第41話:深夜の厨房と独占の黄金おにぎり
北の砦の夜は、すべてを拒絶するように深く、冷たい。
石造りの壁は外気の冷気を吸い込み、廊下を歩けば自分の足音だけが空虚に響く。だが、そんな静寂の中で、一箇所だけ温かな灯火が漏れる場所があった。
「……よし、いい感じに冷めてるわね。これくらいが一番、味が馴染むのよ」
リゼットは、厨房の作業台の上で、夕食の残りの米が入った木桶を見つめて微笑んだ。
炊きたての熱々も美味しいが、一度冷めて水分が落ち着いた米は、焼きおにぎりにするには最適の素材だ。リゼットは手水をつけ、慣れた手つきで米をまとめ始める。
「お姉さま。その米の結び目から漏れ出す、濃密な脂質と炭水化物の波動……。私の魔力回路が、急速なエネルギー充填を求めて共鳴を始めておりますわ」
影から音もなく現れたのは、銀色の髪を緩く解き、薄手のローブを羽織ったミレイユだった。王都の魔導師団にいた頃の刺々しさは鳴りを潜めているが、その瞳には獲物を狙う猛獣のような鋭さは残っている。
「ミレイユちゃん。やっぱり起きてたのね。魔導師は魔力をふんだんに使うから、夜中にお腹が空くのかしらね」
「ええ。精密な術式の構築には、良質な糖分と脂が不可欠ですの。……お姉さまの右隣、この高効率なエネルギー供給源の最前線を確保させていただきますわ」
ミレイユが当然のようにリゼットの隣を占拠しようとした――その時、背後の闇が揺れた。
「……待て。そこは、俺の席だ」
低い、地を這うような声。騎士団長ガイアスだ。
彼は普段の威厳ある軍服ではなく、袖をまくったシャツ姿。だが、その眼光だけは戦場にいる時のように鋭い。
「団長さん。夜回りの合間にお腹空いちゃった?」
「……体が、リゼットのメシを求めている。明日からの過酷な演習に備え、筋肉と魔力回路を補修せねばならんからな。ミレイユ、そこをどけ。ここは俺とリゼットの、砦以来の『聖域』だ」
「公爵様。過去の既得権益に縋るのは老害の証ですわ。今は私がお姉さまの魔力的なパートナー。効率を考えるなら、私が隣に座るのが定石です」
「……貴様……」
火花を散らす二人を余所に、リゼットは「あはは、二人とも仲良しねぇ」と笑いながら、熱した鉄板に塊のバターを落とした。
「じゅわぁぁぁ……っ!」
真っ白な煙と共に、バターが溶け、香ばしい乳脂肪の香りが狭い厨房に充満する。そこにおにぎりを置くと、バターを吸い込んだ表面がパチパチと音を立て始めた。
「今日の中身は、ボア肉のしぐれ煮よ。生姜を効かせて、じっくり煮込んであるんだから」
リゼットは、刷毛で醤油をひと塗りした。
「ジジッ、ジューッ!」
焦げた醤油の香ばしさがバターの甘みと混ざり合い、深夜の静寂の中に「暴力的なまでの誘惑」を撒き散らす。その匂いを嗅いだ瞬間、ガイアスの喉仏が大きく動き、ミレイユの瞳が魔力的に発光した。
「はい、お待たせ! 特製の『追いバター醤油焼きおにぎり』よ。熱いうちに食べてね」
二人はリゼットを挟んで左右に陣取り、差し出されたおにぎりを、まるで神聖な儀式のように両手で受け取った。
「…………っ!!」
ガイアスが大きく一口頬張る。
表面のカリッとした、まるでお焦げのような歯ごたえ。その直後、バターが染みた熱々の米が口の中で解け、中から甘辛い肉の旨味が溢れ出した。
「…………うまい。……やはり、これだ。王宮の着飾った料理では、この『熱』は得られん」
「お姉さま……この、魔力を全回復させるかのような重厚な味わい……脳の最深部に直接エネルギーが叩き込まれるようですわ……! 脂肪と塩分と炭水化物の三位一体……これこそが真理……!」
ミレイユもまた、普段の優雅さを忘れて夢中で食らいつく。
後はただ、咀嚼する音と、時折漏れる吐息だけが厨房に響く。
王都では、リゼットは王を救う料理人として、鍋を振った。それは誇らしいことだったが、今、目の前で自分の料理を「ただの飯」として、これ以上ないほど幸せそうに食べているこの二人を見ていると、リゼットの胸にも温かいものが込み上げてくる。
「団長さんもミレイユちゃんも、明日もしっかり動かなきゃいけないんだから。おかわり、まだあるわよ?」
リゼットが微笑みながら新しいおにぎりを鉄板に並べると、ガイアスは少し決まり悪そうに視線を逸らし、ボソリと呟いた。
「……リゼット。お前が戻ってきてから、砦の連中の顔つきが変わった。……いや、俺もだ」
「公爵様の仰る通りですわ。お姉さまの料理は、単なる栄養摂取ではありません。魂の調律です」
ミレイユが真顔で同意し、ガイアスがそれに小さく頷く。
かつては反目し合っていた「公爵」と「天才魔導師」。だが今、この深夜の厨房で、一つの焼きおにぎりを分け合う彼らの間には、奇妙な、しかし強固な連帯感が生まれていた。
「ふふ、そんなに褒めても、おにぎりしか出ないわよ?」
「……それがいいんだ」
「それこそが、至高ですわ」
外は相変わらずの極寒だが、砦の小さな厨房だけは、陽だまりのような温かさに包まれていた。
リゼットは、パチパチと爆ぜる醤油の音を聞きながら、砦での「家族」の姿を、その瞳に焼き付けていた。
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明日土曜日は皆さまに楽しんでいただけるように、朝、昼、晩と3話投稿します。
砦の一日をご堪能ください。(^^♪




