねー!」
その声に応えるように、騎士たちの「はい!」という返事が、白く染まり始めた冬の空に力強く響き渡った。
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