第3話:胃袋と規律の境界線
砦の生活が始まって一週間。 騎士たちの表情は見違えるほど明るくなっていた。リゼットの作る飯は、ただ美味いだけでなく、身体の底から力が湧いてくる不思議な活力に満ちていたからだ。
だが、騎士団長ガイアスだけは、連日深い溜息をついていた。
「……団長、また胃をさすっていますね。リゼットさんから胃薬を調合してもらって……」 「黙れ。これは、その……単なる消化不良だ」
副官の言葉を遮り、ガイアスは中庭を見下ろす。 そこでは、任務明けの騎士たちがリゼットを取り囲んでいた。
「リゼットさん! 今日の肉、最高だったよ!」 「これ、森で見つけた珍しい果実なんだけど、お近づきの印に食べてくれないか?」
男たちが競い合うようにリゼットに貢ぎ物を持ってくる。 リゼットはと言えば、相変わらず「ガイアスが無理やり着せた大きなシャツを羽織っただけの格好で、「わあ、美味しそう! ありがと!」と無邪気に笑っている。
「……規律が乱れている」
ガイアスは低く呟いた。 だが、その苛立ちの正体が「規律」ではなく、自分以外の男にリゼットが向けた笑顔であることに、彼はまだ気づいていない。
そんなある日の午後。 事件は、ガイアスがリゼットの様子を見に厨房へ向かった時に起きた。
「むうっ、やっぱり邪魔だわ、これ」
厨房の入り口で、ガイアスは足を止めた。 中からはリゼットの独り言が聞こえてくる。
「川に潜る時もそうだけど、パンを捏ねる時も、ゆさゆさ揺れて重いのよね。……いっそ、紐でギュッと縛り上げちゃおうかしら」
(縛る……? 何をだ?)
嫌な予感がして、ガイアスは勢いよく扉を開けた。 「リゼット、何を——」
そこには、シャツを脱ぎ捨て、本人曰く「水着」姿になったリゼットがいた。 彼女は自分の豊かなバストを、両手で、それはもう、わしづかみにするようにして持ち上げ、鏡を睨みつけていた。
「あ、団長! ちょうどいいところに。これ、どう思います? やっぱり邪魔ですよね?」
「な………………っ!!!」
ガイアスの顔が真っ赤に染まった。 小麦粉で白くなった彼女の肌と、こぼれんばかりの肉感。彼女にとっては「調理の効率」を妨げる肉の塊に過ぎないのかもしれないが、健康な男であるガイアスにとっては、もはや劇物だった。
「き、ききき、……! 貴様というやつはぁ!!」
「え? 団長、また顔が赤い! もしかして、本当に胃が悪いんじゃなくて、どこか熱があるんじゃ——」
心配して顔を近づけてくるリゼット。 その瞬間、彼女の肩紐が、激しい動きに耐えかねて「ぷつり」と音を立てた。
「あ」
リゼットが声を漏らす。 ガイアスの時が止まった。
「……キャアアアアアアアアアーーーーッ!!」
数秒遅れて、厨房にリゼットの絶叫が響き渡った。 彼女は咄嗟に自分の胸を腕で隠し、顔を真っ赤にしてうずくまる。
「見ないで! 見ないでえええ、さすがにこれは、恥ずかしい……っ!!」
「………………ッ」
ガイアスは言葉も出ず、電光石火の速さで自分のマントを脱ぎ捨てると、彼女の頭からすっぽりと被せた。 そして、自分も背を向け、壁に手をついて激しく呼吸を整えた。
(……限界だ)
彼女の「天然」が、自分の理性を粉々に粉砕したのを感じた。 恥ずかしがっている彼女の声が、耳の奥で何度もリフレインする。
「……すまない。……悪かった」
それだけを絞り出すように言うと、ガイアスは逃げるように厨房を後にした。 その足取りは、まるで魔王との決戦に向かうよりも遥かに危うかった。




