◆ 大切なお仕事 ご近所様へのご挨拶
ピオニー助祭視点
集会所を出た私は騒がしい町中を通り過ぎ、人気のない方へと向かいます。
段々と、すれ違う人々の服装が貧相な物へと変わっていき、周囲の建物も、一杯飲み屋と木賃宿ばかりが目立つ様になってきました。
そろそろ店を開けようとして、外に出てきた飲み屋の主人と目が合います。
私に無言で頭を下げる主人に、私は手を振って応えます。
蓙を抱えて座り込む老女の横を通り過ぎる際、私は持っていた銅貨を握らせました。
此処に来ると、無性に嬉しくなります。
懐かしい空気です。
私は深く息を吸い込みました。
私は町の暗い方へと進み、薄汚れた建物と建物の間の角を曲がりました。
この通りは昼でも地面まで日が届きません。
そして足下の石畳の隙間には、黄色く色付いた水が流れています。
目を凝らして歩かないと、汚水で木靴を濡らしてしまいます。
相変わらず此処は、とても酷い臭いです。
暗い路地の奥へと進むと、路上に座り込む老人が居ました。
座って居た老人は私を見上げ、ニタリと笑いかけました。
開いた口に歯は半分も無く、刻まれた頬のシワには垢が溜まっています。
路地の酷い悪臭にも負けないくらいの体臭が周囲に漂い、私の鼻を刺激します。
なのに瞳だけは若くギラギラと輝き、刺すような視線で私を睨めつけました。
「…ピオニー嬢ちゃんじゃないか!
何日ぶりだぁ?忙しかったんか?元気かぁ!?」
突然、路地の先まで響く様な大声で叫びました。
私はフッと息を吐いて、本来の私に戻ります。
「ジオじいちゃん!まぁた、こんな場所で呑んで…
ちゃんと湯浴みしてる?すんげぇくせぇよ?」
私は鼻をつまみながら笑いかけます。
「そうか?先週身体を拭いたばかりなんだがな!」
そう言って、ガハハと豪快に笑いました。
「ちゃんと綺麗にしとかんと病気になっちまうぞ!クソジジイ!」
私は彼の側にしゃがみ込み、冗談めかしながら彼の肩を叩きます。
「産まれてこのかた病気なんぞ一度もかかっとらん。
病気共はワシが不潔過ぎて逃げっちまう。
たとえ来たとしても、ワシにかかれば…こうだ!」
そう言って、持っていたブリキ製の酒ボトルを振り下ろしました。
ゴシャ…という鈍い音がして、すぐ側で腐った肉を齧っていたネズミの体が潰れました。
「元気なのは良いが、無駄な殺生は嫌いだよ」
私がそう言うと、彼は「これは晩飯だから無駄じゃねぇ」と言って、死んだネズミを懐に入れました。
「…それなら良いか…?…ネズミはちゃんと火を通せよ!
もし体調が悪いと思ったら、直ぐに兄ちゃんの所に行けよ!約束だぞ!」
私が拳を握ると、彼も握った拳を当ててきました。
「死んだら行くさ。オーゼルに宜しくなぁ!」
「死ぬ前に来いよ!面倒くさい!」
私と彼はお互いに肩を叩きながら笑います。
臭いけど、汚いけど、とても楽しいひと時です。
私は手を振って彼と別れ、貧民街の更に奥へと進みました。
その後も、私は何人かに話し掛けられました。
私達はお互いに冗談を交わし、笑いながら手を叩き、「またね」と言って手を振り合います。
初めにジオ老人が大声で私の来訪を報せてくれているので、間違えて私を襲う人は居ません。
貴族や平民の人達から見れば、彼等は浮浪者、孤児、犯罪者でしかないのですが、私にとっては家族そのもの。
子供の頃からの親友であり、育ての親であり、弟妹達です。
この地区では、私の事を知らない人も私を襲う人も居ません。
これが、私がこの地区を任されている理由です。
…勿論、普通の人がこの地区に一歩でも立ち入れば、身ぐるみを剥がされるでしょう。
富豪や金持ちならば、誘拐されるか殺されるか。
それが彼等の家業ですし、街の保護を受けられない彼等にとっての生きる術なのです。
残念な事にマイア様の慈愛の光でも、この路地裏に届く頃には、とても薄くて儚い光となるのです。
私は官憲ではないし、こうしなければ彼等が生きていけない事を、嫌になるくらい知っています。
誰だって、本当はゴキブリやネズミよりも小麦を食べたい。
生きたまま、野良犬や野良猫の餌にはなりたくない。
身を護る為には金が要る。
だから、私の目の届かない所では、彼等の行いには口を出しません。
彼等も、私が居る時には犯罪行為をしないように我慢してくれている様ですし。
今は…それで十分です。
アルトゥール司祭とは違いますが、これが私の合理性です。
当然ですが、この辺りには官憲や巡回騎士なんて来やしません。
例えどんなに重武装していたとしても、次の日には行方不明として処理されます。
死体も消えてしまいます。
それくらいに此処は、外の人には危険な場所です。
かと言って、完全な無法でもありません。
私の様に、教会に所属しながら支援する人達が居ます。
教会は彼等を差別しません。
差別するのは、中途半端に恵まれた人達です。
教会は食事の炊き出し、余った衣類や文房具の配布、医薬品を分け与える等で、救済の御旗を掲げています。
彼等にも、旗を掲げた支援者は決して襲わないという『王様のルール』があります。
例えどんな凶悪犯罪者でも、此のスラムに住む者はこのルールを厳守します。
皆、この南スラム全体を統治する『蝙蝠の王様』の逆鱗に触れたくないからです。
「霧が出てきたわね…」
この薄暗い南スラムの路地裏には、頻繁に霧が発生します。
外の人間達が此処を忌避する理由は、住人達が危険だからと言う事だけではありません。
真の理由は、此処が『霧の迷宮』と呼ばれているからです。
外の人は、迷宮の様に入り組んだ路地と頻繁に発生する霧に迷わされて、決して目的地まで辿り着けません。
当然、出口にも。
でも此処は勝手知ったる私の庭。私は目を瞑っても歩けます。
「ふんふ〜ん♪」
鼻歌まで歌って歩けます。
巫山戯てる?いいえ、違います。
「その声はピオニーか…通りな」
頭上から声を掛けられました。
薄暗い路地を濃い霧が覆い、相手の姿は全く見えません。
「今日の当番はオトゥーバーさん?いつもありがとうね。
…ところで、お兄ちゃんが何処に居るか知ってる?」
私は見えない相手に声を掛けます。
「オーゼルさんなら治療院だ」
見えない相手が、路地奥を指差す仕草をしているのが感じられました。
「そっか、ありがとう」
私は、オトゥーバー様が居るだろう方角に手を振りながら、先に進みました。
暫く進むと、少し開けた空き地に着きました。
空き地と言っても、土や草木の匂いのする様な健全な広場ではありません。
違法建築の巨大な建物に囲まれた、石畳に溜まった汚水の臭いが立ち込める、薄暗い広場です。
その中央に大きなテントが3つ。
テントの周囲には、地面に敷かれた蓙に横たわり眠る人達。
「ふぅ…またこんなに…」
私は思わず溜息をついてしまいました。
私は彼等の横を通り過ぎ、中央のテントへと向かいます。
「お兄ちゃん、居るー?」
私は大声でオーゼルお兄様の名を呼びながら、入り口を開けました。